幕間. PlayerKiller?
ゆるい、ゆるい、まどろみのなか。
あ、そろそろ会社行かなきゃ――と、そんなぼんやりした思考が流れていく。
今日は新しいプロジェクトの重要な打ち合わせがあったはずだ。起きないとまずい、いや、もうちょっとだけ――と、そんなことを思いながら寝返りを打とうとする。
だが、不意にカッと目を見開いた。
よくよく考えれば目覚ましの音を聞いていない。というより明るすぎる。これは――
「――寝過ごした!?」
がばりと勢いよく上体を起こし、――そこで呆然とする。
抜けるような青空。地平の果てまで続く緑の草原。
「――はっ?」
見慣れた自分の部屋ではない。そもそも屋内ですらない。妙に背中が痛いと思ったら、ベッドではなく草原の大地に寝転んでいた。愕然。と同時、すぐ隣で「ぶるるっ」という鼻を鳴らす音。
弾かれたように横を見れば、灰色の毛の馬が草を食みながらこちらを見ている。
「――はっ?!」
ぎょっと体を仰け反らせ、転がるようにして立ち上がった。爽やかな風の吹き抜ける草原、しばし見つめ合う。「なんでコイツ驚いてんだ」とでも言わんばかりに気だるげな瞳をした馬は、ぶるると鼻を鳴らしてから再び草を咀嚼し始めた。
呆然としつつも、ふと自分の体を見下ろす。足元に転がる木製の杖。ぱたぱたと風にはためく灰色のローブ。
「この体は……」
ぺたぺたと肉体を触り、感触を確かめる。この杖、この服装、そして灰色の馬。正直なところ見覚えがありすぎた。
顎に手をやると、――そこに、髭はない。
「……どうなってんだ」
立ち尽くす、灰色のローブを身にまとった男――コウは呆然と呟いた。
「……ログアウトできてない? いや、それにしてもこれは……」
感覚がいつになく鮮烈だ。それに先ほどから思考操作を試みているが、メニュー画面が出てこない。第一これがゲーム内であるならば、なぜ『コウ』の蓄えていた立派な髭が消えているのか。周囲を見回せば緑の丘陵地帯、振り返れば大きな岩山に深い森、その果てに連綿と続く山脈――
「ぅ……ん……」
不意に、自分以外の声が聞こえてぎょっとする。
周囲の景色に気を取られて気付かなかったが、よくよく見れば背後の地面に、力なく倒れている人影があった。その傍には黒毛の馬とまだら模様の馬が、もっしゃもっしゃと草を食んでいる。
「んん……」
かすかに声を上げているのは、仰向けに倒れている若い女だ。浅黒い肌、ばさりと広がる黒髪、そして横になっていても分かる長身とスタイルのよさ。
そしてその女には一つ、特異な点があった。
頭頂部。黒い髪からぴょっこりと飛び出る、耳。
「Nekomimi……!?」
驚愕の表情でそれを凝視するコウは、思わずごくりと生唾を飲み込んだ。
くてっ、と力なく伏せられている、人間としては有り得ない獣の器官。それを形容する言葉をコウは他に知らない。ジャパンのHENTAI文化について深い教養と理解を持つコウにとって、グラマラスな若い女にネコミミという組み合わせは少々刺激的すぎた。
また、女の姿もいけない。胸部と局部を守る革鎧の他は、腰と上腕部に黒い布を巻いているのみで、限りなく裸に近い格好だ。さらに胸当てを押し上げる豊満なバストが、革鎧の隙間からわずかに覗いて見える様は、なんとも悩ましく扇情的であった。眉根を寄せて時折ぴくりと目元が震えているあたり、意識が覚醒しかけているのか。
そしてその女の下には、潰されたトカゲのような体勢で、まさに"トカゲ男"としか呼びようのない生物がうつ伏せに倒れていた。皮膚を覆うまだら模様の鱗、指先には鋭い爪。うつ伏せになっているのに加え、ボサボサの白っぽい金髪が長く伸びているため顔は見えない。上に乗っかっている女より小柄だが、全身の筋肉が凄まじく発達しているのが見て取れる。
トカゲ男もまた、上に乗っかっている女同様に露出の多い格好だ。くたびれた革鎧に申し訳程度のボロ布。腰のベルトには棍棒が差してあり、傍には錆付いた
「うっ……なんか嫌な予感がする、二人とも見覚えがありすぎる……!」
ぺし、と額を叩いて頭を抱え、コウはひとり呟く。自身がゲーム内の『コウ』の格好をしていることも考え合わせると、この黒髪の女も下敷きになっているトカゲ男も、『コウ』の知り合いである可能性が限りなく高かった。
「ぅ~ん……」
と、頭を抱えるコウをよそに、猫耳の黒髪女がうっすらと目を開けた。
「ん~……?」
もにゃもにゃ、と口を動かしながら、寝ぼけ眼で上半身を起こす女。ぴこぴこ、と頭頂部の耳が動く。起き上がってみると明らかだが、本来人間の耳があるべき場所には髪の毛が生えているようだ。
半開きの深い緑色の瞳が、コウを捉える。
しばし、地面に胡坐をかく女と腰の引けているコウとで見つめ合ったが、やがてくわっと目を見開いた女は、
「だ、誰よアンタ」
「あっごっゴメン」
女がぎょっと身を引くと同時、きわどいところが見えそうになり反射的に謝るコウ。耳をピンと立て、警戒心も露に立ち上がろうとしたところで、女は下敷きにしていたトカゲ男の存在に気付き動きを止める。
「えっ、何? ……何よコレッ!? なに!?」
泡を食って、猫科の動物のような身のこなしで飛び退る女。その拍子に女の足が頭を直撃し、「んごッ」と声を上げるトカゲ男。
「えっ、ってかココは? アタシ何処にいんの?」
周囲をキョロキョロと見やり混乱に陥る女の傍ら、トカゲ男は「んんー」と呻きつつボリボリと背中を爪で掻いており、それでも目を覚まさずにいる。
「あー、ちょっといいかい?」
「ハぁ!? 何よ!」
「……イリス、だよね?」
コウが問いかけると、ハッとした顔で黙り込む黒髪の女――イリス。
「その格好……、アンタ、コウ?」
「うん、まあ。そうだよ」
訝しげに目を細め、しげしげとコウを観察するイリス。
灰色のローブ、足元に転がる木製の杖。ゲーム内で言うところの『コウ』の特徴はそれだけだ。背格好はほぼ同じだがトレードマークの髭は生えておらず、アジア系特有の童顔をしている。年の頃は――イリスから見て20代後半といったところだが、アジア系であることを鑑みると30代なのかもしれない。
「……ホントにコウ?」
「うん。髭がなくなってるから、分かんないかも知れないけど」
「いや、髭っていうか、まず顔つきからして違うじゃない。喋り方も普段みたいに片言じゃないし……」
イリスの指摘に、今度はコウが意表を突かれたように自分の顔に触れた。
「……顔が変わってる? どんな顔?」
「どんなって……童顔で、垂れ目で、くたびれたシステムエンジニアって感じ」
「うっ、またピンポイントな……」
ぐさりとイリスの言葉が胸に刺さり、ダメージを受けた様子のコウ。しかしすぐに何かに気付き、腰の辺りをごそごそと探る。
取り出したのは短剣だった。
「……何するの?」
「鏡の代わりにしてみようと思ってね」
きらりと光る刃に、顔を映そうと試みる。思ったより刃がピカピカではなかったので鏡としては使い辛かったが、自分の顔がゲーム内のそれとは似ても似つかぬ状態にあることだけはよく分かった。
「うん、どうやらリアルの顔のようだね、これは」
「ちょっと待って、ってことは、もしかしてアタシも……」
ぺたぺたと自分の顔に触れるイリス、しかしそのまま身体にまで視線を落とし、動きを止める。
「……えっ、ヤダ、この格好……」
ようやく自身が半裸に近い状態であることに気付いたのか、イリスの頬がかぁっと紅潮した。胸当てと腰布を押さえ、今更のようにもじもじとし始める。よくよく見ればその背後では、真っ黒な毛に覆われた尻尾がくねくねと動いていた。
なんと尻尾まで、と衝撃を受けるコウであったが、レディーに不躾な視線を向けるのもどうかと思い直し、すぐに目を逸らす。
「その、これを使うといい。ボロだけど」
自分の灰色のローブを脱いで差し出した。コウはローブの下にシャツとズボンは着ているので、問題ない。
「ありがと……」
「どういたしまして。しかし妙だな……なんでリアルの顔が……」
微妙に気まずくなってしまった空気を誤魔化すように、延々と続くなだらかな丘陵を眺めながら、独り言のようにコウは呟く。
実はこの時点で薄々と、アニメや漫画で見かけた"よくある設定"が頭をもたげていたのだが、それを口に出すのは憚られた。
「ふぅ、びっくりしたわ。なんか身体だけ人間に戻ってるし……」
ローブを羽織って人心地ついた様子で、ばさりと髪を掻き上げるイリス。しかし、その拍子に手が頭頂部の耳に触れて、再びピタリと動きが止まる。
「え。何コレ。……え?」
ぐにぐにと猫耳を揉んだり引っ張ったり、耳の穴に指を突っ込んで「おぅっ」と変な声を上げたりと忙しげなイリスであったが、がばっと身体ごとコウに向き直り、
「ねえ! 正直に答えて欲しいんだけど! アタシ頭に何か生えてない!?」
「何か、というか、耳が生えてるね」
「や、やっぱり?」
「あとさっき見たら尻尾も生えてるっぽかったけど……」
「えっ!?」
コウの指摘に、ローブの下、中腰になって臀部をごそごそと探るイリス。ぐい、と何かを引っ張ると同時、「ギャッ」と乙女らしからぬ悲鳴を上げる。
「は、生えてる!」
「"
「うう……ゲームで慣れてたからあんまり違和感なかったけど、音の聞こえ方が何か変だと思ったのよ……」
「そうか……」
がっくりと膝を突いてうなだれるイリスをよそに、曖昧に頷くコウは、
(ならばアレはNekomimiではなくHyo-mimiと呼称するべきか……)
などと、若干現実逃避じみたことを考えていた。
「んがッ」
――と。
ずっと倒れたままであったトカゲ男が、声を上げてびくりと痙攣した。そのまま地面に手を突き、ゆっくりと身体を起こす。
その顔が露になった瞬間、コウも、イリスも、はっと息を呑んだ。
体つきからして明らかだったが、顔の造りもまた、"トカゲ男"と呼称するに相応しい不気味なものであったからだ。
顔は身体と同様に鱗に覆われ、口の中の歯はギザギザに鋭く、蛇のような長い舌が口から飛び出て薄い唇をちろりと舐めた。顔の骨格も人間のそれから逸脱しており、尖った形の鼻の先、鼻腔は小さな穴になっている。
細い瞳孔を備えた金色の瞳が、ぎょろりと二人を見据えた。
「――――」
それは、一瞬の間隙。
トカゲ男は地面に胡坐をかいた体勢から即座に後方へと飛び上がり、四足で着地。五メートル以上の大跳躍で、瞬く間に二人から距離を取った。
「――なんだ、テメェら」
特徴的なだみ声。中腰の構えで油断なく二人を睨み付けながら、ベルトに差していた棍棒を引き抜いた。その際、自分がメイスを置き去りにしてしまったことに気付いたらしく、小さく舌打ちする。
「……やれやれ。目を覚ましたかと思えば、いきなり喧嘩腰とは恐れ入る」
ぺし、と額を叩いて、コウは呆れ顔だ。一方でイリスはおっかない殺気にビビっているのか、腰が引けており両耳が伏せられていた。
「……あァ? 誰だよテメーは」
「そう言う君はバーナードかな。というか、そうだと言って欲しい。信じられないかもしれないが、僕はコウだ。こっちはイリス」
イリスを示しながらのコウの言葉に、「あァん?」と訝しげな様子のまま、クルクルと棍棒を回すトカゲ男――バーナード。
「コウだと……? 髭はどうした。そっちの女の着てるローブはコウのヤツにそっくりだが……。っつーか、そっちの女がイリスだァ? アイツは"
「僕たちも混乱しているんだ。ここが何処か分からない上に、外見がリアルに近くなっているらしい」
疑う気配は残しつつも、バーナードも警戒態勢を緩め周囲を見回す。
「……チッ、見覚えのねェ地形だなァ。っつかテメェ、『外見がリアルに近くなる』ってんなら、なんで俺は"
自身の身体に目を落とし、手を握ったり開いたりしながら、バーナードがぎろりと物騒な目を向ける。そんなことを聞かれても困る、とコウは小さく肩をすくめた。
「それは分からない。というか、君はバーナードでいいんだよね?」
「いかにも、俺ァバーナードだが」
「君もゲームそのままの格好じゃないぞ。顔の形が、その……ちょっと人間っぽくなってるし、髪が生えてる」
「んだとォ?」
ボサボサの金髪に手を伸ばし、バーナードは意外そうに目を瞬いた。
「……生えてんなァ。クソッ、どうなってやがる? さっきからメニュー画面が出てこねェし、現在位置もわかんねェ。ってかここはまだゲームの中なのか?」
「それを考えようとしているところだよ、僕らもね」
「はァん。そうだ、もしテメェが『コウ』なら魔術はどうなんだよ」
「……なるほど、その発想はなかった」
ぱちんと指を鳴らし、コウは中に塩の詰めてある腰のポーチに手を伸ばす。
【 Aubine.】
一掴みの塩をばら撒くと同時。
変化は劇的であった。
ぱきんっと乾いた音とともに、足元の草原の大地が放射線状に凍結する。一瞬遅れて冷気の波動。凍える風が頬を撫でる。
「うっ……」
体の芯から、何か大事なものがごっそりと抜き取られる異様な感覚。思わずその場で膝を突くコウに「ちょっとだいじょうぶ……?」とイリスが心配げに駆け寄ろうとしたが、すぐに足を止める。コウの背後に得体の知れない半透明の存在を幻視したからだ。
それは長衣を羽織った、痩身の乙女であった。ウェーブする長い髪、うっすら透けて見える青い色。冷や汗をかいて震えるコウの背にしなだれかかるようにして抱きつき、首筋に唇を這わせている。
――Mi naskigxis.
囁くような、それでいてはっきりと聞こえる声。氷の手で背筋を撫でられているかのような感覚。
うっすらと笑みを浮かべた乙女は、愛おしげにコウの首筋をくすぐってから、背後の空間に薄れて消えていった。
「……な、るほど。成る程」
額を伝う冷や汗を拭いもせずに、口の端を吊り上げるコウ。
「今のが『魔力を吸われる』ってヤツか……」
「……大丈夫?」
「うん、まあなんとか。……しかし困った、こいつはゲームじゃありえない……」
言葉の後半は、ぼそぼそと呟くように。
頭を振ってから立ち上がろうとするコウであったが、ふと凍結した足元の草に着目し、無造作に引っ張った。
「……はは、二人とも。見てご覧よ」
苦笑しながら、引っこ抜けた雑草を二人に示す。
「草が抜けた。ご丁寧に土までついてる」
「……なんだと!?」
その言葉の意味をいち早く察したバーナードが、がばりと地に伏せて手当たり次第に草を抜き始めた。雑草特有の青臭さが、草原の風に吹き散らされていく。手の届く範囲の草を抜いただけでは飽き足らずに、さらに拾い上げたメイスでガッガッと地面まで掘り始めるバーナード。
「……マジだ」
やがて、爪を草の汁で汚し、土だらけのメイスを握ったまま、放心したようにバーナードは呟いた。
「ゲームじゃ、あり得ないね。あり得ないよこれは」
「ゲームじゃないって……だったら、何なのよ」
コウの言葉に、傍らで立ち尽くすイリスが慄いたように問う。
「あァッ!? 決まってんだろうがよォ!
代わりに叫ぶようにして答えたのはバーナードだ。くっくっく、と肩を震わせて笑うバーナードであったが、徐々にその笑い声が大きくなっていき、終いにはその場で腹を抱えて笑い転げ始めた。
「ヒーヒヒ! 遂にやったぜェ! クーフフハハハヴァハハッハッハッハ!!」
ヴァーハッハッハ、ハッハハハとけたたましい笑い声が響く、響く。
その金色の瞳に薄く涙まで浮かべて、バーナードは狂ったように笑い続ける。あまりに尋常ならざる様子に、声をかけようとしていたコウも閉口し、イリスに至っては何か見てはならないものを見てしまったかのような、困惑と怯えの表情を浮かべている。
そんな二人をよそに、今度は自分の引き千切った草を口に詰め込み、咀嚼し、歓喜の声を上げるバーナード。
「ヴァッハッハハヒヒヒヒ、すげェ、すげェぞ! 草食ったら味がする! 苦エェェ! クソみたいに不味イイイィィ! フッフフィヒェヒェヒェ」
そのままやおら立ち上がり、ピューゥイッ、と指笛を吹き鳴らす。離れて草を食んでいたまだら模様の馬――バーナードの乗騎が、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「うおォい、オメェも生きてんだな! すげェ! 毛の臭いもするし、ヴァッハハ、馬って思ったよりクセーんだなッ!」
べろべろと顔を舐めてくる乗騎のたてがみを荒々しく撫でつけ、やたらと嬉しそうなバーナードは、
「そォらッ!!」
馬の顔面に、右手のメイスを叩き込んだ。
ボギュッと鈍い音とともに馬面が赤く爆発する。頭蓋骨が崩壊しピンク色の脳髄が飛び散り、ぐちゃぐちゃになった傷口から、エフェクトではない血飛沫が噴き出した。
「ハッハァーこいつァすげェ、リアルだッ!!」
どうっと力なく倒れ伏す馬の死体を前に、全身から返り血を滴らせながらも大はしゃぎするバーナード。
呆気に取られる二人。
――と、イリスの足元に、ころころと、吹き飛ばされた眼球が転がってくる。
「い、……イヤアアアアァァアァッッ!」
「何やってんだよ!!!!」
悲鳴を上げるイリス、理解不能な行動に思わず声を上げるコウ。
だがバーナードはそれを歯牙にもかけず、ただ豪快に笑った。
「あァ!? んなもん決まってンだろォーがァ! 食うんだよッッ!!」
「……は?」
「おいコウ、オメェたしかナイフ持ってたよな? ちょっと貸してくれよ、コイツ解体すっから」
「…………」
「コウ? どうした、早くしろよォ」
「……ああ、うん。いや、分かった」
頭を振ったコウは、腰のベルトから短剣を外し、鞘ごとバーナードに放り投げる。
「ありがとよッ!」
「うん。どういたしまして……」
嬉々として解体に取り掛かるバーナードの背後、投げ遣りに答えながらコウはイリスを見やった。
「…………」
ドン引きした様子のイリス。それはコウも同じであったが。
「……はぁ」
やれやれ、とコウは小さく溜息をついた。
†††
とっぷりと日が暮れた後。
木立の中に隠れるようにして佇む、石造りの廃墟に、揺れる焚き火がひとつ。
コウたちだ。
あの後、見晴らしの良い草原は野営に向いていないということで、岩山を中心に周辺を探索し、見つけ出したのがこの場所だった。
「ハッハァ、コウが塩を持ってたのはラッキーだったなァ! ありがとうよ!」
平石の上に腰掛け、ジュージューと肉汁の溢れる骨付き肉に、ぎざぎざの鋭い歯を突き立てるバーナード。傍らには、解体途中の馬の遺体が無造作に横たえられている。この数百kgにも及ぶ肉塊を、バーナードはたった一人で軽々とここまで運んできたのだ。"
ちなみにこの焚き火も、バーナードの"
「まあ、素材が新鮮でも味がないことにはね」
その対面に座るコウは、同じく肉にかぶりつきながら力なく笑みを浮かべる。身にまとうのは薄手のシャツと簡素なズボンだけなので、夜の空気が少し肌寒そうにしていた。種族としての特性なのか、あるいは寒がりなのか、はたまた単に肉を食いたいだけなのか、やたらと火に寄りたがるバーナードと同様、焚き火で暖を取っている。
「…………」
そんな二人から少し離れて、指先で摘んだ小さな肉の切れ端を、ちびちびとかじっているのはイリスだ。コウから借りっ放しのぶかぶかのローブにくるまり、どうにも居心地が悪そうにしている。その背後には、灰色の馬と黒毛の馬がそれぞれ落ち着かない様子で立っていた。先ほどの乗騎撲殺の一件以来、二頭ともすっかり怯えてしまい、決してバーナードに近寄ろうとしない。
もっしゃもっしゃと、男たち二人がただ肉を咀嚼する音だけが響く。
「……それで、どうしようか?」
「あァん?」
唐突なコウの問いかけに、目をぱちくりとさせるバーナード。
「……この後のことかァ?」
「まあ、そうだね」
「そうだなァ。今日はもう暗いし寒いからな、とりあえずここで肉食って野営して、あとは明日にしようぜェ」
「その明日に何をするかって話なんだけど」
「ココは【DEMONDAL】の世界だろォ多分。なんでリアルになったかは知らんが。ともあれ、それなら村の一つや二つもあるだろ」
ペッと骨の破片を吐き捨て、肉を手にしたまま、バーナードはニヤリと口の端を吊り上げた。
「――適当に襲おうぜェ」
「……やはりそうなるか。ブレないな君は」
ぺし、と額を叩いてコウは苦笑いする。その後ろの暗がりで、イリスは怯えるような気配を濃くした。
「まあ、とりあえず今晩は休めるのが僥倖か……今からどうこうするには、僕はちょっと疲れたよ」
「俺も肉が食いたいからなァ!」
「好きなだけ食べるといい。肉は腐るほどあるし、元より君の馬だ」
全く困った奴だ、とでも言わんばかりに、皮肉な、それでいて厭味の無い笑みを浮かべるコウ。ヴァッハッハ、と上機嫌で笑ったバーナードは膝を打って言葉を続ける。
「それにしても意外だったぜェ。オメェがアジアンだったとはなァ」
「両親が日本人でね。国籍は
「ハッ。なるほどなァ、道理でまどろっこしい喋り方すると思ったぜ」
「そう言うバーナードは
「おうよ」
頷きながら、手を脂まみれにして肉を頬張り続けるバーナード。
その見かけと同様に、まるで化け物じみた底無しの食欲であったが、馬一頭分の肉は流石に一晩で消費するには多すぎた。
「ダメだ……もう食えねェ」
軟骨と筋しか残っていない骨を放り投げ、ごろりとその場に寝転がる。
「よくもまぁこんなに食えたもんだ……」
「へっへへ、新鮮な肉だ、ついハシャイじまったよ……」
バーナードの力の抜け切った全身からは、満足感が滲み出るかのようだ。その凶悪なトカゲ面に思いのほか穏やかな表情を浮かべ、あくびを噛み殺す。
「ふぁ……ダメだ、食ったらクソ眠ィ……」
「どちらにせよ今晩はここで野営だ、しばらく眠るといい。交代で番をしよう」
ごそごそと腰のポーチを探るコウは、バーナードに優しく声をかける。
「ん……頼むぜェ……適当に起こして……く……」
呂律が回らなくなったが最後、すやすやと寝息を立て始めるバーナード。一方、ゆらりと音もなく立ち上がったコウは、バーナードを無表情で見下ろしつつ、腰のポーチから何やら怪しげな粉末を取り出した。
【 Darlan. Arto, Kon-sui.】
"
それを背後から見守るイリスは、夜の闇の向こう側に、羽根を生やした小人の姿を幻視した。
「……さて。これでようやく、落ち着いて話ができる」
焚き火を背に、イリスの方へと向き直るコウ。
「……眠らせたの?」
「5回分の触媒を一度に使った。いくらバーナードでも当分は目を覚まさないよ」
椅子代わりにしていた倒木に腰を下ろし、幾分か疲れた様子でため息をつく。
「……改めて自己紹介といこうか。僕はコウタロウ=ヨネガワ。さっきも言ったけど、両親が日本人の英国生まれさ。よろしく」
「アタシは……イリス=デ・ラ・フェンテ。スペイン人よ」
「ほう? 実名プレイか。なかなかやるね」
「どうせリアルの知り合いは【DEMONDAL】なんてプレイしないし……」
「それにしても英語が上手だ。てっきり同郷だと思ってたよ」
「インターナショナルスクール通ってたから……」
「ああ、なるほどね」
したり顔で頷きつつ、(金持ちのお嬢さんか?)という言葉は飲み込んだ。
「……それで、これからのことなんだけど。どうする? アレ」
「そうね……」
顎で背後のトカゲ男を示すコウに、げっそりとした表情を返すイリス。耳もその心情を表すかのように、ぺたりと力なく垂れている。
「いつも一緒に行動してて、ヤバいヤツだとは思ってたけど。……正直ここまでイカレポンチだとは思わなかったわ」
「同感だよ。ゲームだと直接の危害がないから、笑って見てられたけどさ」
顔を見合わせて、同時に深く溜息をつく。
「これからどうするか、にも依るんだけど。僕の個人的な意見としては、彼とは行動を共にしたくないね」
「アタシもそう思う。何をするか分かんないもの」
「『どうするか』と問いかけて迷いなく『村を襲う』と答えるヤツだからな……」
ぺし、と額を叩いて、コウは苦笑した。
「とりあえず、イリスがまともでよかった。君までバーナードみたいなヤツだったら、どうしたらよかったのか」
「それはコッチのセリフよ。正直さっきまではコウも一緒なんじゃないか、ってちょっと心配だったんだけど。……ホントに良かったわ演技で」
今一度、重い溜息をつき、イリスは両手で顔を覆う。
「……ねえコウ、これってホントに現実なの? アタシ、悪い夢でも見てるんじゃないかしら?」
「さあてね。僕としても、これが夢であって欲しいと願ってやまないけれども」
くぐもった、震えるイリスの声に、明後日の方向を見やりながらコウは答える。
「だけど、こんなリアルな夢があるものか……?」
ぱちっ、ぱちっ、と焚き火の中で、枝の爆ぜる音。静かな夜の森。
――しかし、いつまでも、こうしているわけにはいかない。
「よし。イリス、ひとつ提案がある」
話に弾みをつけるため、パンッと手を叩いて口を開くと、音にビビッたのかイリスがビクリと身体を震わせる。ビンッと毛を逆立てる耳。
「あ、ごめん。脅かしたかったワケじゃないんだ」
「いや、だ、大丈夫だケド。それで?」
「うん。まあこれからの行動指針だ。『ここ』が【DEMONDAL】そっくりの異次元世界であり、かつ僕らが何らかの原因で転移してしまった、と仮定して話すけど、僕としては『現実世界への帰還』を目標にして行動したいと思う。君は、その辺どう思う?」
「アタシも帰りたいわ。こんな世界ゴメンよ」
「だよね」
思い返すのは、ゲーム内で自分たちが積み重ねてきた悪行の数々だ。あんな無法者が普通に存在しうる世界など、余程の理由でもない限り留まりたいとは思えない。
「では、それを前提にした上でどうするか……さっきもバーナードに話したけど、『こちら』にも人は暮らしてる、と思う。というかそう信じたい。まずは人里を探して、最低限の身の回りのものを揃えるべきだと思うんだけど……」
「この格好じゃ、おちおち野営もできないものね」
「願わくば、ここが"竜人"やら"豹人"のエリアじゃありませんように……」
「
「もちろん置いて行く」
コウは即答した。
「……このまま放っておいて、僕たちだけで去ろう」
「……そうね」
二人ともが、神妙な顔で頷く。
――本当は。
このままバーナードを、ここに放置してよいのか、という想いはある。
仮にこの世界にも、ゲームと同じように住人が居たとして――バーナードという男が、何らかの災いをもたらすことは、火を見るよりも明らかであった。
だが――だからといって、バーナードに手を下すとか、そういったことは考えたくなかった。二人とも同じことを懸念しつつも、そしてそれを互いに薄々察しながらも、口に出すことは、なかったのだ。
「……はっきり言ってトラブルの種にしかならないだろうからね、こいつは。性格的にも……外見的にも」
その言葉に、ハッとした様子で思わず頭頂部に手を伸ばすイリス。
「こちらの住人が、『それ』にどういった反応を示すかはわからない。しばらくフードは下げておいた方がいいよ、イリス」
「……分かったわ」
「さて、ならば当座の目標は人里を見つける、ということで。……動こう」
足元に転がしていた杖を拾い上げ、やおら立ち上がる。
「極力ここから……バーナードから離れよう。コイツが何をトチ狂ったかしらないが、自分の馬を殴り殺してくれたのは良かった」
「……なんで、殺したのかしら」
「さあてね。狂人の考えることは分からんよ」
そんなに肉が食いたかったのかね、とただ疲れたように呟いた。
ぶるる、と鼻を鳴らし、早くこの場から去りたそうにしている、灰色の馬に跨る。
「イリス、警戒は任せていいかい」
「ええ。アタシは、『こっち』でも夜目が効くみたい」
颯爽と黒馬に跨るイリスの両の瞳が、月明かりの下で爛々と輝いて見えた。
「――その代わりコウは、何かあったら魔術でお願いね?」
「"氷"の方は兎も角、"妖精"の方は魔力も触媒も余裕がある。任せてくれ」
腰のポーチをぽんぽんと叩きながら、にやりと笑ってみせるコウ。
果たして二騎は、月下を静かに走り出す。
「…………」
揺れる馬上、真っ直ぐに前を見ながら、コウは表情を曇らせた。
正直なところ――バーナードを置いていくことに、罪悪感が欠片もない、といえば、やはりそれは嘘になる。
だから、コウは振り返った。
振り返って、ひとり眠る、仮初の友人を見やった。
「...Good bye, Barnard...」
その呟きは、ある種の手向けか――
二人の姿が、夜の闇の向こうへと消える。
ただ――
焚き火のそば、何も知らずに眠る、
異形の男を、ひとり残して。
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