34. 探求


 ――"北の大地Northland"。


 北の大地とは、"アクランド連合公国"北部に位置する地域の総称である。


 そのあまりの広大さと、後述の政治的な理由により、地政学的に明確な領域を定めることは困難を極めるが、一般的には緩衝都市"ディランニレン"を境目として北、雪原の民に実効支配されており、かつアクランド連合公国の支配の及ばぬ地域を『北の大地』と定義することが多い。


 その実体は"民族共同体"とでも呼ぶべきもので、確たる王権は存在せず、有事の際は主な氏族の代表が一同に会し、全体の方針を決めていくという擬似的な合議制を取る。場合によっては代表同士の決闘によって議決を成すこともあるといい、その政治形態は極めて野蛮かつ原始的と言わざるを得ない。また、各氏族がそれぞれ土地の領有を主張しているが、氏族によってその線引きが異なるため、水源や鉱脈を巡っての氏族間での小競り合いが後を絶たないのが現状である。


 北の大地における最大の都市は"シルヴェリア湖"の湖畔に位置する"青銅の環ブロンズウィコリツォ"である。これは、雪原の民のうち最大規模の八氏族(ウィラーフ、ミャソエードフ、ネステロフ、ジヴァーグ、パステルナーク、ヒトロヴォー、グリボエード、ドルギーフ)を筆頭に、ほぼ全ての氏族の代表が館を構える都市で、北の大地の政治的中枢といえる。

 また、周辺には主要な大規模集落が散在しており、南部の都市"ベルヤンスク"を経由して緩衝都市ディランニレンまで直通の街道も整備されていることから、交通の面から見ても要衝であることは間違いない(ちなみに北の大地の整地技術は公国と比して非常に未熟であり、馬車で通行可能な街道は限られている)。


 青銅の環ブロンズウィコリツォからさらに北上すると、"白色平野ヴィエラブニーネン"に行き当たる。身を切るような氷点下の風が吹き荒れる中、季節を問わず雪が降り積もり、地平の果てまで何もない白い雪原が延々と続くという。かつて幾人もの冒険家が探索を試みたが、多くは帰ることなく、終にその果てまで辿り着いた者はいない。余談だが、環境の過酷さを鑑みても帰還率が低すぎることから、白色平野には人喰いの魔物が棲んでいるという言い伝えもある。


 北の大地の西部は、公国と同様に"アルデイラ海"に面している。アルデイラ海沿岸部には漁港が栄え、北の大地にしては気候が温暖であることも相まって、過酷な環境に適応した雪原の民には西部は住み易い土地として知られている。

 一説には、平原の民が"フォーラント"より"リレイル"の地に訪れたのと同時期に(P.K.400年前後)、雪原の民もアルデイラ海を越えて北の大地に漂着したと考えられているが、当時の記録が紛失してしまったため、その正確な起源は現在不明である(詳しくは"雪原の民"の項を参照)。


 翻って東部には、白色平野ヴィエラブニーネンよりもたらされる豊富な水源により、森林地帯が広がっている。寒冷な気候風土に適応した針葉植物が多く、真冬に花を咲かせる植物や全身が体毛に覆われた人型原住生物など、一種独特な、興味深い生態系が構築されている。

 それに関連して、北の大地で有名なのが"魔の森"の伝承である。これは東部の森林地帯のうち、比較的人里に近い南東部のことで、不可解なことにこの地域には年中濃霧が立ち込めており――




 ――"魔の森"(北の大地)。


『おお、凍える岩の狭間より湧き立つ、深くおそろしきものどもよ。

 遥かなる高みより降り注ぐ陽光も、相競って吹き荒ぶ風も、おまえを避ける。

 まるでもろともに、引き込まれるのを恐れるかのように――』

 "北方紀行"より、著者・ハーキュリーズ=エルキン。


 "魔の森"、別名"賢者の隠れ家"、"悪魔の棲む森"とは、北の大地の北東部に広がる地域の呼び名である。


 元来、北の大地の東部は白色平野ヴィエラブニーネンを水源とする樹海が広がっている、その中でも特に北東部は、気象条件を問わず常に霧が立ち込めているという。


 この森は現地の住人たちに魔界、あるいはある種の聖域と看做みなされている。前述の"北方紀行"の著者、旅行家ハーキュリーズ=エルキンは『森に立ち込める霧はあまりに濃く、まるで巨大な壁が目の前に立ちはだかっているかのようであった』と記している。付近の村に滞在した四日間、ハーキュリーズは幾度となく森の入り口まで足を運んだが、その異様な雰囲気に圧倒され終に中にまでは踏み入ることは出来なかったという。


 その埋め合わせをするかのように、ハーキュリーズは現地の住民に精力的な聞き込みを行い、情報収集に努めた。霧の中で蠢く、見上げるほどに巨大な人の影。時折聞こえてくる女の悲鳴に似た絶叫や無数の足音。夜になればそこかしこに漂う鬼火など、この森にまつわる不可解な話は枚挙にいとまがない(詳しくは"北方紀行"の項を参照)。


 しかしその中でも特に興味深いのは、"賢者の隠れ家"という別名の由来にもなった、霧の彼方に館を構える賢者の逸話であろう。数歩でも足を踏み入れれば発狂、迷い込めば命はないと言われる"魔の森"であるが、正気を保ったまま戻ってくる者も稀に存在する。

 その者達の口から語られるのが、霧の森に佇む、場違いなほど豪奢な館の話だ。そこには奇抜な赤い衣に身を包んだ賢者が、無数の蔵書に囲まれて暮らしているという。森を彷徨い歩き、運良く館まで辿り着いた者たちは、賢者に森の入り口まで送り届けて貰い無事に生還を果たしたとのことだ。その際、万病の特効薬や貴重な魔術の秘奥を与えられた、という話もあるそうだが、真偽のほどは定かでない。


 いずれにせよ、"魔の森"に迷い込み、赤い衣の賢者と邂逅した、と主張する者が一定数いるのは事実である。研究によれば、"魔の森"には低位の精霊の活動を阻害するほどの強力な結界が張り巡らされており、少なくとも森の中にそういった魔術的領域を構築する"何か"がいることは確実視されている。


 しかしながら、P.K.742年の"戦役"による公国との関係悪化を受け、魔術師団の調査が打ち切られたことから、詳しいことはまだ判明していない。




          †††




 もぞもぞ、と、隣で何かが動く気配。


 薄暗い中、ケイはぼんやりと目を覚ました。宿屋の一室。天井の木の梁、鎖にぶら下げられたランプ。横を見れば、「う~ん」と声を上げながらアイリーンが目を擦っているところだった。


 ぱちぱちと、ケイを捉える青い瞳。お互い寝ぼけ眼のまま、しばし見つめ合う。


「……おはよ、ケイ」

「おはよう、アイリーン」


 頭を撫でると、むふ、と笑ったアイリーンが、上体を起こして「うーん」と猫のように背伸びをした。シーツがぱさりと落ちて、白いからだが露になる。


 両手を挙げて、ちょうど万歳の形で惜しげもなく晒されるそれを、斜め下の角度から鑑賞する。まろび出る、と表現するにはいささか慎ましやかだが、大きさに貴賎はない。右胸、白い肌にはっきりと残る、小さな傷跡――


「……む」


 と、視線に気付いたアイリーンが、ぴろりとケイのシーツを捲り上げる。


「――He'sげんき fineだな!!」


 ニヤリと笑うアイリーンに、「うむ」と重々しく頷いてみせながらケイは身を起こす。このまま若さに身を任せておっぱじめたいのは山々であったが、そうすると一日が使い物にならなくなってしまう。イチャつくのは暗くなってからでも遅くはない。


「さて、起きるか」

「んだな」


 いそいそと、足元に脱ぎ散らかされていた下着を身に着け始めるアイリーン。それを尻目にベッドから抜け出したケイは、雨戸を大きく開け放った。


 雲ひとつない快晴。朝焼けの空に視線を走らせ、星々の並びに異常がないことを確かめたケイは満足げに頷く。


 爽やかな朝だ。今日も、いつも通りの一日になるだろう。



 ケイたちが公都図書館に出入りするようになってから、早二週間。



 相変わらず"HangedBug"亭に部屋を取るケイたちであったが、ここのところ、その日常はパターン化してきている。


 まず朝起きて顔を洗った後は、中庭で軽くストレッチだ。勿論ストレッチといっても、いやらしい方ではない。屈伸やアキレス腱から始まり、柔軟体操で体をほぐしていく。


 元体操選手で、身のこなしからしていかにも体の柔らかそうなアイリーンは兎も角、ケイまでが180度開脚をこなすのは傍目には奇異に映るらしい。中庭に顔を洗いに出てきた宿泊客たちが、地面に足を広げてべったりと張り付くケイを見るたび、ぎょっとした顔をしていた。


 ちなみに、ケイの身体アバターの柔らかさは、今に始まったことではない。【DEMONDAL】のゲーム内ではアバターの関節が柔らかめに設定されていたので、リアルではどんなに体の硬いプレイヤーでも、楽々体操選手のような柔軟性を発揮できたのだ。その点、生身が骨になりかけていたケイには、皮肉としか言いようがなかったが――。


 余談だが、ゲームのノリのままリアルで180度開脚しようとして、ぎっくり腰になったプレイヤーもいるらしい。


「さてと。柔軟はこれくらいにして……」

「おっ、やるか? よーし、かかってこいよ!」


 コキコキと首の骨を鳴らすケイ、挑発的にクイクイと指を曲げるアイリーン。


 柔軟体操ウォーミングアップの次は、アイリーンと組み手をする。勿論、組み手といってもいやらしい方ではない。腕がなまらないよう、近接戦闘の復習だ。


 他の宿泊客たちの好奇の視線をよそに、中庭で相対する二人。ケイはファイティングポーズで、アイリーンは自然体のまま、不敵な笑みを浮かべている。真剣で遣り合うのは流石に危険なので、念のため互いに素手でやっているが、――ケイが本気で剣を持って斬りかかったところで、アイリーンに傷を負わせられるか怪しい。


 一呼吸。数歩先、視界に悠然と佇むアイリーンを捉える。


「……いくぞ」


 ぐんっ、と。


 踏み込んだ。最小限の動きを意識し、掌底を放つ。


 狙うは胴。威力よりも速さを重視、迷いなく叩き込む。


 そこに一切の手加減はない。容赦もない。


 手抜きしてどうにか出来るほど、アイリーンはやすい相手ではない。



 肉薄。急激な接近、アイリーンの顔が大写しになるような錯覚。


 不敵な、面白がるような笑みが妙に印象的に映る――


 瞬間、金色がぶわりと広がった。


 それはさながら白い蛇のように。


 絡み取る。ケイの右腕。捻じ曲がる軌道。


 凄まじい負荷が肩を襲い、たまらず姿勢を崩す。


 そして狙い澄ましたように足が払われ、視界がぐるんと回ったかと思うと、気がつけば尻餅をついていた。


 すわ喧嘩かと止めに入ろうとしていた見物人たちが、呆気に取られたように、ぽかんと口を開けて硬直している。呆然としているのは、ケイも同じだった。何が起きたのか分からない。


 ぺしっ、と軽い音を立てて、首の後ろが叩かれた。


「勢いがよければ良いってもんじゃないぜ、ケイ」


 振り返れば、アイリーンが腰に手を当ててケイの顔を覗き込んでいる。


「……そう言われてもなあ」


 唇を尖らせたケイは、困り顔で立ち上がった。


「今の、どうやったんだ?」

「どうって……右手をこう、ガッて引きながら、後ろにジャンプして足払い」

「お、おう……」


 言っていることは分かるが、実際にやっているところをイメージできない。


「毎回言ってるけど、ケイの攻撃は素直すぎるんだよー」

「しかし、俺がかけられるフェイントなんざ高が知れてるからな……」

「や、フェイントとかそういうのじゃなくて」


 ――攻撃後の隙が多い。

 ――予備動作が分かりやすい。

 ――反撃されてからのリカバーが遅い。


 アイリーンが次々とケイの弱点を挙げていく。手厳しい指摘にケイは渋い顔だ。


 基本的に、力比べになれば滅多な相手に負けないケイだが、"柔よく剛を制す"の言葉通り、アイリーンのような技量に長けた戦士とはとことん相性が悪い。弓の腕こそ頭抜けているものの、こと近接戦闘にかけては基本から外れた動きができないので、一定ラインより上の戦士にはまるで歯が立たないのだ。


 ちなみに、ゲーム内の上位陣にはアイリーン並の戦士がゴロゴロいたので、その中でのケイの相対的な強さはお察しであった。


「――と、いうわけで、その辺に気をつけてもう1回やってみよー」

「出来る気がしない……」


 心なしか先生っぽい口調のアイリーンに、早くも諦めモードのケイ。ゲーム時代から明白だったが、ケイに白兵戦のセンスはない。


 その後、30分ほどアイリーンに関節を極められたり投げ飛ばされたりしてから、最後に打撃のスパーリングをこなし、朝の運動は終了した。




 二人で組み手をしている間に、朝の混み合う時間は過ぎたのか、食堂はそれなりに空いていた。


「あら、おはようお二人さん。今日も元気ね、朝から訓練なんて」


 ケイたちが食堂に入ると、トレイを片手に忙しげに給仕していたジェイミーが愛想よく笑いかけてくる。


「やあ、おはよう。やらないと体が鈍るからな」

「それで、朝食?」

「ああ、いつもどおりで頼む」

「OK、ちょっと待っててね」


 厨房の奥へと引っ込んでいくジェイミー。一時はケイとアイリーンが揃って登場するたびにダメージを受けていたが、流石にもう慣れたのか、今では平気な様子だった。


 一方、ケイの傍らのアイリーンは、ジェイミーの方は見向きもせずに、他の客の皿をチラ見して「今日はホットサンドか……」などと呟いている。大会の打ち上げ以来、アイリーンは積極的にジェイミーと話そうとせず、また、ジェイミーもアイリーンと目を合わせようとしない。女の確執をビンビンと感じるケイであったが、この件に関しては努めて気付かぬフリを決め込んでいる。触れるとロクなことにならないのは火を見るより明らかだった。


「で、今日はどうする?」


 いそいそと席に着きながら、アイリーンが問いかけてきた。


「どうするもこうするも、……いつも通りだろ」

「だよなー」


 にべもないケイの返答に、へにゃりとテーブルに突っ伏すアイリーン。ケイもため息ひとつ、遠い目で頬杖をつく。


 ここ二週間、図書館が休館の日曜は除いて、ケイたちは朝から晩まで読書漬けだった。


 "大百科事典エンサイクロペディア"で気になる単語を調べ、並行して参考文献や関連書籍なども読み込んでいく。便利な検索機能があるわけでもなく、「どの情報が必要なのか」は結局自分でしか判断できないので、自分で手当たり次第に目を通すしかない。そして学術用語や詩的表現に苦戦させられ貸し出しの英英辞典が手放せない日々には、ケイもアイリーンもいい加減うんざりしていた。


 が、その甲斐あってか、調査自体は非常に捗っている。


 むしろ必要な情報はほぼ出揃った、といっていい。


 元よりエッダから"霧の異邦人"というかなりピンポイントな情報は聞いていたので、その線を辿って調べを進めていたのだが――調べれば調べるほど"魔の森"や"赤衣の賢者"など、興味深い伝承が次々と見つかった。


 特に"魔の森"に関しては、十数年前に派遣された魔術師団の研究資料が公開されていたため、情報の確度はかなり高い。その他の伝承とも絡めて多角的に検討した結果――高位の精霊か、件の"賢者"か、はたまた別の魔術的要因か――詳細は不明だが、いずれにせよケイたちは、北の大地の"魔の森"に転移の手がかりがある可能性が高い、という結論に達した。


 加えて、(軍事上の理由で公国の地形図は禁書扱いであったにもかかわらず)北の大地中央部から南部にかけての詳細な地形図が一般公開されていたため、既に"魔の森"の場所も判明しており、旅のルートもいくつか目処が立っている。



 情報は得られた。後はそれをどうするか。


 ケイたちは、次の行動を選択する必要に迫られていた。



「はい、お待ちどうさま、ハムとチーズのホットサンドね」

「お、ありがとう」


 厨房から出てきたジェイミーが、ケイとアイリーンの前に皿を置いた。ケイが代金を支払い、その間にアイリーンが水差しから木のカップに水を注ぐ。いただきます、と二人で手を合わせてから、ホカホカのホットサンドにかぶりついた。


「ん、うまい」

「山羊のチーズにも慣れたもんだな」


 とろりとした濃厚なチーズの旨み。知らず知らずのうちに沈んでいた表情が、ほのかな笑みに彩られる。


 ――なぜ、この期に及んで、ウルヴァーンに留まっているのか。


 本来のケイたちの行動力を鑑みれば、すぐに北の大地に旅立っていてもおかしくはなかった。しかしなぜ、未だウルヴァーンで足踏みしているのか。理由はいくつかあるが、やはり最大のものは「踏ん切りがつかない」ことであろう。


 最悪、手がかりなど一切見つからないまま、数ヶ月あるいは数年、図書館で情報収集に挑む覚悟だった。それが思ったよりもあっさりと解決の糸口が見つかって、逆に拍子抜けしてしまったのだ。


 本当にこれで大丈夫なのか。もっと他にあるのではないか――そんな半信半疑な気持ちが抜けきれず、自信が持てない。


 また、目的地が"北の大地"なのもいけなかった。まずケイは言葉が通じないし、ロシア語話者のアイリーンであっても、ようやく慣れてきた公国の暮らしから離れて、見知らぬ土地へ旅に出ることに躊躇いがある。


 そして、アレクセイの故郷だ、二人で旅をすればトラブルは避けられないだろう。これが港湾都市キテネや鉱山都市ガロンのような大規模都市、あるいは辺境であっても公国内でさえあれば、気軽に現地まで行ってみようという気になったかもしれないが――



「…………」


 ホットサンドを食べ終わり、水を飲みながら、二人して物思いに沈む。


 ――あと一押しが足りない。


 口には出さないが、二人ともが似たようなことを考えていた。"転移"の核心に迫るならば、北の大地に行くべきだと、頭では理解はしている。


 ただ、確証がない。紙面上の情報だけでは足りない。


 自分たちの背中を押すに足る、何かきっかけが欲しい――


「……やっぱり、話を聞いてみるべきだろうな」


 テーブルを指でトントンと叩きながら、アイリーンが切り出した。


「話? 誰に?」

「うーん。……専門家、とか?」


 ケイの問いに、小首を傾げながら、疑問系でアイリーン。


「専門家か……」


 顎に手を当てて、うーむ、とケイは唸る。


 公都図書館は、周囲に諸研究施設や学院が密集しており、学者や研究者のような知識層が集う社交場サロンとしても機能している。当然のように、北の大地に詳しい者もいるだろう。


「そうだな……実際、"魔の森"までどのルートで行けばいいかも分からないし、その辺もアドバイスが貰えると助かるな」


 アドバイスという点では、雪原の民を探して直接話を聞くという手もあり、実際に何人かホランドのツテを頼りに探してみた。が、ウルヴァーン在住の雪原の民は西部の出身者が多く、南東部の"魔の森"に関しては図書館以上の情報は得られなかった。


 そうしてみると出身者ゆえのバイアスがなく、全般的な知識がある(と期待される)平原の民の専門家の方が、むしろ意見を仰ぐには適しているかもしれない。


「個人的には、エンサイクロペディアの編集者エディターあたりを当たってみたらどうかと思うんだけど。"北の大地"と"魔の森"の項って、確か同じ編集者だったじゃん?」

「そうだったのか、よく憶えてるな。よし、今日はその方向性で行こう」


 話がまとまったところでカップの水をぐいと流し込み、ケイたちは席を立った。




          †††




「編集者、ですか?」


 公都図書館。エントランスのカウンターで、片眼鏡モノクルの受付嬢が小首を傾げる。


「ああ。エンサイクロペディアの"北の大地"の項の編集者で、名前は確か――」

「――『ヴァルグレン=クレムラート』、だったかな?」


 言葉を引き継ぐアイリーン。ケイは受付嬢に「だ、そうだ」と肩をすくめた。片眼鏡の位置を直しながら、「ふむ、」と声を漏らす受付嬢。


 ここ二週間ですっかり顔馴染みになった彼女だが、その名を『アリッサ』という。あまり表情の動かない長身の美女だが、話してみると意外に茶目っ気もある人物だということが分かってきた。


「ヴァルグレン=クレムラート氏、ですか……」

「……何か問題でも?」


 ほんのわずかに、表情を曇らせるアリッサ。ケイが尋ねると、「いえ、」と首を振ったアリッサは、


「その、編集者の中でもヴァルグレン氏は、独特な方ですので」

「それは、頑固とか偏屈とか、そういう感じの?」

「いえ、そういうわけではないのですが……かなり神出鬼没な方なんです」


 アイリーンの率直な物言いに、かなり答えにくそうな様子のアリッサ。


「直接会って話が聞ければ、と思っていたんだが……難しいのかな」

「はい。正直なところ、ケイさんの方から能動的にアポイントメントを取るのは難しいと思います。ご多忙な方であられますから」

「そうか……ならば、伝言だけでも頼めないものだろうか」

「それは……」


 せめて受付経由で連絡を、と思ったが、アリッサの反応は芳しくない。


「それも、……難しいかと」

「え? っつっても、エントランスに入ってきたところに、ちょっと声かけてくれるだけでもいいんだけど」


 アイリーンが素っ頓狂な声を上げる。何も、それほど無理なことを頼んでいるわけではない。不思議そうな顔をするケイたちに、少しばかり困った様子のアリッサは、周囲を気にするように声を潜めた。


「……図書館の入り口は、このエントランスだけではないのです。必ず私が応対できるわけではありません」

「へえ、他にも入り口あるんだ?」

「はい」

「で、ヴァルグレン氏はそちらを使ってると」

「残念ながら、詳細は申し上げられません」


 一線引いた態度できっぱりと言い切るアリッサに、ケイたちは目配せしあった。どうやらワケありらしい。


「そうか……じゃあ、他を当たってみるとするか」

「その方がよろしいかと。ヴァルグレン氏は、事情が特殊ですので……別の編集者であれば、連絡を取るのもさほど難しくはないと思います。なんでしたら、言伝も承りますが」

「いや、ヴァルグレン=クレムラート氏以外は、まだ見当もつけていないんだ。ちょっとエンサイクロペディアを見てくるよ」


 肩をすくめて笑い、くるりと受付に背を向けたところで「あ、お待ちください」と後ろから声をかけられる。


「折角ですので、ヴァルグレン氏の特徴だけでもお教えしておきます。あの方は本当に神出鬼没ですが、二階のエンサイクロペディアの近くで見かけられることが多いので、運が良ければ直接お会いできるかもしれません」

「おお、それはありがたい」


 編集者ヴァルグレン=クレムラート――まるで珍獣か何かのような扱いだ。ワケありっぽい素性といい、係わり合いになったら微妙に厄介そうな気配といい、適度に好奇心がくすぐられる。ケイもアイリーンも興味津々だった。


「はい。では、ヴァルグレン氏ですが、彼は五十代の男性です。顔は丸顔で中肉中背、服装は特に決まっていません――が、特徴的な点がひとつ」


 アリッサが、自分の前髪を摘んでひらひらとさせる。


「髪型です。透き通るような銀髪で、綺麗に形が整えられています。キノコみたいに」


 ケイの脳内に、銀髪マッシュルームカットの老紳士が現れた。んふぅ、と隣でアイリーンが笑いを噛み殺す音がする。


「……なかなか個性的な御仁のようだな」


 周囲の利用客を見回して、ケイは呟いた。


 地球の中世ヨーロッパに比べれば遥かに技術が発展している『こちら』の世界だが、こと男性のヘアスタイルに関しては、残念ながら中世レベルと言わざるを得ない。手入れが楽で邪魔にならなければいい、とでも言わんばかりに、ざっくりと短く刈り込んだだけの髪型が一般的だ。尤も、長くて鬱陶しい部分を適当に後頭部で縛っているだけのケイも、人のことを言えた立場ではないのだが。


「はい、かなり個性的です。私の知る限り、銀髪でヴァルグレン氏のような髪型の方は他にいらっしゃらないので、見かけたならまず間違いなく本人かと……」

「成る程、ならばそれを見逃さないようにしよう、ありがとう」


 改めてアリッサに礼を言い、ケイたちは館内に入っていく。


「さて、またエンサイクロペディアを調べる日々が始まるのかね……」


 二階へ階段を上がりながら、溜息交じりにケイは呟いた。


「だな……。正直、相談するならヴァルグレン=クレムラートが一番なんだけどな。北の大地も魔の森もこの爺さんが両方編集してるし、書き方も一番分かりやすいしさ」


 仕方ない、とでも言わんばかりに、嘆息するアイリーン。


「全くだ。それにしても、銀色のキノコヘアか……目立つな」

「仮にそんなヤツがいたら、見逃そうったって見逃しはしねーだろうけど」

「しかし図書館の入り口が他にあるとは知らなかった。VIP用か?」

「身分の高い人は、庶民と同じ出入り口なんざ使わない、ってことじゃね」

「となると……ヴァルグレン氏もやんごとなき身分の方なのだろうか」

「その可能性は高いな。まあでも、忙しくて神出鬼没らしいし? まさかこのタイミングでたまたま出くわすなんて、そーんな都合のいい……こと、は……」


 と、二階まで辿り着いた所で、階段の手すりに手をかけたまま、ゆるやかにアイリーンが動きを止める。


「……どうした?」


 ぽかんとした表情のアイリーンに、訝しげなケイはその視線を辿り――



「……あ」



 エンサイクロペディアの棚の間に、埋もれるようにして、細身な人影。


 中肉中背で、落ち着いた緑色のローブを羽織った男が、熱心に何かのファイルを読み込んでいる。後ろ向いているため顔は見えないが、その髪色は不自然なまでに美しい銀色だった。


 そして、耳にかからない程度の長さで、真横にびしりと切りそろえられた、独特なヘアスタイル。


「…………」


 しばし呆気に取られる二人であったが、すぐに我に返った。


「なあ、ケイ」

「なんだ、アイリーン」

「あれは……多分そう、だよな?」

「ああ……多分、な」


 神妙な顔で、ケイは頷く。




 ――銀色キノコが、そこに居た。



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