33. 図書館


 幸いなことに、婚姻証明書の取得はそれほど難しくなかった。


 市庁で書類に記入し、公証人の前で口づけをして終わりだ。手続きとして正式に口づけを要求されるのは少々意外であったが、『こちら』にも"誓いのキス"という概念は存在するらしい。人前で改めてキスするのも恥ずかしく、照れるケイたちとは対照的に、公証人の中年親父が「そんなもんもう見飽きた」とでも言わんばかりに終始淡々としていたのが印象的だった。


 それからは書類の審査や手続きが始まり、昼休みを挟んだ後しばらくして証明書は無事発行された。が、書類を手に市庁を出る頃には既に日が傾き始めていたので、ケイたちはまた日を改めて図書館に出直すことにした。


「全く、婚姻証明書はとんだ伏兵だったな」

「でもまぁ、スムーズに取れてよかったぜ」


 その日のうちに片付けば『スムーズ』と認識するようになったあたり、二人ともかなり訓練されている。ケイもアイリーンも、若干待ちくたびれた感はあるものの、特に疲れた様子はなかった。


 帰り道、ついでとばかりに市場の屋台や露店を冷やかして回る。アイリーンが何か面白そうなものを見つけては、ケイの手を引っ張っていく――ここのところ、ウルヴァーンの街中でよく見られる光景だ。すっかりケイたちの顔を憶えてしまった商人などは、微笑ましげにそれを見守っている。一部、アイリーンに見惚れながら、ケイに嫉妬の目を向ける男たちもいたが。


 最終的に、魔術の触媒に使えそうな水晶の塊や、"平たい桃ペッシュ・プラ"というまんまなネーミングの、潰れたような形の桃などを買い込み、ケイたちは宿屋に戻った。


「……あら、お帰りなさい。図書館はどうだった?」


 酒場で箒を手に掃除していたジェイミーが、静かな微笑みと共にケイたちを出迎える。


「いや、図書館には行けなかったよ」

「オレが一緒に高級市街に入るには、婚姻証明書が必要だったのさ。それの取得で一日が潰れちまった」


 懐から羊皮紙を取り出して、ひらひらと見せるアイリーン。


「そう……じゃあ二人とも、正式に籍を入れたのね」


 ゴフゥッと吐血しそうなジェイミーをよそに、ケイたちはそそくさと席に着く。何かを悟ったような顔つきのジェイミーにサーブしてもらいながら、適当に飲み食いし、いつものように部屋でイチャついてからそのまま寝た。



 明くる日。


 高空に巻雲のたなびく爽やかな朝。薄く立ち込める朝靄の中、ケイたちは城門を抜け、いよいよ第一城壁の内側へと足を踏み入れた。


「……成る程、これが一級市街区か」

「やっぱすげえな、外とは大違いだ」


 おのぼりさんのように、きょろきょろと周囲を見回しながら歩く。


 全てが良質な石材と、赤煉瓦で構築された世界。城を中心にして、放射線状に伸びる広めの街路。通りを挟む建築物はどれも三階建て以上の高さを誇り、驚くべきことに、ほぼ全ての窓にガラスが嵌まっていた。その整然とした街並みは近代の趣すら感じさせ、肌寒い朝の空気と相まって、何処か冷たい印象を投げかけている。


 普段、門の外から覗き込むと閑散として見えていた高級市街であったが、この時間帯はせわしなく行き交う人々で賑わっていた。その多くは質素だが清潔な衣服を身にまとった使用人たちで、加えて小型の馬車に乗る商人たちの姿も散見される。そしてそれらの通行人に、威圧的な視線を向ける赤い衣の衛兵ガード達。


 ウルヴァーンの象徴たる竜の紋章を縫い付けた赤衣に、ぴかぴかに磨き上げられた金属製の胸当て、派手な羽根飾りのついた兜。その手に握られているのは装飾過多の斧槍ハルバード――まるで玩具の兵隊だな、とケイは思う。だがそうやって観察するうちに、ふと衛兵の一人と目が合った。


「――おい、そこのお前!」


 通行人を押しのけて、のしのしとこちらに近づいてくる衛兵。反射的に周りに怪しい影を探したが、残念ながら、マークされているのはケイ自身のようだった。


 なぜ怪しまれるのか。特に見咎められるような憶えもない、自分の体を見下ろしてケイは首を傾げる。この日のためにアイリーン共々新しい服を仕立て、貧乏臭く見えないよう気をつけていたのだが。


「……俺か?」

「そう、お前だ! その腰につけているものは何だ!」


 ケイの腰の弓ケースを指差し、衛兵が咎めるような口調で言う。ああ、と合点がいったケイは、


「これは、弓ケースだな」

「……許可無く第一城壁の内側に武器を持ち込むのは禁止されている。ましてや飛び道具など……貴様、それを知ってのことか」

「許可ならあるぞ」


 何やら不穏な気配を漂わせる衛兵に、肩をすくめながら身分証を提示するケイ。一般市民ならば兎も角、ケイは名誉市民なので、特権的に一級市街区への刀剣類や弓具などの持込が許可されている。『個人で携行できるもの』と制限はされているが、現状ケイが所持しているのは"竜鱗通しドラゴンスティンガー"と長剣だけだ。法律上は何の問題も無い。


 ちなみに、名誉市民であろうと何であろうと、鏃や十字弓クロスボウ矢弾ボルト、あるいはそれに類する鋭利な凶器などの『遠距離から対象を傷つける道具』の持込は、暗殺防止の観点からかなり厳しく制限されている。万が一許可無しで持ち込んでいるのが露見した場合は、王侯貴族からの擁護でもない限り、問答無用で死罪に処せられるらしい。


 サティナの麻薬検査に比べれば、城門で厳密なボディチェックがあるわけでもなく、その気になれば隠し持って入るのも不可能ではないだろうが――、いずれにせよケイには縁のない話だ。


「許可……む、名誉市民か、ケイイチ=ノガワ……この名前……」


 ケイから受け取った身分証に目を通し、兜の下、口元を引き結ぶ衛兵。


「あっ、隊長。この人、今大会の射的部門の優勝者ですよ」


 近くに居た別の衛兵が、ひょこひょこと近づいてきてケイを指差した。


「自分、会場で見てたんで顔覚えてます」

「む、そうか」


 部下の言葉に、手の中の身分証と目の前のケイをしげしげと見比べる衛兵。先ほどからやたらと威圧的な態度といい、色々と遠慮の無い奴だな、とは思いつつも口には出さず、ケイは小首を傾げて見つめ返した。


「……ふむ、失礼した。ちなみに、そちらは」

「俺の妻だ」

「はいコレ婚姻証明書」


 手際よく、羊皮紙を広げて見せるアイリーン。今度は手に取るまではせずに、衛兵はさっと文面に目を通し、


「む、これは失礼した。怪しい者ではなかったのだな」

「あんたの同僚が城門で見張ってるんだから、ちょっとは信用しろよー」


 ぷーっと頬を膨らませたアイリーンの一言に、衛兵はこつんと兜を叩いて苦笑する。


「ふむ、まあ確かに、その通りだが。どうにかして壁を乗り越えて忍び込んでくる、不逞の輩がいないとも限らんからな」


 いずれにせよ失礼した、と言いながら、そのまま彼は自分の持ち場へ戻っていった。


「お気を悪くなさらずに。うちの上司、アレでかなり真面目な性質タチでね」


 助け舟を出した部下の衛兵が肩をすくめ、おもむろにケイに向き直る。


「ところで! 良かったら握手してもらえませんか? 大会でのご活躍、見てましたよ! 本当に凄かったですね! 自分なんかもう大興奮でッ!」

「あ、ああ。楽しんで貰えたなら何よりだ」


 ぐいぐいと押してくる部下衛兵に少し気圧されながらも、差し出された手を握り返し、まんざらでもない様子を見せるケイ。それを見て、ふーむと眉をひそめたアイリーンが、


「なあ、ケイって大会で優勝した割に、あんまり顔と名前が知られてないのか?」

「えっ? ……うーん、そうですねえ、」


 その問いかけに、ケイの手を握ったまま首を傾げた部下衛兵は、


「……人によるんじゃないでしょうか。会場にいなければ顔は分からないでしょうし、余所者が優勝した、って聞いただけで興味を失くす人も多いですからね」

「え~、なんだそりゃ」


 がっくりと脱力して、アイリーンが気の抜けた声を上げる。


「ああでも、うちの上司は例外ですよ。あの人、ついこの間まで所用で別の都市に行ってたんで、そもそも大会のことあんまり知らないんです」

「そうだったんだ。いやさ、さっきみたいに何度も止められたら、鬱陶しいじゃん?」

「……そんなに、何度も来る予定なんですか? 一級市街に」

「ああ。図書館に用事があってな。しばらく調べ物をすることになると思う」


 重々しく頷きながら、ケイ。 


「なるほど、図書館ですか……。私たち衛兵の数も限られてますから、そのうちあなたの顔も知れ渡ると思うんですがねー。そういうことでしたら、馬か馬車で乗り入れたらどうです? 城門を越えた時点で、呼び止められることはなくなると思いますよ」

「……成る程、馬ごとは忍び込めないからな。しかし図書館に厩舎はあるのか?」

「あります。何せ遠路はるばる来られる、高貴な身分の方々もいらっしゃいますからね。よほど凶暴な騎獣でもない限り大概のものはお世話できるでしょう」

「ほう。ならば次回は、馬で乗りつけるとしようか」


 図書館に行く日、ずっと厩舎に押し込められているよりは、少しでも歩けた方がサスケたちも気分がいいだろう。握手ファンサービスも切り上げて部下衛兵に助言の礼を言い、ケイたちは再び歩き出した。


「――しかし、職務質問が鬱陶しいから馬に乗るというのも、間抜けな話だな」

「仕方ねーよ、だって実際鬱陶しいもん」


 ケイの呟きに、ひょいと肩をすくめるアイリーン。


 ここしばらくアイリーンと一緒に過ごして分かったが、どうやら彼女は『アウェー感』というものが非常に苦手らしい。文化的・精神的に受け入れてもらえない、あるいは自分にとって相手が受け入れがたい、という状況に酷くストレスを感じるようだ。特にウルヴァーンは官民揃って余所者には冷たいところがあるので、このところのアイリーンはどうにも不貞腐れ気味だった。


 元々、欧米人に混ざって一人でゲームを遊んでいたケイは、そういった疎外感にはもう慣れっこであったが――。


 ちらりと隣を歩くアイリーンに目をやる。つまらなさそうな、ちょっと落ち込んだような、このところよく見かける表情。ケイは無造作に、その金色の髪に手を伸ばした。


「な、なに」


 突然、わしゃわしゃと頭を撫でてきたケイに、アイリーンが目をぱちくりさせる。


「……なんだよケイ」

「いや、お前が居てくれてよかったよ」

「はぁ?」


 さらに目を瞬くアイリーンに、照れ臭くなって頬をかいたケイは、「なんでもない」と首を振った。



 大通りを抜ける。


 いつの間にかケイたちは、噴水のある大きな広場に出ていた。足元はこれまでと違い、赤煉瓦ではなく大理石のタイルで固められている。さんさんと降り注ぐ陽光の下、きらきらと輝く白色の世界が、目の前に広がった。


 そして、その先にそびえ立つ、白亜の宮殿。


「……これが、」 


 ――とうとう、辿り着いた。


 ウルヴァーンの誇る、叡智の結晶。


 公都図書館が、今ここに二人を迎えた。




          †††




 まず、その佇まいに息を呑む。


 装飾が、造形が、周囲の建築物とは一線を画していた。背の高さは、付近一帯と比べてもそう大差ない。だがその圧倒的なまでの奥行きが、蔵書量の凄まじさを予感させた。


 構造は端的に言えば半月に近い。来訪者を迎え入れるようにして、建物全体が緩やかに孤を描いている。正面の幅は百メートルを優に越えているであろう。一階から三階まで細長いアーチ状の窓が設けられ、その全てに極めて透明度の高いガラスが嵌まっていた。


 壁面は上品な白。大理石のなめらかな輝き。まるで太陽の光に染め上げられたかのような飴色の照り返しが美しい。そして石材の光沢によってさらに引き立てられているのが、一面に刻み込まれたレリーフだ。花や蔓、小動物の意匠は職人の執念を感じさせるほどに繊細で、その陰影が大理石の色と絶妙なコントラストを生んでいた。仮にそれらを芸術品として見た場合、一体どれほどの価値を持つのか――呆けたように視線を這わせながら、ただただ感嘆の溜息が洩れるばかり。


 また、壁と一体化する形で随所に配された、精巧な彫像にも目を奪われる。今にも動き出しそうな――とはよく聞く表現だが、これらの彫像はその真逆を行っていた。まるで、生命いのちある者の時をそのまま止め、石として固めたかのような生々しさ。元素の精霊を象ったものか、あるいは歴史上の偉人を再現したものか――羽衣をまとった乙女たちが妖艶に微笑み、分厚い本を手にした老人がいかめしい顔つきで空を睨む。髪の毛一本、風にはためく衣のしわ、そういった細部が恐ろしいまでに彫り込まれている。


 そして、それらの中でも最も目を引くのは、図書館の中心部、屋根に鎮座する一体だ。右手に剣をだらりと下げ、左手に短杖ワンドを高らかに掲げる美丈夫の姿。その背中にはまるで天使のように、大きな一対の翼が広げられている。ただし、その翼は鳥のそれではなく、蝙蝠のような、爬虫類のような、あるいは――"竜"を彷彿とさせる、皮膜と鋭い爪を持つ攻撃的なものであった。


 まっすぐに前を向いた美丈夫は、どこまでも凛としてそこに在る。厳しい表情は下界を睥睨するが如く、それでいてある種の慈愛を漂わせる。竜のような荒々しさの中に、母性的な穏やかさを内包する存在。欲求に対する理性の勝利と、知のもたらした調和を高らかにうたう、気品に満ち溢れた像であった。



 しばし声もなく、ケイたちは見惚れる。


「……すげえな、まるでルーヴルだ」


 やがて、アイリーンが口を開いた。


「ルーヴル?」


 ケイがオウム返しにすると、アイリーンは小さく頷いて、


「そ、ルーヴル美術館。パリの」

「……行ったことあるのか?」

「うん、小さい頃に、一度だけ……」


 遠い日の記憶と重ね合わせているのか、アイリーンはぼんやりした表情だった。


「ルーヴルって、こんななのか……」

「あー、いや、建物自体は似てる。けど、こんな感じの石像はついてなかったな。どっちかっつーと、石像のノリはヴァチカンのサン・ピエトロ広場っぽいと思う」

「そうなのか……」


 成る程、と頷くケイも、やはり何処かぼんやりとしていた。


「……そろそろ、入ってみるか?」

「そう、だな。ここで見惚れてても意味ねーし」


 二人で「よし!」と気合を入れ、ケイたちはゆっくりと歩き始める。



 図書館正面の入り口は巨大な観音開きの扉だ。木の枠にガラス細工が嵌め込まれ、中が透けて見える構造になっている。鉄格子の嵌まった一階の窓に比べると防犯性能は無きに等しいが、扉の両側には屈強な二人の警備兵が立っていた。


 両者ともに街中の衛兵よりは軽装で、胸当ても兜も装備していない。黄と黒の縞模様の衣を身に纏い、手には背丈より少し長い程度の金属製の棒を握っている。ハルバードに比べれば随分と大人しい得物だが、恰幅のよい男が持てば威圧感は充分だ。いかにも職務に忠実、と言わんばかりに真面目腐った顔で、二人とも直立不動の体勢を維持していた。


 ケイたちが歩み寄っても、警備兵たちはぴくりとも表情を動かさない。そのまま呼び止められることもなく、ケイが取っ手に触れようとしたところで――音もなく、独りでに扉が開かれた。


 一瞬、虚を突かれて固まるも、すぐに「あっ」とアイリーンが何かに気付く。


「これ、魔道具じゃん」


 よくよく見れば、扉の装飾には巧妙に精霊語エスペラントの呪文が隠されていた。随所に嵌め込まれている宝石も、ただのお飾りではないらしい。


「無駄に金かけてるな……」


 感心したような、呆れたような表情のケイ。現代人からすればただの自動ドア、地味なことこの上ないが、この手の物理的な作用をもたらす魔道具は造るのが存外難しい。高位の精霊でなければ実現できないはず――そして高位の精霊になればなるほど、要求される触媒も希少なものとなる。サイズ的なことを考えると、この大扉の作成に必要だった触媒だけで、ちょっとした家くらいならば建てられるのではなかろうか。


 そんなことをつらつら考えながら中に踏み入ると、そこは広々としたホールであった。


 内装はまさしく、"豪華絢爛"と言う他ない。白を基調としているあたりは外壁と一緒だが、天井のフレスコ画には青空で舞い遊ぶ精霊たちの姿が描き出され、また梁と言わず柱と言わず、至る所に金箔をふんだんに用いた装飾がなされていた。


 入って正面には受付と思しき木のカウンター、その奥にはずらりと並ぶ本棚――図書館の内部が見て取れる。上品な臙脂色のふかふかな絨毯、日当たりのいい窓際には座り心地の良さそうなソファが置かれ、ホールの突き当たりには高級感のあるテーブルや椅子がいくつも並ぶ。ティールームであろうか、茶器を載せたトレイを手に、忙しげに動く給仕の傍ら、ソファや椅子に腰掛けて談笑する身なりの良い人々の姿も見られた。


 そして彼ら全員の視線が、新たに入ってきたケイたちに集中する。


「…………」


 なんとなく気まずい。ケイたちの存在は、この場では明らかに浮いていた。


 ケイもアイリーンも服は新調していたが、所詮は平民向けのもの。周囲の人々が身にまとう絹の衣に比べれば、若干見劣りするのは否めない。皆、すぐに目を逸らし、何事もなかったかのように会話を再開していたが、露骨になり過ぎない程度に注意を向けられているのが丸わかりだった。


 しかしこの程度で怖気づくほど、ケイもアイリーンも柔なメンタルはしていない。互いに顔を見合わせ、小さく肩をすくめただけだ。つかつかと、揃って受付に近づいていく。


 落ち着いた色合いのカウンターの奥に、受付嬢と思しき若い女が二人。


「――こんにちは。本日はどのようなご用件でしょうか」


 そのうち、片眼鏡モノクルをつけたショートカットの受付嬢が、先んじて尋ねてくる。立ち仕事か、と一瞬思ったが、どうやら背の高い椅子に腰掛けているらしい。自分よりも少し低い位置にある受付嬢の目を見て、ケイは口を開いた。


「図書館を利用したいんだが」

「……初めてのご来館ですね? 利用料が年間で銀貨五十枚となりますが」


 払えるのか、と言外に尋ねているようだ。


「それは、今ここで払っても構わないのかな」


 懐から財布を取り出し、カウンターの上に置く。じゃら、と重々しい硬貨の擦れる音が響いた。


 ほう、と声には出さないが、受付嬢が感心したように小さく首を傾げる。


「もちろんです」

「それは良かった」


 受付嬢の差し出してきたトレイに、財布から取り出した金貨を1枚載せる。ゆっくりと目を瞬いた受付嬢は、ケイとアイリーンの間で視線を彷徨わせた。


「お二人分、ですか」

「ああ、よろしく頼む」

「……かしこまりました。登録しますので、身分証の提示をお願いいたします」


 心なしか、先ほどよりも恭しい態度。ケイは身分証を、アイリーンは婚姻証明書をそれぞれ提示し、図書カードを作成してもらう。


 手のひらサイズの羊皮紙に、銀色の万年筆で丁寧に文字を書き込んでいく受付嬢。鈍く輝く青色のインク――注意深く、一文字ずつ刻み込んでいくかのような手つきだ。


「……はい、それではここに、サインをお願いします」


 万年筆を渡され、言われるがままに名前を書き込む。すると羊皮紙の上、書き込んだサインがすぅっと青白く発光した。


「これで、このカードは一年間有効となります。有効期限が過ぎますとカードそのものが自動的に消滅いたしますので、ご了承ください」


 淡々とした受付嬢の説明を聞きながら、手の中の万年筆をしげしげと観察するケイ。


(これも魔道具か……)


 あるいは、インクも特殊なものに違いない。一々小道具が凝っている。


「ありがとうございました。さて、お二人とも、初めてのご来館とのことですが、施設の説明等は必要でしょうか」


 片眼鏡の位置を調整しながら、無表情のまま受付嬢が問いかける。ケイがアイリーンを見やると、彼女は小さく頷いた。


「お願いしよう」

「分かりました。それでは、」


 やおら席を立つ受付嬢。受付の業務は、もう一人の同僚に任せるのだろう。カウンターから出てみれば、片眼鏡の受付嬢はかなり背の高い女だった。おそらく170後半はあると見ていい。


「では、このエントランスの説明から。まずあちらのティールームですが、当館の会員の方は無料でご利用いただけます。また、二階には個室や会議室もございますので、事前にご予約いただければ――」


 ティールームやサロン、御手洗いなどの説明を受け、いよいよエントランスから図書館の内部に入り込んでいく。



 ――静謐な空間だ。本や巻物のぎっしりと詰まった棚が、壁のように整然と立ち並んでいる。足元の絨毯は落ち着きのある緑で、フロア中央には椅子やソファが置かれていた。


「一階は主に、詩や小説の文学、歴史書などを取り扱っております。基本的に作者・著者別に分けられておりますが、内容やジャンルによって何かお探しの場合は、受付か司書にお申し付けくださるとよいでしょう」


 少し声のトーンを落とし、囁くように受付嬢。「司書はあちらの事務室に~」と続いて説明し続けるそばで、アイリーンがくいくいとケイの袖を引っ張った。


「ん? どうした」

「ケイ、あれっ、あれ見て」


 何やら興奮した様子で近くの壁を指差すアイリーン。


 怪訝な顔でそちらを見やれば、壁面に固定されたランプ。


 無色透明なガラスの中で、淡い光が揺れている。一瞬、昼間から油を燃やすとはなんと贅沢な――と思うケイであったが、すぐにそれが炎の明かりでないと気付き愕然とした。


 あれは、魔術の明かりだ。


 極めて貴重な照明の魔道具。弾かれたように周囲を見回し、壁に一定間隔で取り付けられたランプから、天井にぶら下がるシャンデリアに至るまで、全てが火を使わない魔道具で統一されていることに気付く。


「嘘だろ……ゲームでも一度にこんな量はお目にかかったことないぞ……」

「いくら火災対策っつっても、コレはヤバイよな」


 二人ともにわかに茫然自失となっていた。作成難易度とコストが馬鹿高く、一部の古代遺跡やダンジョンで発掘される他は、ゲーム内で入手すらままならなかった魔道具。それが、この広い館内全てをカバーするほど、大量に備えられている――


 ウルヴァーンの生産能力と経済力に、ケイもアイリーンも驚くばかりであった。


「……よろしいですか? では二階へ」


 そんなケイたちをよそに、淡々と説明を続ける受付嬢。彼女に連れられて、今度は階段で二階へ上る。


「さて。二階は学術書、及び"大百科事典"のフロアとなっております」

「"大百科事典エンサイクロペディア"?」

「はい。こちらです」


 受付嬢が示すのは、二階の窓際、ずらりと並んだ二十六架の巨大な本棚。それぞれA, B, C...と棚にアルファベットが振ってある。そして棚の中には、本でも巻物でもなく、革で装丁されたファイルのようなものがぎっしりと並べられていた。


「こちらが、当館の誇るエンサイクロペディアです。これら全ての棚が、一冊の百科事典として機能します。一つの語句から、多角的に調べを進めていくことができるのです」


 一番手前のAの棚に近づいた受付嬢が、「例えば、」と一冊のファイルを抜き出した。


「"リンゴ"を調べたい場合は、こちらのように」


 背表紙に"Apple"とあるファイルを手渡してくる。アイリーンとともにパラパラとめくってみると、そこにはリンゴの基本的な情報――植物学的な特徴、主な産地や品種、収穫の季節や栽培法などが、イラストも交えて大まかに記されていた。


 興味深いのは、ページによって文字の筆跡が異なっていることだ。またファイルの末尾には、参考文献や"編集者エディタ"なる者達の名が書き連ねてある。


「当館の利用者のうち、高い教養と深い専門知識を持つ方は"編集者エディタ"と呼ばれ、エンサイクロペディアを編纂する権利を有しておられます。新たな発見があれば情報の追加がなされ、間違いが見つかれば訂正される。当館のエンサイクロペディアは、絶えず進化し続ける事典なのです」

「……要は、アナログのウィキペディアだな」

「違いない」


 アイリーンの言葉に、ケイも深々と頷いた。


「アナログ……、ウィキ? いえ、エンサイクロペディアですが」


 意味が通じなかったらしい受付嬢が真顔で訂正してくるが、既にこのとき、二人の注意は棚の方へと向けられていた。


 早速Nの棚に移り、北の大地ノースランドの項目を探す。すると想像以上に分厚いファイルが見つかり、中身をめくってみれば雪原の民の風習や伝承、伝説などが歴史書の出典付きで記されていた。


「……これは、なかなか長い付き合いになりそうだな」


 パタンとファイルを閉じ、にやりと笑みを浮かべるケイ。少なくとも、手当たり次第に本を読み漁っていくより、調べ物が捗るのは間違いない。


「俺は、とりあえず『北の大地』から攻めてみよう」

「じゃあオレは『霧』から調べていこうかね」


 この図書館であれば、『こちら』に来ることになった原因も掴めるかもしれない――




 ケイたちの探求は、まだまだ始まったばかりであった。



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