32. 栄光


 ケイは優勝した。


 他の選手が次々と棄権していく中、圧倒的差をつけての大勝利であった。


 公王の孫にして次期後継者、ディートリヒ=アウレリウス=ウルヴァーン=アクランド公子より直々に表彰され、褒賞の一部を受け取って帰った"HangedBug"亭では今、祝勝会と称したどんちゃん騒ぎが繰り広げられている。


「それでは"公国一の狩人"、ケイのさらなる栄達を願って、乾杯!!」

「「乾杯ー!」」


 酒場の中心、ホランドが音頭を取り、それに合わせて皆が一斉に杯を掲げた。マンデルやエッダのような知己の姿もあれば、大会で知り合った他の選手もおり、はたまたその場に居合わせただけの一般客もドサクサに紛れて宴に参加している。


 そしてケイは、そんな彼らに囲まれて、ほろ酔い気分で上機嫌に杯を重ねていた。


「大活躍だったなケイ! 圧倒的だったじゃないか!」

「ふふふ、……まあな!」


 左手側に陣取るアイリーンに褒められ、照れながらも鼻高々になるケイ。


「予選の内容そのものは、概ね想定内だった。それほど緊張はしなかったさ」

「……まったく、他の選手は災難だな」


 テーブルを挟んで対面、蒸留酒のカップを傾けて、しみじみと呟いたのはマンデルだ。


「おれは最初から、ケイのことを知っていたからまだマシだったが。……初めてお前と競う羽目になった奴らは、心底絶望しただろう」

「やるからには全力で、と決めていたんだ」


 飄々とした態度のケイに、改めてマンデルは苦笑する。


「まったく。途中で棄権した奴らを、おれは責める気にはなれないよ。……あれほどの実力差を見せ付けられると、普通は心が折れる」

「いやでも、マンデルも凄かったじゃないか。あの短弓に、まさかあんな使い方があるとは思わなかったぞ」

「なに、あれは大道芸みたいなものだ。ケイだってやれば出来るはずさ。……だが所詮は小細工、ケイには敵わなかったようだな」

「いや、あの状況下でそれを試みた度胸と、実際に成功させた胆力は素直に尊敬するよ。俺にはとても真似できないな。正直、あの時はかなり焦った」

「ふっ、ならば、せめて一矢報いることには成功していたわけか。……光栄だよ、ケイに尊敬されるなんて」


 そういって肩をすくめるマンデルではあるが、実は大会ではケイに次いで入賞を果たしている。ウルヴァーン主催の大会であるにも関わらず、軍属の弓兵や傭兵などを差し置いて、上位入賞者のうち二名を異邦人と平民が占めるという異例の事態であった。


「しかし実際のところ、おれはケイに負けてよかったかも知れない。……あのまま決勝に進んでいたらと思うと、ぞっとするよ」

「ああ、あれは流石に予想外だった。まさかあんな形になるとはな」

「普段通りの装備を、ってのがああいう意味だったとは思わなかったぜ」


 感慨深げなマンデル、面白がるようなケイ、呆れ顔のアイリーンと、三者三様に決勝戦を振り返る。


「でも、お兄ちゃんなら大丈夫だって、わたし信じてたよ!」


 テーブルの下から、ケイの右手側に、ぴょこんと褐色の肌の少女が顔を出した。ホランドの娘、エッダだ。


「"大熊グランドゥルス"だって平気でやっつけたんだし。あのくらい、お兄ちゃんならどうってことないよね!」

「まあ、な。練兵場の真ん中に引っ立てられて、突然アレが始まったら流石に焦ったかもしれないが」

「お兄ちゃん、全然慌ててなかったよね。とってもカッコよかったよ!」


 英雄を見るようなキラキラとした眼差しに、ケイは面映い気分で杯を揺らす。


「……ありがとう。でも今回は直前に告知アナウンスがあったからな、"大熊"のときに比べれば大分マシだ」

「はっはっは、そう言われちまうと、もう片方の選手は形無しだなぁ!」


 背後から酒臭い息。振り返ってみれば、顔を赤くしたダグマルの姿があった。


「よっ、英雄! 呑んでるかい!?」

「ああ、呑んでるよ。あんたほどじゃないが」


 おどけて、手に持つ杯を示してみせる。対してダグマルは、葡萄酒の小さな壺から直呑みしているようだった。


「はっはは、呑むぜー、おれは呑むぜ! なんつったってタダ酒だからな! な!?」

「え? いや、各自で会計してもらうつもりだが」

「……なに?」


 赤ら顔のまま表情の抜け落ちるダグマルに、ケイはぷっと吹き出した。


「冗談だよ、何マジになってんだ」

「……テメェッこのっ、ビビらせやがって!」


 ケイにヘッドロックを決め、葡萄酒の壺でこめかみをグリグリとするダグマル。「痛い痛い」と笑いつつも、そんなに支払いが恐ろしいほど呑んでるのか、と思うケイ。しかしこの際、そんなことはどうでもよかった。


「よーしみんな、改めて言うまでもないが、今日は俺の奢りだ! 呑め呑め!」


 ケイの宣言に、うおおお、と周囲が沸き立つ。


「いいぞいいぞー!」

「さすっが優勝者ー!」

「よっ大将、太っ腹!」


 皆、ケイをヨイショするのに余念がない。さらにいい気になって注文を重ねるケイと、その恩恵を享受するその他大勢の構図。ケイの隣では、アイリーンが「あーあ」という顔をしていたが、流石に止めるような無粋な真似はしなかった。

 陽気な空気の中、酒場のドワーフ顔の主人は「酒が足りねえ!」と嬉しい悲鳴を上げ、ジェイミーを含む従業員たちは、忙しげに客たちの間を飛び回っている。


「それにしてもアレだな、決勝に出てたあの弓兵は大丈夫だったのか」

「ああ、アイツか」


 話を決勝戦に戻し、ケイが問いかけると、腕を組んだダグマルはしたり顔で、


「何でも、右肩が食い千切られて大ごとだったらしい。早々にギブアップしたのと、決勝戦だから特例で高位魔術師が治療にあたったのとで、一命は取り留めたそうだが。今じゃ傷ひとつなくピンピンしてるってよ」

「そうか、それは重畳」

「ただ、傷は治っても腕の感覚がなかなか戻らないらしくてな。軍は辞めるかもしれないそうだ」

「うーむ、そうか……」


 沈痛な面持ちのケイの前に、ゴトリと串焼き肉の皿が置かれた。


「――怪我しちまうとなぁ。感覚はなかなか戻らねえもんさ」


 太い腕を辿っていけば――前掛けをしたドワーフ顔。デリックだ。


「おれも昔、矢を受けちまってなぁ……おかげで今ではこのザマよ」


 ぽん、と右膝を叩いてみせるデリック。足を引きずって歩いていたのは、そういうことだったのか、とケイも合点がいく。


「あなたも戦士だったのか?」

「戦士、っつーか、傭兵だな」


 気恥ずかしそうに鼻の頭をかいて、デリックが目を逸らす。


「これでも、おれがひよっ子だった頃は有名人だったんだぜ」


 代わりに、自分のことのように嬉しそうに、ダグマルがずいと身を乗り出した。


「根っからのパワーファイターでよ、"戦役"のときは、斧で敵の砦の壁を叩き壊したこともあるんだぜ。"巨人"デンナー旗下の"赤鼻"デリックといやぁ、ここらじゃ知らない奴はいなかった」

「貴様ッ、次にその名を出したら舌を引っこ抜くぞッ!!」


 ダグマルの言葉に、デリックが額に青筋を浮かべて怒鳴りつける。

 大層ご立腹な様子だが、顔が紅潮しているせいで逆にその"赤鼻"っぷりが強調されてしまい、ケイとアイリーンは堪えきれずに酒を噴き出した。口を押さえて身をよじるケイたちをよそに、「い、いやーすまねえ親父つい口が滑って……」と媚びるような薄笑いを浮かべるダグマル。


「……まっまあ、ともかく、おれがまだ傭兵になりたてだった頃は、随分と世話になったもんだ。なっ親父」

「おうおう、昔はこいつも、ただの洟垂はなたれ小僧でな。最初に戦場に連れ出したときなんざ、それこそ鼻水どころかションベンまで――」

「あーっ! わーっ! その話は勘弁してくれよ!」


 薮蛇になってしまった暴露話に、慌てるダグマル。「食事中だぞー」「汚ぇ話すんじゃねー」と外野から野次が飛び、なぜか木皿や食べ残しの骨がダグマルに投げつけられる。


「イテッイテテッなんでおれに……」

「コラァーッ! 貴様ら食いもん粗末にしてんじゃねえぞ! それに店の物投げてんじゃねえッ!」

「うわー"赤鼻"が怒ったー!」

「逃げろー!」

「――ッッどいつが言いやがった!? ブッ殺してやるッッ!」


 目を血走らせたデリックが袖をまくり、声のした方に突撃する。椅子のひっくり返る音や皿の割れる音、「ひええぇぇ」「貴様かオラァッ!」と飛び交う悲鳴や怒号。宴はまだ始まったばかりだというのに、場は既に混沌カオスの様相を呈していた。


「もぉ~、私だって楽しみたいのにーッ!」


 店主が乱闘を巻き起こす一方で、ジョッキを腕一杯に抱え涙目のジェイミー。尻を触ろうとするセクハラ親父どもの手を華麗に回避しつつ、恨みがましげに諸悪の根源たるケイを睨む。


 ゴブレットを片手に、ケイはデリックの大立ち回りを笑いながら眺めていた。ともすれば怪我人すら出かねないレベルの騒ぎであったが、平然と笑っているあたり、かなり酔いが回っているらしい。

 そして、その左隣には当然とばかりにアイリーンが収まって腕を絡め、右側からはエッダが引っ付いてアイリーンに負けじと甘えている。


「…………」


 アイリーンは兎も角、年端の行かぬ少女エッダですら、ケイにアプローチをかけているという事実。そんな中、自分はムサいセクハラ親父どもに囲まれ、汗水垂らして給仕に徹している――思わず動きの止まったジェイミーは、ふっと、遠い目になった。隙ありと言わんばかりに、尻や太腿に伸ばされるセクハラの手。


「――うん、」


 やがて、吹っ切れたように頷き、ダンッとジョッキをまとめて手近なテーブルに置いたジェイミーは、


「――やめたッ!」


 爽やかな笑顔。その場でトレイを放り捨て、呆気に取られる客たちをよそに、すたすたと厨房へ引っ込んでいく。

 そしてすぐに戻ってきたかと思うと、その手には木苺のタルトを載せた皿。

 ナイフ、フォークと共に近くのテーブルにセッティングし、いかにも優しげに微笑みながら、ケイに甘えるエッダに話しかける。


「ねぇ、お嬢ちゃん。とってのおきのお菓子があるの。木苺のタルトよ。食べない?」

「わ、おいしそー」


 タルトに釣られ、トコトコと席を立つエッダ。にやり、と邪悪な笑みを浮かべたジェイミーは、そのままケイの右隣に収まる。


「……ねえ、お兄さぁ~ん」


 服の胸元の紐を緩め、胸の谷間を強調しつつ、ジェイミーはケイにしなだれかかった。唐突な色仕掛けにきょとんとするケイ、その奥でタルトを頬張りながら「しまった!」と目を見開くエッダ。


「こんなムサいトコは出て、わたしとイイコトしな~い?」


 人差し指で「の」の字を描くように、ケイの胸元をいじりながら流し目を送る。

 周りに誰もいない時、幾度となくイメトレを重ねてきた必殺技。満を持して解き放つ。


「…………」


 ケイの陰からアイリーンが顔を出し、じっとりとした、底冷えのするような視線を送ってくる。凍りつくような殺気も放たれているが、ジェイミーは勇気を振り絞って耐えた。タルトそっちのけで、背中をぽこぽこと叩いて抗議するエッダには、この際気が付かないふりをする。


「ふむ……」


 一方、渦中のケイは存外冷静にゴブレットを傾けながら、――男のさがか、視線は谷間に吸い寄せられていた。


 ――成る程、強調するだけのことはある。


 アイリーンを草原とするならば、こちらは山岳。小麦色の滑らかな肌は、それだけで自然の豊かな実りを彷彿とさせる。その攻略には容易ならざるものがあるだろう――やはりケイも男なので、つい鼻の下が伸びそうになる。


 だが、それもあくまで興味レベルで、不思議と過分に心が動かされることはなかった。

 アルコールによって気が大きくなっているからだろうか。

 それともアイリーンの絡める左腕が、ミシミシと軋みを上げているからだろうか。


「……いや、すまない」


 いずれにせよ、ケイはゴブレットを置いて、そっとジェイミーの身体を引き離した。


「素敵なお誘いではあるが……俺にはもう愛する人がいるのだ」


 至極真面目くさった態度で言ってのけ、左手に抱いたアイリーンの額に、ちゅっと口付けしてみせる。


 一瞬呆けたような顔をして、すぐにぽっと頬を赤らめるアイリーン。ひゅーひゅー、と囃し立てる周囲の男たち。ここまで瞬間的に振られるとは思っておらず、愕然とするジェイミー。そしてその後ろで絶望したような表情を浮かべるエッダ。


「こっ、……これでも、スタイルには自信あるんだけどなっ」


 谷間を強調する程度ではダメだったかと、スカートを少したくし上げて脚線美なども主張していく。その後ろで、自分の身体を見下ろしてしょんぼりとするエッダ。


「それは、その通りだが……」

「ずっとひとりだと、飽きがくるかも知れないわよ? 新しい刺激はい・か・が?」


 本命が無理なのは分かっていた。すかさず戦術目標を下方修正、愛人の座を狙いにいく。が、それでもケイは、ゆっくりと首を横に振った。


「飽きなんて、きそうにないな。俺はアイリーンに夢中だよ」


 真顔で言い切られると、流石に言葉に詰まる。そのままケイは、恥じらうアイリーンを抱きかかえて、これ見よがしにイチャイチャし始めた。


「ケッ、ケイ、恥ずかしいよ、みんな見てる……」

「構うもんか。アイリーンが居てくれれば、俺はそれでいい」

「もう、やだっケイったら……」


 絵に描いたような恋人たちの甘い空気、周囲の面々も「うへぇ」と既にお腹いっぱいの様子だ。


 ひたすらに羨ましそうな顔をしているエッダの横で、ジェイミーはがくりとテーブルに突っ伏する。


「う゛~入り込む隙がないじゃないのよぉ~」


 せっかく千載一遇の優良物件なのに、と歯噛みするジェイミー。周囲の男たちが「いい男なら他にもいるぞー!」と力こぶアピールをし始めるが、眼中にはない様子だった。


「――ええい、もう! 呑んでやる! 浴びるほど呑んでやるー!」


 ヤケクソになったか、「酒もってこーい!」とジェイミーは叫ぶ。しかし、大きな影がその首根っこを掴んで、そのままひょいと持ち上げた。


「なに言ってやがる、お前は酒を運ぶ側だろうが」


 乱闘にケリをつけたデリックであった。顔に飛び散った返り血を拭きつつ、晴れ晴れとした笑顔で、


「さっ、休憩は終わりだ。働くぞー馬車馬のようにな!」

「やっヤだーっ! わたしも楽しみたーいー!」

「はっはは、折角の書き入れ時だ、無駄にはできねえ」

「くっ……抜け出してやる、どうにかして抜け出してやるぅ」

「とりあえずお前は皿洗いだな。喜べ、たんまりとあるぞ」

「イヤ――――ッ!」


 肩に担がれたままジタバタと駄々をこねるジェイミーが、デリックに連れられて厨房へと消えていく。戦線離脱。いや脱落。

 まだ二口しか食べていないタルトの皿を手に、エッダがケイの右隣を占拠した。


「……ねえねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんもタルトたべる? おいしいよ?」

「お、美味しそうだな。頂こうか」


 無邪気に話しかけてきたエッダに、アイリーンとのイチャイチャを中断するケイ。幼い子供の前でやらかすのはよろしくない、という判断によるものか。ふっ、と口の端を歪めて視線を向けてくるエッダに、ぴくりとアイリーンの眉が跳ねる。


「はい、お兄ちゃん。あーん」

「……あ、ありがとう」


 エッダがピュアなスマイルで差し出してきたタルトに、「自分で食べられる」とは言い出せず、気恥ずかしげにかぶりつくケイ。


「ん、美味しいなコレ」

「でしょー?」


 モグモグと咀嚼して満足げなケイの傍ら、エッダはちらりと挑発的な笑みをアイリーンに向けた。


「…………」


 アイリーンもまた、微笑でそれを迎え撃つ。



 宴の夜は、まだまだこれからだった。




          †††




 翌朝。


 二日酔いの頭痛に悩まされつつも、重い体を引きずって、ケイは何とか起床する。


「うう……呑みすぎた……」

「あの程度でケイはだらしないな!」

「……そう言うアイリーンは元気だなー」


 昨夜はケイ共々遅くまで楽しんでいたにも関わらず、服を着ながら笑い飛ばすアイリーンには、全く疲れた様子がない。基礎体力というか、バイタリティというか、そういった根本的な部分では、アイリーンの方がよほどパワフルに見えるのは、気のせいだろうか。


 ケイとしては正直なところ、優勝して賞金も手に入ったのでしばらくはアイリーンと爛れた生活を送りたかったのだが、市民権取得の手続きのことを考えると、のんびりはしていられない。武闘大会の熱が冷めぬうちに――役所の人間にやる気があるうちに、早めに終わらせてしまう必要がある。



「……あら、おはよう……」


 食堂に降りると、死んだ魚のような眼をしたジェイミーが掃除をしていた。


「……おはよう」

「おっはよー」

「……うっ」


 既に何処となくやつれた感のあるジェイミーであったが、仲良く連れ立ってきたケイとアイリーンを見て、何故かさらにダメージを受けたらしい。箒を杖代わりにしつつ、眩暈に襲われたかのようによろめいている。


「……大丈夫か?」

「うぅ……大丈夫よ。大丈夫。何ともないわ……」

「そ、そうか……」


 昨晩は大酒を飲んだものの、ケイは酔っ払っても記憶はしっかりと残るタイプだ。当然ジェイミーの色仕掛けもバッチリ憶えているわけで――しかし当の本人は、どうやら無かったことにしたいらしい。ケイとしても異論は無かった。


 ゾンビのようなジェイミーに給仕してもらいつつ、フルーツやサンドイッチ、昨晩の宴会の残り物のスープなど、たっぷりと朝食を詰め込んだ。



 そしてその後、ケイたちは市民権取得の手続きに丸一日を費やす羽目になる。



 まず、武闘大会の優勝の賞状を携えて、街の東にある住民管理局に向かう。


 朝一番に出かけたので管理局は混み合ってはおらず、建物の中にもスムーズに入ることが出来た。そして賞状さえ提出すればすぐに身分証が――と淡い期待を抱いていたケイであったが、残念ながらというべきか、やはりというべきか、そんなことはなかった。


 ケイが申請するのは、ウルヴァーンの"名誉市民権"。『名誉』と接頭語がつくものの、その本質は基本的に普通の市民権と同じものだ。ただ、定められた手続きの仕方と管轄が、普通の申請と微妙に違う。

 武闘大会で優勝したという実績、税金の支払い能力、そして諸々の手続きにかかる費用の前払いなど、全ての条件は満たしていたが、肝心の役所の職員が『名誉市民の手続き』という特殊な業務に慣れていなかったため、さらに時間がかかることとなった。


 アイリーンと一緒に小一時間ばかし権利と義務について説明を聞き、あらかた書類にサインをし終わったところで、担当の職員が「とある特殊な書類の書式が分からない」と言い出した。規則の確認のために休憩を挟むこと数十分、待ちぼうけを食らった挙句に職員が引っさげてきたのは「普通の書類で代用可」という何とも気の抜ける答え。この書類にサインが終わると同時に、何故か業務の管轄が住民管理局の手を離れたらしく、ケイたちはそのまま市庁へと移動させられることとなった。


 この時点で、時刻は昼前。市庁の前には住民たちの長い列が出来上がっていた。それに並ぶことさらに数十分、ようやく窓口に辿り着いたところで、実は名誉市民の手続きには専用の窓口が用意されていたことが発覚。大人しく並んでいたのが全く無駄だったと分かり、事前の説明の無さにイラッとさせられることとなった。


 その後も、何枚もの書類に必要事項を記入したり、無犯罪証明書のために衛兵の詰め所に行かさせられたり、書類に不備が見つかったため住民管理局にとんぼ返りしたりと、ウルヴァーン市内中を歩き回る羽目になり、一応の全ての手続きが終わる頃には日が暮れようとしていた。


 それでもまだ、すぐに身分証が発行されるわけではなく、翌日から書類の審査が始まり、そこから面接や幾つかの手続きを経て、晴れて身分証が発行されることになる。名誉市民の場合、普通の手続きよりも優先して行われるので、遅くとも三日後には終わるだろう、という見込みだった。



「……というわけで今日は忙しかったよ」

「お役所仕事、というわけか。……災難だったな」


 "HangedBug"亭の酒場で夕食をとりつつ、ケイたちはマンデルに愚痴っていた。


 今夜の食事は、送別会を兼ねている。ケイたちとは別の宿に泊まるマンデルだったが、明日にはウルヴァーンを発つらしい。ちょうどホランドがサティナへと行商に出発するとのことで、ケイの紹介もあり、客人として同行することになったそうだ。


「ところでマンデル、仕官について何か話はなかったか?」

「ああ、あったよ。軍の方から弓兵部隊の、百人長の待遇でどうか、と話があった。……もっとも、断ったがね」

「あったのか。そして断ったのか、流石だな」

「ああ。一度軍属になったら簡単には辞められないし、ウルヴァーンに移り住む羽目になるからな。……おれには、狩人の方が性に合ってる」


 飄々と、肩をすくめるマンデル。


「もちろん、給金は魅力的だがね。……だが、それでも」

「タアフ村の方がいい、か」

「……ああ」

「実際、金だけでは必ずしも、楽しい暮らしができるわけじゃないもんな」


 もっしゃもっしゃとサラダを口に運びながら、アイリーン。


「そうだな。ここだけの話、俺もタアフの村とウルヴァーン、どちらが良いかと聞かれると……タアフだ。2日かそこらしか滞在しなかったが」


 感慨深げにケイは呟いた。森と草原の緑に囲まれた、小さな田舎村の景色が色鮮やかに蘇る。思えば、今現在はウルヴァーンで暮らしているケイとアイリーンではあるが、旅はあの村から始まったのだ。村の人々の顔を思い出す。――盗賊に報復を食らわない、という前提ではあるが、排他的なところのあるウルヴァーンよりは、まだタアフ村の方が居心地が良いだろうと、ケイには思えた。


「何だかんだで、あれは住みやすい村だよ。他の村より豊かだしな。ところで、そう言うケイの方こそどうなんだ? ……仕官の話は」

「一応、来た。マンデルと同じで軍から弓兵として迎えたい、と。ただ、百人長とかそういうポストの話はなかったな」

「む、そうか。……そいつはまた、変な話だ」

「ケイ、優勝してんのにな。ヒラかよ、とはオレも思った。差別かな?」


 自分のことのように不満げな様子で、アイリーンが眉をひそめる。ポストがどうであろうとケイが仕官することはないのだが、それでも不当に悪い扱いをされているのであれば気分的にいけ好かない。


「どうだろうな。経験の有無は、一応見られているかもしれないが。……おれは元々、軍で十人長にまで出世していたからな、その記録があったのかもしれない」

「そうだったのか」


 意外な話だ。マンデルが軍に籍を置いていたとは知らなかった。


 しかし、とケイは思う。タアフ村で盗賊の遺品を回収した際、凄惨な死体を目の当たりにしても、マンデルだけは取り乱すことがなかった。十年程前にあったらしい"戦役"なるものに、マンデルもまた身を投じていたのかもしれない。


「だが、それだけか? ケイ。……ケイほどの使い手であれば、もっと引く手数多だと思っていたんだが」

「ああ、個人的な手合いであれば、何人か声はかけられた。物好きな貴族の用心棒やら、隊商の護衛やら、あと東の辺境から来たっていう戦士には『うちの傭兵団クランに入らないか?』と誘われたな。今のところ全部断ってるが」

「ほう。……ちなみに、なんという傭兵団だった?」


 問われて、目を細めたケイは、思い出そうと虚空を睨む。


「……なんだっけ。アイリーン憶えてないか?」

「たしか……、"青銅の薔薇"だか何だか、そんな名前だった、と思う」

「"青銅の薔薇"か! あそこはかなりの大手だぞ、"戦役"では"巨人の翼"と並ぶ一大傭兵団として知られていた。……と言っても、ケイたちには分からないか」

「いや、何となく見当はつく。道理で断ったとき、やっこさんが驚いてたわけだ。有名だったんだな……」


 その後も、仕官や軍のこと、他愛の無い雑談や愚痴などをつらつらと話し合い、程よく酔っ払ったあたりで送別会はお開きとなった。マンデルは明日の朝は早いらしく、見送りも不要と言っていたので、これでしばらくのお別れだ。タアフ村の呪術師アンカやクローネン夫婦、サティナの街の矢職人モンタン一家によろしく伝えてもらうよう、ケイはマンデルに頼んでおいた。


(次はいつ会えることやら)


 自室でアイリーンと一緒にゴロゴロとしながら、ケイは思いを馳せる。


 そもそも今回の大会で、マンデルと再会したのが予想外のことだった。

 手軽な通信技術も、移動手段もないこの世界。次に相見あいまみえる機会があるとすれば、それは数ヵ月後か、一年後か、それとも――




          †††




 三日が過ぎた。


 ウルヴァーンの市長と面接したり、追加で書類を提出したり、色々と面倒なことはあったが、ついにケイの身分証が発行された。


 大きさは手の平サイズの長方形で、頑丈な羊皮紙で出来ている。ウルヴァーンの紋章の判が押された上に、びっしりと『ケイ』という人物の名誉市民としての権利が大仰な文言で書かれ、最後には市長のサインが書き込まれていた。裏側にはケイの本人確認のために人相書きと似顔絵、そして直筆でサインをする場所がある。


 このサインというのは、必ずしも読めるものである必要はなく、『他者にとって真似しづらいもの』であることが一番望ましい。色々と悩んだ結果、ストレートに『乃川圭一』と漢字で書くことにした。こちらの世界の住人にとって、ぱっと見での判読と模倣は非常に困難であろう。



「ようやく、この日が来たなアイリーン……」

「ああ。なんか、すっげー長い間待ってた気がする……」


 二人して遠い目をしながら、第一城壁に沿って歩いていく。


 図書館に行くために一級市街区に入ろうとして、門前払いを食らったのが一ヶ月前のことだ。もう一ヶ月が経った、というべきか、それともまだ一ヶ月というべきか。いずれにせよ、感慨深いものがある。


 懐に仕舞った身分証の存在を、どこか誇らしく思いながら、前回世話になった門番の所にまで辿り着いた。


「おお、アンタらか」

「大会の様子は見てたぞ。優勝おめでとう」


 こちらから声をかけるまでもなく、若い衛兵と年配の衛兵、それぞれが話しかけてきた。


「ありがとう、ありがとう。というわけで、市民権を取ってきたよ」


 懐から身分証を取り出し、年配の方に手渡した。兜の面頬を跳ね上げて、老眼なのか、身分証を遠く離しながら、一応目を通す衛兵。


「……うむ、ケイイチ=ノガワ、確かに本人だ。通ってよし」


 にこりと微笑んで、身分証を返してくる。


「あ、だがその身分証で通れるのは本人のみだぞ。そちらの娘は……」


 と、若い方の衛兵が口を挟んできた。



 そう、実際のところ、身分証の持ち主はケイであり、それはアイリーンには何ら効果を及ぼさない。



 つまりアイリーンには、門をくぐる権利がないのだ。



 が。



 ケイたちは慌てなかった。


(どれだけ時間をかけて、クソ面倒な手続きを乗り越えてきたと思っている……!)


 これは既に予想済み。そして、その対抗策も考えてあった。



 おもむろにアイリーンの肩を抱き、ケイははっきりと宣言した。




「――彼女は、俺の妻だ」




 妻帯者。身分証を保持する市民が家長であった場合、その妻がウルヴァーン市民でなかったとしても、一人までであれば速やかにこれに市民としての権利・義務を与える。


 つまりアイリーンがケイの妻であれば、彼女も同様の権利を有するのだ。


 ケイの宣言に、腕を絡めつつ、照れて頬を染めるアイリーン。


 これは、今回に限っては、門を抜けるための方便ではあるが――


(いつかちゃんと、式を挙げたいな)


 ケイは思う。まだ、アイリーンがこの世界に留まるとはっきり結論を出していない以上、ケイとしては待つしかないが、いずれ本式に結婚したいと。


(……しかし、『こちら』での結婚式って、どんな風にやるんだ?)


 ふと疑問に思う。この世界は、あらゆる元素の精霊が当然のように存在するが故に、逆に宗教的な発想が希薄になっている節がある。日本的な八百万の考え方に近いものがあるのだろうが、少なくとも結婚の形が『絶対神の前で誓う』タイプではないのは確かだ。


(……そうだ、ユーリアの水の精霊の神殿とかで、結婚式は挙げられるんじゃないか。こちらでも花嫁はドレスを着るんだろうか……)


 アイリーンのウェディングドレス姿を想像して、思わず頬を緩めるケイ。



 頬に手を当てていやんいやんと照れるアイリーンに、未来の花嫁姿を想像してニヤニヤするケイ。微笑ましいのか、あるいは鬱陶しいのか――いずれにせよ、他者をうんざりさせるだけの桃色空間がそこにはあった。



 目元を隠す兜の下、若い衛兵は憮然とした表情で、年配の方は苦笑している。


「――まあ、分かった。確かに規則に則れば、その娘が妻である場合、彼女は君と同様の権利を保持する」


 年配の衛兵の言葉に、ケイとアイリーンは満足げに頷いた。



 これで、ようやく、本当にようやく、面倒な手続きから解放される――



「というわけで、」



 すっと、手を差し出す年配の衛兵。握手か? と勘違いしたケイは思わず握り返しそうになるが、そこで彼は衝撃的な一言。



「"婚姻証明書"を見せてもらおう」




「…………」




 ケイは吠えた。


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