30. 受難


 小鳥のさえずりが聴こえる。


 窓から差し込む朝日に、ケイはぼんやりと目を覚ました。


 朝か昼かも分からない曖昧な意識、寝起き特有の倦怠感。なぜか左腕が痺れていて、ほとんど感覚がなかった。夢うつつのまま寝返りを打とうとしたところで、何かが半身に抱きついていることに気付く。


 とても柔らかく、温かなもの――。


 寝ぼけ眼でそちらを見やると、きらきら輝く青い瞳。ケイの左腕に頭を預けたまま、微笑むアイリーンとぱっちり目が合った。


「……おはよ」


 微かに頬を紅く染め、照れたように視線を逸らす。はにかむ彼女を見て、昨夜のことが色鮮やかに脳裏に蘇った。ああ、そうか、自分たちは結ばれたのだ――と。そんな想いが、すとんと胸に落ちる。


「……おはよう」


 無意識のうちに、ケイもまた口元を綻ばせていた。シーツから覗く肌色、裸の肩の上、ほどかれた金髪がさらりと流れる。吸い寄せられるように、半ば衝動的に、アイリーンの頬にそっと手を添えた。同じ人間でも、男女でこれほど違いが出るものか、と――指先に伝わるなめらかな感触に陶然とする。


 心地よさそうに目を細めるアイリーンを見て、ふと芽生えた悪戯心のままに、背中から脇にかけてのラインを指でなぞった。くすぐったそうに身をよじらせたアイリーンは、甘い声を洩らしながら、お返しとばかりにケイの上に覆いかぶさってくる。



 ――そのまましばらくじゃれ合っていたが、既に日は高く、空腹と喉の渇きもあったため、いい加減に起き上がることにした。


「ところで、大丈夫か?」


 麻のシャツを羽織りながら、ケイ。ベッドの上で髪をまとめようとしていたアイリーンが、髪留めの紐を口に咥えたまま小首を傾げる。


ふぁふぃふぁなにが?」

「その……身体の調子とか」

「うん、悪くはないな」


 どこか含みのあるケイとは対照的に、至極あっけらかんとした様子のアイリーン。


「……そうか、ならよかった」


 互いに経験のなかった者同士、色々と心配していたが、どうやら杞憂であったらしい。半ば拍子抜けした気分で、しかしほっと一安心しながら、ケイは微笑んだ。


 髪を結い上げてポニーテールにし、ベッドの上でしなやかに背伸びをするアイリーン。一糸まとわぬ姿、という点を除けば、まさしくいつも通りの彼女だった。


 不意に――


 目の前のアイリーンも、その存在すらも、に来てからの全てのことは幻ではないか――と、そんな漠然とした不安に駆られた。


 実は自分は、今も生命維持槽に浮いたままで、知りもしない少女や健康な身体を夢見ているだけなのではないか、と。


 無論、それはただの錯覚だ。


 もしそうだったら怖いな、という子供じみた根拠のない恐れ。そういえば幼い頃は、目を覚ませば独りきりになっているのではないか、と不安でなかなか寝付けなかったことを思い出す。


 今までどちらかといえば、マイナスを基準に浮き沈みするような人生だった。そのため魂まで染みついた仄暗い考えが、時たま顔を出してしまうらしい。あるいは、それは現実感を失ってしまうほどに、今のケイが幸せである証左なのかも知れないが――。


「……うん? どうした、ケイ」


 一瞬、遠い目をしたケイに、するりとシーツから抜け出したアイリーンが顔を覗き込んでくる。吸い込まれるようなサファイア色の瞳の中に、どこか心配げな光を認めた。


「いや、」


 思わず、すがるようにして手を伸ばし、その肩を抱きとめる。目をぱちくりとさせながらも、アイリーンは何も言わないまま、されるがまま。


「……どうしたの?」


 やがて、腕の中から、ケイを見上げる。


 何でもない、と答えようとして、やめた。


「急に不安になったんだ。何もかも夢なんじゃないか、って」


 体を離してそう言うと、眉を下げたアイリーンは、ケイの背中に手を回し逆にその身を引き寄せる。


「オレも」


 こつん、とケイの胸板に額を当てて、くぐもったアイリーンの声。


「オレも、たまに不安になるよ」

「……そっか」


 再び、抱き締める。感触を確め合うように。


 それは、雪山で遭難した旅人たちが、互いの体温を分かち合うのに似ていた。


「……ありがとう。もう大丈夫だ」


 やがて、ケイの方から体を引き離す。少しの名残惜しさと、冷静になって省みる気恥ずかしさと、傍にいてくれる人への感謝と――。それらが綯い交ぜになった末に、選び取ったのは、頬をかきながら視線を逸らすことだった。気まずいときや恥ずかしいとき、斜め上へと目を泳がせるのは、本人も気付いていない癖。


「……うん」


 それを見て取ったアイリーンは、ただ、にこりと微笑んだ。素直なようでそうでもない、そんな彼のことを愛おしく思いながら――


 しかし次の瞬間、眉をひそめたかと思うと、「へッきゅ」と控え目にくしゃみをする。


「おっと、その格好じゃ風邪引くぞ」


 今日は初夏にしては肌寒い日だ。慌ててシーツを引っ張ってくるケイに、「そうだな」と笑うアイリーン。自然と、ふたりだけの世界は霧散してしまったが、しんみりとした空気もまた、消え去っていった。


「……ところでアイリーン、今って何時頃なんだ?」

「さあ?」


 財布の中身を確認するケイの傍ら、服を着るアイリーンは動きを止めて、小さく首を傾げる。


「オレが目を覚ましたときは、鐘が九つくらい鳴ってた。……けどもう1時間は経ってるよなぁ」

「3時間ごとに鳴らすんじゃないか? この街は」

「あー。なるほど」


 木製の戸を開け放ち、太陽の位置を確認するアイリーン。


「……11時過ぎってトコか」

「まあ、そのくらいだろう」


 麻のシャツに綿のズボン、今日は肌寒いのでその上に革のロングベストを着込み、腰には"竜鱗通し"を収めた弓ケース、というお馴染みの街中スタイルで、ケイは手の中の部屋鍵をピンッと弾いた。

 対するアイリーンは"NINJA"の黒装束で足元を固め、チュニックと革のベストといういつもの旅装で決めている。腰にはサティナで新調した短剣を差しており、サーベルや投げナイフなどの武装は、今は部屋の鍵付き木箱チェストの中だ。


「よし、顔洗ってから飯にしよう」


 入念に戸締りを確認し、部屋を出る。


「……しかし、はっきり時間が分からないのって、思ったよりストレスだよなぁ」


 階段を降りながら、ぼやくのはアイリーンだ。特に用事があるわけではないのだが、正確な時刻が知りたいと思ってしまうのは、やはり現代人の性だろうか。


「別に時間に追われてるわけではないが、気になるな」

「うん。時計欲しい……時計……」


 ぶつぶつと呟くアイリーンに、どうにも苦笑を禁じ得ない。



 技術水準が比較的高い【DEMONDAL】世界には、当然のように時計が存在する。時計塔のような大型のものに始まり、機械式の懐中時計は勿論のこと、時刻を表示する魔道具までその形態は様々だ。


 しかしケイもアイリーンも、ゲーム内では一度たりとも時計を使ったことはなかった。


 理由は単純、ゲーム内でいつでも呼び出せるメニュー画面に、常に時刻が表示されていたからだ。現実における時間と、ゲーム内の時間の両方。プレイヤーがアイテムとしての時計を必要とするのは非常に稀で、基本的にロールプレイのためのコスプレ用品か、あるいはNPCに対する贈り物としてのみ機能していた。


 そう、機械式にせよ魔術式にせよ、時計は非常に高価だったが、一応それなりに需要もあったのだ。プレイヤーは殆ど必要としない時計を、逆にNPCたちは非常に有難がっており、プレゼントした場合の親密度の上昇は下級のお使いクエスト数百回分に匹敵するという。


 キャラ育成の手間が省ける、上級者向けのアイテム。重課金戦士にして廃プレイヤーたるケイも度々世話になっていたが、「そうでもなきゃ使わねえだろこんなもん」とアンドレイが笑っていたことを思い出し、どうにも皮肉な笑みを抑えられなかった。



「時計か……どうにかして自作できないものか」


 宿屋の中庭、バシャバシャと顔を洗いながら、ケイ。ホランドに頼むにしても、時計を買うとなればかなりの出費を強いられることになる。自作できるのであればそれに越したことはないのだが――と、腰のベルトに引っかけていたタオルで顔を拭きつつ、ちらりとアイリーンに期待の眼差しを向けた。


「……難しいな」


 対して、腕組みをするアイリーンは、渋い顔だ。


「魔術式でも、やっぱり厳しいか?」

「いくつか問題がある。まず、詳しい作り方が分からない。次に、触媒が貴重で手に入り辛い。最後に、仮に作れたとしても、ケルスティンを使役する限り多分夜しか使えない」

「……うーむ」

「実際のところ、作り方は術式付与の応用でなんとかなると思う。『こっち』だとケルスティンも融通が効くからガッツリ呪文スクリプト組まなくていいし、触媒も運が良ければ見つかるかもしれないな。……でも、」

「日が暮れたあとしか使えない、ってのは、確かに痛いな」


 あるいは、夜番の為だけのものと割り切れば、需要はあるかもしれないが。


「っつか、シーヴの方がいいんじゃね? 中位精霊だし」

「呪文の方は大体見当がつくが、風の精霊の時計ってのがイマイチ想像できないんだよな……。それに俺の場合だと、おそらく魔力が足りん」

「……時計作りで枯死ってのも、笑えない話だな」


 悟ったような顔のケイに、苦笑するアイリーン。結局、お金を溜めてから何かしらの時計を買った方が早い、という結論に達した。




 アイリーンはしばし御手洗いに行くとのことで、先に一階の食堂へ。厨房で仕込みでもしているのだろう、タマネギ系のスープの濃厚な香りが鼻腔をくすぐる。丸テーブルの並ぶそこは、中途半端な時間帯ということもあり、人影もまばらだった。


「あら、こんにちは。お食事?」


 食堂に足を踏み入れると、布巾でテーブルを拭いていた若い女が愛想良く尋ねてきた。昨日ケイたちを出迎えた、小麦色の肌の美人だ。奥のカウンターには、黙々と樽から壺に酒を移しているドワーフっぽい男。どうやら酒場は、主にこの二人で回しているらしい。


「ああ。昼食として簡単に食べられる物を二人分、あと水も頼む」

「簡単に、ね。チーズとハムのパニーニでいいかしら?」

「うむ。それで」

「OK、ちょっと待っててね」


 テーブルに着きながらオーダーすると、ぱちりとウィンクして奥へと引っ込んだ女は、すぐに陶器のピッチャーと木製のゴブレットを手に戻ってくる。


「はい、どーぞ」

「ありがとう」


 水の注がれたゴブレットを手渡され、礼を言いつつ喉の渇きを癒す。一度杯を空けて、ピッチャーから水を注ぎ足しながら水分補給するケイを見て、むふっと何やら意味深な笑みを浮かべた女は、


「昨夜はお楽しみだったみたいね」

「んぶゥ」


 ケイは鼻から水を噴き出した。


「ばっ、なにをっ」

「ナニをって、ねえ。ここ床板薄いから」


 むせるケイをよそに、眼前、テーブルに肘をついた女はずいと体を寄せてくる。


「ね、ね、お兄さん。あの金髪の娘とはどんな風に出会ったの? 草原の民と雪原の民のカップルだなんて、なんだかとってもロマンチック」


 うっとりとした表情、きらきらと好奇心に輝く瞳で顔を覗き込んでくる。しばらく咳き込んで、不意打ちからどうにか立ち直ったケイは、取り敢えず椅子ごと身を引いて距離を取った。


 ゲーム時代に関わる話題は、今のところ最も突っ込まれたくない部分のひとつだ。アイリーンと話し合って、早急にそれらの『設定』を構築するべきかも知れないな、などと考えつつ、当座を凌ぐ為に口を開く。


「……別に、どうということはない。数年前にとある町の酒場で知り合って、それ以来の仲だ」

「ふぅ~~~ん」


 ニマニマと笑いながら指先でテーブルをなぞる動きは、まるで次の一手を考えるチェスのプレイヤーのようだった。


「ねぇ、それってどこの酒場?」

「ここから遥か彼方、遠く離れたところさ」

「……そう。ところで、雪原の民のお姫様を連れた草原の民の狩人が、南の村で"大熊グランドゥルス"を仕留めた、って噂を小耳に挟んだんだけど。何か知らない?」

「……さあな」


 耳の早いことで、と思いつつ投げやりに返す。ケイのやる気のなさが伝わったのか、「むっ」と表情を曇らせた女は、続いてさらに問いかけようとするが、


「ジェイミー、いい加減にせんかッ!」


 だみ声とともに、スパァンッと小気味よい音が響く。「いびゃッ!」と色気もへったくれもない声を上げて、女が飛び上がった。


「痛ァッ何すんのよ!」

「何すんのもクソもあるかッ! 男漁りに精出す暇があるなら仕事をせんかッこのアバズレがッ!」


 涙目で尻をさする女――『ジェイミー』に対し、いつの間にかカウンターから出てきていたドワーフ風男が、手にしたトレイを振り上げて怒鳴る。どうやらアレで尻をはたいたらしい。


「お客さんと親睦を深めてるだけなんですけど!」

「やかましい! グダグダ抜かすんなら娼館に売り飛ばすぞッ!」

「ひぇぇごめんなさーい!」


 口答えを試みるも、ドワーフ風男の剣幕に脱兎の如く逃げ出すジェイミー。スカートをパタパタとはためかせながら、カウンターの奥の厨房へ引っ込んでいく。


「ふぅ……」


 溜息を一つ、今度はぎょろりとケイを見下ろす。すわとばっちりかと顔を引き攣らせるケイであったが、「ほれ」とドワーフ風男は左手に持っていた皿を無造作にテーブルに置いただけだった。


 皿の上、パニーニの生地の隙間から、蕩けたチーズがはみ出る。


「まったく、アイツは……目を離せば無駄話にうつつを抜かしやがる」

「……なに、客商売にはぴったりじゃないか」

「確かにその通りだが、愛想が良過ぎてもいけねえや。アイツは器量だけはいいからな。たまに勘違いする野郎が出てくんのさ……この間も一人……勿論ブッ飛ばしたが……」


 何を思い出しているのか、虚空を睨んで、まるで野犬が威嚇するように歯を剥き出しにして唸る男。


「そ、それにしても、娼館に売り飛ばすってのは穏やかじゃないな」


 おっかない雰囲気に引きながらのケイの言葉に、男は鼻を鳴らした。


「ふン。引き取った頃はなァ、まだ小さくて可愛げもあったもんだ。だがここんトコは色気づいてきていけねえ、無駄に身体ばかりデカくなりやがって、まったく……」


 自分の腰あたりの高さを示しながら、嘆いてみせる。引き取った――と言うからには、血のつながりがあるわけではないのだろう。しかし憎々しげな口調とは裏腹に、その表情は哀愁と優しさが入り混じったようなもので、ケイにはまさしく年頃の娘を持て余す父親のそれに見えた。


「……まあいい。ご注文は以上で?」

「ああ」

「銅貨8枚」


 ぶっきらぼうな口調に戻る男。テーブルに銅貨を束ねて置くと、「毎度」とそれらを無造作に前掛けのポケットに突っ込み、のそのそとカウンターへ引っ込んでいった。ぎこちなく、足を引きずるような歩き方――。


「よっと、お待たせー。これ何?」


 入れ違いに、アイリーンが食堂に入ってくる。


「ハムとチーズのパニーニだそうだ。今来たばかりだからまだアツアツだぞ」

「いいな! 食べよう食べよう」


 いそいそとテーブルに着くアイリーン。「イタダキマース」と嬉しそうにパニーニに齧りつくアイリーンを見ながら、早目の昼食と洒落込んだ。




          †††




 昼食後、身支度を整えた二人は、公都図書館のある高級市街区を目指して、街の中心部へと向かっていた。


 ケイとアイリーンがウルヴァーンを訪れた理由は、二人が『こちら』の世界に転移した原因を探ること。


 すなわち、ゲーム内に発生した謎の白い霧や、その他の超常現象にまつわる情報を公都図書館で収集することにある。


「問題は入館料がいくらになるか、だな」

「……ああ」


 頭の後ろで腕を組んで歩くアイリーンの言葉に、懐の財布のずっしりとした重みを感じながら、ケイは頷いた。


 公都図書館は、表向きは、貴賎の関わりなく誰に対しても開放されている。が、その代わり入館料がかなり高めに設定されており、実質的に利用できるのは貴族や裕福な商人、知識階層などに限定されているのだ。


 世知辛い話だが、これは必ずしも悪いことではなく、裏を返せば利用者の質が一様に高いことを示す。また話によると図書館は、そういった知識階層の社交場サロンとしても機能しているらしい。


 貴族はさておくとしても、学者や商人などの存在は、ケイにとってもかなり魅力的だ。そういった知識人に接触を図れば、より効率良く情報を収集できるのではないか――とケイは期待している。


 さて、となれば一番の問題は、やはり馬鹿高いと噂の入館料だ。具体的にいくらかかるのか――ウルヴァーンの住民たちに聞き込みを試みたが、そもそも一般人は図書館にさほど興味を抱いておらず、入館料がいくらなのかを具体的に知る者はいなかった。


 というわけで、今回ケイは、手持ちの現金を全て持ってきている。金貨一枚に、銀貨が数十枚。粗食に甘んじれば、大の大人が十年は食い繋げられる額だ。


「流石に、これだけあれば足りると思うんだがな……」


 不安げに呟きながらも、つい周囲の通行人へ必要以上に警戒の目を向けてしまうケイ。全財産を持ち歩いているのはいつものことだが、今は街中ゆえに武装を解除しており、どことなく心細い。


 財があれば襲われる前提、襲われれば武力で制圧する前提で思考が回るあたり、ケイも大分この世界に馴染んできている。おっかない雰囲気を漂わせるケイに、逆に通行人の方が足を速めて、逃げる様にその場から去っていく始末だった。


「ケイ……もうちょっとリラックスしろよ、それじゃ逆に怪しいぜ」

「むっ。普通にしてるつもりだったんだが」


 臨戦モードに突入しつつあるケイを、呆れ顔で諌めるアイリーン。全く自覚のない様子を見て(重症だな……)という思いを強くするが、ここ二週間の経験を振り返り、それもやむを得ないことかも知れないと思い直した。


(平和ボケするよりマシか……)


 むしろアイリーン自身が、街中だからという理由で気が緩みつつあったことを自覚し、改めて気を引き締める。



 そんなこんなで、無駄に切れたナイフのような空気を纏う二人であったが、公都の中心で真昼間から暴漢が出現するはずもなく、そのまま高級市街への入り口である第一城壁に辿り着いた。


 ぐるりと市街を取り囲む、分厚い強固な城壁。城門から垣間見える、一般市街よりも洗練された石と煉瓦の街並み。壁の高さは六メートルほどだが、ウルヴァーンは岩山の斜面に築かれているので、下方に位置するケイたちからは体感的にもっと高く感じられた。


 五十メートルごとに間隔をおいて設けられた城門には、もれなく落とし格子と鋲打ちされた木製の大扉が備え付けられ、斧槍ハルバード細剣レイピアで武装した衛兵が二人ずつ、城壁の外を行き交う市井の民に鋭い視線を向けている。


 大勢の人々で賑わう一般区に対し、城壁の近くは、まるで波が引いたかのように閑散としていた。近寄る者がいない――というべきか、城門を抜ける者も殆ど見受けられず、城壁を隔てた向こう側には、まるで別の世界が広がっているかのようだ。それを奇妙に思いつつも、ケイたちが城門をくぐり抜けようとすると、


「止まれ」


 両脇の衛兵が斧槍を交差させて行く手を遮った。


 目を引く赤色の衣の上に金属製の胸当てを装備し、派手な羽根飾りのついた兜は、面頬が仮面のように目元を覆い隠す造りになっている。その奥から覗く瞳が、威圧的にケイたちを見据えた。


「見慣れぬ者だな」

「一級市街区へ、如何なる用か」


 訝しむ様子を隠しもしない、何処となく傲岸な態度。怪しまれる覚えのないケイとアイリーンは、きょとんとして顔を見合わせる。


「……図書館に行こうとしているだけなんだが」

「ふむ、」


 ケイの顔、アイリーンの顔、ケイの弓ケース、アイリーンが腰に差す短剣、といった風に視線を動かした衛兵は、おもむろに口を開いた。


「――許可証、あるいは身分証を提示せよ」

「「えっ」」


 同時に困惑の声を上げたケイたちは、再び顔を見合わせる。


「図書館に行くのに、身分証が必要なのか?」

「一級市街区に入れるのは、市民及び許可を得た者に限られる」

「マジか……」

「また、仮に身分証があったところで、特別な許可なしに武装を内側に持ち込むことは、まかりならんぞ」


 事務的に、そして有無を言わせぬ口調で、交互に説明する衛兵二人組。まさか、図書館に入る前に足止めを食らうとは想定外だった。「えー……」と硬直したままのケイとアイリーンに、衛兵たちは呆れた様子で姿勢を崩す。


「……そもそも、草原の民と雪原の民が、公都図書館に何の用がある」

「先住民と辺境の蛮族に、文字を読む風習があったこと自体が驚きだな。それにしても、城門をくぐり抜けたところで、お前たちに入館料は払えるのか?」


 片方の年配の衛兵は疑念を滲ませる声で、もう片方の若い衛兵は嘲るような口調で。困ったように、表情を曇らせたケイは、おもむろに片手を懐に突っ込んだ。


「図書館の入館料ってのは具体的に幾らなんだ? 聞いて回ったんだが、知ってる人がいなくてな」

「年間、銀貨五十枚だ」


 ケイの問いかけに、「どうだ払えまい」とばかりに胸を張る若年の衛兵。兜のせいで口元しか見えていないが、ドヤ顔をしているのが手に取るように分かった。


「成る程……」


 懐からもったいぶって財布を抜き出し、わざとらしく中身を確認する。


「払えない額じゃないな」


 大きく膨れた巾着袋、その口から覗く金と銀の色に、二人の衛兵が動きを止めた。ふふん、と二人の反応を堪能してから、ゆっくりと見せつけるように、再び財布を懐に仕舞い込む。


「……。見かけによらんもんだ」


 やがて、ぼそりと年配の衛兵が呟いた。彼らが意表を突かれるのも無理はない、日本で言うならば、みすぼらしい身なりの若者がいきなり懐から数百万円の札束を取り出したようなものだ。


 現状、ケイもアイリーンも服飾には全く金をかけていない。ケイの方は飾り気のない肌着と、防具としても機能する革のロングベスト。アイリーンに至ってはタアフ村で譲り受けたお古の農村娘スタイルだ。せめてケイが革鎧を含むフル装備であれば話は別なのだが、この状態では貧乏人と見られてしまっても致し方ない。


「……まあ、金があるのは分かった。が、それと城門を抜けることとは、別問題だ」


 呆気に取られた状態から再起動を果たした若い衛兵が、やや憮然とした様子で言い切った。袖の下でも要求されれば――と考えていたケイは、己の考えが甘いことを悟る。


「なあ、身分証とか許可証ってのは、どうやったら取れるんだ? 要は素性の分からない奴は入れられない、ってことなんだろ?」


 その時、静観していたアイリーンが、衛兵二人に無邪気に問いかけた。


「……許可に関しては、我々の関知するところではない。役所に行くことだな」


 先に答えたのは、年配の衛兵。


「役所ってーのは何処に?」

「城壁に沿って南に行けばいい。ここからだと歩いて十分もかからないだろう。赤煉瓦の建物で、おそらく入口に人が並んでるから、見ればすぐに分かる筈だ」

「分かったよ、ありがとうオッちゃん!」

「……なぁに、いいってことよ」


 アイリーンの特上の笑顔を向けられて、年甲斐もなく照れた風の衛兵。美人は得だな、などと他人事のように思いつつ、ケイも礼を言ってから、その場を辞した。


「……で、どうする?」


 しばらく歩き、衛兵たちから離れたところで、ボソリとアイリーン。


「……まあ、行ってみるしかないだろう」

「だな。それにしても証明書がいるだなんて聞いてないぜ……」

「誰か教えてくれてもよさそうなもんだが」

「……ホントに必要なのか? もしかしてオレたち、体よく追い払われた?」

「その可能性も否定できんが……」


 聞き込みを試みたここの住人は勿論のこと、ホランドら隊商の面々にも、ウルヴァーンを訪れた目的が図書館であることは話している。にも拘らず、高級市街に入るために許可証が必要であることは、誰一人として口にしなかった。


「……しかしいきなり騙そうとするもんかな」

「怪しいと思われたのか、……単純に性格が悪いのかも知れないぜ? ここの連中、なんつーか余所者に冷たいカンジがする」


 少し、ふてくされたように頬を膨らませて、アイリーンが言う。それに対しケイは唸るのみで、口には出さなかったが、それは無言のうちの肯定だった。


 先ほどの衛兵の若い方もそうだが、ウルヴァーン市民は、どことなく余所者を見下している感がある。聞き込みの際も、ケイたちとは殆ど目を合わせず、返答も投げやりでぶっきらぼうだった。公都の民であるという自尊心からなのか、はたまた単純に排他的なだけなのか。サティナに於いても、"戦役"の記憶から、草原の民を毛嫌いしている住人は度々見かけられたが、ここはそれに輪をかけて酷いという印象だ。


 例外的に、余所者と接することが多い宿屋の従業員や、客商売に関わる商人は一様に愛想がいい。が、裏を返せば、それ以外は――


「――あんまり、居心地の良い街じゃなさそうだな」

「オレたちには、な」


 ふぅ、と溜息をつくアイリーン。随分とブルーな様子だ。ひょっとすると、生まれで差別されるのに慣れていないのかもしれないな、とケイはふと、そんなことを思った。




 あまり愉快でないお喋りに興じているうちに、衛兵の言っていた役所に辿り着く。


 木造と石造の建築物が混在する中、赤煉瓦で統一された役所は特に目立っていた。入口付近には衛兵が立っており、扉の上には小さなウルヴァーンの旗が翻っている。赤地に竜の紋章――煉瓦然り、衛兵の装備然り、この色はウルヴァーンの象徴なのかもしれない。


 入口からはみ出る形で、そこには十数人の市民が列を為していた。彼らに奇異の目を向けられながらも、最後尾に並ぶ。


 そして待つ。


「…………」


 ただ、待つ。


(……。暇だ)


 このとき、二人の見解は一致していた。


 当たり前だが、このような事態は想定していなかったので、暇潰しになるような物は何も持ってきておらず。


 かといってすぐ近くには他人がいるので、踏み入った話もし辛い。


『――よし、精霊語エスペラントで話そう』

『いいな!』


 切り出したケイに、アイリーンは一も二もなく乗ってきた。


『……で、何の話?』

『まあ、図書館について、かな』


 突如として謎の言語での応酬を始めたケイたちに、周囲はさらに奇異の目を向けたが、二人とも気付かない。


『実際のところ、オレ、あのくらいの壁なら越えられるぜ?』


 顎で第一城壁を示しながら、アイリーン。高くそびえ立つ、白塗りで凹凸もない壁だが――ゲーム時代のアンドレイの能力を思い出し、ケイはさもありなんと頷いた。アイリーンは今でも鉤爪付きのロープを持っている筈だ。


『それは最終手段だな』

『ダメか?』

『悪くないが、俺も入りたいしな』

『上からロープを垂らせばイケるんじゃね?』

『夜なら大丈夫か? しかし、図書館が開くまでかなり待たないと……』

『うーん……そうだな。オレだけならいいケド、明るくなったあと、ケイが何処に隠れるかが問題だ……』


 英語よりも貧弱な語彙を互いにもどかしく思いながら、ああだこうだと侵入計画について話し合う。そのお蔭で待ち時間もあっという間に過ぎ、三十分ほど待ってから、ケイたちの番となった。


「……次ー」


 役所の中に入ると、区分けされた幾つかの受付のうち、疲れた様子の痩せぎすな男がケイたちを呼んだ。


 粗末な腰かけが一つしかない受付。取り敢えずアイリーンを座らせ、ケイはその横に立つことにする。受付の男は胡散臭げに、じろじろと不躾な視線を向けてきた。


「……用件は?」

「図書館に行きたいんだが、身分証も許可証もないので一級市街区に入れない。証明書取得の為に詳しい情報が欲しい」

「……」


 コツコツ、と指先で机を叩く男。


「ということは、公国内で有効な身分証の類はない、と?」

「ない」

「そうか。ならばそれはウチの管轄じゃない。住民管理局に行け」

「「えっ」」

「ここは市庁、市民の為の役所だ。異邦人よそものに対しては業務を行う権利も義務もなくてな。……というわけで、次ー」

「いや、ちょっと待ってくれ。その住民管理局ってのは何処にあるんだ?」


 話を打ち切られそうになったところで、慌ててアイリーンが話に割り込む。


「……城壁沿いに東へ行けば、ウチと似たような建物がある。まあ、分からなければ付近の住民に聞くことだ。」

「どんくらい歩けばいい?」

「……十分もせずに着くだろう。さほど遠くはない」

「一級市街区に入るのに身分証がいる、ってのは確かなんだよな?」

「……ああ、戦時を除いて、規則は皆に平等だ。例えそれが王であったとしても」

「へえ。ところで、身分証取るのに何か注意しておく事とか――」


「おいッいい加減にしろテメェらッッ!!」


 続けてアイリーンが問いかけようとしたところで、背後から怒鳴り声。振り返る間もなくドスドスと足音が近づいてきて、ケイもアイリーンも乱暴に押しのけられた。


 ゴツい体格をした、中年の男。アイリーンの代わりにどっかと椅子に腰を下ろし、ギロリとこちらを睨みつける。


「人様を待たせておいて、いつまでも喋ってんじゃねえぞ! ここは市民の為の場所だ、余所者はお呼びじゃねえ! とっとと出て行けッこの蛮族どもが!」


 言うだけ言って、中年男はアイリーンに向かってペッと唾を吐き捨てた。反射的に飛び退り、すんでのところでそれを回避したアイリーンであったが、「こンのッ……!」と眉を吊り上げて逆に睨み返す。


「……なんだその目は。あァ?」


 それが気に食わなかったのか、椅子を蹴倒してやおらアイリーンに手を伸ばす中年。しかし、一歩前に進み出たケイが、その手首をがっしりと掴んで放さない。今度は中年の視線がケイに向く。


「なんだ? テメェ、やんのかコラ」


 手を振りほどきながら、挑発的に語気を荒げる中年。ケイよりも少しだけ背が低いが、その代わりに恰幅が良い。この腕の筋肉の付き方――肉体労働者のそれだ。おそらく、腕っ節にそれなりの自信があるのだろう。


 が、ケイはそれに構うことなく、黙って壁を顎でしゃくって見せる。


 受付の真横に、大きな張り紙がしてあった。そこにでかでかと書かれているのは――


「――『諍い事 厳禁』、だそうだ。張り紙も読めないのか?」


 ケイの冷めた言葉に、張り紙へ目をやった中年は、「ぐっ、ぬっ」と言葉にならない呻き声をあげて一、二歩下がった。


 しばし、張り紙とケイの間で何度も視線を往復させては、何かを言おうと口をパクパクと動かす中年。しかし、幾ら待っても何も言わないので、突発的に言語障害でも発現したのかと疑い始めたところで、


「……読めないんじゃね?」


 ボソリと、アイリーン。


「……ああ、」


 それで、ケイも合点がいった。


「本当に読めないのか。なら仕方ないな……」


 確かに『こちら』の世界は、中世のヨーロッパよりは豊かで、技術も遥かに進んでいる。が、だからといって、識字率が百パーセントというわけではない。特に平民であれば、文字が読めない者も一定数いることだろう。


 納得してうんうんと頷くケイを前に、中年男は顔を真っ赤にしてぷるぷる震えている。


「俺としては、単に『目に入っていないのか』ぐらいの意味だったんだが……」

「もういいよ、行こうぜ。し、時間の無駄だ」

「それもそうだな。というわけで、失礼した。では」


 受付の男に目礼し、これ以上トラブルが大きくなる前に、とケイたちは足早に役所を出ていく。


 男は拳を握りしめたまま、その場でいつまでもぷるぷると震えていた。




          †††




 その後、城壁沿いに歩き、"住民管理局"なる場所に向かったケイたちは、再び列に並んで一時間ほど待ち、異民族向けの許可証の取り方を問い合わせた。


 が。


 結果として分かったのは、許可証にせよ身分証にせよ、現時点での取得は非常に難しいということだった。



 まず、許可証。これは主に、一級市街区で働く使用人や業者の人間に与えられるもので、発行権は王を含む貴族位に属している。


 つまり、許可証が欲しければ貴族に頼むしかない。


 そして当たり前だが、ケイたちに貴族のツテはない。現段階では実質的に不可能な方策といえた。


 あるいは、これからケイたちが自分たちを貴族に売り込み、士官するなり私兵になるなりして取り入ることは可能かもしれないが、時間がかかる上に確実性はない。また、これまでの道中で散々アイリーンがその美貌を『買われ』そうになっていたことも考えると、ケイ個人の感情としては、余り試したくない方針だ。何が起きるか分からない。



 では、翻って身分証はどうか。



 身分証とは基本的に、都市ごとに発行されるもので、これの獲得は即ち市民権の取得と同義だ。身分証が発行された時点で、行政上の一個人としての権利が保証されるが、代わりに納税やその他義務も発生する。例えば、ウルヴァーン市内で露店を開きたいならば、市民権が必須であり、売り上げのうち数パーセントを租税とはまた別に納めなければならない。


 さて、その市民権の獲得方法だが、――これがまた複雑であった。少なくとも、法律や不動産関係の語彙に限界のあるケイが、途中で理解を放棄したくなる程度に。


 ウルヴァーンにおける、市民権獲得の条件を大まかにまとめると、


・会話可能な英語力、税制を理解するに足る教養、最低限の読み書きの素養

(これは異民族に対する規則)


・向こう一年間は、ウルヴァーンの都市圏内に住居が確保できていることの証明

(家屋の権利書、借家の賃貸契約書、居候の場合は大家の認可書がこれにあたる。ただし、宿屋は除くものとする。また野宿も認められない)


・三年間分の租税の前払い、あるいは四年以上のウルヴァーン市への士官経験

(士官経験として、貴族の私兵や傭兵の場合は、雇用主の証書が必須)


・公国内において犯罪歴がないこと

(一部の衛兵の詰め所で、無犯罪証明書が発行可能。足が付いたレベルの犯罪者ならば、この段階で弾かれる)


・五人以上のウルヴァーン市民の推薦状

(身元保証人としての性格が強い)


 これらに加え、性別や年齢、出身や身分、貴族の推薦状の有無、ウルヴァーン市民との妻帯など、様々な条件が重なることで取得の難易度が若干変動する。ちなみにケイたちの場合、出身が草原の民あるいは雪原の民とされるので、どうしても審査の基準が厳しめになるそうだ。




 その夜。


 "HangedBug"亭に戻って夕食を取ったケイたちは、疲労感に苛まれながらも、部屋でダラダラと話し合っていた。


「まあ……英語力はまず問題ないし、無犯罪証明書も大丈夫だろ」

「うむ」

「租税の前払いも……イケるよな? ケイ」

「そうだな。"大熊"の毛皮の収入も入ってくるし、足りなければ宝石も売ればいい」

「となると……問題は、」

「住居の確保と、」


「「市民五人からの推薦状、か……」」


 ずっしりと、その言葉が重く二人の胸に圧し掛かる。


 住居にせよ推薦状にせよ、不可能ではないだろう。ホランドあたりのツテを辿れば、案外何とかなるかもしれない。しかし、この排他的な街ウルヴァーンにおいて、その道程が平易なものでないことは、火を見るよりも明らかだった。


 ――これは面倒くさい。


 何とも言えない憂鬱に襲われたケイは、腰かけていたベッドにどさりと身を投げ出して寝転んだ。すると、窓際で夜風に当たっていたアイリーンが、おもちゃを見つけた猫のように突撃してくる。


「もうちょっと奥行って」

「お、おう」


 ケイを壁際に追いやり、背中を預ける様にして、すっぽりと腕の中に収まる華奢な体躯。



「…………」


 しばし沈黙が、部屋を支配する。



「……取り敢えず明日、ホランドの旦那でも訪ねてみるか」

「うん……」


 体の前に回されたケイの腕を、そっと掴んでアイリーンは息を吐いた。対するケイは、無意識のうちに美しい金髪を撫でながら、茫洋とした目つきでランプの灯りを眺めている。



 ぼんやりと――。



 ゆったりと――。



「……なんかもう、どうでもいいなー」



 不意に。


 アイリーンが、そんなことを言い出した。



「ややこしいし、疲れるし。やっぱり調べ物なんて止めて、サティナに戻るってのはどうだろ。ケイは狩人で……オレは、リリーの護衛でもして……」


 ケイと同じ方向を向いたまま――表情を隠したまま、言葉を続ける。


「別に、転移の理由なんて分からなくても、生きて、いけるしさ……」



 ケイは、悟った。


 話す時が来た、と。



「……なあ、アイリーン」


 頭を撫でる手を止めて、アイリーンの肩を掴む。そのまま反応される前に彼女の身体をくるりと転がして、自身に向き合わせた。


 強引なケイに動揺して、微かに目を見開くアイリーン。


「なっ、何」

「アイリーン。……お前は、どうしたい?」


 揺れる青の瞳を、まっすぐに見据える。


「この世界に残りたいのか。……あるいは、帰りたいのか」



 どくん、という鼓動の音を、聴いた気がした。



「……オ、レは」


 平素からは考えられないほど、弱々しく声を震わせたアイリーンは、ケイの視線に耐えきれなくなったかのように目を伏せる。


「オレは……」


 沈黙を受け取ったケイは、華奢な体をそっと抱きしめた。


「……俺は、アイリーンが一緒に居てくれたら、嬉しい」


 静かに、しかしはっきりと、ケイは告げる。胸元でアイリーンが、はっと息を呑むのが分かった。


「でも、……やっぱり、アイリーンに決めて欲しい。このあと……どうしたいのかは」


 アイリーンは、押し黙る。だがケイはそれでも、言葉を続けた。


「俺とお前じゃ、状況が違い過ぎるし、そのせいでアイリーンが悩んでるのは、分かってる。何故『こっち』に来たのかも分からないし、帰るためにはどうすればいいのかも分からない。普通の人間なら、不安で、悩むのは、当たり前のことだと思う。

 俺は、……少なくとも俺は、元の世界に帰るつもりはない。けど、それでも自分が『こっち』に来た理由だけは、知っておきたいんだ。ただの"偶然"や"奇跡"なんて言葉じゃ、今回のことは、説明しきれないと思うから……」 

「……うん」


 こくりと、小さく、頷いた。


「それで、原因とか、帰る方法とか、……そういうのが全部分かってから、アイリーンにも決めて欲しい」


 ゆっくりと、頭を撫でる。


「決めるのは、それからでも遅くない。だから……それまで、一緒に居よう」


 ――できれば、それからも。


 その言葉は、口に出さずに。


「うん。……うん」


 腕の中で何度も頷くアイリーンは、いつしか、涙声になっていた。


 今のケイには、何も言わずに、ただ抱きしめることしかできない。



 ――傲慢だろうか。



 ある種の孤独の中で、ケイはひとり、物思いに沈む。



 仮に――



 今ここで、元の世界の全てを捨てて、自分と共に生きてくれ、と。


 熱烈に訴えかければ、おそらく彼女は、それに応えてくれるだろう。


 しかし。


 それでいいのか。強制していいのか。自分の願いを、ただ彼女に押し付けていいのか。


「うっ……っく……」


 悩み、苦しみ、涙を流す彼女を前に、答えは明らかだった。



 これから先。



 生きていくうえで、いつか必ず、何かを後悔する日がやってくるだろう。


 ならば、そのときはせめて、――納得のいく形で後悔してほしい。



 ケイは、そう考える。



 このまま流れに任せ、この世界に留まることを選択すれば、アイリーンは必ずそれを後悔することになる。


 今は良い。二人で幸せに暮らせる。だが十年後は? 二十年後は? どうだろうか。


 その時になって行動を起こそうとしても、もう遅すぎるのだ。



 今しかない。



 『決める』には――まだ決めていない、今しかない。


 悩みに悩んで、考えに考えて、それで一つの答えを選びとれば、いつか後悔するにしても、そこにはある種の『納得』があるはずだ。



 アイリーンには、そうしてほしいと、ケイは思う。



 ――その『答え』が、"自分と共に生きること"であれと、祈りながら。



(……とんだ自己満足だ)



 心の中で、嘲笑う。『自嘲』と呼ぶには、あまりに狂おしい感情。



 アイリーンに強制したくない、と言いつつも、本心では彼女が自らの手で、帰るという選択肢を捨て去ることを期待しているのだ。



 そうすれば――自分が後悔せずに済むから?



 自分本位、わがまま、あるいは――これを傲慢と呼ばずして、何と呼ぼう。



 しかし、それでも。



 アイリーンにそうして欲しいと、ケイは願う。



(もしも――)



 瞳を閉じて、考える。



(アイリーンが、帰ることを望んだなら――)



 そのとき――そのとき、自分は――――




「オレさ、」




 いつの間にか、泣きやんでいたアイリーンが、口を開いた。


「正直、帰りたいのかどうかは、今でも分かんないんだ」


 怯える様に、涙を湛えた瞳が見上げる。ケイは、黙って頷いた。


「……四人家族でさ。パパと、ママと、お姉ちゃんと……みんな優しくって。でも、」


 もぞ、と寒さを堪える様に、アイリーンは身体を丸める。


「ケイも、薄々察してると思う、けど。オレ、小さいころ、体操やってたんだ。……けっこう上手くてさ、ジュニアの大会で優勝したこともある。もしかしたら、オリンピックに出れるかも、って……オレ、ずっと頑張ってたんだ。頑張ってたんだ……」


 明るくなっては、暗く沈む。そんな、不安定な口調。


「でも、……事故でさ。足、なくなっちゃった」


 はは、と乾いた声で、笑う。


「嘘みたいだろ。ドラマみたいな……オレも信じられなくって。もう……ダメだ、って。昔、クローン技術で移植、みたいなの、あったじゃん。だから、それに賭けてみようかなって思ってさ。テスターになろうか、とか、色々やってみようとしたけど……宗教的な問題とか、条約とかで禁止されちゃったし。時間だけは経って、身体の感覚はズレちゃうし……それでさ、ある日、『あ、もうムリだな』って。一度思っちゃったら、もうダメでさ。それからずっと、引き籠ってた」


 ケイの胸に顔をうずめたまま、しかし淡々とした声で。少しの間、アイリーンは黙っていた。


「……『かつてないほどのリアリティ』」


 やがて、ぽつりと。


「……この売り文句に飛びついたのって、ケイだけじゃないんだぜ」


 ふっと、顔を上げた。


 痛々しいほどに、儚い微笑みだった。


「……でも、ケイに比べたら、オレなんて全然だよ。ずっと、自分の事、悲劇のヒロインか何かだって、思ってた。……でも、『こっち』に来た日に、ケイの話を聞いて、オレ、……オレ、」

「そんなことはない」


 アイリーンの言葉にかぶせる様にして、ケイはその身を強く抱きよせた。


「……そんなことはない」


 耳元で、繰り返す。アイリーンは、ケイを抱きしめる力を少し強くしただけで、他には何も言わない。



 ケイは、何かを得る前に、全てを失った。



 アイリーンは、自らが勝ち取ったものを、打ち砕かれた。



 ――どちらが苦しいだろう。



 純粋に、思う。



 究極的には、体験していないのだから、二人の例を比較することはできない。



 だが――想像することは、できる。



「……つらかったな」


 ぽつりと、ケイが呟くと、アイリーンは何も言わずに、ぎゅっと抱きついた。


 強く。強く――。


「…………」


 それからしばらく、黙っていた。


「……だから、オレ、帰るのが怖いんだ」


 ぽつぽつと、アイリーンはその想いを吐露する。


「でも……パパにもママにもお姉ちゃんにも、もう、二度と会えないのも、悲しくて」


 ふるふると震えていたアイリーンは、恐る恐るといったふうに顔を上げた。


「……まだ、迷ってて……全然、決められない、けど……」


 

 溢れんばかりの涙を湛えた瞳が、ケイを見つめる。



「答えが出るまで、いっしょに居てくれる?」



 ――迷う暇など。



「ああ」


 力強く、頷いた。


「一緒に居よう」


 その囁きは、魂からの叫びだった。


「……ありがとう」


 儚い笑顔は、涙の彩りとともに。



 どちらからともなく、唇を重ねた。



 ゆったりと――



 奥底にまで触れ合うような。



 心休まるひと時。



 しかし今日は、二人ともが疲れ果てていた。



 やがてどちらからともなく、健やかな寝息を立て始める。



 夜風が吹きこみ、ランプの灯りをかき消す。



 闇の帳に覆われた部屋は、ただ、穏やかさに満ちていた。



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