29. 一夜


「とうとう着いたか」


 ウルヴァーン外縁部、宿場町。サスケの背から降りたケイは、ぽつりと小さく呟いた。


 ぶるるっ、と鼻を鳴らすサスケの首を撫でながら、遠景の要塞都市を見やる。風にそよぐ麦畑の果て、小高い丘の上にひしめく石造りの家々に、それらを取り囲む分厚い城壁。


 領主の城、第一の城壁、第二の城壁と、段々に構造物が広がっていく様は、まるで街そのものが大きなひとつの岩山のようだ。


「遂に、……だな」


 同じく、スズカから下馬したアイリーンが、そっとケイの隣に寄り添う。



 アレクセイとの決闘から、おおよそ半日。



 ウルヴァーンの都市圏に辿り着いた一行は、城壁の外側の宿場に逗留し、市内へ入るための準備を進めていた。


「――そっちの荷は1番馬車に、割れ物はまとめて2番だ。ちゃんとリストは仕上げておけよ。あっ、毛皮の畳み方にはきちんと気を払うんだぞ、折角状態が良いんだから!」


 宿場町の一角に居を構える、コーンウェル商会の支部前にて。ホランドの指示の下、商人や見習いたちが忙しげに動き回り、積荷を別の馬車へと移し替えていた。


 税金対策、であるらしい。隊商の荷馬車のまま市内に乗り入れると、馬鹿にならない租税を取られるので、経費削減の為に専用の馬車を使って市内の本部までピストン輸送するそうだ。


「今回も、何事もなく辿り着いたな……」

「いや、何事もないってこたぁねえだろ。"大熊グランドゥルス"出たじゃん」

「まぁな。でも俺ら何もしてないし……」

「気が付いたら終わってたもんなぁ」


 忙しげな商人たちを尻目に、仕事を終えた護衛たちは気楽なものだ。あとは市内で給金を受け取るのみなので、武装を解きながら、のんびりと駄弁っている。



 そして、そんな彼らから距離を置き、ケイとアイリーンは二人の世界にいた。



 沈黙のうちに、吹きつける風の音を聴きながら、ただただ遠くに佇む都市の姿を眺める。ようやく目的地に辿り着いたという安堵と、慣れ始めていた旅の日々が終わってしまう寂しさと、新たな環境への一抹の不安と。二人の顔には、それらがい交ぜになった、複雑な表情が浮かんでいた。


「……それにしても、アレがウルヴァーンか」


 しんみりとした空気を振り払うかのように、ケイは口を開く。


「ゲームのとは、大違いだな?」

「そうだな、」


 それに応えて、アイリーンも小さく笑った。


「ゲームの方は村だったし……こっちのと比べたら、犬小屋か何かだなありゃ」

「違いない」


 どこかで聞いたような表現に、思わず苦笑する。ゲーム内のウルヴァーンはプレイヤーメイドの要塞村――岩山の上に慎ましやかに築かれた防御拠点で、下手すれば今ケイたちのいる宿場町よりも小規模なものだった。


「まさしく、比べるのもおこがましい、ってヤツだ……」


 笑い飛ばした湿った空気と、ぼんやり蘇る郷愁にも似た想いと。それらを胸に、ケイとアイリーンは静かに、見知らぬ街へと視線を戻す。自然と、惹かれあうようにして、手と手が重なり合った。


「…………」


 それ以上は言葉を交わすこともなく――しかし、自分たちは同じ気持ちを共有していると。確信しながら、その手の温もりを確め合った。


 ――が。


「おーい、ケイ! アイリーン!」


 背後から投げかけられたハスキーボイスに、慌てて手をほどき、弾かれたように振り返る。



 見やれば――こちらに手を振りながら、のしのしと歩いてくるアレクセイ。



 その姿は、決闘の際と同じく、完全武装。あるいは、所持品すべてを身に付けた姿、というべきか。肩に担いだ業物の大剣、柄の部分には兜を引っ提げ、ケイにブチ抜かれた円形盾バックラーの他、鎧、脛当て、手甲を装備。そして背中には、旅装具がパンパンに詰まった背嚢を背負っている。


 良い感じの雰囲気を粉砕され憮然とするケイと、「げっ」と嫌そうな声を上げるアイリーン、しかし二人の様子を気にする風もなく、アレクセイは目の前までやってきた。


「……もう動けるのか」


 問いかけるケイの声に、どこか皮肉めいた響きが込められていたのは、仕方のないことかも知れない。決闘でケイに手酷くやられ、まだ半日しか経っていないにも拘わらず、アレクセイはぴんぴんしているようだ。切れていた唇の傷は殆ど治りかけ、下顎の青痣も既にその色を薄くしつつある。"竜鱗通しドラゴンスティンガー"に貫通させられた左腕に至っては、包帯こそ巻いてあるものの、まるで痛がる素振りすら見せない。


「まあな、傷の治りは早いんだ」


 左手をくいくいと動かしたアレクセイは、「ふんっ」と筋肉に力を込める。が、その瞬間、まっさらだった包帯に、じわりと血の赤色が滲んだ。


「おっと、まだ傷は塞がってなかったか」


 ついうっかり、とでも言わんばかりに、まるで他人事のアレクセイ。ドン引きしたらしいアイリーンが、すっと一歩後ずさる。ケイの皮肉な笑みも少々引き攣っていた。

 いくら痛みに強いとはいっても、これは少々異常だろう。ともすれば、比喩的意味ではなく、全く痛みを感じていないような――


「『痛覚軽減』、か」


 ケイの呟いた言葉に、アレクセイはふっと顔を上げる。少しだけ見開かれた両の瞳は、無理やり驚きの表情を打ち消したかのような。


「紋章だろう?」


 違うか、と首を傾げてみせるケイ。決闘の時から見当はつけていたが、この反応を見て確信した。



 『痛覚軽減』――アイリーンの刻む『身体軽量化』程ではないが、ほとんど使われていなかったマイナーな紋章の一つだ。


 取得条件は比較的緩く、その効果は『痛みを軽減しノックバックや気絶の可能性を減らす』こと。しかし、ゲーム内では些細な傷でも死に直結しており、そもそも痛覚がフィードバックされることもなかったので、負傷を前提とした『痛覚軽減の紋章』は有難味が薄かった。せいぜいが魔術師プレイヤーが、被弾による詠唱失敗の可能性を減らすため、保険としてその身に刻むことがある程度のものだった。ケイも、こうしてアレクセイに出会わなければ、その存在すら忘れていたであろう。


 ゲーム内では役に立たなかった『痛覚軽減』だが、翻って現実では、それなりに有用であると言わざるを得ない。ケイ自身、この世界に来てから経験した対人戦闘において、痛みのせいで行動が阻害されたり、判断を誤ったりということは度々あった。怪我の自覚が遅れる、という欠点はあるものの、攻撃力に特化したいのであれば有用な能力だ。ただでさえ勇猛果敢な戦士が痛みに鈍感になれば、果たしてどのような化学反応が起きるのか――


 ちなみにアレクセイの場合、その傷の治りの早さを鑑みるに、あとは『身体強化』か、あるいはマイナーな『自然治癒力強化』の紋章を刻んでいる、というのがケイの見立てだ。



「……詳しいな。いや、その通りなんだが……どこで知った?」


 薄く笑みを浮かべるアレクセイだが、その瞳は笑っていない。おや、地雷を踏んだかな、などと軽く思いつつ、ケイは小さく頭を振った。


「知り合いの雪原の民の戦士は、お前だけじゃなくてな」

「へぇ。なんて名前だ?」

「『アンドレイ』だ」


 ぴくりと、黙って話を聞いていたアイリーンが、横目でケイを見る。


「アンドレイ……アンドレイか。おれの知り合いにはいないな」

「まあ、昔の話だ。それより何か用事か?」


 何やら思案顔のアレクセイに、ケイは投げやりに話題を振った。


「ああ、そうだった。用事があるのはケイの方なんだが」


 ぽん、と手を打ったアレクセイは、言葉とは裏腹にアイリーンの方を見やって愛想を振りまきつつ、背負っていた背嚢をどさりと地面に下ろした。


「さて、」


 続いて、大剣と円形盾をケイの足元に放り出し、脛当てや手甲などの装備も順次外していく。背嚢を基礎として、ケイの目の前に積み上げられていく物資の山。


「え、お前何を」


 困惑するケイとアイリーンをよそに、鎧を脱ぎ去ったアレクセイは、いつか湖で見せた恐るべき脱衣速度をもって、あっという間に肌着とサンダルだけの姿になった。そして、最後に右手に握りしめていた財布を、出来あがった山の上に載せる。


「――これが、おれの全財産だ!」


 高らかに宣言し、キリッとケイを真正面から見据えるアレクセイ。


 ほぼ裸一貫で腕組みをし、堂々と仁王立ちする姿は、ただでさえ衆目を集めることこの上ない。それが唐突に叫ぼうものなら、周囲の人間に注目するなと言う方が無理だった。駄弁っていた傭兵たちも、通りがかりの住民も、忙しげにしていた商人たちですらも、その手を止めて何事かとこちらを見ている。


「……どういうことだ」

「受け取られよッ!」


 くっ、と悔しげに顔を歪ませるアレクセイ。


「貴殿は……決闘の勝者であるが故にッ!」


 その言葉に、思わずケイとアイリーンは顔を見合わせた。ふるふる、と無表情で首を振るアイリーン。


「いらん」


 それを受けたケイの答えは、簡潔明瞭だった。ずるっ、と腕組みの体勢からずっこけるアレクセイ。


「何故だ!」

「なぜ、と言われてもな。特に魅力を感じない」


 困った風に、ケイはぽりぽりと頬をかきながら答える。


 確かに、ケイはアレクセイと闘って勝利を収めたが、それは自身の名誉とアイリーンを守るためであった。ケイも若干負傷したが、それに釣り合うほどにはアレクセイを叩きのめしてもいる。ケイにとって、決闘は既に終わったこと――これ以上どうこうしようという気は、あまり起きなかった。


 強いて言えば、アレクセイの防具――白羽ふつうの矢とはいえ"竜鱗通し"の一撃を弾いた合金の脛当てや手甲は、ケイの現在の防具と比しても魅力的と言えた。だが新品ならば兎も角、アレクセイのお下がりは御免蒙りたい。


 迷惑料として金だけを徴収するのも考えたが、それはそれで狭量であるように感じられた。ケイが独りであればまだしも、今はアイリーンがいる。彼女の見ている前で、殊更金に意地汚くなろうという気も、また起きなかった。


「まあ、なんだ。気持ちだけ受け取っておこう」

「し、しかし……それは困る!」


 にべもない答えのケイに、おろおろと弱った様子のアレクセイ。そこには普段の強気な態度など、見る影もない。それほどまでに断られるのが予想外だったのか、と面白おかしく感じながら、ケイは逆に尋ね返した。


「なぜ困るんだ? お前にも悪い話じゃないだろうに」

「一族の沽券に関わる。決闘の挑戦者が敗北した場合、勝者に全財産を譲るのがしきたりだ。恋慕の為に、自分から決闘を挑んでおきながら負け、その上……な、情けをかけられるなど……!」


 説明するうちに、アレクセイの頬が紅潮する。最後の言葉は、殆ど絞り出すかのようだった。自分が負けた、という事実もひっくるめて、それを解説させられるのが余程の屈辱なのだろう。


「だから……これは、ケジメなんだ。受け取ってくれ」

「……成る程な」


 嘆願するようなアレクセイに、ケイは困った様子で兜を脱いだ。


「つまり、受け取られなければ、一生の恥ということか」

「その通りだ」

「ふむ……。ならば、そうだな、」


 小さく溜息をついて、物憂げに前髪をかき上げたケイは、表情を真面目なものに切り替える。


「――分かった。その申し出、受けよう」

「えっ、受けるの」


 ケイの隣で、心底意外そうに目を瞬かせるアイリーン。


「おお、受け取ってくれるか!」


 それをよそに、アレクセイはぱっと顔を輝かせる。しかし同時に、荷物の山を見下ろして、少し寂しげに細められるその水色の瞳を――ケイは見逃さなかった。


「ああ。ところで、……受け取ったものをどう処分しようと、それは俺の勝手なんだな?」

「……。ああ、勿論だ。売るなり使うなり好きにするといい」


 一瞬の間。しかしアレクセイは、毅然と答えた。「そうか」と改めて言質を取ったケイは、重々しく頷き、



「――ならば、俺は決闘の勝者として、お前にこの装備一式を譲る」



 言い放つ。


「……え」


 ケイの台詞に意表を突かれ、ぽかんと間抜けな顔をする周囲の面々。


「ふッ――ふざけるな! それじゃ何も変わらないじゃないか!」


 すぐに、頬を紅潮させたアレクセイが、噛みつかんばかりの勢いで詰め寄るが、ケイがそれに動じることはない。


「いや、俺はしかと受け取ったぞ。お前の覚悟と、誇りをな」


 あくまで真摯なケイの言葉に、毒気を抜かれたアレクセイは、陸に揚げられた魚のようにパクパクと口を動かした。


 ケイは、異邦人だ。


 無論、雪原の民の慣習などには明るくない。アレクセイがその気になれば、決闘後のやり取りはいくらでも誤魔化せたはず。


 しかしそれをせずに、自ら財産の譲渡を申し出たのは、まさしく彼自身が誇りに生きている証だ。例え、それが相容れぬ、理解しがたいものであったとしても、その真っ直ぐさは称賛に値する。


 最低限の生活はおろか、命の保証すらないこの世界。それも、知り合いもロクにいない異郷の地で、所持品の全てを投げ出し、他者へと明け渡す覚悟がどれほどのものなのか――


 いや、清々しいまでの潔さだとケイは思う。


「――感服した。その心意気、全く天晴れと言わざるを得ない。故に、貴殿に敬意を表して、これらの武具を贈りたい」


 朗々と語られる口上と共に、漆黒の眼光が、揺れる瞳を捉えた。


「受け取られよ。誇り高き、雪原の民の戦士――アレクセイ」


 静かな、それでいてどこか有無を言わせないケイの言葉に、アレクセイは黙って俯いた。ぱし、と顔面を覆い隠した右手のせいで、その表情を窺い知ることはできない。


「……しきたりに、従っておけば、」


 ――全部なかったことになるとでも、思っていたのか。

 

 小さな声が、ケイの耳朶にまで届く。恐れるような、わななくような――そんな訥々とした言葉が。


「…………はぁぁ~」


 やがて、長く細く息を吐いたアレクセイは、虚脱したような表情で天を仰いだ。口元を引き結んで天上の何かを睨みつけ、ガリガリと荒っぽく頭を掻き毟る。


「……分かった。有難く頂戴する」


 何かを悟ったように、存外、素直に頷いたアレクセイは、荷物の山から衣服を拾い上げ、黙々と着込み始めた。


 それからは、先ほどの場面を逆再生するかのようだ。ズボンを履き、シャツを羽織って板金付きの革鎧を纏い、手甲と脛当てを身につける。放置されていた財布を乱暴にポケットに突っ込み、剣と盾を拾い上げ、背嚢を背負う。



 そしてそこには、数分前と、見た目だけは何一つ変わらない、アレクセイの姿があった。



「…………」


 鼻の頭をかきながら、気まずげに目を逸らしたアレクセイは、荒々しい動作で兜をかぶる。そしてそのまま面頬バイザーを下ろそうとしたが――動きを止めて、短く息を吐いた。


 すっ、と。面頬にかけていた手を、そのままケイの前に差し出す。


「――感謝する」


 逸らされることなく向けられた視線を、しかと受け止めながら、ケイはその手を握り返した。


 アレクセイの握力は、強かった。


「感謝される云われはない。俺は、俺が思ったことをしただけだ」

「……そうか」


 苦笑して、大剣を担ぎ直したアレクセイは、ケイたちに背を向ける。


「……あんたには負けたよ」


 背中越しに、一言。ガシャリと兜の面頬を下ろし、ゆったりとした足取りで歩き始めた。


 北へ。


 涼やかな初夏の風が吹きつける中、その背中が段々と小さくなっていく。



 結局、最後まで振り返ることなく、青年はひとり旅立っていった。



「……さて、」


 黙ってそれを見送ったケイは、サスケの手綱を取り、兜をかぶり直す。


「俺たちも、行くか」

「うん」


 言葉少なに頷いたアイリーンが、ひらりとスズカに飛び乗った。ホランドたちの呼ぶ声が聞こえる。出発の準備は整ったらしい。


 ――とんだ茶番だな。


 などと、皮肉な想いが湧き出てきたが、不思議と悪い気はしなかった。


 馬上、もう一度、ちらりと北を見やって。


 隊商の皆に合流すべく、ケイも馬首を巡らせた。




          †††




 城門をくぐり抜け、一般市街のコーンウェル商会本部で給金を貰い、ケイたちの護衛としての仕事は完了した。


 ひとり頭、小銀貨6枚に銅貨が少々。銅貨に換算してしまえば70枚弱といったところか。


 それが、隊商護衛をこなしたケイたちの、七日間につけられた値段だった。


 粗食であれば一日の食費が銅貨3枚で賄えることを考えると、悪くない給料といえるだろう。アイリーンは途中から夜番に魔術を使い始めたので、その触媒代として特別手当が小銀貨2枚ほど上乗せされていた。


 ちなみにホランド曰く、護衛任務で負傷した場合には、怪我の程度によって負傷手当なども出るらしい。


「いや、今回はケイたちと働けてよかった。また機会があったら是非頼むぜ!」

「こちらこそ、色々と助かった。ありがとう」

「姫さんも元気でな!」

「そのうち会えるさ、またな!」


 ダグマルら護衛仲間たちは、仕事納めに呑みに行くとかで、給金を受け取るや否や連れ立って本部を出ていった。酒がないと生きていけないのか、と苦笑するケイであったが、アイリーンがぼそりと「オレもウォッカ飲みたいな」と言うのを聞き逃しはしなかった。


 その後、ホランドと"大熊グランドゥルス"の毛皮の扱いについて簡単に話し合い、ケイたちも商会本部を後にする。


 毛皮は好事家にかなりの額で売れると予想されているが、買い手が見つかるまで待つか、ある程度の値段で商会に売り払ってしまうか、ケイには二つの選択肢があった。前者はどれくらいの期間が開くか分からない代わりに売値が上がり、後者は買い叩かれる代わりにすぐ纏まった金が手に入る。


 サティナで仕入れた情報によると、ウルヴァーンの図書館は入館料がそれなりに高くつくらしいので、極力早目に現金が欲しいケイとしては、即売り払う方向で話を進めている。


「実際、どれくらい時間がかかるか分からんからな」

「全くだ。でも"大熊"の皮って、加工すりゃそこそこな防具になるよな? 使うってのもアリじゃないか?」

「俺は今ので大丈夫だ。アイリーンがいるなら、それでもいいと思うが」

「いや、オレもいいよ。……重いし」


 そんなことを話しながら、ホランドに教えてもらったお勧めの宿屋を目指して歩いていく。


 夕刻、一般街を貫くメインストリートを、埋め尽くさんばかりに行き交う人々。買い物かごを抱えた女に、黒い貫頭衣を着込んだ奴隷、露天商との値引き交渉に勤しむ旅人風の男――。


 サスケの手綱を引きながら、綺麗に整備された石畳の上を行くケイが気付いたのは、サティナやユーリアに比べ建物の背が全体的に高いことだ。城壁外縁部の建物から始まり、全てが基本的に三階建て以上の造りとなっている。そのせいか、中世ヨーロッパ風の街並みであるにも拘わらず、他の町に比べ何処となく先進的な雰囲気が漂っていた。


「流石は"公都"、か……」


 おのぼりさんよろしく視線を彷徨わせているうちに、目的の宿屋へと辿り着く。デフォルメされた甲虫が、エールのジョッキを片手に首吊りしているユニークな看板――"HangedBug"亭だ。


 入り口前で小間使いにサスケとスズカの世話を任せ、緑色に塗られた扉を開く。からんからん、とベルの音が鳴り、中の様子が目に飛び込んできた。


「あら、こんばんは」


 ケイたちを出迎えたのは、綺麗に畳まれたシーツを手にした若い女だ。程よく日に焼けた小麦色の肌、肩までの亜麻色の髪をバンダナでまとめ、いかにも好奇心が強そうにくるくると動く黒色の瞳が可愛らしい。


「食事、それともお泊り?」

「部屋を取りたい」

「OK、ちょっと待っててね」


 にこりと愛想のいい笑みを浮かべ、女はシーツを手に奥へと引っ込んでいく。"HangedBug"亭も、宿屋の例に漏れず、地上階は酒場兼食堂となっているようだ。ランプの明かりに照らされた大部屋には丸テーブルが並べられ、カウンターの内側にはグラスを磨く中年の男の姿があった。筋肉質な体格、ぼさぼさに広がった髭――ゲーム内には存在せず、おそらくこの世界も同様であろうが、ひと目見て「あ、ドワーフだ」と思わせられる見てくれだ。後で聞いたが、アイリーンも同じことを思ったらしい。


「はいはい、お待たせ。それじゃあ……」


 戻ってきた女が、受付の帳簿を広げる。黒色の瞳が、ケイとアイリーンを交互に見つめた。


「……相部屋でいいかしら?」

「……ああ」


 極力、気負わないように意識しながら、何でもないことのようにケイは頷く。隣にいるアイリーンの存在が、かっと熱くなるような、浮き上がるような、そんな錯覚を抱いた。


「何日ほど泊られるご予定?」

「まだ決まってないんだが、逆に最低で何日から部屋を取れる?」

「別に一日でもいいわよ。ただ、一日ごとに延長はちょっと迷惑ね。一週間単位で取ったらちょっとお安くするけど?」

「そうか、それならまず一週間でお願いしよう」

「ん、OK。それじゃあ203号室ね」


 鍵を受け取り、部屋代と馬の飼料代をまとめて銀貨で支払う。「ごゆっくりー」という女の声を背中に、ケイとアイリーンは揃って階段を上った。


 203号室。


 こじんまりとした、清潔感のある部屋だ。窓際の小さなテーブル、クッション付きの安楽椅子、鍵付きの木箱チェストに、両サイドの壁に置かれた二つの寝台――ホランドが勧めてくれた通りに、家具などのグレードが他の宿屋に比べて高い。窓は雨戸が嵌っているだけの簡素な造りだが、通りの裏側に面しているため比較的静かな環境だ。


「わっ、ベッドだ!」


 荷物を床に置いたアイリーンが、嬉しそうにベッドにダイブする。いつぞやのサティナの宿屋とは違い、ちゃんと詰め物がされていたので、アイリーンの身体はぽふんとマットレスに受け止められた。


「あぁ~~~体が溶ける~ぅ~」

「ここんとこ、地面に布敷いただけだったからな」


 同じように荷物を下ろしながら、ほっと一息ついてケイ。ぐっぐっ、と程よい固さのマットレスの感触に、思わずその頬が緩む。行商の旅はなかなか楽しめたが、テントで眠り続けていたため身体中が凝り固まっていた。快適な寝床の存在は、素直に嬉しい。


 素直に、嬉しい。


「…………」


 いつの間にか、部屋の中には沈黙が降りていた。


 テントのような布地ではなく、しっかりと壁と天井で構築された密閉空間の中にいる――そのことが、二人きりであるという事実を、改めて浮き彫りにしているように感じられた。目的地に辿り着いた安堵、達成感、高揚感、それらのもたらす気持ちの緩みもまた、そんな感覚に彩りを添えている。


 装備を外したり、荷物を整理したり、雨戸の開閉の確認をしたり、と無駄に動き回って、その沈黙を誤魔化そうとするケイ。しかし、何を話すか迷っている間にも、空気は飽和へと突き進んでいく。


「…………」


 とうとうすることがなくなって、ケイがちらりと視線をやると、枕を抱きしめてこちらを窺っていたアイリーンはまるで人形のように跳ね起きた。


「ああ、そうだ」


 目があって、まるで思い出したかのように、ケイは口を開く。


「その……ホランドの旦那に、聞き忘れたことがあった。ちょっと行ってくるが、いいか? 野暮用だからすぐ戻る」

「あ、うん、そう? オレは全然いいケド」


 目をぱちくりさせながらも、枕を抱きしめたままアイリーンは小さく頷いた。


「よし、それじゃあ行ってくる」

「鍵は預かっとくぜ~」

「任せた」


 ピンッ、と指で弾いたルームキーを、パシッと受け止めるアイリーン。


「気を付けてな、行ってらっしゃい」

「ああ、またあとで」


 背中越しに笑いかけて、再びくつろぎモードで寝転がるアイリーンを尻目に、ケイは部屋を出て行った。


 コツ、コツ、コツ……と、ブーツの足音が遠ざかっていく。寝転がったまま、アイリーンは注意深く、その音に耳を傾けていた。


 ――やがて、ケイが確実に宿を出たと思われる頃、アイリーンはおもむろに身を起こす。


「ふむ、」


 腰に手を当てて、広くも狭くもない部屋を見渡すアイリーン。片隅に置かれた荷物に視線を落とし、続いて着ていたシャツを指で摘む。


「……よし、着替えるか」


 誰に言うとでもなく。


 アイリーンは荷物をひっくり返し始めた。




          †††




 既に暗くなりつつある道を早足で歩き、ケイは再び商会本部を訪ねた。


 目的は、アイリーンに告げた通り、ホランドだ。


「やあやあ、来ると思ってたよ」


 本部の片隅、商談用の小さな部屋。そわそわと落ち付かない様子のケイを、ホランドは朗らかな笑顔で出迎えた。


「ならば、用件も分かっている、のかな」

「勿論だとも。コレだろう?」


 得意満面な様子で、ホランドは部屋に持参した小さな箱を開いて見せる。



 その中に、真綿と共に収められていたのは、手の平サイズの四角い鏡だった。



「おお……これか」

「そう。元々は、こっちを納品する予定だがね、客が『丸いのがいい』と言いだしたんだ。それで輸送していたのが、君らも見た丸い手鏡ってわけさ」

「成る程。それで、値段は?」


 細かい説明はどうでもいい、と言わんばかりのケイの食いつきに、ホランドは可笑しくてたまらないといった風に苦笑する。


「銀貨20枚――と言いたいところだが、身内のよしみで15枚にまで負けておこう。ちなみにこれは原価に近いから、これ以上は負からないよ」

「いや、充分ありがたい。……どう支払おうか?」

「うーん、今ここで払って貰ってもいいし、毛皮の代金から天引きでもいい」

「……天引きでお願いしたい」


 現金はあまり使いたくない、という要望に、ホランドは快く答えた。


「さて、ギフトラッピングは必要かね?」

「そんなものもあるのか。ぜひ頼む」


 にやり、と意味深な笑みを向けてくるホランドに、ケイは照れたように頬をかく。驚いたことに、近くの棚から包装紙やリボンを取り出したホランドが、手ずから鏡の入った木箱のラッピングを始めた。


「……時に、旦那。"HangedBug"亭の近くで、どこかオススメのレストランはないだろうか。この際、金に糸目はつけず、良いディナーにしたいと考えているんだが」


 驚くほど器用に、かつ手際良くラッピングするホランドの手を眺めながら、遠慮がちにケイは尋ねる。


「ん、レストランか……金に糸目はつけない、となると……いや、しかし君らは、ドレスとかは持ってないだろう?」

「う……残念ながら」

「貸衣装……は、サイズが合うのがないかもしれないし、ちょっともう遅いしな。気取らずに済む美味しい店といえば……うぅむ」


 "シェフ"としての本領発揮か、思わずラッピングの手を止めて真剣に考え始めるホランド。


「……心当たりはあるが、問題は……Tu sais parler le francais?」


 唐突なホランドの言葉に、ケイはぴくりと眉を動かし、しばし目を泳がせた。


「……Ouai, un petit peu」

「ほう、これは驚いた。なら問題ないね」


 高原の民の言語フランス語は話せるか、という問いに、少しだけ、と返したケイ。ホランドはいたく感心した様子で、何度も頷いている。


「あ、ああ……だが何でまた急に?」

「"HangedBug"の裏側の通りにある、『ル・ドンジョン』というレストランなんだが、オーナーから給仕まで全員高原の民の出でね。それほど高くなく、抜群な味の料理を出す代わりに、ウチの言葉を話せない奴はお断りなんだ。君らも最初は断られると思うから、私の紹介だと言うといい」


 胸元からメモを取り出し、羽根ペンでさらさらと何かを書きつけるホランド。受け取ってみればホランドのサインと、フランス語で『丁重にもてなすように!』と書かれていた。


「しかし多芸だね君は。いや、私とダグマルの会話が、それとなく分かってるみたいだったから、そうじゃないかとは思っていたんだが」

「それほど話せるわけじゃない。少しかじってる程度だ」


 肩をすくめて、控え目に答える。


 幼少期より英語を学んでいるケイだが、VR機器の実用化後は、世界中の患者と交流するためその他のヨーロッパ言語も少しかじっていた。具体的にはフランス語、スペイン語、イタリア語が少々、ポルトガル語が最低限の挨拶といくつかの単語を知っている。ロシア語は手が出しづらく結局何も学ばないままだったが、現状、少しはやっておけばよかったと後悔しているのは内緒だ。


「よし、これで出来た」

「ありがとう、完璧だな」


 小奇麗に飾り付けられた箱を手に、にこにことご満悦のケイ。ケイとはまた違った種類の笑みを浮かべたホランドは、励ますようにケイの背中を小突いた。


「まあ、頑張りたまえ。Bonne幸運を chance祈る!」

「ハハッ、Merci bienどうもありがとう!」


 苦笑いしながら、箱を小脇に抱えて商会本部を後にする。



 そして宿屋に戻る途中、このまま持って帰ってしまうとサプライズプレゼントにならないと気付いたケイは、どうにか隠そうと苦心した結果、腰の弓ケースの中に箱を収めることに成功した。


(許せ、"竜鱗通しドラゴンスティンガー")


 ケースの中で窮屈そうな相棒に、申し訳なさが募る。


「戻ったぞー」


 宿屋にて。ケイが扉をノックすると、「お帰りー」とアイリーンが鍵を開けた。


「おっ」


 部屋の中のアイリーンを見て、ケイの目が一瞬点になる。


「……着替えたのか?」

「うん」


 柔らかなランプの明かりの下、アイリーンは照れた風に微笑んだ。その身に纏うパウダーブルーのワンピースが、ひらりとケイの前で踊る。


「……そんなの、持ってたっけ」

「えっと、実は、サティナで見つけてさ」


 微かに頬を染め、裾を撫でつけるアイリーンの上目遣いが、真正面からケイを射抜いた。


「……似合ってるよ」

「……ありがと」


 えへへ、と笑うアイリーンを、ケイは最早直視できなかった。



 その後、アイリーンに先に部屋を出て貰い、何とか鏡を隠した後、揃ってレストランへと出掛ける。


 ル・ドンジョンは思ったよりも簡単に見つかった。お城の形をした看板が特徴的で、店の前にもでかでかと『Le Donjon』と書いてあったからだ。ホランドの危惧したとおり、一見さんお断りと言わんばかりに門前払いを食らいそうになったが、ホランドの書付を見せるとすんなりと中へ通された。常連と思しき客たちに奇異の目で見られつつも、案内されたのは小奇麗な個室。


「ケイ、フランス語もイケるんだな!」

「……ちょっとだけな」


 控え目な言葉の割にドヤ顔のケイであったが、この後、メニューを手渡されて分からない単語のオンパレードに苦労する羽目となった。 


 取り敢えず最初に白ワインベースの食前酒アペリティフを楽しみながら、パスタや子羊のグリル焼きなど、オーソドックスなメニューを注文する。オーダーから肝心の料理が来るまで随分と時間がかかり、その間にかなり酔っ払ってしまったが、その分クオリティは素晴らしいものだった。


 前菜は生クリームと牛のひき肉、それに複数の香草を混ぜ合わせたムースだ。香り高く旨みの濃いソースが、舌の上で踊り食欲を掻き立てる。ケイはあっという間に平らげてしまったが、アイリーンはちまちまと名残惜しそうに食べていた。


 続いて、パスタ。麺にコシがあり、ケイにありし日に食べた手打ちうどんを思い出させた。ケイの頼んだボロネーゼ風味と、アイリーンのカルボナーラ風味をそれぞれシェアしたが、どちらも申し分ない出来だった。特に、カルボナーラの方は、湿り気のある独特な香りの何かがふんだんに振りかけてあり、アイリーン曰くトリュフに似た食材ではないかとのことだった。


 メインは子羊のグリル焼き。そしておそらくこれが、最も印象的な一品であった。一口食べ、二人とも動きを止めて、そのまま無言で完食してしまったほどに。羊であるにも拘わらず、まず肉に臭みが殆ど感じられない。ある程度の触感を維持しつつも柔らかく、噛み締めるごとに旨みが滲み出る。こってりと濃厚で、それでいてしつこさのない脂身。嚥下するごとに、もう一口、あと一口、と食べ進めてしまい、気が付けば皿の上には何も残っていなかった。


「下拵えで、肉を念入りに叩いてるんだろうな」


 上品に口元をナプキンで拭いながら、そうじゃないとあそこまで柔らかくならない、とアイリーンは言う。確かに、ケイの方のグリル焼きには砕かれた骨の破片が混入していたので、アイリーンの推測は正しいのだろう。


 デザートにはリンゴのタルト。頬っぺたが落ちそうになるほどの甘味は、勿論この世界において十二分に贅沢なものだ。そして、このところビールや葡萄酒など弱いアルコールにしか縁の無かったアイリーンも、ここぞとばかりに強めの蒸留酒を頼み、至極ご満悦の様子だった。



「いやー美味しかった」

「また来ようぜ!」


 二人してほろ酔い加減のまま、良い気持ちで宿に戻る。今夜のディナーで銀貨が吹き飛んだが、それも仕方ないと納得のいく満足度だった。おそらく、またここに食べにくるのは確定事項といってもいい――ケイに至ってはル・ドンジョンで食事をすることを生きる目的にシフトしてもいい、とすら考えかけていた。



 宿に戻ったあとは、交代で風呂に入る。地上階には、共用ではあるが小さな浴室が設けられているのだ。そしてこれが、ホランドが"HangedBug"亭を勧めた理由の一つでもある――まずはアイリーンが浴び、入れ替わりでケイがさっぱりと旅の疲れを洗い流した。



「いやー良かった。満足、満足」


 ケイが部屋に戻ると、アイリーンはベッドの上でゴロゴロとしていた。風呂上がりで湿った金髪が、ケイの瞳には妙に色っぽく映る。服は再びワンピースをチョイスしたようで、微かに覗く太腿の白さが眩しかった。が、アルコールで適度に気が大きくなっていることもあり、ケイは何とか余裕を保つ。


「サッパリした! ホント良かったよ、お風呂があってさ」

「全くだ、俺、風呂なんて何年ぶりだったことか」


 タオルで髪の毛を拭きながら、しみじみと呟くケイ。「あっ」という顔をするアイリーンに、すぐに今のは失敗であったと気付く。


「ああ、そうだ、アイリーン。実はひとつプレゼントがあるんだ」


 あくまで、ふと思いついた風に、ケイは話題を変える。部屋の隅の荷袋から、おもむろに、例のラッピングされた箱を取り出した。


「おっ! 何それ! 何それー!」


 ベッドで身を起こし、まるで幼い子供のように、テンション高めにはしゃぐアイリーン。その隣に腰を下ろしたケイは、「はい」と木箱を手渡した。


「……開けていい!?」

「当たり前だろ」


 何を当然のことを、と笑うケイの前で、アイリーンは慎重に、まるで爆弾を解除するかのように包装紙を剥がしていく。


 そして、箱の中、真綿の下から姿を現す、鏡。


「……! 鏡じゃん!」


 ケイと鏡を交互に二度見して、アイリーン。目をまん丸にして驚く鏡の中の自分と、しばし見つめ合ったまま、絶句する。


「……鏡じゃん!」

「欲しがってただろう?」

「いや、マジで……? やった! ありがとう! ありがとうケイ!」


 飛び上がらんばかりに喜びながら、鏡を手に、もどかしそうに、ありがとうの言葉を繰り返す。鏡を大事そうに箱の中に仕舞ったアイリーンは、満面の笑みを浮かべて、こちらに飛び込んでくる構えを見せた。


 それを受けて、ケイが腕を広げると、体当たりするかのように抱きついてくる。ふわりと良い香りが漂い、一瞬視界が金色の髪で埋め尽くされた。


「ありがとう! マジで嬉しい!」

「どういたしまして、そこまで喜んでもらえたら、俺も嬉しいよ」


 小柄で華奢な体躯を、そっと抱きしめながら、ケイも相好を崩す。アイリーンは「きゃー」と声を上げながら、ケイの胸元にぐりぐりと額を押しつけていた。


 しばらく、そのまま和気藹々と抱き合っていたが、


「…………」


 やがて――沈黙が降りてくる。


 優しく見守るようなケイと、慈しむように見上げるアイリーン。


「……アイリーン」


 最初に、少しだけ、勇気を出したのはケイだった。ちゅっ、と祝福するかのように、アイリーンの額にそっと口づける。


 くすぐったそうに体を震わせたアイリーンは、それに負けじと、背伸びをするかのようにケイの額に唇を這わせた。


 同じ高さで、二人の物言わぬ瞳が、向かい合う。黒と青の視線が、絡まり合う。


「…………」


 水が流れるかのように、引き寄せられるかのように。


 キスを交わした。


 ちゅっ、ちゅっと小鳥が啄ばむかのような。他愛のない、確め合うひと時。お互いの息がくすぐったく、心地よくて、笑いながらも、止めることはなく。


 しかし、どちらかが、唇を甘噛みしようとして――密やかな均衡は破られた。


 蕩かすような――。躊躇いは、一瞬だった。


 もはや、二人を分け隔てるものは、何一つとして存在しない。


 頭の芯がしびれるような感覚。まぶたの裏で星が散るような。互いが互いを求めて交わし合う。それは、鳥肌立つような官能だった。ずっと、ずっと、いつまでもこうしていたい――と。そんな願いはしかし、やがて呼吸の限界に阻まれる。


 ぷはっ、と。まるで溺れかけていたものたちが、息継ぎに喘ぐかのように。互いに、みっともないほど、呼吸を乱していた。全力疾走を終えたあとのように、心臓は早鐘を打っている。


「……アイリーン」


 華奢な体を、抱きしめる。とくんとくんと、自分と同じような早さの心音が、たまらなく愛おしかった。


 止まらない、もう、止まれない。湧き上がる、燃え滾るような欲求の予感に、おののいた。


「ケイ……」


 少し体を引き離して、アイリーンがケイを覗き込む。


 透き通るような蒼い瞳は、無言のうちに語る。アイリーンもまた、震えていた。


 ふっと、天井で揺れるランプに、アイリーンは不安げな目を向ける。


 ――と。


 部屋の外、大気が動く。


 窓の隙間から吹きこんだ小粋な風が、ランプの明かりを、優しくかき消した。


 闇の帳が下りる。暗い――しかし、ケイの瞳は、全てを映し出す。


 はっきりと、白く浮かび上がるような、狂おしいほどに愛らしい、ひとりの少女の姿を――


「アイリーン」


 耳元で囁いて、そっと、その手を引き寄せた。


「あっ……」


 もう、理由など、なかった。



 二人はもつれ合うようにして、そのままベッドへ倒れ込む。




 夜は――これからだった。






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