幕間. Urvan


 要塞都市ウルヴァーン。


 またの名を、『公都』。リレイル地方と北の大地との境目に位置し、アクランド連合公国の中枢を為す巨大都市。


 その在り方はまさしく、『要塞都市』の名を体現している。


 小高い岩山の上に築かれた領主の居城を中心に、整然と建ち並ぶ高級市街。それらを分厚い第一の城壁が取り囲み、その外側には、雑多な一般市街の街並みが壺から溢れ出したミルクのように広がっている。


 市街地の外縁部には、高くそびえ立つ第二の城壁と、明らかな防御の意図をもって張り巡らされた用水路。第一城壁と比べても遜色がないほどに立派な城壁は、並大抵の攻撃ではびくともしないだろう。また、水堀としても機能する用水路は、特に騎馬民族の侵攻に対して有効であるに違いない。


 街の周辺はもれなく田畑として開墾され、初夏の風にそよぐ緑の海の中に、ちらほらと農家の納屋や宿場の赤い屋根が見える。そして、見張りの兵と高い物見櫓を擁する小要塞が、大海に顔を出す小島の如く、あるいは、惑星を取り巻く衛星の如く、あちらこちらに点在して周囲へ睨みを利かせていた。


 城壁だけではなく、都市圏そのものが、有機的な一つの防衛拠点として機能する――


 それが、ウルヴァーンの"要塞都市"たる所以だ。




 街の中心部、領主の居城。


 遥か昔、ウルヴァーンが辺境の開拓村に過ぎなかった頃の名残か、過度な装飾を排した城は、機能性を重視した造りとなっている。中庭に設けられた薬草園、広めにスペースを取られた練兵場、隣接する公都図書館に、城の各所から突き出た尖塔――


 その中で最も背の高い、主塔ドンジョンと呼ばれる塔の一室。大きな採光用のガラス窓を備えたそこに、一人の老人が居た。


 長い人生の労苦が滲み出るような灰色の髪に、長く伸ばされた顎ひげ。目じりと眉間には深いしわが刻まれ、その眼光は老いてなお鋭い。金糸の編み込まれた赤色のローブを羽織り、首元には大粒の宝玉ルビーが嵌めこまれた魔除けのタリスマンが光る。そして、額には鈍く金色の光を放つ、王冠。


 そう、彼こそが要塞都市ウルヴァーンの領主にして、アクランド連合公国を統べる者。



 公王エイリアル=クラウゼ=ウルヴァーン=アクランド、その人だ。



 ウルヴァーンの街並みを一望できる窓を背に、執務机に向かうクラウゼは、時折小さく咳き込みながらも書類の山と格闘していた。


 山積みにされた紙束のうち一枚を手に取り、内容に目を通し、さらさらとサインをし、指輪の判を押してまた次の書類へ。厳しい表情のまま、延々とその作業を繰り返す。


 しかし――どれほどの時間が経ったか、書類の山が中ほどまで片付いたところで、クラウゼは口に手を当てて激しく咳き込み始めた。ゴフッ、ゴフッと肺の奥から湧き出るような、水気を伴ったいかにも苦しそうな咳。


「……陛下」


 執務机の傍、控えていた禿頭の初老の男が、遠慮がちに声をかけた。


「そろそろ、休憩されては如何ですかな」

「……うぅむ」


 羽根ペンをペン立てに戻し、背もたれに身を預けたクラウゼは、唸るようにして溜息をつく。


「……そうしよう。ヴァルター、茶を。それとアントニオを呼べ」

「はっ」


 『ヴァルター』と呼ばれた禿頭の男が壁際に控えていた侍女を見やる。楚々とした仕草で頭を下げた彼女は静かに、しかし足早に、執務室を出ていった。


「……はぁ。歳を取るとガタがきていかん」


 侍女の姿が見えなくなると同時に、肩の力を抜いて、クラウゼ。ヴァルターと二人きりになったためか、威厳に満ち溢れていた王の顔は、ひとりの老人のそれへと変わっていた。


 何やら疲れた様子の公王へ、ヴァルターは励ますように声をかける。


「お戯れを。陛下はご壮健であられますぞ」

「……余より若いそちに言われてものう」


 おどけるような笑みを浮かべるヴァルターに、じっとりとした目を向けながらも、クラウゼは諦め顔で溜息をつく。ともすれば慇懃無礼、不敬とすら取られかねないような言い方も、ヴァルターなりのユーモアと思いやりの精神の表れであると、長い付き合いで心得ているからだ。


 アクランド連合公国宰相、ヴァルター=べルクマン=シュムデーラー伯。


 クラウゼがウルヴァーンの領主、ひいては公王に即位して以来、数十年を共に過ごしてきた腹心の部下の一人だ。


「いやいや、最近はわたくしめも、抜け毛が気になるようになりましてな……」

「ぬかせ」


 つるつるな頭皮を撫でながらうそぶくヴァルターをよそに、鼻を鳴らしたクラウゼは大儀そうに立ち上がった。


 質素なしつらえの椅子の背後、窓から差し込む陽光に目を細めつつ、眼下に広がるアクランドの大地を眺める。


「…………」


 後ろ手を組んで景色を眺める目は、どこか遠く。寂寥感の滲むような公王の後ろ姿に、自然と口をつぐんだヴァルターは、おどけるような笑みを引っ込めた。


「……近頃は、」


 重々しく、クラウゼは口を開く。


「『ディートリヒ』に位を譲ることを考えておる」

「……陛下」


 こちらもまた、どことなく寂しげに、ヴァルターの眉が下がる。長く伸ばした顎鬚を指で梳きながら、クラウゼは言葉を続けた。


「ディートリヒはまだ若いが、それ以上に、余は歳を取り過ぎた。のことを考えると、今のうちに譲位しておいた方が、火種になりづらかろう」

「成る程。……陛下は、完全に身を引かれるおつもりで?」

「いや。余は顧問役に回る」

「左様ですか」


 クラウゼの返答に、ヴァルターは楽しそうに頷いた。


「いわゆる、『形だけ』という奴ですな」

「うむ。いくらディートリヒが聡い子だとはいえ、全てを任せるには経験が足りぬ。ここ数年、平和が続いておるが、……今は繊細な時分よ。雪原の民の件もあるし、草原の民に不穏な動きがあるとも聞く」


 少し、表情を厳しいものとして、クラウゼは執務机の上の報告書を手に取った。



 草原の民の本拠地"リッフ"に置いた総督府から、いくつか報告が上がってきている。公国の支配に対して反抗的であった部族が、近頃になって急に大人しくなったらしい。


 字面だけ見れば好ましい事態だが、長きにわたって抵抗を続けてきた輩が、昨日今日で従順になるとは考えにくい。十中八九、何かよからぬ事を企んでいる――というのが、クラウゼとヴァルターの見立てだった。


 先の戦役で、ウルヴァーンの組織化された魔術師兵団の前に惨敗を喫した草原の民ではあるが、その機動力と馬上弓による攻撃力は、決して侮れるものではない。例え反乱を起こされたとて、鎮圧はそう難しくないだろうが、同時に油断も許されぬ相手だ、とクラウゼは考える。



「……ところで、北の大地はどうなっておる?」


 報告書を書類の山に戻しながら、問いかけた。口の端を吊り上げ、シニカルな笑みを浮かべたヴァルターは、


「相も変わらず、身内で小競り合いを続けているようで」

「うむ。それは重畳」


 その、小馬鹿にするような口調に、クラウゼはむしろ上機嫌で頷く。



 過去には戦火を交えたこともある公国と北の大地ではあるが、現在、両者の関係はそれなりに良好だ。領土を巡って起きた紛争は、草原の民の介入もあり、北方の街を幾つか分割統治することで決着が付いている。


 公国の統治に食い込まれる形になったため、当時のクラウゼとしてはあまり面白くない話であったが、南北で人の行き来が活発化し、結果的には周辺の経済が発展することとなった。ウルヴァーン側は食料品や嗜好品、医薬品などを。北の大地は一部の金属製品や優れた武具などを、それぞれ輸出している。


 公国・北の大地の双方にとって、そう悪くはない関係だ。しかし、雪原の民の武力が再び、ウルヴァーンへ向けられることを恐れたクラウゼは、戦争を回避するために幾つかの手を打っておいた。


 そのうちの一つが、北の大地の西部で起きている、雪原の民同士の領土紛争だ。


 元来、その厳しい冬の環境で有名な北の大地だが、中でも海に面している西部は例外で、比較的温暖で実りも多く、暮らしやすい土地として知られている。


 そして――そうであるが故に、争いの種になりやすい。


 近年の人口増加に伴い、雪原の民は緩やかな土地不足に陥りつつある。安定的に食料を生産できる、実りの豊かな大地が求められているのだ。しかし、苛酷な北の大地において、そのような土地は、西部の他に存在しない。


 そこでクラウゼは、工作員を行商人として多数送り込み、敢えて西部の豊かな部族に安く医薬品などを供給することで、生活水準の格差をさらに助長させ、部族間での対立を煽ることに成功したのだ。


 そしてそれは、結果的に『紛争』という形で現れた。


 ウルヴァーンの供給した医薬品やその他の技術の影響で、生活環境が改善されたためにもたらされた人口増加だが、それがまた内輪での殺し合いの種となったのだから、まさに皮肉としか言いようがない。しかし、仮にクラウゼが手出しをしていなければ、その圧力の矛先はウルヴァーンに、ひいては公国全体へと向けられていたことだろう。


 雪原の民は、優秀な武具に加え、『紋章』という独自の身体強化術を保有する民族だ。今まで、せいぜい小競り合いとでも呼ぶような、小規模な軍事衝突ならば何度もあったが、民族の移動を伴う大規模な侵攻となると、どのような被害が出るかは想像もつかない。


 ――少なくとも今は、全面戦争は避けたい。


 それが、クラウゼの考えだった。現状、公国が必要としているのは、『時』――雪原の民同士が分裂するためにかかる時間だ。元から部族間でのいさかいが絶えず、まとまりがあるとはいえない彼らであったが、それでもひとたび共通の『敵』を定めれば、足並みをそろえる余地はある。


 それを、徹底的に、分断しなければならない。


 自身も草原の民という不和の種を抱え込んでいる現状、一致団結した雪原の民と事を構えるのは、あまりに危険だ。仮に、公国と北の大地が全面戦争に突入すれば、千載一遇の機会とばかりに草原の民も蜂起するだろう。


 流石に、リスクが大き過ぎる。それに見合うほどのリターンがあるのか、と問われれば――


(――たしかに、北の西部は、魅力的ではあるがの)


 クラウゼは、視界の果てを流れるアリア川を眺めながら、遥かな大海へと想いを馳せる。


 海。そして、外海へとつながる港。これこそ、"要塞都市ウルヴァーン領主"としてのクラウゼの求めるもの。


 そしてあるいは、雪原の民との戦争を望む者たちにとって、その主張の根幹を為し得るものだ。


「……最近は、主戦派も口喧しくなってきましたからな」


 クラウゼの思考を読んだのか、独り言のように、ヴァルターは呟く。


「……うむ」


 小さく溜息をつきながら、クラウゼは再び椅子に腰を下ろした。その顔には苦々しい、精神的な疲れの色が浮かぶ。


 臣下の中には、北の大地との開戦を声高に主張する者たちがいる。主に、軍閥に属する者や、軍事産業の関係者だ。軍事費くいぶちの確保が目的か、あるいは武具などの特需が狙いか――その思惑は様々であろうが、彼らの主張の建前を為すのが、海外への橋頭保の獲得。


 即ち、北の大地西部の沿岸地域を手中に収めることだ。


「自前の港を確保すれば、ウルヴァーンの地位は盤石のものとなる、と。言ってること自体は尤もなんですがな」

「……しかし、時期尚早よ」

「わたくしも陛下とは同じ考えですが……まぁ、近頃キテネが……その、何と申しましょうか、"調子に乗っている"ので、腹に据えかねている者も一定数は居るのでしょう」

「うぅむ……」


 嘆かわしい、と言わんばかりのヴァルターに、渋面を作るほかないクラウゼ。



 要塞都市ウルヴァーン。


 城郭都市サティナ。


 鉱山都市ガロン。


 港湾都市キテネ。


 アクランド連合公国内の巨大都市といえば、以上の四つが挙げられるが、その中でもキテネは公国における唯一の外海への玄関口として、貿易から製塩までを一手に担い、他の都市とは一線を画した絶大な経済力を誇っている。


 そう――盟主たるウルヴァーンを差し置いて、最大の経済力を、だ。


 元々、軍事力のウルヴァーン、工業力のガロン、そして何事もそつなくこなすサティナ、という風にバランスが取れていたのだが、この問題のややこしいところは、実は公国の盟主は必ずしもウルヴァーンと決まっているわけではない、という一点にある。


 アクランド連合公国に名を連ねる貴族たちは、ウルヴァーンの領主に対して絶対的な忠誠を誓っているわけではない。


 ただ、強大な軍事力を誇るウルヴァーンが、諸侯に安全を約束することで、主従の契約を結んでいるに過ぎないのだ。


 故に、称すること、『アクランド"連合"公国』。その権力は流動的で、ときには酷く曖昧ですらある。


 そもそも歴史を紐解けば、ほんの百年ほど前までは、『アクランド連合公国』なる国家は存在していなかったのだ。当時はキテネを主体とした小国で、その中でもウルヴァーンは一地方都市に過ぎなかった。また、現公王たるクラウゼも、その出自を辿っていくと、かつてのキテネの領主の血筋に行きあたる。度重なる政変や異民族との衝突、そしてウルヴァーンの発展を受けて当時の領主が『遷都』し、その結果生まれたのが現在の公国なのだ。



 裏を返せば――今後再び、『遷都』が起きる可能性も、ゼロではない。



 とはいえ。


 港湾都市キテネが絶大な経済力を誇るのも、別に今に始まったことではなく。


 ウルヴァーンも、草原の民を支配して、その本拠地の岩塩の採掘権を押さえることで、塩の独占に対抗してみたり。


 サティナも独自の税制を採用することで、キテネ経由の商人を牽制し、他の経済圏へのアプローチを積極的に行ったり、と。


 良くも悪くも政治には関わり合いにならないガロンを除いて、それぞれいい意味で牽制と調整を繰り返し、これまでは特にこの問題が表面化することはなかった。


 しかし。


 ここにきて最近、キテネの領主に不穏な――どこか、野心的な影が見え隠れするようになってきた。



「あの『噂』の件がなければ、と思わずにはいられませんな……」


 はぁ、と珍しく愁傷な顔で、ヴァルターは嘆息する。



 数ヶ月前のこと。一般民衆の間で、とある噂が流行り出した。



 曰く、現公王陛下は体調が優れず、間もなく崩御なさる。



 曰く、跡取りのディートリヒ様は若すぎるため、代わってキテネの現領主が、公国の盟主になられる。



 ――と。


 街角で、市場で、あるいは場末の酒場で、まことしやかに囁かれたこの噂は、異様なほどの速度で公国全土に広まった。


 その不自然さ、そして単純に不敬であるという理由から、宰相ヴァルター率いる諜報部が出所を探った結果――


 

 港湾都市キテネに行きついたのだ。



 勿論、キテネの領主は即座にこれを否定したが、このことが判明した際、ウルヴァーンの貴族たちは、揉めた。


 ――これは、ウルヴァーンに対するキテネからの挑発である、と。


 そう、受け取る者が少なからずいたのは、事実だ。



(……滅多なことは無い、と思いたいがのう)


 顎鬚を撫でつけながら、クラウゼは考える。思い浮かべるのは、キテネの領主の顔。


(何を考えていることやら……)


 年に数回、顔を合わせているが、彼は代々受け継いできた華やかな商才の割に、寡黙で実直な男という印象だった。しかし、そうであるが故に、時折何を考えているのか、推し量りにくいところがある。


 論理的に考えて、実質的な軍事力に劣るキテネが公王の座を狙ったところで、無駄に金がかかるばかりでメリットと言えるメリットはない。また、キテネに『そのつもり』がないということを、クラウゼは半ば直感的に確信していた。


(しかし、そうであるとするならば、他の勢力が噂を流したことになる)


 そもそも、クラウゼの体調不良は、一部の貴族にしか知られていない機密事項だ。誰かが思いつきで、ひょいと流せるような代物ではない。となると、公国内の貴族に不和の種をばらまくため、何者かが意図して噂を流した、と考えるのが自然なわけだが――


(――誰が? そして、どのような意図で?)


 その正体も謎だが、意図するところも分からない。正直、工作として噂をばら撒くならば、もっと上手いやり様がある。この場合、噂の広まり方――拡散速度があからさま過ぎるため、『工作である』と自分から喧伝しているに等しいのだ。


(誰が、何のために……?)


 いくら考えても、ぐるぐると疑問が渦を巻くばかりで、胸の内側にずしりとしたものが積み重なっていくかのようだった。そして、ふいに思い出したかのように、肺の奥から湧き上がってくる、重い咳。


 ゴフッ、ゴフッと激しくせき込み、クラウゼは悲観的な考えを振り払うかのように頭を振った。


(まったく、こんなことでは身が持たんな……)


 ――老いを感じる。口にこそ出さないが、このところは物忘れも激しい。


 万が一のことがある、とは自分でも考えたくないし、出来る限り国の行く末を見守りたいとは思うものの、やはり頭がはっきりしているうちに自分は身を引くべきだ、とその思いを新たにする。


(許せディートリヒ……重荷を背負わせることになる)


 まだ若い――幼いとすら言っていい、孫の顔を思い浮かべながら、老いた王は溜息をつく。



 ひとつ、溜息をついて――暗い考えは、終わらせることにした。



「……そう言えば、そろそろ、殿下の御誕生日ですな」


 それを見計らったかのように、ヴァルターが話題を振ってくる。


「早いものよ、あの子ももう十四になるか」


 祖父の表情、と言うべきか。腕組みをしながらのクラウゼの顔は、この時ばかりは、どこまでも優しげであった。


「……盛大に、祝ってやらねばならん」


 民への披露目も兼ねて、と呟く。


「それでしたら、やはり、何か催し物を企画するべきですかな?」

「……そうよな、今後のことも考えると……」


 コツコツ、と指先で執務机を叩きながら、クラウゼは考えを巡らせる。


「……腕利きの戦士は、いくらいてもいい。武道大会でも開くか?」


 ちら、とクラウゼが目をやると、ヴァルターは満面の笑みで答えた。


「良い考えであられます」

「では、そのように計らえ」

「はっ」


 恭しくヴァルターが頭を下げたところで、扉の外から、足音が聞こえてくる。


 クラウゼは威厳のある表情を取り戻し、ヴァルターは姿勢を正した。こんこん、と扉を叩く音。


「――アントニオ様がいらっしゃいました」

「通せ」


 平坦な声で、ヴァルターが答えた。


 扉が開かれ、茶器を携えた侍女と共に、一人の男が執務室に入ってくる。


 丸顔で、歳は四十代前半ほどか、ぽっちゃりとした体格の男だった。幾つもの宝石が縫い付けられた煌びやかなローブ、頭頂部には羽根飾りのついた小さな帽子、ひと目で上級貴族と知れる出で立ちをしている。


「陛下におかれましては、本日もご機嫌麗しく……」


 柔和な笑みを浮かべ、仰々しく一礼する男。その名を、『アントニオ』という。クラウゼの主治医にして専属の薬師だ。


「具合が悪いからこそ、そちを呼んだわけであるが」

「はっ、申し訳ございません……」


 口の端を歪めて笑うクラウゼに、柔和な笑みを引き攣らせるアントニオ。しかし、すぐに気を取り直して、侍女が準備した簡易テーブルの上に薬箱を置き、秤やカップなどを用意する。


「……それでは、如何様に致しましょう」

「いつものように。咳が鬱陶しくてかなわん」

「仰せのままに」


 一礼し、アントニオは慣れた手つきで、薬剤を調合し始めた。粉末やシロップなどを手際良く量りとり、持参した水とともにカップの中で混ぜ合わせる。


 すぐに、どろりとした濁った緑色の、いかにも不味そうな薬液が完成した。


「さて……」


 新しく匙を手にとって、アントニオは薬液をすくい取り、口に含む。


「ふむ……問題はないようです」


 味見、ではなく、責任を取るための毒見の性格が強い儀式。しかし当然のようにそれをクリアしたアントニオは、侍女が運んできた別の白銀のカップに、改めて薬液を注ぎ直した。


 一見、何の変哲もないカップだが、見るものが見れば、その強力な魔術の波動に気付くだろう。毒を検知すれば直ちに知らせる、高価な魔道具だ。


 なみなみと薬液が注がれたカップを、侍女がクラウゼの手元まで運ぶ。そこで、駄目押しのように、傍らのヴァルターがパチンと指を鳴らした。


【 Thorborg.】


 ふわりと、柔らかな金色の光が、カップの周囲を漂う。その光の中に、一同は、羽根を生やした小人の姿を幻視した。


 ヴァルターは、公国の宰相であると同時に、国立魔道院で魔術を修めた優秀な魔術師でもある。毒見の術式もお手の物で、その老練な精査の眼を欺くことは、人の身ではまず不可能と言ってもいい。


 カップの周囲をくるりと、舐めるようにして回った光は、そのまま二度三度と明滅してから霧散する。


「……問題ありませんな」


 気負わない様子でヴァルターが断言して初めて、クラウゼは目の前のカップに手を付けた。


 とぷん、と揺れる薬液をうんざりとした顔で一瞥し、覚悟を決めたかのように一気に喉に流し込む。


「…………」


 顔をしかめた。凄まじいまでの苦さ、そして後味の悪さ。しかし同時に、胸の奥からつかえが取れるような、そんな爽やかな感覚があった。


「……いつものことながら、そちの薬は良く効く。大儀であった」

「勿体なきお言葉にございます」


 薬の苦みも余程効いたようで、侍女が新たに白銀のカップへと注いだ、蜂蜜のたっぷりと入った口直しの紅茶を飲みながらも、クラウゼの言葉はどこか投げやりだった。それでも、アントニオは感極まったかのように平伏する。


「このところ、手足が異様に冷えることがある。……何とかなるか」

「はい。それでしたら、薬液の調合に心当たりがございます」

「では、次はそのように計らえ。今後とも頼りにしておる」

「ははっ! 身に余る光栄……!!」


 薬箱を抱えたまま、終始ぺこぺことへつらい、部屋を辞するアントニオ。



 その姿を、あからさまに表情に出すことはせず。



 しかし、どことなく胡散臭そうに、ヴァルターは見送っていた。




          †††




 要塞都市ウルヴァーン、領主の城の片隅――。



 日当たりの悪い地上階の一画に、その小さな部屋はある。



 異様な部屋だ。壁の全面が棚で占有され、そこには所狭しと、瓶に詰められた乾燥植物や、何かの種子、得体の知れない乾物などが並べられていた。床にも足の踏み場がないほどに収納箱が置かれ、部屋に比して大きめの机には、乳鉢やすりこぎ、秤、ビーカー、カップや試験管などがぎっしりと置かれている。


 そんな部屋に、ひとりの男はいた。


 醜い男だった。顔は、火傷か何かで酷くただれ、片目は瞼が捲くれ上がったかのようになり、その下の瞳は白濁している。もう片方の目は酷く小さく、その顔のパーツのアンバランスさが、見る者に生理的嫌悪感を掻き立てた。やたらと腫れぼったい唇、その隙間から見える乱杭歯、異常なまでの猫背で机に向かう男は、ただ一人黙々と、すりこぎで何か不気味な紫色の骨のようなものを磨り潰している。


「…………」


 ごりごりと、すりこぎの音だけが、部屋に響く。骨のようなものを粉末状にし、別の容器に移し替えて、また新たに磨り潰す。そんな単純な、しかし地味にきつい作業が、延々と続く。



 しかし――どれほどの時間が経ったか。



 部屋の外から、カツカツと、早いペースで足音が近づいてきた。


 作業する手を止めた醜い男は、手慣れた様子で、フードを目深にかぶる。


 間もなく訪れる主人に醜い顔を見せ、その機嫌を損ねてしまわぬように――



 足音が部屋の前に辿り着くと同時、ノックも何もなく、乱暴に扉が開かれた。


 無言のまま、一人の男が部屋に入ってくる。丸顔に、ぽっちゃりとした体躯、やたらと豪奢なローブ――アントニオだ。


「調子はどうだ? ん?」


 執務室にいたときとは打って変わって、気取った調子で声をかけるアントニオ。


「は、はー。お蔭さまで、順調にごぜぇます」

「ん。本日も陛下は、調合した薬に大変ご満足しておられた。誇りに思うといい」

「ははぁ。ありがとぅごぜぇます」


 ぎこちない動作で、しかし醜い男は、わざとらしく頭を下げて見せる。機嫌を損ねないように。


「さて。それで本題だが、陛下はこの頃、手足の冷えにお悩みのようだ。カンジントア草、リオカの実、レース豆のエキス、この辺りに効能があると思うが、どうだ?」


 流れるようなアントニオの言葉に、しばし男は、黙考する。


「……おっしゃる通りにごぜぇます。完璧でごぜぇます」

「うん、やはりな。私の見立てに間違いはない」


 ふふん、と得意げに鼻を鳴らしたアントニオは、至極ご満悦な様子だった。


「そういうわけで、うん、そうだな、三日分。今日の夜までに用意しておけ」

「はっ……はぁ、夜までに、でごぜぇますか」

「何か?」


 一から用意するとなると、分量的に、それはなかなかな無茶な要望だった。若干の驚きを滲ませる男に、しかしアントニオは不機嫌な顔で問い返す。慌てて、醜い男は平伏した。


「いっいぃえ。確かに、夜までに、三日分でごぜぇますね」

「そうだ。それでいい」


 頷いたアントニオは、ふっと、その丸顔に見下すような笑みを浮かべる。


「お前のような醜い化け物が、誰のお蔭で食うに困らずいられるか、よくよく考えることだ」

「は、はぁー」

「では、……そのように計らえ」


 何がおかしいのかニヤニヤと笑いながら言い放ったアントニオは、そのまま男を一瞥することもなく、乱暴に扉を閉めてさっさと出て行った。


 カツカツカツ、と足音が遠のいていく。その間も、男は、頭を下げたままだった。


 やがて、足音が完全に聞こえなくなってから、ぽつりと、


「ふん。……自分では何も出来ねぇ、若造風情が……」


 毒々しさがにじみ出るような声だったが、と同時にそれは、どこか楽しげでもあった。


 足を引きずりながら、棚を巡って目当ての材料を集める。葉や木の実の入った瓶を机の上に並べ、先ほどと同じように、すりこぎで擦る作業を再開する。



 ごりごり、ごりごりと。



 無機質でどこか暴力的な音が、響く。



 ――どれほどの時間が経ったか。


 閉ざされた雨戸の隙間から、夕焼けの光が差し込む頃。こんこん、と扉をノックするような音が響いた。


 しかし、それは扉からではなく、閉ざされた窓の方からであった。にやりと、笑みかどうかも分からない、醜い口の端を歪めて、すりこぎを置いた男は、急いで雨戸を開け放った。



 そこに居たのは、一羽の鴉。



 窓枠にとまった、真っ赤な瞳の鴉だった。



 雨戸が開くと同時に、慣れた様子で、鴉は部屋の中へと入ってくる。とんとん、と机の上を跳ねてから、ふわりと床に降り立った。


 それをよそに、醜い男は、扉の方へと向かう。慎重に、音を立てないように開き、部屋の外の様子を伺った。



 ――誰もいない。



 そのことを確認し、そっと扉を閉める。



 そして、振り返れば――部屋の中に、ひとりの黒衣の老人がいた。



 異様な雰囲気の、老翁であった。



 まずその背丈。漆黒のローブに包まれたそれは、のっぺりとした存在感を放つ。年老いてなお、ぴんと伸びた背筋は、その壮健さを窺わせた。短く伸ばした黒い髭に、同じように短く刈り上げた黒髪。その顔や黒衣から覗く手は皺だらけで、相当な老齢であることを示していたが、かっ、と見開かれた両の瞳は、荒々しいまでの覇気を秘めていた。血のような、燃え盛る炎のような、深紅の瞳――


【 ―――― 】


 無言のままに、老翁は軽く右手を振った。



 その瞬間、世界から音が消える。



 窓から、あるいは天井から、微かに聞こえていた周囲の生活音が、一切合財消え去った。音を封じる魔術を行使したのだろう、と醜い男は無知ながらも、ぼんやりと推測する。


 下手に城の中で魔術を使えば、宮廷魔術師たちが直ちに検知する、と。そんな話も聞いたことがあったが、少なくとも目の前の老翁が、規格外の存在であるということだけは、はっきりと理解していた。


「……さてさて、久しいのぅ。元気にしておったか?」


 背の低い男を覗き込むようにして、親しげに老翁は問いかける。


「へ、へぇ。お蔭さまで……」


 暗い笑み。しかし、それは上っ面を塗り固めた媚笑ではなく、真の畏敬の念が滲み出るものだった。


「そうかそうか。……?」


 そして、続けざまに問われた言葉に、男は醜い笑みをさらに濃くした。


「……この頃は、手足の冷えに悩まされておられるそうで」

「カッカッカッカ……そうか、そうか」


 懐から、無色透明な液体の詰まった小瓶を取り出しつつ、老翁は邪悪な笑みを浮かべる。


「ならば……


 その小瓶を、醜い男に、手渡した。


「へ、へへぇ……」


 それを受け取りながら、男も引き攣ったような笑みを浮かべる。



 カッカッカ、へっへっへ、と。



 どろどろとした嘲笑の声が、静かすぎる部屋に響く。



 やがてそれは、ばさばさという、一羽の鳥の羽ばたきの音に変わり。



 それすらも遠ざかっていったあと、ゴリゴリと、再びすりこぎの音だけが響く。




 何事も――




 何事も、なかったかのように。




 いつまでも。




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