28. 決闘


「――貴殿に、決闘を申し込む」


 アレクセイの言葉に、ケイは二の句が継げなかった。


 ゲーム内であれば決闘と称して、一対一タイマンでの勝負を持ちかけられたことは何度もあったが――リアルでやられるのは流石に初めてだ。


「返答や如何に?」


 短剣を突き付けたまま、飽くまで慇懃な態度のアレクセイ。その様子を見るに、万が一にも冗談ということはあるまい。


 未だ混乱のさなかにあるケイと、堅い表情を崩さぬアレクセイ。しかも片方が抜き身の短剣を突き付けているとあれば、ただならぬ二人の雰囲気を察したのか、隊商の面々や村人たちがわらわらと周囲に集まってくる。


「どうしたどうした?」

「恋敵同士で決闘だとさ」

「ほう、痴情のもつれかね」


 ひそひそと言葉を交わす野次馬たち。彼らの視線にこの上ない居心地の悪さを感じながらも、ケイは「決闘?」とオウム返しにする。


「然り」


 ケイの目を真っ直ぐに見据えたアレクセイは、重々しく頷いた。


「なんでまた急に」

「貴殿は、我が恋敵であるが故に」


 それ以上の言葉は不要、と言わんばかりの不遜な態度に、ケイも閉口せざるを得ない。


「あーあー出やがった、雪原の民の悪い癖だよ……!」


 と、野次馬の片隅、ダグマルが頭痛を堪えるように頭を抱える。


「……悪い癖、というと?」

「決闘だよ! トラブルがあれば決闘! 色恋沙汰で決闘! 犬が吠えても決闘!」


 呆れ果てた表情で、ダグマルは天を仰いだ。


「何でもかんでも、腕っ節だけで解決しようとすんのさ。恋愛関連は特にそれがヒドい。雪原の民は一夫多妻制で、『強い男こそ良い嫁を貰うべき』って考え方でな。決闘による略奪婚も容認されてるんだよ。いい女がいれば婿の座を巡って、もれなく奪い合いが起きるって寸法だ」

「は、はぁ……」


 ダグマルの解説に、ケイはただ、気の抜けた相槌を打つしかない。どちらかといえば、恋愛に関してはロマンチストなケイからすれば、到底有り得ないような考え方だ。


「……しかし実際のところ、どうなんだそれは。俺たちが闘ったところで、最終的に相手を選ぶのはアイリーンじゃないのか」


 仮に全く関係のない男が勝利したところで、それが女性の心にどう響くというのか。あるいは雪原の民の間では、選ばれる側の意思が介在する余地は無いのだろうか。眉根を寄せて、ケイは率直な疑問を口にする。


 それに対しアレクセイは、ここにきて初めて慇懃な態度を崩し、「さも当然」と言わんばかりに肩をすくめて見せた。


「惚れた男が情けなくボコボコにされりゃあ、百年の恋だって冷めるだろ?」


 おどけるような薄ら笑いと、瞳の中に踊る悪意の光。


「……ほう」


 静かに、そして微かに。口の端を吊り上げて、ケイは曖昧な笑みを浮かべる。面と向かって言い放つということは、つまりはそういうことだろう。


 安い挑発だ、と平静を保とうとしながらも、胸の内側にどろりとしたものが広がるのを止められない。ケイは決して喧嘩っ早い性質ではないが、これは少々頂けなかった。この軽薄な態度も、自分が勝つと信じて疑っていない傲慢さも、アイリーンを景品扱いしているところも、その全てが気に食わない。



 ――というか元からコイツは、何かと癪に障る奴だったな。



 "不倶戴天"という言葉を連想する。


 一瞬の瞑目ののち――その表情をさらに濃いものとして、ケイは悪感情を抱くことに躊躇いを捨て去った。



 それぞれ趣の異なる笑みを浮かべて――



 沈黙のままに、二人の男は対峙する。



 ぴん、と張り詰めた空気は俄かに冷たく。



 立ち込めた朝靄も凍りつくかのようだ――



「…………」


 最初は面白半分に二人を取り囲んでいた野次馬たちも、今では足元から這い上がってくるような寒気に口を閉ざし、固唾を飲んで見守るばかり。


「……ま、まあ、と言ってもそれは雪原の民の風習だ。ケイは……あー、その、草原の民か平原の民か知らないが、とにかく出自は別だろ。ここは北の大地じゃないし、となれば、別に決闘に応じる必要は無いわけで――」


 へらへらと半笑いを浮かべたダグマルが、二人の間に割って入る。


「受けて立ったところで、ケイにはメリットもないし、応じる必要なんかどこにも――」

「そうだ、別に応じる必要はない」


 指先で短剣を弄びながら、腕を組んだアレクセイが、ダグマルの声にかぶせるようにして言う。


「北の大地なら、決闘から逃げれば、もれなく臆病者の謗りを受けることになる。が、あんたは雪原の民じゃないし、そもそも、"大熊グランドゥルス"を一矢の下に討ち取った英雄だ……。今回の決闘を断ったところで、誰もあんたのことを臆病者扱いはしないだろうさ」


 ケイの眉根がぴくりと動く。朗々と語られるアレクセイの言葉は、どこか反語的であるように感じられた。


「――なので、こちらから条件を付けさせて貰おう」


 すっ、と。


 アレクセイは指を三本、立てて見せる。


「一つ。おれの武器は、剣と盾のみとする」


 まず、己の得物に制限を科した。


「二つ。決闘は、五十歩の距離から始めるものとする」


 その上で、間合いを投げ捨てる。そして、


「三つ。代わりにあんたの武器は、自由とする。剣でも、お得意の弓矢でも、好きに使うといいさ」


 不敵な笑みで彩られたアレクセイの宣言に、野次馬たちが大きくどよめいた。特に、ケイの弓の威力を直に目の当たりにしている隊商の面々は、「命知らずな……」と驚きの表情を浮かべている。


「……舐められたもんだな。弓だと手加減できないぞ」


 知らずと、ケイの口から、そんな言葉がこぼれ出ていた。


 うっかり手が滑れば――と、攻撃的なニュアンスを漂わせる呟きに、アレクセイは小さくお手上げのポーズを取る。


「接近戦だと、余りにもあんたに不利だ。弓使いに剣で勝っても面白くも何ともないし、あんたの『全力』を打ち破らないと意味がない。――それに、」


 ニィッ、とその笑みが凶暴さを増す。


「――勝負の後に、『弓さえあれば』なんて言い出されたら面倒だ。言い訳の余地は潰しておかないとな」

「……。大した自信だ」

「まぁーな。たしかに、あんたの弓は脅威的だ。しかし雪原の戦士は、剣も盾も弓も槍も斧も、全て扱えてようやく一人前とされる。その中でおれが剣と盾を選んだ理由ってのを、あんたに身を持って教えてやるよ」

「ほう。それは楽しみだ。しかし……ご自慢の剣だか盾だか知らないが、叩き壊されても文句は言うまいな?」

「ハハッ。ということはこの申し出、受けて貰えるのか?」


 心から嬉しそうに――アレクセイの表情は、もはや獣のそれだ。改めて問われたケイは、今一度リスクとリターンを心の秤にかける。



 それが、余りにも軽く、無に等しいものであるにも拘らず――天秤はがくりと片方に傾いた。



 メリットがないことなど、分かり切っている。


 実際のところ、癪に障る話だ。断れば、アレクセイは大人しく身を引くだろう。だが代わりに、ケイのメンツには傷が付くことになる。逆に、受ければ、アレクセイの思う壺だ。奴の掌の上で踊らされるのかと思うと、それだけで腹が立つ。


 ――どっちに転んでも腹立たしいなら、ブン殴れるだけ闘った方がマシではないか。


 醒めた、それでいて沸騰するような心情で、ケイはそんなことを考える。ここまで挑発されて受けて立たなければ、男が廃るというものだ。


(それに、――俺は狩人だ)


 ケイは、狩人として身を立てることを決めた。それも、ただの猟師ではなく、"大熊"のようなモンスターを相手取る『大物狩り』として。



 ――ならば、目の前の狂犬如き、始末できずに何とする?



「――ちょぉぉっと待ったぁぁ!!」


 意を決してケイが口を開こうとした瞬間、外野から叫び声が上がった。どすどすと足音を立てて、ホランドが駆け寄ってくる。


「決闘だと!? 責任者を置いて、勝手にそんな話を進められても困る!」


 咎めるような口調のホランド、その怒りの矛先は、どちらかといえばアレクセイに向いているようだ。


「いや、これはおれたち二人の問題だ。あんたには関係がない」

「関係ないわけがあるか! 私はこの隊商の責任者で、彼は護衛の戦士だ! あと半日とはいえ、まだ仕事が残ってるんだぞ!」

「そう、あと半日なのが問題なんだ。今を逃したら闘い辛くなる」


 お冠のホランドなど、どこ吹く風のアレクセイ。


 隊商はこのまま北上すれば、半日とせずに要塞都市ウルヴァーン――その外縁部に到着する。護衛任務が正式に完了するのは市街区に入った後であるため、決闘を挑むにしても、適切な場所が見つけ辛くなることをアレクセイは懸念しているのだろう。


 その点、現在隊商が逗留しているこの開拓村は、都市部に近いので比較的安全で、尚且つ広い場所も見つけやすい。先ほど提示した条件で決闘を挑むならば、成る程、この村に居る間が好機であるといえた。ウルヴァーンに着いた後に、再び外へ出向いて決闘を――という手も勿論あるが、わざわざそんな面倒な真似をしてまで、ケイが決闘に応じるかはまた別問題だ。


「しかし――」

「仮に、彼が仕事に支障をきたすような事態になれば、代わりにおれが護衛をやろう。勿論、報酬はいらない」


 まだ何かを言い募ろうとするホランドに、面倒くさそうに頭を掻いたアレクセイが向き直る。


「また、他にも何か問題が起きた場合は、おれがそれに関する全責任を負うことを、祖アレクサンドルの名に於いて誓う」


 短剣を掲げたアレクセイの宣誓に、ホランドは困り顔で視線を彷徨わせた。


「……なあ。ダグマル、どう思う」

「……俺に振られても、なあ」


 こちらも渋い顔で、ダグマル。


「正直、個人的には、お互い同意の上ならさっさと終わらせてくれ、って話なんだが……を踏まないトラブルの方が、よっぽど面倒だからな」


 じっとりとした目で、アレクセイとピエールを見やるダグマル。アレクセイは素知らぬ顔だが、野次馬の中に居たピエールは気まずげに視線を逸らした。


「……一応、護衛のまとめ役としての意見を聞きたい、ダグマル」

「う~む。まあ、こっちの脳筋野郎はどうでもいいとして、問題はケイか。一昨日の村みたく、"大熊"なんて出現すりゃ話は別だが、……それ以外なら、ケイ抜きでも支障はないな。元々六人でやってたわけだし、いざとなりゃ姫さんアイリーンの魔術もある」

「そうか、……二人とも。人死には出さないんだろうな?」


 髭を撫でつけながら、どこか疑わしげな様子で、ケイとアレクセイを見やる。


「…………」


 それに対し、二人の若者は不気味な沈黙で答えた。


「おいおい……なら当然、許可は出せないぞ」

「気を付けよう」

「善処するぜ」


 即答する二人。やれやれと頭を振ったホランドは、「勝手にしたまえ」と溜息をつく。


「それでは、改めて……」


 上機嫌なアレクセイは、ゆっくりとケイに向き直った。


「貴殿に、決闘を申し込む」

「いいだろう、受けて立つ」


 堂々たる宣言に「おお……」と聴衆たちがどよめき、アレクセイは満足げに頷く。


「よし。条件は、さっきの通りでいいな。場所に関しては――」

「ん~なんだよもう煩いなー」


 ――と、背後のテントがガサゴソと。


 振り返れば、アイリーンが目を擦りながら外に出てきていた。


「……って、あれ?」


 対峙するケイとアレクセイに、テントを取り囲む野次馬たち。場のただならぬ雰囲気に気付いたアイリーンは、ぱちぱちと目を瞬かせる。


「……どういう状況?」


 説明を求めるようにこちらを見やる彼女に、ケイは「ふむ」と考えて、


「すまんが、お前を巡ってちょっと決闘することになった」




          †††




 当然のように、アイリーンは反対した。


「意味分かんねえよ! オ、オレを、めめめ巡って決闘だなんて、そんな……!」


 村人に借りた納屋の中、ゴスゴスッ、とケイは脇腹にツッコミの嵐を食らう。怒るやら恥ずかしがるやらで、アイリーンは大変な有様だ。


「まったく! 勝手に大事な話を進めやがって! こっちの気持ちも考えろってんだ! そ、それにオレは、……今さら、そんなことしなくたって……」


 頬を染めて、指先をいじりながら、何やら一人照れ始めたアイリーンをよそに、ケイは深刻な顔でじゃらじゃらと鎖帷子を着込む。


「すまん。あそこまで挑発されると、我慢ならなかった」


 腰のベルトに剣を差しながら、その声に幾らかの後悔を滲ませて、ケイはアイリーンに謝った。決闘のせいで隊商の出発が少し遅れており、アイリーンを含む多方面に迷惑をかけている。時間が経って頭が冷えるにつれ、あの場面ではスルーした方が大人な対応であった、と思い直し始めたのだ。


 しかし、それと同時に『正規の手続きを踏まないトラブルの方がよっぽど面倒』という、ダグマルの言葉も思い出してしまう。


 万が一、アレクセイが暴挙に出たらどうなることか――。有り得ない、とは言い切れないのが、あの男の厄介なところだ。アイリーンは高レベルの自衛能力を備えているので、ちょっとやそっとの事では攫われないだろうが、その過程で何が起きるのか――


(――クソッ、つまりは全部アイツが悪い!)


 苛立たしげに革鎧を装着し、グローブをはめるケイ。一方で、その腰の剣の鞘や矢筒に目を落としたアイリーンは、心配げな顔で、


「……真剣勝負、なんだろ?」

「そう、だな」

「やっぱり、止めない?」

「それも考えたんだが」


 アイツは多分、口で言っても聞かないだろ、と。ケイの言葉に、アイリーンはさもありなんという顔で、「クソッ、全部アイツが悪い!」とケイと同じような結論に達した。


「ケイは……怪我、とか……、しないでくれよ」

「安心しろ。俺はむしろ、どうすればアイツを怪我させないで済むか、逆に心配してるところだ」


 革兜をかぶりながら、ケイはシニカルな笑みを浮かべる。


 ――弓で手加減をするのは、本当に難しい。


 ケイとしても、決闘には勝ちたいが、アレクセイを殺してしまいたいわけではない。

 しかし、生半可な攻撃では、奴は止まらないと予想している。

 だからといって、充分な威力を秘めた一撃では、今度は致命傷になってしまう。

 そして――これが最重要だが、アレクセイ如きのために、残り少ない魔法薬ポーションは使いたくない。


「困ったもんだ、全く」


 最後に首元で顔布の紐を結びながら、ケイはおどけて小さく肩をすくめてみせる。


「…………」


 それでも、アイリーンの不安げな表情は消えない。くしゃくしゃと、艶やかな金髪を撫でつけたケイは、「大丈夫」と安心させるように、軽く言ってのける。


「弓さえ使えれば、剣士に負けることはない。さ、あまり皆を待たせても何だからな。ちゃっちゃと行って、ちゃっちゃと終わらせよう」



 装備を点検し、問題がないことを確認したケイは、アイリーンと連れ立って納屋を後にした。



 目指すは、村はずれの川沿い。五十歩の距離を真っ直ぐに取れ、かつ足場が悪くないという条件の下、河原が果たし合いの場として選ばれたのだ。


 辿り着いてみれば、隊商の面々がほぼ全員と、この小さな村のどこにこれだけ住民がいたのか、と思ってしまうほど多くの村人が集まっていた。鎖帷子に革鎧、そして異様な朱色の複合弓を手にした完全武装のケイの姿に、すでに酒などを酌み交わして出来あがっていた村人たちがさらに沸き立つ。


「よ~ぉ、遅かったじゃねえか色男ー!」


 聞き慣れたダミ声。見やれば、顔を赤くしたダグマルが手を振っていた。地面に外套を敷いて座り込み、近くの村人たちと葡萄酒を酌み交わしているようだ。


「待たせたかな」


 また呑んでるのか、と苦笑しながらも、ケイは視線を左右に彷徨わせる。集まった観衆の中に、金髪の青年の姿を探した。


「……奴は?」

「まだ来てねえよ、お前のが先だ安心しろー!」

「そうか」


 肩から少し力を抜いて、ケイは微笑んだ。と同時に、自分がある程度、緊張していたことを自覚する。


「さあさあ! 間もなく始まる世紀の決闘!」


 野次馬の中心では、両腕に二つの鉢を抱えたホランドが声を張り上げていた。


「片や、勇猛果敢で知られる雪原の戦士、歴戦の若き傭兵、アレクセイ! 片や、巨大にして暴虐なる怪物"大熊"を、たった一矢の下に仕留めた異邦の狩人、ケイ! 希代の美少女を巡って、男の意地と意地とがぶつかり合う! 果たして、勝利の女神はどちらに微笑むのか! さあどちらに賭ける!? どちらに賭けるねー!?」


 どうやら、賭けの元締めをやろうという魂胆のようだ。ホランドに煽られた聴衆たちが、鉢に硬貨を投げ入れ、代わりにその足元から木の札を持ち去っていく。最初はあまり乗り気でなかった癖に、いざ決闘が始まるとなると、この開き直りようだ。「流石は旦那だな」と笑うアイリーンの横、ケイもつられて苦笑した。


「しかし、あれが噂の娘か……別嬪さんだ」

「そりゃ取り合いも起きるわナ」

「あんの長い金髪、綺麗だな~」

「で、革鎧の男が、"大熊"狩りの……?」

「弓で一撃で仕留めたんだと」


 少し余裕が生まれたからか、雑然とした空気の中、周囲の会話が断片的に拾えるようになる。別嬪さんか、と思ったケイは、隣のアイリーンにさり気なく視線をやった。しかし、全く同じタイミングでこちらを見たアイリーンとばっちり目があい、反射的に目を逸らしてしまう。


「…………」


 何とも落ち着かない気分のまま、沈黙の中に沈む。


「おにいちゃん……」


 と、ハイデマリーと一緒に、今度はエッダがやってきた。もじもじとしているような、そわそわとしているような――いつもの天真爛漫なエッダとは、何かが違う。


「やあ、エッダ」


 声はかけたものの、それ以上何をどう話せばいいのか分からないケイ。隣のアイリーンも、似たような状況で、ただ曖昧な笑みを浮かべている。


「……おにいちゃん、決闘するの?」

「……まあな」

「おねえちゃんをかけて?」

「ん……まあ、そうなる、な」


 何とも渋い顔で答えるケイに、俯いたエッダは「……そう」と小さく呟いた。


 明るい黒色の瞳が、ケイとアイリーンの間で揺れる――。


 それは、どこか悲しげで、それでいて困惑しているような、不思議な表情だった。


「……おにいちゃん、がんばってね。負けちゃダメだよ!」


 やがて、ぎこちなく笑みを浮かべたエッダは、ケイが何かを答える前に、背を向けてトタトタと走り去っていく。


「はぁ、まったく。あの子もねえ、そうねぇ……」


 曲がった腰をさすりながら、ハイデマリーがくつくつと笑い声を上げた。


「さて、ケイや。あんたも若いんだから、あんまり酷い怪我はするんじゃないよ。気を付けてね」


 それだけを言い残し、ハイデマリーもエッダの後を追ってゆっくりと歩いていった。


「……何だ今の」

「……さあ?」


 ケイとアイリーンは顔を見合せて、互いに肩をすくめる。


「しかし、エッダみたいな小さな子も、見物に来るのか」

「うーん。教育上どうよ、って思わないでもないけど」

「この世界だと普通なのかも知れんな……」

「そーだな、こっちは何かと物騒だし」


 気を紛らわせるように、取り留めのないことをぽつぽつと語り合う。皆の視線を一身に浴びていることに、気付かない振りをして、ただただ時が過ぎるのを待った。



 そして――



「待たせたな」


 遂に、村の方から、アレクセイが歩いてくる。


 ピエールと連れだって登場した彼も、やはり、ケイと同様に重武装だ。板金付きの革鎧に、ぴかぴかに磨き上げられた金属製の兜。手甲も、脛当ても、兜と同じ白っぽい金属で出来ており、狼のような動物の装飾が彫り込まれている。しかし、両者ともに相当に酷使されてきたのであろう、無数の細かな傷のせいで、浮き彫り細工の殆どが潰れて見えなくなっていた。

 左腕の上腕部には直径30cmほどの、丸みを帯びた金属製の円形盾バックラー。これもまた、かなり使い込まれた逸品で――何度も、主人の命を守ってきたに違いない――表面には幾筋もの刀傷が走っている。

 そして、その右手に握られている、アレクセイの『剣』。無造作に肩に担がれ、ひときわ衆目を集めるそれは、形容するのに一言で足りる。



 大剣。



 ケイに負けず劣らず体格の良いアレクセイ、その背丈とほぼ同じ刃渡りの、長大な片刃の剣だった。振り回しやすいように長めに作られた柄、緩やかに弧を描いて反り返った刀身。片刃ということも相まって、それは何処か日本の大太刀を連想させた。


「どこに持ってたんだそんなの」


 思わず問いかけたケイに、アレクセイは屈託のない笑顔で、


「普段持ち運ぶには、ちょいと邪魔だからな。ピエールの旦那の馬車に置かせて貰ってたのさ」


 隣に居るピエールの背中を、左手でドンッとド突くアレクセイ。本人としては軽く叩いたつもりなのかも知れないが、金属製の盾を装備した一撃は想像以上に重く、元々細身のピエールは勢いよく前につんのめった。


「ゲフッちょっアレクセイくん痛い痛い!」

「や、旦那、こいつぁ失敬」


 非難するようなピエールに、頭を掻きながら笑って誤魔化すアレクセイ。


「さぁてアイリーン。この決闘で、きっとお前のハートを射止めてみせるぜ」


 ケイの傍らのアイリーンに、改めて向き直って爽やかな笑みを浮かべる。それに対し、アイリーンは「イーッだ」と顔をしかめて応えた。


「うっせー! お前なんかボコボコにされんのがお似合いだ!」


 ばーかばーか! とケイの前で、容赦はないがイマイチ捻りのない罵倒を浴びせるアイリーン。その目にギラリと不穏な光を宿したアレクセイは、口の端を歪めてぺろりと唇を舐めた。


「……そそるねぇ」


 軽薄な笑みを浮かべたまま、「よっ」と無造作に、右手の大剣を振り下ろした。



 数歩の距離。びゅオッ、と風を巻き込んで、ブレた刃がぴたりと止まる。



 喋繰しゃべくり回っていた周囲の野次馬が、みな、悉く押し黙った。


 それは、示威行為――とでも呼ぶべきか。


 風を切り裂く鈍い音は、その凶器たり得る重みの証左。片手で振り下ろす動作、ぴたりと定まる刀身、それぞれ使い手の力量が十全のものであり、長大な刃が決して見かけ倒しでないことを如実に物語る。



「おれの言葉の意味が分かったろう」


 どこまでも不敵に、アレクセイは嗤う。


「得物にも格の違いってもんがある。そんなじゃ、打ち合いにもならないぜ」


 大剣を肩に担ぎ直し、ケイの腰の長剣に視線を注ぎながらの言葉に、ケイは小さく溜息をついた。


「この期に及んで、身を引くつもりはない。別に、そこまで煽ってくれなくても結構だ」


 顔布を着けながら、ケイが冷めた目を向けると、アレクセイも表情を消して「そうか」と頷いた。



 どうしようもない沈黙が、その場に降りる。



 顔布で表情を隠したケイと、もはや、アイリーンさえ眼中にないアレクセイ。黙した二人の視線がぶつかり合い、弾け、渦を巻き、不気味な静けさだけが滲み出る。


「二人とも、準備は良いか」


 いつの間にか、近くまで来ていたホランドが、どこか疲れた様子で二人に問うた。


「問題ない」

「完璧だ」


 返答は、言葉少なに。


「よし。……それでは、お互いに悔いなきよう。全力で闘うことだ」


 ホランドの言葉を受け、今一度、ケイに一瞥をくれたアレクセイは、何も言わずに兜の面頬を下ろした。ガシャン、と目元を隠すバイザーの奥、隙間から覗いた青い瞳が、真っ直ぐにケイを射抜く。ゆらりと背を向けたアレクセイに、人混みが二つに割れ、五十歩の道を譲った。その背中を見送りながら、ケイも無言のまま、おもむろに矢筒の口のカバーを取り外す。


「ケイ……」


 唇を噛みしめたアイリーンが、ケイの左腕に手を添えた。


「心配するな」


 顔布の下、極力優しげな笑みを浮かべて、ケイはそっと、その手に自分の手を重ねる。


「負けやしないさ。信じてくれ」

「……分かった」


 不安げな、そしてやるせない表情を浮かべたアイリーンは、最後にケイの手をぎゅっと握りしめて、野次馬たちの最前列にまで下がっていく。


「…………」


 アイリーンから、視線を引き剥がし。



 ケイは思考を切り替えた。




          †††




 五十歩の距離。



 大股で歩いて、40m強といったところか。



 それほど大した距離ではない――とケイは思う。本気のアレクセイであれば、おそらく数秒とせずに詰めてくる。どうしたものか、と他人事のように考えながら、"竜鱗通しドラゴンスティンガー"の弦を軽く弾いた。


 ぶんっ、と心地よい音が耳朶を震わせる。


 元々は、まず盾を破壊して戦意を喪失させ、後遺症にならない程度に痛めつけるつもりだったのだが――。あの金属製の円形盾バックラー、貫徹するには骨だぞ、というのがケイの正直に思うところだ。


 概して、バックラーのような小型の盾は、その防御範囲の狭さから飛び道具に弱いとされる。だが、あの使い込まれた傷だらけの盾を見るに、アレクセイも相応の技量は持ち合わせているはずだ。最初の一矢、二矢は、避けられるか捌かれるか――いずれにせよ、無効化されるとケイは予想する。


(さて、どうやって『倒す』か……)


 右手で矢筒の矢を弄びながら、じっくりと戦術を吟味する。殺そうと思っても死にそうにない、ふてぶてしい態度のアレクセイ、しかしそうであるからこそ、ふとした拍子に死んでしまうかも知れない。手抜きが許される状況でもなし、ここは身から出た錆ということで、ある程度の後遺症は覚悟して貰おうという結論に至った。



 視界の先――ちょうど五十歩の間合い、アレクセイがこちらに向き直る。



 右肩に大剣を担いだまま、長く伸びた柄に左手を添えた。両手持ち――ちょうど左腕のバックラーが、胴体を覆い隠す位置に構えられている。腰を落とし、かすかに上体を前傾させた姿からは、手足の末端にまで満ち満ちた気が見て取れるかのようだ。


(……まるで示現流だな)


 二ノ太刀要ラズ。何よりも疾く、一撃を叩き込む。そんなシンプルにして、苛烈な意志。五十歩の間合いを隔てても尚ひしひしと伝わってくる、今にも爆発しそうな戦意の高まり、ぎりぎりと軋みを上げる筋肉の躍動――。


「双方とも……準備はいいな」


 二人の間に立ったホランド。沈黙を肯定と取ったか、ひとり頷き、


「それでは……先ほども言ったが、両者ともに悔いのないように。また、今後に禍根を残さぬために、全力で闘いつつも、ある程度の手心を忘れないように。万が一、怪我などで決闘の継続が不可能であると判断された場合は――」



「くどい」



 ぴしゃりと、アレクセイの冷たい声がホランドを黙らせた。



 "――これはおれたち二人の問題だ。あんたには関係がない"



 不意に、アレクセイの言葉が頭の中に木霊する。そのとき無言を貫いたケイであったが、初めて、アレクセイの言う事に共感できたような気がした。


 口元しか見えぬアレクセイの顔――にやりと歪んだ唇が、「さあ、始めよう」と告げる。


「……ああ」


 小さく頷いて。


 ケイは矢筒から矢を引き抜いた。


 つがえる。


 引き絞る。


「――――」


 そこに、言葉は不要。



 双方が同時に、



 動いた。



 アレクセイが地を蹴る。



 爆発的な加速。


 速い。


 地を這うように、二、三歩で最高速に達した。


 かすかに粉塵を巻き上げながら、アレクセイは真っ直ぐに迫る。



 ――まずは、小手調べ。



 間髪いれず、迎撃の矢を放つ。


 快音、穿たれる風。


 身体の中心線を抉るように、白羽の矢が飛来する。


 しかし、体を僅かに捻り、アレクセイは余裕を持ってそれを回避した。初撃はやはり見切られたか、と平坦な思考が流れていく。


 続けて、第二射。


 今度は避けられず、いや、回避による時間のロスを嫌ったか、無造作に掲げられた盾が矢を弾き飛ばす。ガァンッ、と硬質な音、火花を散らして明後日の方向に逸らされる。やはり並の一撃では、あの盾は貫通できないという確信。



 三本。



 まとめて、矢筒から引き抜いた。


 構え、引き絞り、放つ。その瞬間、ケイは精密機械と化す。


 カカカッ、と小気味よい連続音、強弓から銀光が閃いた。目にも止まらぬ早業、野次馬たちがどよめき、同時にそれは――殺気に強弱を織り交ぜた巧みな連撃。敢えて中途半端に込められた殺気が、彼我の距離感を狂わせる。回避行動を取り辛くさせる妙技、護衛の傭兵たちが唸った。



 しかしその好敵手もまた、只者ではない。



 ただちに軌道を見切り、最適解を弾き出す。一本は盾で、一本は剣で、一本は脛当てで、それぞれ受け止めた。派手に火花が飛び散り、けたたましい金属音が鳴り響く。しかし一矢足りとも彼の者を傷付けるまでには至らない。


 既に間合いを詰めること、おおよそ三十歩。ニィッとアレクセイが笑みを深める。残り二十歩を数えるうちに、決着をつけねば勝機は無いと――。


(ただの矢じゃ、貫通は無理か)


 静かに、ケイは分析する。決して、手加減したわけではない。今までに放った矢は全て致命傷たり得るもの。板金程度ならば容易くブチ抜く威力、しかし、アレクセイの防具は耐えた。あの、白っぽい金属――何の合金かは知らないが、相当に良質なものだろう。


では、無理か……)



 ――ならば、其れ相応のものを。



 ケイは、矢筒から抜き取った。



 を――。



「……!」


 見守っていたアイリーンが、まさか、と息を呑む。


 "大熊"さえ一撃で絶命せしめたそれを。


 決闘で、人間に対し用いるのかと。



 ――そう。



 ケイは、矢をつがえる。



 両者の距離は、残り十歩を切った。



 アレクセイは、目前だ。凶暴な笑み――獲物を喰い殺さんと、不気味な沈黙の中にしかし狂犬は猛る。兜の面頬、その隙間の奥にあっても尚、水色の瞳がぎらぎらと血に飢えた光を放つ。


 対するケイは、少しだけ目を細め、きりきりと弦を引き絞る。



「死ぬなよ」



 小さく、呟いた。



 ――快音。



 凄まじい勢いで撃ち出された銀光が、馬鹿正直に、真正面からアレクセイに迫る。

 ろくに視認すら出来ぬ速さ、しかし、真正面であればこそ見切るのは容易い。

 その笑みをさらに好戦的な色に染め、あらかじめ身構えていたこともあり、アレクセイは余裕をもって盾で受けた。



 が。



 ボグンッ! と異様な音が響く。



 矢は――


 盾の中心に、突き刺さる。


 丸みを帯びていた表面は無残に陥没し、矢はその裏の左腕を食い破って、あまつさえ鎧の板金と革を穿ち、胸に突き立ってようやく止まった。


「がフッ」


 強烈な一撃を叩き込まれたアレクセイ、肺から押し出された呼気は否応なしに声となり、力の抜けた体躯がそのままぐらりとよろめいた。



 しかし――



 ケイが、次の矢をつがえるよりも速く。


「――ははッ!!」


 アレクセイは――笑った。


 血反吐を吐きながら――たしかに、笑った。


 その腕に、背筋に、力が戻る。


 口元が吊り上がり――それは、凄絶な笑みとして知覚された。


 獣か。――否。


 狂人か。――否。


 ――鬼だ。それは鬼だ。修羅の境地に至る人斬りの顔だ。


 アレクセイが剣を構え直す。


 ぐんっ、と両脚に力が籠る。


 まるで陽炎のように、その体躯が、膨れ上がるような錯覚が、



「――おおおおああああぁぁッッ!!!」



 吠えた。


 場を塗り潰すような殺意の嵐。


 ケイの全身から冷や汗が噴き出す。


 アレクセイはさらに身を低くして――次の瞬間、空気がたわんだ。


 その足元の地面が、爆発したかのように弾け飛ぶ。



 残りの距離が、一瞬で、ゼロになった。



「あああああああぁぁぁッッ!!!」



 ぎらりと輝いた大剣が――振り下ろされる。


 ぶぅん、と不吉な音が押し寄せた。


 全てを賭けた一撃。重過ぎる一撃。


 込められた殺意に魂が震え、世界が裏返るかのような錯覚すら抱いた。


 驚きも、恐怖も、感じる暇さえない。


 ほぼ反射的に、ケイは腰の剣を抜き放った。


 鞘走った鋼鉄の刃を頭上に掲げるようにして。


 受け流す。いや、受け流せるよう試みる。


 しかし――奇妙に引き延ばされた時の中。



 ケイは、見る。



 アレクセイの大剣。


 右手の長剣に、ぶち当たる。


 くわんくわんと震える刃。


 その中に大剣が――


 愕然とするケイの眼前――長剣が、音を立てて砕け散った。



 打ち合いどころか、受け流すことさえ――



 わずかに、その軌道をずらしたものの、大剣は唸りを上げてケイに襲い掛かる。


 白い刃は、ケイの兜の即頭部を削り。


 革鎧の肩当てを叩き切り。


 そのまま、左肩の鎖帷子に食らいつく。



 この一撃で、ケイは左腕を失う――



 加速された思考の中、アレクセイは、己の勝利を確信していた。



 ガツンッと。



 衝撃とともに、刃の進撃が止まるまでは。


「なっ――」


 異様な手応え。剣を受け止めた、その原因を目の当たりにしたアレクセイは、驚愕のあまり目を見開いた。




 ――異様な存在感を放つ、朱色の複合弓。




 ケイの左手に構えられた"竜鱗通し"、その持ち手の部分に、大剣の刃は受け止められていた。折れるでもなく切れるでもなく、僅かに、その表面を凹ませただけで――


 馬鹿な、とアレクセイは、雷に打たれたかのように動きを止める。


(鋼の長剣すら叩き折った一撃を――!!)


 ただの弓が受け止めるなど――。



 しかしあいにく、"竜鱗通し"はただの弓ではない。



 "飛竜ワイバーン"の翼の腱に皮膜、そして"古の樹巨人エルダートレント"の腕木。


 ただでさえ貴重な素材を元に、特殊な加工を経て生み出された、傑作中の傑作。

 特に、持ち手には幾重にも皮膜が巻かれており、この弓のパーツの中で最も頑丈な造りとなっている。その耐久性たるや、現在のケイの所持品の中でも最上位といっても過言ではない。




「得物にも格の違いがある、と言ったな――」


 唸るようにして。ぎりぎりと、剣の柄ごと右拳を握りしめながら、ケイは言う。


 アレクセイの瞳を、睨みつけた。


「――その通りだ!」


 唸りを上げた右のアッパーが、無防備な下顎に叩き込まれた。


「ぐぁッ!?」


 ゴッ、と腹に響く打撃音、アレクセイの身体が跳ね上がる。


 さらに、肘打ちで迫撃をしようとするケイ、しかしアレクセイはよろめきながらも左腕を振り回した。


 上腕部のバックラーがケイの右肩に叩きつけられ、刺さりっ放しだった矢がケイの顔面を引っ掻いた。文字通り、刺すような痛みに一瞬たじろぐケイ、その隙に体勢を立てなおしたアレクセイは、


「――おおおおおおぉぉッッ!」


 再び、闘志に火を付け、真っ直ぐに大剣を突き込んできた。


 切れた口から血を垂れ流しながら、それでもその刺突は鋭く、十分な威力が乗っている。


 しかし――刺突というチョイスが、不味かった。力任せの薙ぎ払いの方が、ケイに対しては効果的であったかもしれない。


 身に染みついた剣術が導くままに、ケイは折れた刃を横から叩きつけた。火花を散らして大剣の上に刃を滑走させながら、アレクセイの懐に飛び込む。


(……来るか!?)


 どこかで見た動きだ。アレクセイは思い出す、ケイがひとり、河原で剣の修練をしていた日のことを。


(折れた剣――短剣の代わりにはなる――首狙いか!)


 あの日の動きを参考に、アレクセイはケイの次の一手を読んだ。このまま大剣の間合いを封じたまま、短剣術に近い動きで白兵戦を仕掛けてくるに違いないと。



 しかし、アレクセイは、知らない。



 ケイの汎用剣術には、剣が使いものにならなくなったときのための――


 "徒手格闘"の教義も含まれているということを。


 アレクセイは、知らない。


 あの日、型の途中で邪魔を入れてしまったため、それを見る機会を自ら失ってしまったことを――



 剣の柄を握る右手が、くんっ、と軽く曲がった。


 手首のスナップで、ケイは折れた剣をアレクセイの顔面に向けて投擲する。


「なにッ!」


 回転しながら迫る刃に、一瞬焦ったアレクセイはしかし、頭突きのような動きで兜を当てることで刃を弾き飛ばすことに成功した。


 だが一瞬、注意が逸れる。


 その隙に、右手がフリーになったケイが、代わりにアレクセイの右腕を掴む。



 そして――全力で引っ張った。



 ただでさえ、刺突によって前かがみになっていたのだ、引っ張られたことによりさらにバランスを崩す。咄嗟に足を踏ん張ろうとするアレクセイだったが、身をかがめたケイがその脚を払った。


「うわッ!?」


 致命的――そう、致命的なまでに、アレクセイの身体が傾いた。ぐっ、と腹に力を込めたケイは、


「――吹っ飛べ!!!」 


 そのまま全力で、アレクセイを投げ飛ばした。



 一本背負い――と呼ぶには、それは豪快すぎる。



 アレクセイは、世界が回るのを感じた。


 何が、一体、何がどうなっているのか。びゅうびゅうと唸る風の音を聞きながら、混乱する脳が現状把握に努める。しかしそれをよそに、アレクセイは、在りし日の出来事を思い出していた。家畜の豚の突進をモロに食らい、見事に吹き飛ばされた思い出。あのときも、こんなふうに世界が回って見えたっけ、と、他愛のない思考が――




 背中を襲った恐ろしい衝撃に、セピア色の記憶が砕け散った。




 がつんっ、と顔面を襲う衝撃。ただでさえ血塗れだった口、その唇が切れて血が噴き出した。


 地面とキスをしている――その状態に気付いたのは、一拍遅れてのこと。やたらと長く感じた滞空時間、ロクに受け身すら取れず地面に叩きつけられたらしい。


 ――いや、それはいい、地面の方向が分かったのだから。


 震える足腰に、立ち上がれ! と命じる。


 大地に手をついて、起き上がろうとしたところで――



 アレクセイは、立て続けに乾いた音を聴いた。



 次の瞬間、ハンマーで殴られたかのような衝撃が頭部を襲い、アレクセイの意識は闇に呑まれた。




         †††




「おおおおお!!!」


 どさり、と力の抜けたアレクセイが地面に倒れ伏すのを見届けて、周囲の観客たちが沸き立った。


「あっぶねえ……」


 それをよそに、ケイは呼吸も荒く口元の顔布を取り去った。即座に確かめたのは、"竜鱗通し"の状態。大剣を受け止めた部分が少し凹んでいるものの、それ以外に異常は見られなかった。何度か思い切り引いてみたが、致命的な損傷もしていないらしい。


「ケーイ!!」


 泣きそうな顔で、アイリーンが駆け寄ってくる。


「大丈夫か!?」

「ああ、大丈夫だ、かすり傷さ」

「大丈夫じゃないだろ! 血が出てる!!」


 ぺたぺたと、ケイの顔や左肩に触れるアイリーン。


「思ったより、手古摺っちまった」


 ピエールや見習いの若者たちに介抱されているアレクセイを見ながら、ケイはしみじみと呟いた。未だ気絶したままのびているようだが、咄嗟に"竜鱗通し"で防御していなければ、今頃あそこに転がっていたのはケイだったかもしれない。


(っていうか下手したらお互い死んでたなアレは……)


 決闘を振り返って、ケイは渋い顔をする。アレクセイも大概な勢いで来ていたが、ケイも『長矢』の威力の調整を失敗していれば、何が起きたか分からない。


(気持ち弱めにしといてよかったな……)


 アレクセイの鎧の胸元に開いた風穴を眺めながら、そんなことをつらつらと考える。


「……ケイ? ケーイー?」


 と、目の前でアイリーンが手を振っていた。


「ん? なんだ?」

「なんだじゃねえよ、大丈夫か? 頭打ってないか?」


 ケイの額に手を当てて、心配げなアイリーン。


「大丈夫だ。そこまで大した傷じゃない」

「そうか……」

「うん……」


 ケイは微笑みを浮かべて、うるんだアイリーンの瞳を覗き込む。


「…………」


 しばし、そのまま見つめ合っていたが、すぐに二人とも様子がおかしいことに気付いた。



 静かすぎる。



 恐る恐る、といった様子で、周囲を見回して見れば、


「ん~ん。お熱いねぇお二人さん」


 ニマニマと、生温かい笑みを浮かべてこちらを見つめる、顔、顔、顔――。


 ボッと、ケイとアイリーンの顔面が赤く染まる。


「よーしケイ! これで名実ともに、アイリーンはお前さんのものだ! 喜べ!」


 完全に酔っ払いモードのダグマルが、葡萄酒の杯を掲げながら叫ぶ。どっと沸いた野次馬たちが、それに続くように歓声を上げた。


「いや~あんな美人の嫁さん、羨ましいなぁ!」

「なぁ!」

「よっめ入り! よっめ入り!」

「よっめ入り! よっめ入り!」


 手拍子ととも、謎のコールが始まる。ケイたちは恥ずかしいやら何やらで、困り顔のままもじもじとしていたが、


「キスしろ~!」


 誰かが叫んで、その場の空気が変わった。男性陣は雄叫びに近い叫びをあげ、村の女性陣は黄色い悲鳴を上げる。


「キース! キース! キース!」


 ぐるりと周囲を取り囲んで、手拍子と共に囃し立てる群衆。ケイとアイリーンの顔面は赤色の限界に挑もうとしている。


「ケッ、ケイ!」


 叫んだアイリーンが、ケイの手をぐいと掴んだ。


「なんだ!」

「逃げよう!」


 アイリーンに手を引かれ、ケイも走りだす。大盛り上がりの村人たちを押しのけ、二人はなんとか、包囲網を突破することに成功した。


「意気地なし~!」

「根性見せやがれ~!」


 全力で逃走する二人に対し、村人たちの冷やかしは続く。



 しかし、追いかけようとする者は、誰一人としていなかった。




          †††




「……まったく、もう!」


 村外れ。川沿いの木陰で、アイリーンは口を尖らせている。


「怪我しないって約束しただろ!」


 不機嫌の理由は、主にケイの負傷だ。アイリーンの前で上半身裸になったケイは、あらかじめ準備していた薬草などで、肩の切り傷を消毒していた。


 ちなみに念のため、アイリーンはポーションも持ってきているのだが、それほど重傷ではないため、今回は使わないこととする。


「すまんすまん、イテテ……染みるなぁこの薬草」

「POTほどじゃねーだろ」


 顔をしかめるケイに、消毒用の軟膏を塗り込むアイリーンは容赦がない。


 川のせせらぎの音を聴きながら、しばし、場を沈黙が包む。


「……よし、はい終わり」


 肩の傷に包帯を巻いて、ぽんぽん、とケイの頭を叩くアイリーン。


「ありがとう」

「まったく、金輪際こういうのはナシだぜ! すっごいヒヤヒヤしたんだからな!」


 ポーチに薬を仕舞いながら、アイリーンは怖い顔をしてみせる。ケイはそれに笑って、しかしすぐに表情を引き締めた。


「すまん。でも、お前を取られたくなかったんだ」


 真剣な顔のケイを、横目でチラ見したアイリーンは、ポーチを片付けながら「はぁ」と溜息をついた。


「じゃあ、何か。今のオレは、ケイのものなのかな」

「……すまん。言い方が気に障ったなら謝る」


 感情を感じさせないフラットな言い方に、ケイは慌てて声を上擦らせた。しかし、そんなケイの様子を見て、アイリーンは逆に口元をほころばせる。


「……なあ、ケイ」

「な、なんだ?」


 目の前で膝をついて、アイリーンはじっと、ケイの瞳を覗き込む。


 やがて、ゆっくりと手を伸ばしたアイリーンは、ケイの右手を手にとって、――自身の胸元へと導いた。


「お、おいっ」


 なぜ、自分はアイリーンの胸にタッチしているのか、なぜアイリーンはこんな真似を――と一気に挙動不審になるケイであったが、数秒とせずに、気付いた。



 アイリーンの右胸。この、今自分が触れている部分は、かつて毒矢が突き立っていた場所であるということに――。



「あの日のこと、オレ、あんまりよく憶えてないんだ」



 ぽつりと、アイリーンは言った。



「でも、ケイがオレのこと、守ってくれたのは、憶えてる」



 青色の瞳が、揺れる。



「なあ、ケイ……命を助けられるのって、けっこう、凄いことなんだぜ」



 胸元に抱いたケイの手を、アイリーンは、愛おしげに撫でた。



「それに、オレは……ケイと違って、ケイが男だってこと、最初から知ってたんだ」



 目をぱちぱちと瞬かせるケイ。アイリーンは、悪戯っ子のような笑みを浮かべて、



「……こうやって、怪我したのは、嬉しくないけどさ。でも今回も体を張って、ケイは頑張ってくれたことだし、」



 不意に、体を寄せる。ふわりと良い香りが、鼻腔をくすぐった。



「――お礼、あげないとな」



 アイリーンの顔が、視界に大写しになって――



 ちゅっ、と。



 柔らかい感触が、唇を奪った。



「……え?」



 茫然と、ケイは。



 体を離したアイリーンは――はにかんだように「えへへ」と笑った。



 口元に手をやって、何が起きたか反芻するケイ。



 やがて、『それ』が理解に変わったとき。



 ケイは、自身の胸の内の感情が、



 どうしようもなく、抑えが利かないものになったことを、



 ――はっきりと、自覚した。




         †††




 その日のうちに、隊商は村を出発した。


 ひとりの勝者と、ひとりの敗者、


 そして、ひと組の恋人たちと共に、


 隊商はゆっくりと、街道を北上していく。



 なぜ、自分たちは、この世界にきたのか。



 どのようにして、生きていくのか。



 元の世界に戻る方法は、存在するのか。



 存在したところで、――元の世界に、帰るのか。



 知りたいこと、考えなければならないことは、まだまだ山積している。


 その手がかりを得るため、今日までケイたちは、旅を続けてきた。


 果たして――進み続けること、おおよそ半日。



 隊商は、要塞都市ウルヴァーンに到着した。


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