27. 英雄


 翌日。


 昼前に、隊商の面々は町外れの広場に集合した。


 ケイがアイリーンと共に荷物の確認をしていると、ショートソードに複合弓で武装したダグマルが、「よっ」と手を上げながら近づいてくる。


「どうだケイ、調子は?」

「悪くないな」

「そうかそうか」


 ニヤけ面で何度も頷いたダグマルは、意味ありげな視線をアイリーンに向け、声をひそめる。


「で、どうだったよ?」


 ケイははにかんだように笑い、


「……お蔭で、上手くいったよ」

「おおー! どこまでいった? コレか?」


 クイクイッ、と何やら卑猥な動きをするダグマルに、ケイは一転、冷やかな目を向けた。


「……そういうのは、きちんと段階を踏んで、だ」

「かーっ、お堅いねぇ」


 額をぱちんと叩いて、しばらくからからと笑っていたダグマルであったが、不意に溜息をついて表情を引き締める。


「ま、それはいいとして、だ。ケイ、それにアイリーン、二人とも聞いてくれ」


 突然の真面目な口調、どうやら仕事の話のようだ。面食らいつつも、ケイとアイリーンは神妙な顔で耳を傾ける。


「……こっからウルヴァーンまでの道のりは、今までと違って気合を入れて欲しい。途中で二つほど開拓村に立ち寄るが、そこがなかなか厄介な土地柄でな。森を切り拓いた所なもんで、昼夜問わずに獣が出やがるんだ。お蔭で盗賊の類はいないが、狩猟狼ハウンドウルフの群れなんかに襲われたこともある。とにかく、隊商の荷馬車に被害を出さないことを最優先に立ち回ってくれ」


 いつになくダグマルが重武装なのも、それが理由らしい。


「了解した」

「ベストを尽くすぜ……」


 狩りはお手の物のケイに対して、投げナイフ以外に有効な飛び道具を持たないアイリーンは浮かない顔だ。アイリーンは対人戦闘に特化したタイプなので、人型モンスター相手なら兎も角、獣の群れと戦うようなシチュエーションはあまり得意としていない。


「特に嬢ちゃんの魔術、頼りにしてるからな!」


 ニカッと笑ったダグマルが、手をひらひらさせながら去っていく。実は昼間は魔術が使えないことを伏せているアイリーンは、何とも曖昧な表情を浮かべていた。


「……ま、"飛竜ワイバーン"でも出張ってこない限り、大概の相手は俺が何とかするさ」


 自信なさげに丸まった背中をぽんぽんと叩いて、励ますようにケイ。


「……そうだよな。魔術が必要な場面なんて、そうそうないよな」


 気を取り直したのか、木の丸盾を背負いながら、アイリーンは軽く笑い飛ばした。




 隊商は、予定通りユーリアの町を出発する。


 滞在中も商売に勤しんでいたホランドのようなやり手を除いて、皆この二日間で英気を養ったらしい、隊商の面々も生き生きとした様子だ。特に騎乗の護衛たちは弓を片手に周囲を警戒しているものの、互いに雑談する程度の余裕はあり、いい意味で肩の力を抜いている。


 ピエールは滞在中、本格的に馬車を修理したらしく、もう故障の心配はないとのことで、ケイは本来の持ち場――ホランドの馬車の横に戻ることとなった。当然、その隣で轡を並べるのは、アイリーンだ。


「それにしても、あの屋台のガレット美味かったなー」

「思ったよりも良い町だった」

「だな! また来ようぜ!」

「うむ。神殿にももう一度行ってみたいしな」


 ケイたちの会話に以前のようなぎこちなさはなく、自然に談笑する二人の様子を、周囲は生温かい目で見守っていた。出発前、ケイがダグマルに"結果報告"をしたことにより、話が隊商中に広まっていたのは当然の帰結というべきか。幸いなのは、ケイもアイリーンも互いの会話に集中していて、自分たちが観察対象になっていることには気付いていないことだ。


 ちなみにアレクセイはというと、昨日酔っ払って醜態を晒したことを気にしているのか、ピエールの馬車に乗って大人しくしていた。



 要塞都市ウルヴァーンを目指して、隊商は一路北へ向かう。



 大きく蛇行するアリア川を右手に捉えながら、川沿いの街道を進んでいると、まるでこれまでの道程をそのまま進んでいるかのような錯覚に陥る。ただ一つ、サティナ‐ユーリア間との違いを挙げるとすれば、それは周囲の植生だろう。林を抜ければすぐに草原が広がっていたモルラ川沿岸地域とは違い、こちらは何処までも深い森が広がっている――"ラナセル大森林"だ。


 広葉樹が生い茂り、陽光が遮られた森の中は薄暗く、ケイの瞳をもってしても奥までは見通すことはできない。


 しかし成る程、豊かな森だ――と思わされる。


 アイリーンと話しながら森にも注意を向けているが、先ほどから幾度となく獣の姿が見かけられた。鳥は勿論のことキツネや鹿、猫に似た小型の肉食獣の姿もある。


 ホランド曰く、ウルヴァーンの統治下にある"アクランド"領は、この森を開墾することで豊かな土地を確保しているらしい。木はそのまま資材になり、獣は日々の糧になる。薬草の類も豊富で、切り拓けば森の黒土は優秀な田畑に様変わりだ。これから立ち寄る開墾村も、そんな開発の最前線といえる。


「はっきり言って、商売相手としては微妙だな。元々開拓村には、借金に追われた人間や、農家の次男坊、三男坊なんかが送られるものだからね。どちらかといえば貧乏人が多い」


 そう言ってボヤくのはホランドだ。これから立ち寄る村は、他の行商人であればスルーしてしまうほど、儲けの少ない商売相手らしい。


「さりとて、彼らは物資を必要としているし、行商人は物流の担い手だ。無碍にするわけにも、いかなくてなぁ」

「旦那は商人の鑑だな」


 商談に忙殺されロクに体も休められず、疲れのせいか愚痴っぽいホランドに、アイリーンが調子を合わせて相槌を打つ。


 ケイも黙って話を聞いていたが、突然、その目をチカッ、チカッと眩い光が襲った。


「うおッ、なんだ?」


 強力だが繊細なケイの目に、その光は強すぎる。見れば、荷馬車の上でエッダが悪戯っぽい笑みを浮かべていた。その手に握られていたのは、掌サイズの金属製の円盤。


「あっ、それ! もしかして鏡!?」


 目ざとく気付いたアイリーンが、食らいつくように馬を荷馬車に寄せる。


「うん! 鏡ー!」

「エッダ!! それを持ち出すなと言ったろう!」


 振り返り、声を荒げるホランド。びくりと体をすくませたエッダは、「ごめんなさーい!」と言いながら、すっ飛ぶようにして幌の影に逃げていく。


「ちゃんと仕舞っておきなさい! 割れたら大変なんだから!」

「は~い……」


 拗ねたような声だけが返ってくる。「まったく!」とプリプリ怒りながら、ホランドは手綱を握り直した。


「旦那、アレは商品なのか?」


 青い瞳をきらきらと輝かせ、興味津々な様子でアイリーン。


「ああ、あれはサティナから運んでいる品でね。元はといえば鉱山都市ガロンで造られたものだよ。ウチの悪さをする娘に、見つからないよう隠してたんだが……ユーリアにいる間に荷を漁ったみたいでね」

「そうか。高いんだろ?」

「まあ、……小売価格で銀貨二十枚といったところかな。サイズは小さいが、質がいいものでね。錆びないんだよ」

「へ~ぇ……」


 顎に手を当てて頷くアイリーンの顔には、「それほど高くはないな……」という考えが透けて見えていた。それにすかさず気付いたホランドは、


「ああ、いや、すまない。あれは依頼された品でね、売ることは出来ないんだ」

「……。そっかー」


 あからさまにがっかりするアイリーン。「まあまあ、また縁があったらね……」など言いながら、ホランドはケイに意味ありげな目を向けた。ケイはそれに頷き返しつつ、「ウルヴァーンに着いたら、ホランドを頼ろう」と密かに決意を固める。銀貨数十枚程度なら、即決で購入できるだろう。




          †††




 それから暫く、平和な旅路は続く。


 特筆すべきことといえば、ユーリアから一時間ほどの所で、街道に彷徨い出た大きな鹿を前方の護衛が弓で仕留めたくらいのものだ。その他は何事もなく、事前にダグマルから注意されていただけに、ケイたちは拍子抜けした気分であった。



 が。


 夕刻、最初の村に到着した時に、そんな平和な空気は一撃で吹き飛んだ。



「……何だあれは。一体どうなっている?」


 街道の彼方、視界に入った村の姿を見て、御者台のホランドが驚きの声を上げる。



 開拓村は、周囲をぐるりと丸太の壁で囲んだ、ちょっとした小要塞とでも呼べるような村だった。

 しかしその壁の一部は、まるで爆発に吹き飛ばされたかのように、大きく穴が開いて破壊されている。憔悴しきった様子の村人たちが、手に木材を抱えて修復作業を進めているのが見えた。


 ひとまず隊商は村に入り、住人たちに事情を聞くことにする。


「とんでもないコトになっちまった――」


 疲れの滲む顔で、説明を始めたのはエリドアという名の男だ。どうやらこの村の村長らしく、ケイの第一印象は、「村長にしては若い」だった。おそらくは三十代後半――体格こそ筋肉質なものの、八の字になった眉のせいで常に困り顔に見えることもあり、全く頼れる風には見えない。


 疲れのせいか、あるいは頭の回転がそれほど速くないのか、エリドアの説明はいまいち要領を得なかったが、話をまとめるとこういうことだった。



 始まりは、一昨日の昼のこと。


 村人の一人が村外れの森で、手負いの獣を見つけた。


 それは体長が3mほどにもなる、世にも奇妙な美しい動物だった。馬に似た体躯、緑っぽい光沢を見せる美しい毛皮、鋭く尖った長い一本角。攻撃的な雰囲気を漂わせていたそれは、しかし足と腹に深い傷を受けており、村人が見つけた時点で息も絶え絶えの状態であったという。


 ひと目見てただの獣ではないと察した村人は、村に仲間たちを呼びに行き、そして見事、寄ってたかって滅多打ちにして仕留めることに成功した。


 これは絶対に高く売れる、と大喜びで皮を剥ぎ角を取り、腐りそうな肉は祝いと称して皆で食した。ただ焼いて塩で味付けしただけだったが、その肉は大変に美味であったらしい。


 食べられそうにない奇妙な色の内臓は捨て、骨などの『残り物』は念のため倉庫に仕舞い、村人たちは大満足で眠りについた――そして、そこまでは良かった。


 悲劇が起きたのは、その次の日、即ち昨日の夕暮れのこと。


 森の奥から突然、凄まじい咆哮が聴こえたかと思うと、見たこともないような巨大な化け物が姿を現したのだという。


 村の壁越しに、頭が見えるほど大きかったそれは――



「――熊、だった。メチャクチャでかい熊だったんだ」


 げっそりとした様子で、エリドアは言う。


 腕の一振りで木の壁を破砕したその熊は、真っ直ぐに『残り物』を置いていた倉庫に向かったが、骨と皮の余りしか残っていなかったことに怒り狂い、そのまま村人たちに襲いかかった――。


「六人、食われた。男が三人、女が二人、子供が一人。丸ごと食われて、殆ど死体も残らなかった。……怪我人も二人いたが、みな朝までには死んだ」


 エリドアの口から訥々とつとつと語られる凄惨な事件のあらましに、隊商の面々は顔を引き攣らせ、しんと静まり返る。


「……どうするつもりだ?」


 ホランドの問いかけに、エリドアはただただ、重い溜息をついた。


「今朝、街に何人か行かせた。馬も食われてしまったから、仕方なく徒歩で……しかし助けが来てくれるかは分からないし、まず話を信じてもらえるかどうか……」

「うぅむ……」


 崩壊した丸太の防壁を見やりながら、ホランドは唸る。確かに、3mはあろうかという丸太の壁よりもさらに背丈の高い熊など、俄かには信じがたい話だ。しかし、実際に破壊された壁や家々を見れば、それが法螺吹きの類でないことはすぐにわかる。


「俺たちも危ないんじゃ……」

「逃げた方が……」


 囁くような声で商人たちが相談し始め、それを耳にしたエリドアの顔色が悪くなる。このまま隊商――具体的に言えばその護衛の戦士たち――に逃げられると、村が壊滅してしまうのは火を見るよりも明らかだった。


「待ってくれ。おれたちを見捨てないでくれ!」

「……気持ちは分かるが、そんな化け物の相手なんざ、金貨を積まれたって御免だぞ」


 護衛の代表として口を開いたのは、ダグマルだ。崩壊した壁を見やりながら、その表情には、同情と憐憫がありありと滲み出ていた。


「というか、それより早く逃げた方がいいんじゃねえか?」

「そ、そんな……!」

「そうだ、逃げよう! 我々の戦力でどうにかなる相手じゃない!」

「あの壁をぶち抜く相手となるとな……」

「村の面々も一緒に逃げたらどうだ?」

「後を追ってくるかもしれないぞ……」

「……それは困るな」

「おい! 俺たちに残って囮になれってか!?」


 周囲の村人たちも集まって話に加わり、場が騒然とし始める。


 その集団からそっと抜け出して、ケイはひとり、崩れた壁の方へ歩いていった。


 半ば諦めたような顔で修理を進める村人たちをよそに、まず壁の外側の地面に視線を走らせる。探すまでもなく、くっきりと残された大きな足跡。しゃがみ込んで、自分の手の平と照らし合わせたところ、『熊』の足のサイズは軽く五十センチを越えていた。


 足の指の形に沿って踏みしめられた土、根っこから折り倒されている森の木々、壁に刻み込まれた巨大な爪跡、それらを注意深く観察する。


「どう思う、ケイ?」


 背後から声。振り返るまでもない、アイリーンだ。


「……そうだな。アイリーン、ちょっとあそこの壁、見てみてくれないか。毛が挟まってる」

「ん、どれどれ」


 ケイが指差さす丸太の壁、地面から2mほどの高さの所に、軽く助走をつけたアイリーンはぴょんと飛び上がって取りついた。軽業師でも成し得ないような跳躍に周囲の村人たちが唖然とするが、アイリーンはそれを気にすることなく、


「……ビンゴ」


 壁の隙間に挟まっていた、数本の獣の毛を引っこ抜く。


「もう暗くなってきてんのに、よくこんなもん見えたなケイ」

「まあな。ちょっと貸してくれ」


 アイリーンに手渡されたそれを、夕焼け空にかざして見る。ゴワゴワと堅く、光沢のある暗い赤色の毛。


「この色の毛の熊は、……一種類しかいないよな」

「でも、話で聞く限りだと、ちょっと小さくね?」

「多分、若い個体なんだろう。こんな人里まで出てきたのもそのせいじゃないか?」

「なるほど……」


 手の中の毛に視線を落とし、森の奥を見やり、二人は共に表情を曇らせた。


「どうする? オレが【追跡】してもいいけど」


 日の沈んだ空を見上げて、アイリーン。


「……俺たちだけで決めてもな。雇い主に相談するのが筋ってもんだろう」


 ケイとアイリーンの二人だけならば自分たちで好きなように対応できるが、隊商や村人たちのことを考えると勝手に振舞うわけにはいかない。二人は議論の紛糾する村の中へ戻っていく。


「時間の無駄だ! 村を離れよう!」

「頼む、見捨てないでくれ! 助けてくれよ!」

「今、下手に逃げても危険じゃないか?」

「まだ集まっていた方が、戦いやすいかも知れないな……」

「いやいや危険すぎるだろう! あの丸太の壁を一発でぶち壊す化け物だぞ?」


 どうやら隊商の面々も、逃げる派と村に留まる派で分かれているらしい。そこに「兎に角助けてくれ」と泣きつく村人が加わり、話し合いはまさしく混沌の様相を呈していた。


「すまない。幾つか聞いていいか」


 そんな中、ひとり場違いなほど生真面目な雰囲気を漂わせたケイは、手を挙げてエリドアに問いかける。まるで死人のように、ゆっくりと首を巡らせたエリドアは、


「なんだ……?」

「熊についてなんだが、背丈は少なくとも4m以上で、毛皮は暗めの赤っぽい色、首のまわりに斑点のような白い模様はあったか? そして下顎の牙が異様に長く、燃えるような赤い目をしていなかったか」


 突然の具体的な質問に、面食らった様子のエリドア。記憶を辿るように目を細めた彼は、


「……すまん、目の色は分からない、逃げるのに必死だったんだ。体毛は、赤っぽかったと思う、牙は……そうだな、下の方が長いように見えた。模様は……おい、皆! 熊の首周りに、白い斑点はあったか? 目は何色だった?」

「……憶えてないな」

「言われてみれば、あった気もするが……」

「おっかなくて目なんて見てねぇよ……」


 村人たちはボソボソと、呟くようにして口々に答える。エリドアは申し訳なさそうな困り顔になった。


「……すまん。皆、よく憶えてないみたいだ」

「なら、吠え方はどうだった? 『グオオオォッ』と地の底から響いてくるような、そんな重低音じゃなかったか?」

「ああ、それは憶えている! そんな感じだった、思い出しただけでも震え上がるような……」


 ケイの口真似に、エリドアはガクガクと何度も頷いた。「成る程」と腕を組んで得心するケイ。


「……心当たりが?」


 いつの間にか静かになっていた皆を代表し、ホランドが問う。「ああ」とケイは首肯して、


「話を聞く限り、十中八九"大熊グランドゥルス"だろう」



 その、断定的な言葉は間違いなく、皆に幾らかの動揺をもたらした。



 "大熊グランドゥルス"。


 『陸の竜』こと"森大蜥蜴グリーンサラマンデル"と双璧を為し、『森の王者』と称される巨大なモンスターだ。


 普通の熊との違いは、まずその体格。次に、強靭性の高い毛皮と分厚い筋肉による、桁外れな防御力だ。生半可な武器では傷一つ付けられず、仮に皮を突破して傷を負わせられたとしても、筋肉と脂肪の層に阻まれるため致命傷には至らない。


 "森大蜥蜴"のように毒があるわけでもなく、"飛竜"のようにブレスを吐くわけでもないが、"大熊"はその防御力と腕力でシンプルかつ絶大な強さを誇る。また、猪突猛進な"森大蜥蜴"とは違って知能も高く、待ち伏せや撤退、罠の回避や足跡を使ったミスリード、岩や木を投擲して遠距離攻撃、など人型モンスターに匹敵する戦術行動を取れるため、ゲーム内では非常に戦い辛い相手としてプレイヤーたちから恐れられていた。


 そして、その辺の事情はこちらの世界でも同じなようで、アイリーンを除く全員が、"大熊"の名を聞いてぎょっと身を仰け反らせる。


「……"大熊"?」

「まさか、有り得ない」

「流石にそれは……」


 しかし、それも一瞬のこと。隊商の面々はすぐに気を取り直して、「そんな筈はない」とケイの考えを一笑に付した。


「【深部アビス】の獣が、こんな場所に出るわけがない。いくら森を切り拓いたと言っても、ここは街道に近い人里だぞ」


 疑わしげなエリドアに、ケイは頷きながらも、


「確かに、普通はこんな所までは出てこない。しかし基本的に、――これは"大熊"に限った話じゃなく、全ての熊に言えることだが――、連中は獲物への執着心が強いからな。一度食うと決めたら、何処までも追いかけてくる。

 御宅らが仕留めた『緑色の獣』は、特徴からして【深部】に棲む"イシュケー"というモンスターだ。肉が美味く内臓は栄養価が高い。おそらく、"大熊"に追われて逃げてきたんだろうな」

「じゃ、じゃあ……村が襲われたのは、俺たちがイシュケーを殺したから、なのか?」

「うーむ。いずれにせよ、近くまでやってきていたのは事実だ。遅かれ早かれ、同じ結果にはなった、かも知れないな」

「そうか……近くにまで来られた時点で、運の尽きだったのか……クソッ」


 エリドアは眉根を寄せて、悲痛な表情で嘆いている。ケイとしても、同情の念は禁じえないが、少なくともイシュケーが村襲撃の一因となったことは否定のしようがない。


「……理屈は分かったが、ケイ。"大熊"ってのは、小山ほどもある巨大なモンスターじゃないのか? 話を聞いた限りだと、今回の奴は小さすぎるように思えるんだが……その、『"大熊"にしては』、という意味でだが」


 完膚なきまでに粉砕されている村の倉庫を見やりながら、それでも信じきれない様子のダグマル。「小山ほどもある」という表現を聞いて、ケイは思わず苦笑した。


「"大熊"の成獣は、確かに見上げるほどにデカいが、それでも体長7mは越えないよ。それでも充分デカいっちゃデカいが……ここを襲ったヤツは、大きさからして、まだ巣立ったばかりの若い個体だろう。老練な"大熊"は自分の縄張りから出て来ないし、そもそも獲物を逃がすようなヘマはしないだろうからな。それにさっき、暗赤色の獣の毛を見つけたが、この色も"大熊"特有のものだ」

「まるで、見たことがあるような言い方だな?」

「……まあな」


 半信半疑なダグマルの言葉に対し、ケイは小さく肩をすくめるにとどめた。


「兎も角、いずれにせよ相手は一撃で壁をぶっ飛ばすような化け物だ。逃げるにしても戦うにしても、早目に決断することをお勧めする。連中は夕暮れや朝方の、薄暗い時間帯に一番活発に動くからな」


 ケイが茜色に染まる空を見上げながらそう言うと、皆はいよいよ困った様子で顔を見合わせる。


「私は……隊商の責任者として、リスクは極力避けたいのだが、さりとて村の人々を見捨てたくもない」


 先ほどから、隊商の皆と村人たちとの間で板挟みになっていたホランドが、ぽつりと率直な考えを漏らした。


「ケイ、意見を聞かせてくれないか。君はどうしたらいいと思う」

「そうだな……」


 しばし、皆の注目を浴びながら、考えを巡らせる。とはいえ、方針は既に決まっていた。アイリーンに目で問いかけると、真剣な顔で頷き返す。


「……俺は、戦うことを提案する」


 当然のように、周囲はざわついた。「危険だ!」と騒ぐ商人たちを、ホランドがすかさず手で制して黙らせる。


「理由は?」

「逃げるのが難しい、というよりもむしろ危険だ。熊は鼻が効くし、荷馬車は暗い中だと殆ど身動きが取れないだろう? 夜、それも移動中に"大熊"に襲われるってのも、ぞっとしない話だ。それならばまだ、『来る』と分かっているこの村で迎撃した方がやり易い」

「う~む……。それは尤もだが」

「馬を二、三頭、囮として村に置き去りにして、その間に逃げるという手も考えたがな。馬やら馬車やらが犠牲になる上に、これは時間稼ぎにしかならない。人を食らったということは、人の肉の味を憶えたということだ。遅かれ早かれ、腹を空かせれば隊商の匂いを辿って追ってくるだろう。となれば次に被害を受けるのは、北の村か、あるいはユーリアの町か……いずれにせよ、戦いは避けて通れない。他の奴らになすりつけることは出来るかも知れないが」


 至極あっさりとした口調でえげつないことを言うケイに、アイリーンは苦笑し、ホランドは渋い顔だ。彼としても、村人は見捨てたくないが、隊商の荷馬車を犠牲にするわけにもいかないだろう。さりとて、他の人々になすりつけるのも頂けない。


「しかし、戦って勝てる相手か?」


 今までずっと、集団の隅で黙って話を聞いていたアレクセイが、おもむろに厳しい表情で疑問を呈する。


「おれは、東の辺境で何度か『大物』狩りにも参加してきたが、それは大がかりな罠と数十人規模の人手、そしてよく練られた作戦があって初めて成功するものだったぞ。入念な準備を経ても、何人もの犠牲者が出ていたのに、ましてや今回の相手はあの"大熊"だ。現状のおれたちの戦力でロクな準備もなしに、どうにか出来るのか?」

「出来るぜ」


 ケイに代わり、アイリーンが答えた。


「特に"大熊"は、オレの魔術と相性がいい。そして、ケイの弓は"大熊"の皮を貫通する。時間はかかるかもしれないが、オレたち二人だけでも倒せる相手だ」


 断定的に、そしてどこか誇らしげに、アイリーン。



 その言葉通り、魔術が使える時間帯ならば、"大熊"はアイリーンにとって御しやすい相手といえる。影を操り纏わりつかせることで、一方的に視覚を奪い去れるからだ。あとは盲滅法に暴れる"大熊"を、ケイが遠距離から削り殺せばいい。


 例え生命力の強い"大熊"でも、心臓や脳を破壊されれば一撃死もあり得る。暴れている間に村の施設に多少被害が出るかもしれないが、残りの者は遠巻きに見守ってさえいれば、巻きこまれることもないだろう。相手が群れていると魔術の対象が増え、魔力と触媒の都合上そうそう使えないが、この卑怯極まりない戦術は、単体相手ならば殆ど全てのモンスターに有効だ。


 しかし、『目潰し』が通用しない敵も、やはり存在する。それが"森大蜥蜴"を含む爬虫類系のモンスターだ。熱感知器官を有する彼らは、元々目が悪いことも相まって、視覚を封じても正確な攻撃を繰り出してくる。


 そういった側面から、今回の相手が"森大蜥蜴"ではなく"大熊"だったのは、ある意味で僥倖と言えた。



「なるほど、魔術があったか……」

「どうにかなるかも知れんな……」


 アイリーンの魔術に絶大な――過剰とすら言える信頼を置いている隊商の面々は、幾らかの希望を見出したようで表情を明るくする。対して、事情を知らぬ村人たちは、大言壮語する金髪の少女とそれに納得する商人たちを見て、むしろ不安の色を濃くしていた。


「この娘は何を言ってるんだ? あの化け物をたった二人でだと?」


 えっへん、と胸を張るアイリーンに、胡散臭げな目を向ける村人たち。


「いや、このお嬢さんは、実はこう見えて実は魔術師でな」

「それも、大規模な麻薬組織を一人で壊滅させた腕利きだぞ」


 すかさず商人たちが知った顔でフォローを入れるが、それでも怪しむような雰囲気は消えない。


「ま、百聞は一見にしかずと言う。お嬢ちゃん、一丁かましてやりな!」


 先ほどまでの怯えは何処へやら、調子に乗った商人の一人がアイリーンを煽る。一体何をかましてやれというのか。しかしアイリーンもそれに乗っかり、


「そうだな。とりあえず、熊野郎の位置でも探ろうか。今どこに居るのかが分かれば、作戦も立てやすいだろ?」


 そう言って、ケイの手から"大熊"の毛を拝借し、逆の手で胸元から触媒を取り出す。


【 Mi dedicas al vi tiun katalizilo.】


 とぷん、と足元の影に、水晶の欠片が呑み込まれる。


【 Maiden krepusko, Kerstin. Vi sercas la mastro, ekzercu!】


 ぶるりとアイリーンの影が震え、真っ直ぐな漆黒の線となって森の方へ伸びた。【追跡】の魔術。村人たちは目を丸くして、商人たちはワクワクした様子で、ケイは無表情で、それぞれ見守る――


「――って、あれ?」


 しかし、すぐに人型に戻った影を見て、アイリーンが間抜けな声を上げた。アイリーンの足元で、お手上げのポーズを取って見せた影絵の淑女は、近くの地面に指で字を描く。


『 Antau okuloj 』


 浮かび上がった文字に、ケイとアイリーンは同時に顔を引き攣らせた。


「なんだ? どうした?」

「何て書いてあるんだ?」


 皆の質問に答えるよりも早く。



 ズン、と。



 森の奥から、重い音。



「どうやら、お喋りが過ぎたようだな……」



 冷静なケイの呟きをよそに、壁の修復をしていた村人たちが、この世の終わりが訪れたかのような顔で村の中に戻ってくる。



 ズン、ズンと近づいてくる地響き。そこに、木々の倒れるメキメキという音が混ざる。



「……ご本人のお出ましだぜ」



 はっ、と笑みを浮かべるアイリーン。



 森の暗闇から、赤い瞳の化け物が、ぬっと姿を現した。



 ――デカい。



 その場に居合わせた者の思考は、その一言に集約される。


 暗赤色の毛皮。首周りの白い斑点模様。盛り上がった肩の筋肉。口から突き出た鋭い牙。一本一本が草刈り鎌ほどもある長い爪。


 体長は、優に4mを越えるだろう。若い個体――とケイは言ったが、『森の王者』と称されるに相応しい力強さが、周囲の空間に滲み出ている。


 村の手前で立ち止まった"大熊"は、人間たちを睥睨するかのように目を細めた。


 そして、グオオオオッと威嚇するかのように、凄まじい声量で、吠える。


 空を圧する轟音に、護衛の戦士は震え上がり、商人と村人は腰を抜かし、荷馬車の馬たちが恐慌状態に陥った。


 下肢にぐっと力を込めた"大熊"は、さらなる咆哮を上げながら、土煙を巻き上げて村に突撃する。木材で修復されかけていた壁の穴を文字通り木っ端微塵にし、人間たちには目もくれず、目指すは村の奥。並べられた荷馬車と、それに繋がれた馬達。



 獣は、腹を空かせていた。



 そして昨日喰らった、獲物の味を思い返していた。



 ――貧弱な二足歩行の猿よりも、肥え太った四足獣を。



 なんと素晴らしいことか、今日の狩り場にはご丁寧にも、ずらずらと旨そうな獲物が並べられている。歓喜の咆哮を上げながら、"大熊"は走った。



 それに対し、ケイは動く。



 ピィッ、と吹き鳴らされた指笛に、近くの小屋の陰にいたサスケがいち早く馳せ参じる。その背に飛び乗りつつ、しばし右手を彷徨わせたケイは、鞍の矢筒から一本の矢を抜き取った。やたらとカラフルな装飾の、ややぼってりとしたデザイン――矢職人モンタン特製の『鏑矢』だ。



 一息に引き絞り、打ち放つ。



 ピューィピーッピロロロロと賑やかに、"大熊"の鼻先に鏑矢が飛来する。隠すつもりのない一撃、身を刺すような殺気、思わず反応した"大熊"は反射的に前脚で矢をはたき落とした。


 折り砕ける鏑矢、しかし獣の足は止まる。胡乱げな赤い視線の先、そこには褐色の馬に跨る弓騎兵。自らの威容に怯えもせず、ただ醒めた目を向けてくる一人と一頭。


 その、あまりにも冷静な態度が、森の王者の誇りに傷を付けた。先ほどの鋭い殺気も、あるいは十二分に脅威であったか。彼は、目の前の小さき者を、『敵』であるとはっきり認識した。



 改めてケイに向き直り、"大熊"が全身の毛を逆立たせる。後ろ足で立ち上がり、万歳をするかのように両手を天に掲げた。それは、己の身体をさらに大きく見せるための威嚇行動。がぱり、と真っ赤な口腔が開かれ、


「――――!!!」


 再び、鼓膜が破れそうな咆哮。幾人かの村人が気を失い、隊商の馬が逃げ出そうと暴れ始める。


 しかしそんな中、ただ一頭、サスケだけが"大熊"の目の前で平然としていた。



 あるいは、彼はよく知っていたのだ。



 自分の背に跨る主人の方が。



 吠えるしか能の無い獣より、余程おっかないということを――。



 サスケの背で、ケイは弓を引く。そこにつがえられた、青い矢羽の矢。モンタンに特注した、ロングボウ用の『長矢』だ。


 "竜鱗通しドラゴンスティンガー"の最高の威力を引き出すために、全力で弦を引き絞ったケイは、冷徹な目で"大熊"を睨む。



 ぴぃんッ、と冴え渡った空気の中、周囲の者たちは、ケイと"大熊"の間に引き結ばれた一本の線を幻視した。



 解き放つ。



 銀光が迸る。



 真っ直ぐに、しかし"隠密ステルス"により一切の殺気を持たぬそれが、"大熊"の左胸に吸い込まれた。


「――オオオォォ!?」


 驚愕とも困惑ともとれる叫びと共に、胸に手を当てた"大熊"が大きくよろめく。そしてそのまま転がるようにして、森の方へと遁走し始めた。


 が、数歩と走らぬうちに、その脚からふっと力が抜け、顔面から地面に崩れ落ちる。


 ズ、ズンッと地面を揺らす音。呻き声を上げながら、もぞもぞともがいた"大熊"はしかし、ごぽりと鮮血を吐き出した。徐々にその動きを弱々しいものにして、やがて完全に動きを止める。


「ふむ、」


 用意していた第三の矢を、矢筒に仕舞いながらケイは呟く。


「――どうやら、運良く心臓を破裂させたみたいだぞ」


 まるで他人事。ぽかんと口を開けていた皆の頭に、その言葉が沁み入っていく。


 そして――時間と共に、それが理解へと変わる。


「おお……おおおおお!」


 最初に快哉の叫びを上げたのは、護衛の戦士の一人だった。そして理解の追いついた者から順に、頬を紅潮させて叫び始める。おっかなびっくりで"大熊"の死体に近づくホランド、未だ呆気に取られたままのダグマル、他の村人と抱き合って涙を流すエリドア、「たった一矢で"大熊"を仕留めるなんて、聞いたことがねえぞ!」と大興奮のアレクセイ。


 ただ、熱狂する面々をよそに、


「……オレの出番ねーじゃん」


 アイリーンは一人、ケイに向けて苦笑いしていた。




          †††




 その後は、ケイの指示のもと、"大熊"の解体タイムとなった。


 ここ一番の脅威は駆逐したものの、村の壁に大穴が開いていることには変わりないので、盛大に篝火を燃やしながらの作業だった。毛皮は極力傷を付けないように剥ぎ取り、魔道具の材料となる目玉をくり抜き、牙や爪も採取しつつ、薬の材料になる一部の内臓を保存する。元が巨体なだけに作業は困難を極めたが、村人と護衛の戦士と商人見習い総出で力を合わせ、何とか無事に終わらせることが出来た。


 生ける伝説とも言える"大熊"の素材。特に毛皮は、莫大な利益を生むだろう、というのがホランドの見立てだった。


「こんなに状態の良い毛皮があるか! 剥製にしたらとんでもない値がつくぞ……!」


 ウルヴァーンに着いたら期待していてくれ、とホランドは興奮気味だ。


 今回、この"大熊"はケイが独力で仕留めたものなので、そこから生まれる利益はケイが独占する運びとなったが、それに異議を申し立てる者は一人もいなかった。熊の肉を鍋にして焚き火を囲みつつ、商人たちが酒を振るまい、一同は夜遅くまで宴会と洒落こんだ。



 そして、宴もたけなわになった頃。



 皆に英雄として持ち上げられ、しこたま酒を呑まされたケイは、べろんべろんに酔っ払ってテントの中に寝転がっていた。


「あ~、もうダメだ~、呑めない、ぐるぐる回る~」

「ケイはだらしないなーもうダウンかよ」


 顔を真っ赤にしてうんうん唸るケイの隣で、こちらも呑み過ぎて少々顔の赤いアイリーンが、くすりと頬をほころばせた。


「……いやぁ。それにしてもケイ、よくやったな」

「う~ん。まさかな~俺も、一撃で倒せるとは思わなかった~。運が良かったな~」


 にへら、と上機嫌な笑みを浮かべるケイ。酔っ払ってはいるが、その言葉は、紛れもなく本心からのものであった。


「あそこでなぁ~、ヤツがトチ狂って威嚇してきたからなぁ、やりやすかった~」

「あんなおいしいシチュエーション、滅多にないよなぁ」

「だなぁー、そうじゃなきゃ、心臓なんて狙い撃ちに出来んよ~」


 最初に放った鏑矢のように、普通に矢を放っただけでは、空中ではたき落とされてしまうだろう。"大熊"には、それが出来るだけの身体能力と反射神経がある。しかし今回の"大熊"はまだ若く、経験が足りていなかった。仮に老練な個体であったならば、飛び道具で攻撃してきたケイを前に、隙を見せつけるような真似はしなかったであろう。


 半笑いを顔に張り付けたまま、しばしテントの布地を見つめていたケイだが、不意に「決めた!」とアイリーンに向き直る。


「なあ、アイリーン。俺、決めたよ」

「うん? 何をだ?」

「俺は、狩人になろうと思う!」


 突然のケイの宣言に、アイリーンは目を瞬かせた。


「……っていうと?」

「今回みたいに、害獣に困っている人たちを助けて回るのさ」


 どうだ、素敵だろ、と言いながら、ケイは子供のように無邪気に笑う。



 ――満ち足りた気分だった。



 今までの人生を振り返って、ここまで他人に褒められ、感謝されたことがあったであろうか、とケイは酔った頭で考える。


 今までは、どちらかというと、ただ生かされているだけの生だった――。


 それを後生大事に抱えて、まるで消えかけの蝋燭の火を守るかのように、いつ吹くとも知れぬ突風に怯えながら、ケイは生きてきた。


 しかしただ漫然と、平和と安全の中で、それを守るだけで朽ちていく生は、果たして生と呼べるのか。


 ――それはあるいは、死んでいるのと大して変わらぬのではないか。


 それに対して今はどうだ――と、ケイはそんな風に考える。こんなにも充実している。輝いている。世界がきらきらと祝福してくれているかのように。


 リスクを抱えて、赤の他人の為に自身の身を危険に晒そう、などと、少し前の自分なら思いもしなかっただろう。だが今は、『命を賭ける』という言葉に、陶然とするような魅力すら感じていた。


「みんなに褒められて、感謝されて、生きていけるなんて……素敵じゃないか」


 承認欲求――という言葉が、脳裏をかすめた。だが、構いやしないと思った。それの何が悪い。どうしていけない――。


「うん。いいと思う。本当に、素敵だと思うよ」


 優しい口調で、アイリーンは肯定した。にこにこと、慈しむような笑みとともに。


 ひどく強烈な眠気に襲われながら、ケイは微笑み返した。


「だろう? ……だからさ、アイリーンも、……応援してくれ」

「うん。応援する」

「……ありがとう」


 笑みを浮かべたまま、吸い込まれるようにして、ケイは眠りに落ちていった。


「ふふっ」


 愛おしげに、その寝顔を見守るアイリーン。


「……おやすみ、ケイ」


 そっと手を伸ばして、優しく、ケイの頭を撫でた。




          †††




 とある幌馬車の荷台で、幼い少女は布団にくるまっていた。


 ぱちぱち、と篝火の火が弾ける音。少女は手の中で鏡を弄びつつ、幌に炎の明かりを反射させて遊んでいた。


 ――と、鏡の中に、長衣を羽織った老婆の姿が映り込む。


「おや、エッダや。まだ眠ってないのかい?」

「……おばあちゃん」


 よっこらせ、と荷馬車に這い上がってくるハイデマリー。鏡をそっと枕元に伏せながら、エッダは小さく寝返りを打った。


「ふふ。だめじゃないか、それで遊んじゃあ」


 優しくたしなめたハイデマリーが、鏡を取り上げて荷台の箱の中に仕舞う。


「ホランドに見つかったら怒られるよ」

「……気を付けるから大丈夫だもん」

「これこれ」


 ふてぶてしいエッダに、思わず苦笑するハイデマリー。エッダの隣で布団にくるまって、長い溜息をつく。


「……今日は、本当に驚いたねぇ」

「ねー!」


 エッダは目をきらきらと輝かせている。


「ケイのおにいちゃん、すごかった!」



 ――"大熊"が姿を現したとき、エッダは幌馬車に乗っていた。


 こちらに全力で向かってくる化け物の姿に、気絶しそうなほど恐怖した。


 だが、そうであるからこそ、"大熊"の前に立ちはだり、たったの一矢で仕留めてしまったケイが英雄のように見えた。


 ――いや。


 間違いなく、エッダにとって、ケイは物語の中の英雄そのものであった。



「全くだね。彼は本当に、大した人物だよ……」


 同じく、命拾いをしたハイデマリーも、口にこそ出していないがエッダと同じ感想を抱いていた。


「…………」


 しばし、沈黙が続く。エッダは興奮した様子で、何度も何度も寝返りを打っていた。


「……眠れないのかい?」

「……うん。どうしても、今日のことかんがえちゃうの」


 幼い心に、ケイのおにいちゃん、かっこよかったな、という考えが浮かび上がる。


 そして次に、アイリーンの笑顔が浮かび、それは儚くも脆く崩れ去った。


「……ね、おばあちゃん。何か、お話してよ」

「お話、ねえ」


 エッダのリクエストに、ハイデマリーは「ふむ」としばし考え込んだ。


「……そうだね。それじゃあ、『現身の鏡』の伝説を、お話してあげようかね」

「うつしみのかがみ?」

「そう。これは不思議な鏡と、とある男の物語さね。……昔々あるところに、一人の男が居た――」


 ハイデマリーは、語り出す。


「その男はとても体が弱くて、いつもベッドに寝てばかりいた。ほとんど動くことも出来なかった彼は、英雄の話が大好きで、竜を倒した騎士や、戦争で活躍した戦士の話を、家族にせがんでばかりいた。

 だけどある日、彼の暮らしていた国で本当に戦争が起きて、生活は苦しくなり、家族が彼に構う時間は、だんだんと少なくなっていった。暇を持て余した彼は、仕方なく日がな一日、空想をして楽しんで、いつしか、夢の中で遊ぶようになった。

 夢の中では、彼は英雄だった。戦争で活躍する立派な戦士だった。強く、勇敢で、今の自分とは、似ても似つかぬほど逞しい身体。自分はそうであると思い込んで、彼は一日の殆ど全てを、夢の中で過ごしていた――」


 ハイデマリーの穏やかな語り口に、エッダは小さく眉根を寄せた。


「……悲しいね。そのひと」


 ハイデマリーは、小さく笑う。


「……そうだね、そのままだったら、彼はただの悲しい人だった。

 でもある日、彼は不思議な夢を見る。一枚の、自分の身の丈ほどもある、大きな鏡。それと向かい合う夢だった。

 鏡には、ひとりの勇ましい戦士が映っていた。それを見た彼は、『ああ、これこそが自分だ』と、そう思ったんだよ。その戦士は、日ごろ彼が夢見て、自分自身だと思い込んでいた、空想の姿そのままだった。

 そして、その夢から目を覚ました時――彼の身体は、夢にまで見た戦士のものに、本当に変わっていた」


 ここで、一息つく。


「……彼が夢で見たのは、『現身の鏡』。古の時代に天の使いによってもたらされ、そして喪われたという伝説の遺失物。

 その鏡は何処までも無垢で、人の魂の姿を映し出すという。彼は、長い長い間、夢を見過ぎたせいで、魂そのものが変わってしまっていたのさ」

「……だから、自分が思っていたような、英雄になっちゃったの?」

「そう……『英雄の姿』を、彼は手に入れた。そして、彼は自分が空想していた通りに、まるで英雄のように強かった――。

 元気になった彼は、自分が思い描いていたように、意気揚々と戦争に出かけていった。そして名を上げ、武功を上げ、見る見る間に出世していった……」

「へぇ! それでそれで?」

「……そして彼は、戦争で死んだ」


 ハイデマリーの一言に、エッダの笑顔が固まった。


「……なんで?」

「流れ矢に当たって、死んでしまったんだよ。彼は英雄のように強く、英雄のように活躍したが、物語そのままの英雄――主人公では、なかったんだよ。彼はどんなに強くても、一人の人間に過ぎなかった……だから、偶然で、つまらないことで、死んでしまった」

「…………」

「やはり人間、身の丈に合った生き方がある、という話だねぇ……」


 ふぇっふぇ、と声をあげて、ハイデマリーは小さく笑う。対して布団をかぶったエッダは、「むぅ」と難しい顔をした。


「……ケイのおにいちゃんは、英雄かな」


 やがて、ぽつりと。


 頭上の幌と、篝火の炎に揺れる影を眺めながら、エッダは呟いた。


「……どうだろうねぇ」


 答えたハイデマリーは、


「……そうだね。彼は、英雄だよ」


 そう言って、優しくエッダの頭を撫でた。


「少なくともわたしらにとっては、ね……。今日の彼は、本当に勇敢だった。彼なら英雄になれると、わたしはそう思うよ。

 さ、エッダや。そろそろ眠りなさい。明日の朝も、早いんだからね」

「……うん」


 大人しく目を閉じて、エッダは布団をかぶり直す。


「……おやすみ」

「おやすみなさい」


 夜は、更けていく――。




          †††




 翌日、酷い二日酔いに苦しみながらも、隊商は村を出発した。


 村人総出で、見送りをされながらの出立だった。少し気恥ずかしく、頭痛を抱えてはいたものの、ケイはそれに快く応えた。



 昨日決意したことを、改めて心に強く刻みつけながら――



 そこからは、再び拍子抜けするほどに、平和な道のりだった。


 特にこれといった獣に遭遇することもなく、一日をかけて、夕方には次の村に到着する。


 漏れなくそこでもケイの英雄譚が語られ、巨大な"大熊"の毛皮が披露され、一時は村中の人々がケイの元に集まり、村娘にチヤホヤされるケイにアイリーンが嫉妬し――等々あったものの、おおむね問題なく一日は終わった。




 『それ』が起きたのは、翌朝のこと――




 早朝、目を覚ましてテントから出たケイを、出迎える青年の姿があった。




 アレクセイだ。いつになく真剣な表情。




 どうしたのか、と訝しむケイを前に、アレクセイは腰の短剣を抜いた。




 きらりと輝く銀色の刃を眼前に掲げ、重々しく口を開く。




「――雪原の民の戦士、セルゲイの子、アレクセイ」




 朗々と、響き渡る低い声、




「貴殿、朱弓の狩人ケイは、共にひとりの乙女を追い求む、我が恋敵である」




 は? と混乱するケイを置き去りして、アレクセイは口上を続けた。




「故に、我が祖、アレクサンドルの名に於いて、」




 じっと、水色の瞳が見つめる、




「――貴殿に、決闘を申し込む」




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