26. 神殿
蒼く透き通った湖面に、映り込む羊雲。
初夏の日差しは高く、じりじりと肌を焼く。
それを慰撫するように、涼やかな風が吹き抜けた。
さざ波立つ水面に、陽光が煌めき散っていく。
そして。
そんな中、不格好に進むボートが一艘。
「ケイー、ちょっと右に曲がってる」
「む……こうか?」
「違う、逆逆! オレから見て右!」
ケイの対面、くいくい、とケイの左手側を指差すアイリーン。慣れないオールの扱いに四苦八苦しながら、ケイは左腕に意識的に力を込める。
ぐいと力強く押し動かされたオールが、水面を渦巻かせながら推力を生む。水と泡の弾ける音を立てながら、ボートは緩やかに向きを変えた。
「……おっけー、真っ直ぐになった」
「うーむ、なかなかに難しいもんだなコレは」
オールを漕ぐ手は休めることなく、ケイはしみじみと呟いた。オール漕ぎは、単純に仕事として見れば大した運動ではないのだが、普段は使わない筋肉を連続して動かすので、精神的な疲労が大きい。それに加えて、漕ぎながらだと進行方向が見えないのは、思ったよりもストレスだった。
「やっぱキツい?」
「いやキツくはないんだが。いかんせん慣れない作業だからな」
やや心配げなアイリーンの問いかけに首を振って即答する。情けないと思われたくないが故に、少し意地を張ったような答え方になったが、ケイとしては嘘はついてない。腕の筋肉が張っているような感覚はあるものの、この調子ならばあと何時間でも漕いでいられそうだった。
ちなみに、本来ならばこのような手漕ぎボートは、腕よりもむしろ上半身を動かして、体全体で漕ぐものなのだが、それを指摘してくれる熟練者はこの場にいなかった。
「ま、急ぐことはない。のんびりと楽しもう」
これはこれで悪くない、とケイの表情は朗らかだ。ボートの後部にちょこんと腰かけたアイリーンも、にこにこと頬を緩めている。
「だな! ……でもオレはちょっと小腹が空いたぜ」
そう言ってアイリーンは、ガサゴソと買い物袋を漁りだした。ケイが漕ぎ続けているのをよそに、まだほのかに温かいチーズ入りの
「んん~、うまい!」
頬に手を当てて幸せそうなアイリーン。本当に美味しそうな顔をする。ぽやぽやという効果音すら聴こえてきそうだ。
「あっ、フライング……」
「だってお腹すいたもん」
船着き場の近くから湖の真ん中あたりまでは、荷船がせわしなく行き交っていて危ないので、神殿の近くに着いてから食べ始めようという話だった。が、そのことはもう忘れることにしたのか、「一口つまむ」というレベルではなく、アイリーンはガツガツと食べ始めている。
「俺も食べようかな」
かく言うケイも、起きてから何も口にしていない。腹の虫の鳴き声が大きくなるのは、時間の問題だ。
「ふふふ、残念ながらそれはできない!」
が、意地悪な笑みを浮かべたアイリーンが、買い物袋をずるずると自分の方へ引っ張る。
「ケイは漕がないとダメー」
「ええー……」
「だってこんなトコでボヤボヤしてたら危ないぜ? ほら、言ってる間に前から荷船っ、こっちに曲がって」
ガレットを持っていない方の手で、ケイの右手側を指し示すアイリーン。ちらりと振りかえって見れば成る程、前方から大型の荷船が向かってきている。
買い物袋とアイリーンとを見比べ、しょんぼりとお預けを食らった犬のような顔をしたケイは、仕方なくオールを漕ぎだした。
「俺もお腹空いたな……」
荷船とすれ違いながら、いじましく空腹を訴えるケイ。自分のガレットを口に詰め込んで、「やれやれ」と肩をすくめたアイリーンは、
「しょうがないなー。ケイも食べていいぜ」
口をもごもごとさせながら、買い物袋を漁る。そして「タ・タ・ター!」と謎の効果音を口ずさみながら、もう一つのガレットを取り出してすっとケイの口元に差し出した。
「はい、コレ」
「お、サンキュ」
何の考えもなしに、目の前の
「ん、美味い!」
「ふふふ、だろー?」
思わず二口、三口と続けて食べてしまうケイに、まるで自分が作ったかのように、得意げに胸を張るアイリーン。
しかし、
「ヒューッ! お熱いねぇー!」
「見せつけてくれるじゃねえか!」
突然の冷やかすような声に、二人して動きを止めた。
見れば後方、先ほどすれ違ったばかりの荷船。
船尾に船乗りたちがゾロゾロと押しかけて、身を乗り出すようにこちらを見ていた。アイリーンが振り返った瞬間、その美貌に囃し立てる声が過熱する。
「デートかーぁ? 若いねーッ!」
「お嬢ちゃーん! あとで俺とお茶しなーい!?」
一瞬、きょとんと顔を見合わせた二人であったが、――すぐに「今の自分たちがどう見られているか」を自覚して、ぱっと目を逸らした。
いそいそと後ろの席に座り直すアイリーン。黙ってオール漕ぎを再開するケイ。相対速度の関係で、騒がしい
「…………」
明後日の方向に目を泳がせつつも、互いに互いの様子を探り合うような、そんな沈黙がその場に残される。
アイリーンを視界に収めつつ、透き通る水面を眺めていたケイは、
「……ここは、本当に水が綺麗だな」
まるで独り言であるかのように、ぽつりと呟いた。
「そうだな、オレも同じこと考えてたよ」
ごく自然な様子で、アイリーンも相槌を打つ。そのまま船べりから少し身を乗り出して、何処どこまでも蒼い湖を覗き込んだ。
「まるで底まで透けて見えるみたいだ……」
ゆらゆらと揺れる水面――ケイがオールを止めると、鏡のようになったそこに、アイリーンの顔が浮かび上がる。慣性でゆっくりと、波紋を広げながら進むボート。
「ケイの目だったら、底が見えたりする?」
ふと顔を上げて、アイリーンは無邪気に問いかける。
「さっきまでは見えてたけど、もう見えない。ここらは深いらしいな」
「そっかー。大体何mくらいありそう?」
「ぱっと見た感じ、最後に見えた所は水深8mはありそうだった」
「へぇーけっこう深いんだ」
そんな他愛のないことを話していると、ボートはいつしか、小島の傍にまで辿り着いていた。船着き場から少し離れた、神殿へ続く白亜の階段を眺められるポイントで、船底に食料を広げて遅めの昼食と洒落こむ。
「そういえば、前にマリーの婆様が言ってたな。シュナペイア湖の伝説」
ナイフで生ハムを薄く切り取りながら、アイリーンが言った。
「伝説?」
「そう。何でも、」
口の中の肉を
「この湖のどこかに、船が沈んでいるらしい。それも、金銀財宝を満載した状態で、な」
「ほう……事故か何かか?」
「いや、水の精霊に沈められたそうだ」
遥か昔、シュナペイア湖のほとりで暮らしていた住人達は、我が物顔で水を使いゴミを捨て、あるいは汚水を垂れ流して、湖を汚し続けていた。
しかしある日、湖の穢れに我慢しきれなくなった水の精霊が、怒り狂って湖に渦を巻き起こした。
湖を行き交っていた船やボートは片っ端から渦に呑まれ、そのまま水底に引きずり込まれてしまった。
さらに用水路を逆流した水は田畑を押し流し、作物を全て駄目にしてしまったという。
「作物がやられ、飢えに苦しんだ住人達は、それ以来決して湖は穢さぬと心に誓った。そして精霊の怒りを鎮めるために、湖の真ん中の小島に神殿を建て、崇め奉ってきた――って話らしい」
「で、その時の船の中に、財宝を積んだ奴があった、と」
「だな。婆様曰く、水の精霊が怒って湖中の船が沈められた、ってのは大体200年くらい前のことで、歴史書にも記されている事実らしいぜ。ただ、その中に、本当にお宝を積んだ船があったのかどうかは、正確な記録が残ってないんだってさ」
「まあ、伝説ってそんなもんだよな」
小さく肩をすくめ、アイリーンの手元のりんご酒を手に取って喉を潤す。
「しかし、浪漫は感じるな。金銀財宝そのものには、それほど興味はないが……『
「同感だぜ」
うむうむ、と二人で腕を組んで頷き合う。
元々ケイもアイリーンも、こういった夢のある話は大好きだ。ゲーム時代から面白そうな噂を小耳に挟めば、取り敢えず現地に突撃するのが常だった。勿論、それで痛い目にもあってきたが、多少非効率であっても物事を楽しむのが、二人のスタイルだった。
「ケルスティンの魔法でどうにかならないか?」
「オレも今、ちょうど同じこと考えてたんだよ。湖の底を【探査】すれば船の残骸くらい見つかるかもって」
ケルスティンは影の精霊だ。【探査】で水中の影を描写させれば、最新のスキャンソナーに勝るとも劣らない精度で水底の地形が把握できる。
「問題は触媒の量と、見つけたところでどうするか、か」
「うーん。水晶は、このぐらいの広さの湖なら、5kgも揃えれば足りると思うけど」
さくらんぼをもぎ取りながら、アイリーンが湖を見回した。
「でも、仮に見つかったとして、船の残骸をどうやって引き上げようか」
「ゲームなら問答無用で潜るがな。……いや、こっちでも可能、か?」
水底を覗き込みながら、ケイ。『紋章』で強化された、自身の身体のスペックを考えての発言だったが、それと同時に、水泳に馴染みがないからこその無謀な考えでもあった。「いや、」とアイリーンが即座に否定する。
「湖の底の方は、水が物凄く冷たいらしいぜ。たまに湖で泳ぐ人が、冷たい水の流れにやられて、低体温症で死んじまうって話を聞いたことがある。リアルでやるのはやめといた方がいいんじゃね?」
「そうか……第一、深さも分からんしな。作業用の機械なんてものはないし、潜水服なんてもってのほか……」
「水系統の魔術師でもいれば、話は別なんだろう、けど……」
『水の精霊の神殿』とやらに、自然と二人の視線が引き寄せられる。
「……いないかなー、魔術師」
「うーむ。しかしアイリーンのその『伝説』を聞く限りでは、ここの水の精霊は上位精霊っぽいからな。とてもじゃないが契約できんだろ……」
「だよなー」
揃って不満げに口を尖らせる二人。
【DEMONDAL】では、精霊は大雑把に下位から上位の三段階に分けられていたが、基本的に『上位』とされる精霊たちは、決まった位置に出現する代わりに契約のため無理難題を吹っ掛けてくる、もはやNPCに近い存在だった。プレイヤーが契約できるのは実質的に中位以下の精霊であり、上位精霊の提示するゲームでさえ厳しかった条件――"
ちなみに、ケイが契約するシーヴは中位精霊、アイリーンのケルスティンは下位精霊に分類されている。
「まあ、水系統の使い手がいたら、とっくの昔に引き上げられてるだろうな」
「確かに。そもそもオレが【探査】したところで残骸が見つかるとも限らねーし」
「お宝は無かった……なんて分かった日には興醒めだ。伝説は伝説のままにしておいた方が、夢がある」
「だな。やめよやめよ」
そんなことを話しているうちに、ケイたちはあれほどあった食料を、すっかり食べ尽くしていた。膨れたお腹をさすりながら、胃のスペースを確保するように、二人揃ってだらしなく体勢を崩す。
「うぅ……お腹いっぱいだ……もう食べられない……」
「食ったなぁ。美味かった」
頷くケイの言葉には、万感の想いが込められている。
アイリーンと会話しながらの食事。昨夜の孤独な晩餐とは違い、味よりもむしろ話そのものに集中していたのに、ケイの心は『美味しかった』という幸福感に満ち溢れていた。
やはり食事はこうでなければ――と、最後に残ったりんご酒を少しずつ味わう。
「ねむい……ふぁ」
上品にあくびをして、こてんと船底に寝転がるアイリーン。
「あくびって感染するよな」
湧き出た眠気を噛み殺しながら、ケイは背伸びをして空を見上げた。
「今日は、いい天気だな」
「だなぁ。……ねえ、ケイって、昼間でも星が見えたりする?」
「ああ。見えるぞ」
「マジか。いいな~どんな風に見えんの?」
「どんな風……と言われてもな。白い点がぽつぽつ、って感じか。それほど綺麗じゃないし、夜みたいに小さな星は見えない」
「へぇ~『視力強化』ってスゲェな……」
寝転がったまま、アイリーンは頭の上に手をかざして、青空に目を凝らす。暫くそうやって、見えもしない星を眺め続けていたアイリーンだが、だんだんとその瞼が下がっていき、終いには、
「……くぅ」
小さくいびきをかき始める。
しばらく、頬杖をついてそれを眺めていたケイであったが――それはそれで乙なものだ――、あんまり遅くなってもなぁ、と思い直し、ゆらゆらとボートを揺り動かした。
「はっ。……オレ寝てた!?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、がばりと起き上がるアイリーン。
「数分くらいうつらうつらしてたみたいだが……起こして良かったか?」
「うん。ありがと。完全に寝るとこだった」
猫のように背伸びをしながら、神殿の方を見やる。
「……そろそろ行く?」
「そうだな」
頷いて、ケイはオールを手に取った。
†††
近づいてみても、やはり『小さな島』という印象は変わらない。先導役のアイリーンにあれこれ指示されながら、木材で組まれた桟橋に接岸する。
ケイたちが食べている間に、新たに巡礼者が訪れたのだろう。船着き場には大型の渡し船が停泊しており、パイプを咥えた船頭が暇そうに煙をくゆらせていた。胡乱げな目でこちらを見る船頭に目礼しつつ、船着き場の柱にロープでボートを固定する。
「さて、こんなもんか」
「盗まれはしないと思うけど、風で流されたりしたら笑えねえもんな」
「……全くだ」
先ほど潜って宝探し云々言っていたものの、出来れば、足のつかない場所では泳ぎたくないケイであった。
桟橋から歩いて、白亜の石段を上がっていく。島の形状は丘のそれに近く、まるで湖面に、ひょっこりと小山が頭を出しているかのようだ。
「これ……船で運んで造ったのかな?」
階段の白い石材をぽんぽんと足で踏みしめながら、アイリーン。
「そうだろうな。精霊の怒りを鎮めるためとはいえ、よくやるよ」
「全部人力だろ? ヤバいよな……」
高さにして、二階建ての家ほどだろうか。石段を登り終えると同時に、ローブに身を包んだ巡礼者たちとすれ違う。
あとに残されたのは、静謐さの漂う涼やかな空間――
「わぁ……」
そこに広がる光景を目にして、アイリーンが感嘆の声を上げた。
白い神殿――ギリシアのそれを彷彿とさせる単純な石柱の連続に、船を丸ごとひっくり返したような木製の屋根。水の精霊を祀る神殿ということもあってか、屋根の造形は意図的に船に似せてあるらしい。中心を走る竜骨と、屋根としては珍しい流線型がどこか非現実的で、機能美にも似た独特の雰囲気を醸し出している。
石段から神殿までは、大理石の白い石畳で一直線に舗装されていた。すっ、と伸びる白の路、周囲の緑の木々が、風にそよいでさわさわと葉擦れの音を響かせる。
蒼き湖に浮かぶこの島は、言葉通り、俗世から切り取られた非日常の空間だった。沁み入るような静けさの中に、穏やかな、それでいて背筋の伸びるような、不思議な空気が流れている。まさしくここは聖域であると、そう感じさせられた。
「凄いな」
ぽつりと呟いた言葉は、シンプルだが、そうであるが故に偽りがない。
悪く言えばケイは、この神殿を舐めていた。所詮は片田舎、神殿といっても、せいぜいが石造りの祠があるくらいのものだろう、としか考えていなかった。
だが実際に来てみて――精霊の威容とでもいうべきものに、圧倒されている。
「……なるほど、わざわざ人が巡礼に来るわけだ」
「そうだな……オレたちも、中に入ってみようぜ!」
厳かな雰囲気などどこ吹く風、と言わんばかりに興奮気味のアイリーンに手を引かれ、神殿の中へと足を踏み入れる。
石柱と屋根のみで構成されたそこは、どこまでも開放的な空間だった。飾り気のないタイルの床が広がり、その真ん中に、真っ白な大理石の彫像が安置されている。
一抱えもあるような大きな台座に、羽衣をまとった妙齢の美女の像。採光用の窓から光が降り注ぎ、その涼やかな笑みを照らし出している。そして彫像の前には何やら重そうな木箱が置かれ、天井からはロープが一本、ちょうど腰の高さまでぶら下がっていた。
「あのロープが、『願いが叶う鐘』ってヤツかな!?」
テンション高めのアイリーンは、小走りで彫像の前まで行き、躊躇なくロープを引っ張った。
からーんころんからん、と鐘の鳴る音が、頭上から響き渡る。
「おおーこれだこれだ!」
嬉しそうにはしゃぐアイリーン。なんとなく、ケイは日本の初詣を連想した。
「願い事はいいのか?」
「もうしたぜ!」
「何を願ったんだ?」
ケイの何気ない問いかけに、アイリーンはニヤリと意味深な笑みを浮かべ、
「ひみつ!」
そのまま、ケイに向かってあかんべえをする。そして、面食らうケイにからからと笑うばかりで、それ以上は何も言わなかった。
「で? ケイは? どうするんだ?」
やや強引に、話題を流そうとするかのように、今度はアイリーンが聞いてくる。その顔に浮かぶのは純粋な好奇心で、その他には何も読み取れない。アイリーンの態度は不思議、というか不可解だったが、まあいいかと流したケイは、顎に手を当てて考え込む。
「願い、か……」
何にしようか、としばし思いを馳せる。
「…………」
しかし、なにも思い浮かばない。
(いやいや、何かあるだろ)
そうは思うものの。
「…………」
やはり、なにも思い浮かばない。
(待て待て。何かあるはずだ、何か……)
つぶらな瞳でこちらを見るアイリーンの存在に、焦りのようなものを感じながらも、考えを巡らせる。
思い出すのは、二週間ほど前。まだ、ゲームの【DEMONDAL】で遊んでいた時代。
(俺が目標にしてたのは……そう、)
『弓を極めたい』――だとか。
『キル数2000を突破したい』――だとか。
『鳥の羽根を全種類コンプリートしたい』――だとか。
『自分も"
(……ロクなもんがないな)
我ながら、乾いた笑みが浮かぶ。『弓を極めたい』というのは兎も角、他のは余りにどうでもいいか、現実ではやりたくないことばかりだ。見事に、【DEMONDAL】のことしか考えていなかった。
――いや。
ゲーム以外のことを、考えないようにしていたというべきか。
「……そうか」
ここに至って、ケイは気付いた。
二週間ほど前までの自分が、願っていたこと。
"生きたい"
"一秒でもいいから、長生きしたい"
切実な、真摯な、それでいて、嘆きの声を振り絞るような。そんな想い。
勿論これは、長寿を願うものではない。
消えかかっている命の灯を、少しでも長く、一秒でも長く、ただただ維持したいという、前向きでありながらも諦めを伴った仄かな夢――。
しかし今。
ケイは、ここにいる。
これ以上ないほど健全な肉体を持って、ここに居る。
(そうか、俺の願いは、もう――)
――叶っていたのか。
今更のように、ケイは笑う。
しかし、だからといって、これ以上は何も願わないのか、というと、それは違う。
(転換期にいるんだ、俺は)
過去の自分を振り返って、そう思った。
今まではずっと、『生きること』そのものに執着していた。
だが、健康な肉体を得て、『普通に生きること』が許された以上、別の何かを探さなければならない。
いや、――その何かを、探し出したい。
ただ漫然と『生きる』のではなく、『どう生きるか』を模索する――模索できる、その時が訪れたのだ。
(しかし困ったな。今急にそんなもの、思いつかないぞ……)
せめて、来る前に考えておくんだった……とは思うものの、アイリーンを誘う前までは、それどころでなかったことも思い出す。
アイリーン。
ふと、顔を上げた。
「……ん? なに?」
見つめられて、小首を傾げる、美しいひとりの少女――。
(……そうか)
ケイの口元がほころんだ。
難しいことを考えずとも、今は、ひとつ願いがあるじゃないか――
おもむろに手を伸ばし、ロープを強く引っ張った。
からーんからんからんっ、と鐘は高らかに鳴り響く。
「随分と長考だったな? 何を願ったんだよケイ」
アイリーンの興味津々な問いかけに、
「……秘密だ」
ケイは、ただ笑った。
†††
その後、石像の前の箱が実は賽銭箱であったことに気付いたり、互いの『願い事』をそれとなく探り合ったり、それが由来して追いかけっこに発展したり、しかしスピードタイプのアイリーンに勝ち目はなくケイが呆気なく捕まったり、それで二人で密着してるところを不意打ちで管理人のオヤジに目撃されて恥ずかしい思いをしたり、などと色々あったが、日が傾き始めたのでケイたちは町に戻ることにした。
「今日は、来て良かったな」
少しは慣れてきた様子で、オールを漕ぎながらケイは、しみじみと呟く。
遠景に見送る白亜の神殿。あの場所がなければ、ここまでスムーズに、アイリーンと仲直りはできなかっただろう。心からの感謝をこめて、ケイはそっと、水の精霊に祈りを捧げた。
「ああ、ホントに楽しかった」
相槌を打つアイリーンも満足げだ。二人の間に、これまでのような、ぎくしゃくとした空気はなかった。
「…………」
不思議と苦痛ではない沈黙の中で、ただ水の音だけが静かに響く。遠目に映る小島、湖を行き交うボートに渡し船、徐々に茜色に染まりつつある空――全てが優しく、穏やかだった。
ふとした拍子に、二人の目が合う。
視線が絡み合い、気恥かしげに逸らされ、それでも再び、見つめ合う。
未だ明るい空の色に照らされ、アイリーンの顔だけが鮮やかに浮かび上がる。きらきらとした光をたたえる蒼い瞳――夜空の星なんかより、よほど綺麗だ、とケイは感じた。
「なあ、アイリーン」
「うん?」
ケイは自然と、口を開く。微笑みを浮かべて、アイリーンが応える。
何を言おうか、と言ってから考えたが、それでも自然と口は動いた。
「俺さ――、実は」
「アイリ――――――ンッッッ!!!!!」
突如として、響き渡る、
「「!?」」
聞き覚えのあるハスキーボイス。
弾かれたように、ケイとアイリーンは見やる。
数十メートルほどの距離。巡礼者たちを多数乗せた渡し船。
その中に、こちらに向けてぶんぶんと手を振る若者の姿――
「アイリーン! こんなトコにいたのかよぉー!!」
大声で叫ぶのは、他でもない、アレクセイだった。「「げェッ!」」とケイとアイリーンの声がユニゾンする。
「朝からずっと待ってたのに! 薄情だぜええアイリーンッッ!」
そう言いながらも、どこか屈託のない笑顔で叫ぶアレクセイは、良く見れば顔が赤い。その周囲でヘラヘラしている若者たち――隊商の見習い連中だ――も同様に、どうやら酔っ払っているようだった。
「ちくしょぅー遠い! 遠いよアイリーン! 今そっちに行くからなっ!」
やたらといい笑顔で不穏なことを宣言したアレクセイは、あろうことか、その場でポイポイと服を――
「わ! わ! わ!」
「畜生なんなんだアイツ!」
顔を赤くして目を背けるアイリーン、ケイが我に返ってオールを握りしめる頃には、アレクセイは生まれたままの姿で船上で仁王立ちしており、
「アッイッリ――ンッッ!!!」
一声叫んでから、見事なフォームで湖に飛び込んだ。ザッパーンと上がる水しぶき。
「アイリ――ンッッ!!」
そしてそのまま、限りなくバタフライに近い泳法で、息継ぎの合間にアイリーンの名を呼びながら見る見る間に距離を詰める。
「ケイ! 逃げて!」
「言われるまでもない!!」
ケイも、全力でオールを漕ぎだした。
本気のケイの腕力を受けて、オールは爆発的な推力を生み出す。が、それでも尚、アレクセイが僅かに速い。それこそまるで宙を舞う蝶のように、きらきらと水滴を輝かせながら、徐々に徐々に彼我の差を縮めていく。
「クソッアイツ速いッ!」
「ケイ、このままじゃ追いつかれる!」
「アイリ――ンッ!!!!」
「湖の水は冷たいんじゃないのか!? 低体温症は!?」
「そんなもん知らねーよ!!」
「ア――イ――リ――――ンッ!!!!」
渡し船の巡礼者たちや周囲の荷船の乗組員たちは、その様子を見て笑い転げていたが、特にケイはそれどころではなく笑われていることに気付きすらしなかった。
「何でここでお前が出てくるんだよッ!」
真っ赤な顔で必死にオールを漕ぐケイ、アイリーンの名を連呼しながら泳ぎ続けるアレクセイ。
最初は悲鳴のような声をあげていたアイリーンは、そんな二人をよそに、いつしか腹を抱えて笑っていた。
夕暮れの湖の果てに、一艘のボートと一人の姿が消えていく――。
結果。
最終的にボートに追いついたアレクセイであったが、ケイのオールが
……平和な一日であった。
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