25. 湖畔
夕方、"GoldenGoose"亭の酒場。
宿泊客たちが賑やかにテーブルを囲み、酒を酌み交わしながら談笑する中。
どんよりとした雰囲気を漂わせ、ひとりカウンター席に座る青年の姿があった。
ケイだ。
目の前には、獲れたての湖の魚のムニエルや、夏野菜のスープ、柔らかめのパンにコケモモのジャム、果物の盛り合わせなど、元の世界の基準に照らし合わせても豪勢な夕食が並んでいるが、どうにも食欲が振るわなかった。ケイは先ほどから、手に持ったスプーンでスープをかき混ぜてばかりいる。
原因は言うまでもない、アイリーンの一件だ。
町中でアイリーンを見失い、慌てて探し回るも全く見つからず、まさかと思って宿屋に戻ってみれば、案の定、彼女は先に帰ってきていた。
愛想笑いを浮かべる女将に、「お連れの方はもう戻られてますよ」と言われたときの、あの絶望感――。
恐る恐る、部屋の扉をノックしてみるも、返事はなく。それでも頑張って声をかけ続けてみたが、その結果、一瞬だけ顔を出したアイリーンは、
「眠い!」
とだけ言って、バタンと扉を閉ざしてしまった。それからは、ノックしようが声を掛けようが、取りつく島もない。
(……完全に嫌われてしまった……)
うわあああ、と頭を抱える。扉を開けた時に垣間見えた、不機嫌極まりないアイリーンの表情。現実から目をそむけるように、木のジョッキに注がれたエールをぐびぐびと喉に流し込む。美味い不味いというよりも、ただ苦いだけの液体だったが、今の自分にはお似合いな気がした。
(……どうすればいい……)
澱んだ目でスープをかき混ぜつつ、考えを巡らせるも、妙案は思いつかない。俺ってこんなに打たれ弱かったっけ、などと思いながら流し込むエール、アルコールで停滞していく思考、完全な酔っ払いの悪循環。
「……お口に合いませんで?」
と、カウンターの向こうにいた女将が、心配げな顔で声をかけてくる。ケイの食が全く進んでいないのを、気にかけているようだ。
「いや、……そういうわけではない……ちょっと考え事を、な」
「そうですか。エール、お代わり注ぎましょうか?」
「ああ……頼む」
空になったジョッキに、女将の手で壺からエールが注ぎ足される。それをちびちびとやりながら、ケイは食事を再開した。
こうやって平和な環境下で、温かく美味しい料理が食べられる――それも、仮想の味覚でなく、自分の舌で味わえる。まずは、この状況に感謝せねばならない、と思い至ったからだ。
しかし――。
(独りで食べると、なぜこうも味気ないのか)
これでは、食事というより、ただの栄養補給ではないか。独りで黙々と食べていると、食物を口に詰め込み、噛み砕き、嚥下するというプロセスが浮き彫りになってしまう。
「……はぁ」
最後に溜息を一つ、パンの切れ端にジャムを塗りたくって、無理やり口に突っ込み、ケイの夕餉は終了した。だが、先ほどからあることが気にかかっていたケイは、
「女将」
「なんでしょう」
「何か、サンドイッチのような、時間をおいても食べられるような物はないか」
「ありますよ。夜食でしょうか」
「まあ、そんなところだ」
追加で料金を支払って、ベーコンと葉物野菜を挟んだサンドイッチを作ってもらう。ついでに紙の切れ端と羽根ペンを借りて、書きつけること数語。皿とメモを手に二階へ上ったケイは、緊張の面持ちでアイリーンの部屋の前に立つ。
「……アイリーン」
コンコン、と軽くノックする。
「…………」
返事は、ない。
「……その、昼間は、悪かった。ドアの前に、サンドイッチ置いとくから。腹が減ったら食べてくれ」
「…………」
やはり、返事はなかった。ホントに寝てんのかな、と溜息をついたケイは、部屋の前にサンドイッチを置いた旨を伝えるメモを、ドアの隙間から差し込んだ。
そのまま、ふらふらと自室に戻る。
乱雑に荷物が置かれた、狭い部屋――。
この宿は、個室には備え付けのランプなどは置いてないらしい。窓から差し込むかがり火の明かり以外に光源はなかったが、強化されたケイの視力ならそれで充分だった。
どさり、と寝台に腰を下ろして、ベルトと剣の鞘、弓のケースを外し、上着を脱いで一息つく。身体の中から、緊張の糸が抜けていくような感覚。やはり、こういった安全の保証された密閉空間でないと、心からリラックスはできない。
ぼんやりと、木の板を打ち付けただけの壁を眺める。
「……広い、な」
ぽつり、と呟いた。
数時間前、あれだけ望んだ個室であったにも関わらず――何もする気が起きない。これでは個室を取った意味がないではないか。
(いや……部屋が共同だったら、もっと気まずいだけか)
それでも顔を合わせはする分、何らかの糸口は得られたかも知れないが。
(……考えても無駄か)
いずれにせよ、今の状況が全てだった。
考えても無駄、だから考えない。至極真っ当なロジック。
「はぁ~あ」
身を投げ出すように寝台に転がったケイは、何度目になるか分からない溜息をついて、そのままずるずると眠りに落ちていった。
†††
翌日。
アルコールのせいだろうか、ケイは昼前まで眠りこけていた。
「う~……イテテ」
ベッドで上体を起こし、額を押さえて唸り声を上げる。頭の芯がじくじくと痛み、視界がぐらぐらと揺れているようだ。昨夜は少々飲み過ぎたらしい。
取り敢えず水でも飲もうか、と身支度を整えて部屋を出る。
隣の扉を見やると、昨日置いたサンドイッチは皿ごと無くなっていた。しかし、果たしてアイリーンが食べたのか、他の客あるいは宿の従業員が持っていってしまったのかは、判断がつかない。
(……他の奴が持っていく、という可能性を考えてなかった)
やはり、昨夜の自分はアルコールのせいで思考力が低下していたらしい。万が一、アイリーンがメモを見て、ドアを開けてみたら何もなかった――などという事態が発生していたら、目も当てられない。廊下でひとり渋い顔をするケイ。
しばし、ドアの前で、アイリーンに声をかけるか迷う。
(……もう先に起きて、何処かに行ってるかも知れないしな)
自分も寝起きだし、とりあえず先に顔でも洗うか、と思い直したケイは、肩をすくめて階段を降りていった。
中庭の水桶の水で顔を洗う。そして昨日と同様、またタオルを忘れてしまったので、仕方なく便所の
ティッシュ――といっても、勿論これは製紙されたものではなく、『ポピュリュス』という名前の木の葉を乾燥させたものだ。本物のトイレットペーパーやティッシュには劣るものの、悪くない肌触りで様々な用途に役立つ。かくいうケイも、この世界に来てから幾度となく世話になっていた。これがなければ、この世界のトイレ事情はもっと不潔になっていただろう。トイレットペーパーに相当するものがないのは、現代人には少々辛い。
(これは本当に、【DEMONDAL】準拠で助かったな……)
手の平サイズの六角形の葉っぱを見ながら、しみじみとそう思う。
ゲーム内においても、ポピュリュスの葉はプレイヤーに馴染み深い存在だった。至る所に群生しており、入手は容易であるが、その割に需要が高くNPCに売り易いのだ。
もちろん物が物だけに、売っても大した金にはならないが、より高度な仕事を紹介してもらうための、NPCとの信頼関係の構築に一役も二役も買うのがポピュリュスの葉だった。
おそらく、【DEMONDAL】の初心者が最初に手を出す
(懐かしい……)
手の中の葉を眺めながら、初心者の頃を思い出して目を細める。
森で葉っぱ集めに勤しんでいたら、運悪く狼の群れに遭遇し、採取用ナイフで応戦するも手も足も出ず食い殺された思い出――
(しかしアレ、現実だったらシャレにならんな)
そう思い至って、ふと真顔に戻る。
ゲームでは、子供のNPCも小遣い稼ぎにやっている設定だったが、果たして大丈夫なのだろうか……。
そんなことをつらつらと考えながら、中庭から宿屋に戻る。が、勝手口を潜り抜けたあたりで、「おーいアレクセイ!」という呼び声を耳にして足を止めた。
「おー、お前らどうした? わざわざこんなトコまで」
例のハスキーボイス。酒場の方から聴こえてくる。なんとなく、酒場からは死角となる階段の影に身を隠したケイは、そっとそちらに耳を傾けた。
「いやさ、皆でこれから、湖の神殿に行ってみようって話でよ。お前もどうかなーと思って誘いに来たんだ」
おそらくこの声は、隊商に参加していた若者のものだろう。他にも複数人の気配が感じられる。そういえばアレクセイは、他の若い見習い連中とも仲良さそうにしていたな、と思い当たる。
「あー、水の精霊のな。いや、いいよ、俺は遠慮しておくぜ」
「お、そうか?」
ここで、見習いが声をひそめる気配、
「……"お姫様"、か?」
「ああ、そうさ」
微かに笑いを含んだアレクセイの声は、いつもの薄笑いが目に浮かぶようだ。
「実は俺も、神殿に行こうと思っててね。今日は天気も良いし、絶好のデート日和だろう? 今度こそ距離を縮めて見せるぜ」
自信満々なアレクセイの言葉に、おお、と感心したような声を上げる見習い達。
「けど、いいのか? あのケイとかいう男――」
「なぁに、構やしねぇよ」
また他の若者がおずおずと不安げに尋ねるが、アレクセイは鼻で笑い飛ばした。
「本人が『自分の女じゃない』って言ってたんだ。なら遠慮することはねえさ」
「そうか、ならいいだろうが……」
「っつーことはアレクセイ、もう姫様と約束は取り付けたのか?」
「うんにゃ」
カコン、とテーブルの上にジョッキを置く音。
「朝からずっとここで張ってるんだがねぇ、お姫様はぐっすり眠られているようで……いつまで経っても起きやしねえ」
「朝からって……もう四時間も待ってんのか?」
「六時の鐘の前から待ってるから、もう五時間は過ぎたな……酒が進んでいけねえや」
「お、おう……」
心なしかその声に、同情の色が滲む見習い達。
「流石の俺も、待ちくたびれてきた。そうだ、お前らも座れよ。退屈しのぎに付き合ってくれんなら、酒の一杯でもおごるぜ」
「おっマジかよ。それなら遠慮なく」
アレクセイの申し出に、ガタゴトと椅子を引く音が連続して響く。
「よーし、そんじゃあどんどん頼め」
「自分は、とりあえずエール」
「葡萄酒で」
「ぼくは蒸留酒ストレートで~」
「オイオイ高いのはナシだぜ!」
昼前、閑散としていた酒場が、にわかに騒がしくなる。
「…………」
気が付けばケイは、逃げ出すように、勝手口から外に出ていた。
歩く。
ずんずんと突き進むように。
当てがあるわけではない。
ただ、衝動に身を任せて、猥雑な裏通りを行く。
その表情は、煮え切らない。
悔しさと、苛立ちと、――ある種の怒りが、混じり合っているような。
(……アレクセイと比べて、俺のこの情けなさは何だ)
そんな気持ちが、胸の内で煮え滾る。
なぜ、自分はこうも肩を縮めるような生き方をしているのか。
(……そもそも俺は、こんな無駄に禁欲的な人間だったか)
――いや。
少なくとも今までは、一つのことをいつまでも抱え込むような真似はしなかった。
勿論、ゲーム時代と今とでは事情が異なるし、考えなければならないことは多い。
しかし、それに囚われたまま塞ぎ込んでしまうのは、また何か違うような気がする。
(あの、アレクセイの潔さを見ろ)
折角、この世界に来て新しく肉体を得たというのに。
もっと今の生を楽しまなくてどうする――。
「……はぁ」
――とは、思うものの。ケイは小さく溜息をついた。開き直って行動を起こそうにも、現状、アイリーンとは断交状態にあることを思い出したのだ。
(まず何よりも先に、アイリーンの機嫌をどうにかしないと……)
何をどうすれば良いものか。仮に、現時点で嫌われてしまっているならば、ここから挽回するのは難しそうだ。そう考えて、思わず頭を抱えたくなる。
(……しかし、なんでアイリーンはあんなに怒ったんだ)
ここにおいてケイは、根本的な疑問に思い当たった。
今までは『アイリーンが怒ったらしい』という、事象そのものにしか気を回していなかったが、そもそも、なぜあんなにも不機嫌になってしまったのか。
心当たりといえば、やはりあの大道芸人の一座しかないだろう。正確には、踊り子の扇情的な裸身に見惚れ、鼻の下を伸ばしてしまったこと。
(だが、それで不機嫌になるということは――)
――それは俗に言う、
であるならば、なぜ嫉妬なんか――というのは、流石にケイでも分かる。そんじょそこらの有象無象の輩に、嫉妬の感情など抱きようがない。ある程度の『興味』の対象でなければ、引き起こされない感情。
つまり――。
(……眼中にないワケじゃない、ってこと、か)
希望的観測、という言葉が真っ先に思い浮かびはしたが。
そう考えれば、まだ――希望はある。
視界が開けた。
歩いているうちに、裏町を抜けていたらしい。
目の前に広がるのは、湖畔の景色。青く澄んだシュナペイア湖。
それほど大きくはない湖だ。帆を広げた荷船が、何隻も行き交っている。そしてその真ん中には、ぷかりと浮かぶような小島。
歩けば端から端まで、数分とかからないような小ささだ。だが、生い茂る木々の間に、白い石材で造られた建物が見える。
(そういえば……神殿だとか何だとか、言ってたな)
荷船に混じって、満杯に人を乗せた大型のボートも散見された。櫂をこぐ船頭に、ローブを羽織った旅人風の乗員たち。杖を持つ者、祈るように手を組む者、湖の水を自らに振りかける者――巡礼者、という言葉を連想した。
「あれが、水の精霊を祭った神殿だ。鐘楼の鐘を三回鳴らせば、願い事が叶うって言い伝えもあってな、各地から水の精霊を信仰する連中がああやって巡礼に訪れる」
背後から、唐突に。
驚いて振り返れば、そこには赤ら顔で「よっ」と手を上げる、ダグマルの姿があった。
「なんだ、あんたか」
「なんだとは御挨拶だな、他に言い様はねえのかよ」
何がおかしいのか、けらけらと笑うダグマル。微かに漂う酒気に、ケイは顔をしかめた。
「また呑んでんのか」
「おうよ。好きなだけ寝て美味いもん食って、酒飲んで最後は女! これぞ傭兵の休日よ、ユーリア最高!」
ヒューゥ、と歓声を上げながら、強引に肩を組んでくる。完全に酔っ払い親父の言動だ、通行人の目が痛い。
「ええい、やめろ暑苦しい!」
「なんだよ~ノリ悪いなぁ~」
ケイが無理やりその手を引っ剥がすと、拗ねたように口を尖らせるダグマル。いい歳した男にそんな真似をされても気色が悪いだけなのだが、幸いなことに、ダグマルはすぐにからかうようなニヤけ面に戻った。
「で、何やってんだ? こんなトコで独りでよ」
独りで、という部分が強調されて聴こえたのは、気のせいではないだろう。「うぅむ」と唸り声を上げたケイは、腕を組んで湖の方を向く。
「ん……何かあったのか」
怒るでもなく不機嫌になるでもなく、あくまで静かな様子のケイに、ダグマルはふざけた笑みを引っ込める。引き結んだような表情の裏側に、何か変化を感じ取ったのか。
「何かが『あった』訳ではないが、『あろう』とはしているな」
「ほう」
遠回しなケイの物言いに、興味深げなダグマルはそれでも黙って続きを待つ。
「アレクセイが、アイリーンをデートに誘うつもりのようだ」
「そいつはまた」
「だが
「……指を咥えて見逃すつもりはない、ってことか?」
さも愉快、と言わんばかりにダグマルは笑みを濃くした。湖の神殿を見据えたまま、ケイは厳しい面持ちで「ああ」と頷く。
「今まで色々と、小難しいことを考えていたが、アレクセイを見ていたら馬鹿馬鹿しくなってきてな……俺だってアイリーンと仲良くしたいし、一緒に居たいと思う。だから、俺も馬鹿になることにした」
「うむ、いいんじゃないか」
ダグマルのニヤけ面は、いつもよりも優しげだった。
「……だが、その前に一つ、問題があってな」
腕組みを解いて、ケイはダグマルに向き直る。
「ダグマル、相談事があるんだが、いいだろうか」
「おうよ。色恋沙汰と借金に関してなら、これでも経験豊富だぜ? 何でも来いよ」
「そいつは頼もしいな、ありがとう。実は昨日、アイリーンを怒らせてしまったんだが……ここは素直に謝った方がいいかな。それとも、蒸し返すようなことはせず、別の事でフォローした方がいいか?」
「……何で怒らせたかによるな」
「別の女の裸につい目を奪われてな……」
「ああ……。まあ、素直に謝っとけ。つべこべ言わずに、ストレートにな」
「分かった」
感謝の念を込めて目礼したケイは、ぱしんと頬を叩いて、「よし!」と自身に発破をかける。
「それじゃあ、行ってくる」
「よしよし、頑張ってこい。……が、時にケイ、何かプランはあるのか?」
「……取り敢えず、あの神殿とやらに行ってみようかと」
俺も興味あるしな、とケイは肩をすくめて答えた。
「そうか。それなら、後であっちの船着き場に行くといい。赤い屋根の小屋に、格安で手漕ぎボートを貸してくれる爺さんがいる。ダグマルの紹介だとでも言っとけ」
「……ありがとう。耳寄りな情報、恩に着るよ」
「なぁに」
手をひらひらとさせたダグマルは、バンッとケイの背中を叩き、そのままくるりと背を向けた。
「幸運を祈る。結果報告、待ってるぜ」
「楽しみにしておいてくれ」
笑顔でそう返し、ケイも歩き出した。
――まずは会って、話はそれからだ。
そもそもアイリーンが、まだ宿屋にいるか分からない。いざとなればエメラルドの使用も辞さないつもりだが――最近ロクな魔法の使い方してないな、とケイは苦笑いした。
ひょっとしたら、既にアレクセイに誘われているかも……と考えると、自然に足が速くなる。
来た道をそのまま引き返し、勝手口からコソコソと、足音を消して宿に戻った。
酒場ではまだ、見習い達がどんちゃん騒ぎを繰り広げているようだ。その中には、アレクセイの声も混じっている。どうやらアイリーンはまだ部屋から出てきていないらしい。
ゆっくりと階段を上り、緊張の面持ちで、アイリーンの部屋の前に立つ。
コンコンッ、と少し強めにノックした。
「アイリーン。いるか」
しばし待つ。
「…………」
返事はない。
「アイリーン、話があるんだ」
もう一度ノック。
「アイ――」
言いかけたところで、ガチャッとドアが開く。
「何」
無表情のアイリーンが、ドアの隙間からぬっと顔を出した。
じろり、とこちらを
「……昨日は、すまなかった。ごめん」
ケイの言葉に、アイリーンの顔が、無表情から不機嫌にシフトした。
「……話って、それだけかよ」
「いや、」
ぽりぽりと頬をかき、泳ぎそうになる目を、努めてアイリーンに合わせる。
「知ってるか。ここの湖の真ん中に、水の精霊を祭った神殿があるらしい」
「……聞いたことがある」
「なんでもその神殿には、三回鳴らしたら願いが叶う、っていう触れ込みの鐘があるそうだ。今日は天気もいいことだし、その――」
ぴん、と空気が張り詰めるような錯覚、
「――一緒に、行かないか」
アイリーンは黙ったまま、口をへの字にした。
「……二人で?」
「ああ、二人で、だ」
「ん……」
ドアにもたれかかって腕を組み、そっぽを向くアイリーン。
やがて、顔をしかめたままニヤける、という離れ業を披露した彼女は、
「……いく」
そう言って、小さく、頷いた。
†††
行く準備をする、ということで、ケイはしばし部屋の外で待たされる。
といっても、数分後には出発となったのだが、部屋から出てきたアイリーンは「鏡があればいいのに」と小さくボヤいていた。
下では相変わらずアレクセイ達が騒いでいるので、気配を殺して裏口から外に出る。
「ついでに買い食いもしようぜケイ」
「賛成だ。実は起きてから何も食べてない」
「オレは干しレーズン食べたけど、さすがにちょっとお腹空いた」
目抜き通りをぶらぶらと歩き、屋台や露店を見て回る。チーズを包んだ
「あ、ところでケイ」
「うん?」
「……サンドイッチありがと」
「……おう」
そんなことを話しながら。
荷物持ちはケイの役目だが、大通りを抜ける頃には、買い込んだ食料品は一人では持ち切れないほどの量になっていた。
「俺たちはどうやら、かなり腹が減っていたらしい」
「買い食いってレベルじゃねえなコレ……下手したら一日しのげるぜ」
「何処で食べる?」
ケイの問いかけに、アイリーンは顎に手を当てて「うーん」と唸った。
「……せっかくだし、湖を見ながら食べたいな」
「そうだ、そういえばボートがあったな」
そう考えたケイは、ダグマルに教えてもらった通り、町外れの船着き場に向かう。そして赤い屋根の小屋に住む老人に、手漕ぎボートを貸してもらった。
ボートのレンタル料は、僅か銅貨五枚。ちょっと贅沢な一日分の食費程度だ。聞くところによると、老人は湖で釣りをしつつ、信用できる人にだけボートを貸して、日銭を稼いで暮らしているらしい。
「しかし、手漕ぎボートなんて初めてだな……」
「オレもだ。どうやるんだろ」
小屋の傍のボート置き場。おっかなびっくりといった様子で、大型の手漕ぎボートに二人して乗り込む。最初にアイリーンが乗り込んだときは僅かに揺れる程度だったボートも、ケイが船着き場から足を掛けると、それだけでグラッと大きく傾いた。
「……これ、乗っても大丈夫だよな?」
「一応、大の男が三人まで乗り込めるぞい。お前さん、かなり体格がよろしいようだが、それでも流石に二人分も重いということはあるまい?」
引き攣った笑顔で不安げなケイを、杖をついた老人が笑い飛ばした。
「ホレホレ、こういうのは思い切りが肝心よ。真ん中に足を掛けて、さっと乗ればよい」
杖でピシピシと背中を突かれ、ケイは意を決して乗り込んだ。グラグラと揺れるボートに翻弄され、危うくバランスを崩して転倒しかけたが、姿勢を低くして何とか耐える。
「あ、危なかった……」
「そんな大袈裟な」
顔色の悪いケイを見て、アイリーンと老人がからからと笑う。
(いや、俺、泳ぎ方よくわからないんだよな……)
とは思ったものの。二人きりのボートがおじゃんになるのが嫌だったので、ケイはそのことは黙っておいた。
「それではボートを漕ぐときは、荷船の進路を遮らないように気を付けるんじゃぞ。連中の船は重いから止まれんし、急に進路も変えられん。事故でも起こしたら、無条件で荷船側が有利になるから気を付けるようにな。それと、くれぐれも湖にゴミを捨ててはならんぞ。水の精霊様がお怒りになる」
「気を付けるよ」
食料品を積みながら、老人からの注意を受ける。荷船に関しては気を付けなければならないが、元々、これほどまでに美しい湖だ。わざわざゴミを捨てて汚そうという気すら起きない。
「食料よーし、乗員よーし」
「オールよーし」
慣れない手つきでオールを握りながら、ケイは微笑みかけた。
「よし、行こうぜ!」
アイリーンもそれに、笑顔で応える。
「気を付けて行ってくるんじゃぞ~」
微笑ましげに目を細める老人に見送られながら。
ケイとアイリーンは、シュナペイア湖へと漕ぎ出していった。
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