24. Yulia
ぼんやりと、薄暗い。
木のポールに支えられた布地を眺めて、自分がふと目を覚ましていることに気付く。
テントの中、ぱちぱちと目を瞬いたケイは、小さく欠伸をしながら上体を起こした。
(……朝か)
入口の布の切れ間から漏れ出る、蒼ざめた冷たい朝の光。おそらく、太陽もまだ顔を出していないような早朝だろう。空気の流れが微かに肌寒く、テントの布越しに鳥たちの鳴き声が聴こえる。
眠気を払うように頭を振って、ふと傍らに目を落とした。テントの支柱を挟んで反対側、アイリーンがマットの上に身を横たえている。上着を丸めた即席の枕に、ほどかれて広がる金髪、その寝顔はすやすやと健やかで、自分の身体を抱えるように毛布にくるまっていた。
体が丸まっているということは、少し、寒いのだろうか。そう思ったケイは、自分の毛布をはぎ取り、そっとアイリーンに掛けてやった。
「……んぅ」
もぞもぞと身じろぎをして、軽くポジションを変えるアイリーン。起きたかな、と一瞬身構えるケイであったが、アイリーンはそのまま毛布を手繰り寄せ、顔を埋めて幸せそうに眠り続ける。
「……ふふ」
思わず、笑みがこぼれた。出来ることなら、このままずっと寝顔を眺めていたい気分。しかし、目を覚まさないのをいいことに、乙女の寝顔を覗き見るのも如何なものかと思い直し、鋼の意志で視線を引き剥がした。さもなくば、目のあたりにかかった髪を指で払ってあげたい、白磁のような頬に触れてみたい――と、そんな欲求が際限なく湧いて出てしまう。
枕元に転がしていた剣の鞘を手に取り、そっとテントの外に出た。
ひんやりと、湿り気を含んだ風が頬を撫でる。白んだ空、たなびく巻き雲――その卓越した視力で朝焼けの星空をざっと眺めたケイは、「今日も晴れか」と小さく呟いた。
すぅ、と息を吸う。冷たい空気が肺に流れ込む。しばし、呼吸を止めて、体温に馴染ませた呼気を、ゆっくりと吐き出した。
身体の隅々にまで芯が通り、力が満ち満ちていくような感覚。循環、という言葉を思い起こす。
腰のベルトに剣を引っ提げて、軽く体を動かした。起き出している隊商の面々に「おはよう、おはよう」と声をかけながら、モルラ川の河原へと向かう。
現在、隊商の野営地は下流に位置しているが、相変わらず川の水は驚くほど綺麗だった。水をすくって口をゆすぎ、ついでにぱしゃぱしゃと顔を洗うと、水の冷たさに眠気の残滓が洗い流されていく。現代の地球では有り得ないほどに透き通った水面には、小魚の泳ぐ姿が見て取れた。上流のサティナのような大都市が、下水道を整備して汚物処理を徹底し、汚れた水を川に垂れ流さないよう気を付けている成果だろう。
基本的に、この世界では様々な技術が発達している。とある事情で火薬が存在せず、そのせいで武器こそ剣と弓のレベルに留まっているものの、冶金技術や衛生観念は、中世ヨーロッパのそれとは比較にならない。特に農業、土木建築、薬理などの分野においては、いわゆる『現代知識チート』で何とかなりそうなものは、おおよそ全て実現されている。宗教や政治などに束縛されず、自然に技術が進歩した結果だ。
「……これでお手軽な魔法でもあれば、もっと楽になるんだがな」
顔を洗ったは良いが、タオルを持ってくるのを忘れたことに気付き、頬から水を滴らせながら渋い顔をするケイ。こんなとき、気軽に風なり火なりを起こして乾燥させることができれば、まさしく『ファンタジー』といった感じなのだが――実際には、高価なエメラルドを一つ犠牲にする羽目になる。
しかしそんな世界、【DEMONDAL】というゲームを選んだのは他でもない、ケイ自身だ。自分が好き好んでやった結果である以上、納得するほかない。
尤も、ある程度のプレイののち、異世界に転移することが確定していたならば、もっとライトなゲームをやりこんでいただろうが……
仮に他のゲームで遊んでいたらどうなっていたのか、なぜ自分たちはこの世界にきてしまったのか。疑問は尽きないが、考えてもキリがないし、生産性もない。
シャツで顔を拭ったケイは、気を取り直して腰の剣を抜いた。
ここ数日、ケイは実戦から遠のいている。
ここまで、隊商の護衛とは何だったのかと、そう思わずにはいられないほどのんびりとした旅路だった。勿論、平和なのは歓迎するべきことだ、ゲームと違って本当に命の危険があるのだから。とはいえ、その間に腕が鈍るのも頂けない。平和とは即ち、戦いに備える時間のことを言うのだ――
真っ直ぐに、虚空に剣を突き出す。刃を盾とした、防御の構え。
朝もやの漂う川のほとりで、空気が鋭さを増していく。その黒い瞳は、ありし日に戦った誰かを視ていた。前方、数歩の距離。敵意を持った存在が、焦点を結ぶ。
一瞬の静止ののち、ケイは動いた。
想定するのは、槍だろうか。長物の刺突をいなすように、ケイの剣先が揺れる。ゆるやかに弧を描く刃、巻き込むように、受け流すように。返す刀が踏み込みと共に唸る。振り下ろす動きが足の筋を断ち、ひるがえった一閃が首筋を撫でた。
ひゅん、と余韻を残し、下がること二歩、三歩。剣が突き出され、再び防御の構えが完成する。相対していた
息をつく間もなく、次。今度の相手は長剣か、上段、中段、下段と多彩な攻撃を受け流すように、滑らかな足捌きで得物を振るう。
無心。限りなくフラットな心境。
型をなぞるように、身体が動く。まとわりついた朝もやが、渦巻き、あるいは斬り裂かれる。くんっ、と剣を跳ね上げる動きは、梃子の原理で相手の武器を弾き飛ばす。すかさず、そこに叩き込まれるコンパクトな刺突。控え目にすら見えるそれは、しかしちょうど身体の中心を捉える高さ。心の臓を抉り取る、致命の一撃だ。そして流れる水が集まるかの如く、再び完成する防御の構え。
目まぐるしく、想定される状況を変えながら、ケイは身体を動かし続けた。十分にも満たない、僅かな時間。長いようで短い、それでいて濃い、そんな凝縮された空間の中で、一心に仮想の敵を斬る。荒々しくも研ぎ澄まされた、不思議な調和がそこにはあった。
しかし――それも、終わりに近づいた頃。
ぴんっ、と弦楽器をつま弾くような、微かな殺気が場を乱す。
咄嗟に、感覚の導くままに、振り向いて横薙ぎに剣を払った。
パシンッ、と音を立てて、飛来した木の枝が両断される。
なんだこれは、と眉をひそめるケイをよそに、パチパチとやる気のない音が響く。
「やあ、お見事お見事」
顔を上げたケイが見たのは、薄く笑みを浮かべて拍手する、金髪の青年。
――アレクセイだ。
「……何の真似だ」
剣を鞘に収めながら、憮然とした表情でケイは問う。急に物を投げつけられて、不快に思わない人間がいようか。
「悪い悪い。あんたの剣が、あんまりにも綺麗だったから……突っついてみたくなっちまったのさ。俺はトランプのタワーがあったら、つい崩してしまうタイプでね」
悪びれる風もなく、おどけた様子で肩をすくめるアレクセイ。しかしケイが何か反応を示す前に、すかさず言葉を続ける。
「それにしても、あんたの剣はお飾りじゃなかったんだな。よほどの使い手に師事してたんだろう、見事な剣技だったよ。羨ましいぜ」
「……そいつはどうも」
「合理的だし、俺にも参考になる部分があった……けど、おいそれと他人に見せつけるような代物でもないなぁ」
「お前が勝手に見たんだろうが」
「それもそうか。ま、気を付けなってこった。世の中には、俺より悪い奴がたーくさんいるからな、何をどう盗まれるか分かったもんじゃないぜ……?」
そう言う笑顔は、どこか挑発的だ。心の内に不快感が募る。
「……御忠告、痛みいる。それで? 話が終わりなら、失礼させてもらうが」
「つれないねえ」
あくまで一線を引いたケイの態度に、へらへらと笑うアレクセイであったが、その目は真剣な光を帯びていた。
「……ひとつ、聞きたいことがある」
アレクセイが笑みを引っ込め、ぴん、と指を一本立てる。
「はっきりと言うが、俺はアイリーンに惚れている。そこで知りたいのは、彼女とあんたの関係だ。単刀直入に聞かせてもらうが、アイリーンは、あんたの女なのか」
その、あまりに直球すぎる物言いに、思わずケイは言葉を詰まらせた。
「……なかなか、ダイレクトな質問だな」
「まあな。だが俺も、こう見えて結構本気なわけよ。もし彼女があんたの女なら、こっちにもそれなりの"礼儀"と"作法"ってもんがある」
かつてないほどに、真摯な態度でアレクセイは言う。その真っ直ぐな視線はケイから毒気を抜き、逆にある種の誠実さをもたらした。困り顔で目を泳がせたケイは、
「アイリーンは、俺の……、
「なんつーか、俺の所見なんだが。あんたら、『恋人同士』って感じはしないんだよなぁ。あんたらの関係はむしろ……、そう、ちょうど『お姫さま』と、『それを守る騎士』って間柄に見える」
我ながら言い得て妙だ、とひとり何度も頷くアレクセイ。対するケイは、苦虫を潰したような顔をしていた。
「……あれ。もしかして、本当にお姫様と騎士だったりする?」
「はっ、まさか。俺が騎士階級の人間に見えるか?」
「見かけで判断できるほど、人を見る目に自信はないんでね。まーそもそも、騎士サマなんざ数えるほどしか会ったことないし、お姫様に至っては殆ど見かけたことすらない。比較なんざしようがないのさ……でも、あんたら二人とも、なかなかにミステリアスだからね。だからこそ分からねえ」
へらへらと笑顔を取り戻したアレクセイは、今度は何か探るような視線を向けてくる。
「アイリーンが言ってた――『故郷が懐かしい』ってな」
その言葉に、ケイは息を呑む。アレクセイは観察するような目を外さないまま、
「それで俺は、『なら、一度帰ればいい』って言ってやったのさ。そしたら、『もう、帰れないかもしれない』って、彼女、悲しそうにしてたぜ。アイリーンは、故郷について多くを語らないが、少なくとも俺の知る部族の出ではなさそうだ。……あんたら二人とも、随分と遠くから来たみたいだな」
アレクセイの口調からは、カマをかけるような、あわよくば情報を聞き出そうという思惑が端々に感じられる。が、ケイはそれよりも前に、軽いショックを受けていた。
(アイリーンは、そんなことを話していたのか……)
故郷のことなど――アイリーンのリアルに関わる情報など、ケイは殆ど知らない。ケイが知っているのは僅かに二つ、アイリーンがロシア人で、シベリアに暮らしていた、ということぐらいのものだ。
(『故郷が懐かしい』だなんて……そんな様子、全然見せてくれなかったし……帰りたいだなんて、一言も――)
――聞いていない。
「ま、まあ、話せない事情があるんなら、いいんだけどな」
ケイの、思いのほか深刻な雰囲気の沈黙を、どう受け取ったのかは分からないが、アレクセイは少々慌てた様子だ。
「いや……別に……」
「そういうわけで、アイリーンがあんたの女じゃないってんなら、俺は好きにやらせてもらうぜ」
曖昧に頷くケイをよそに、手をひらひらとさせながら、アレクセイは逃げるようにその場を去っていった。
沈黙したケイはひとり、河原の倒木に腰を下ろす。
水面を眺めながら、ぼんやりと考えを巡らせた。この、胸の内の、寂しさのようなもの。
(……詰まるところ、アイリーンも、一人の人間だってことだ)
彼女も彼女なりに考え、彼女なりに行動する。ケイのように、元の世界に帰ると、あと何年生きれるか分からない、という差し迫った事情でもない限り、郷愁の念に駆られてしまうのも当然というものだろう。
ケイは、元の世界に未練がない。両親に二度と会えないのは、残念と言えないでもないが、ここ数年はリアルで顔を合わせてはいないし、数日に一度メールでやり取りをする程度の仲だった。また、幼い頃より病室に閉じ込められていたことも相まって、故郷や文化に対する思い入れも薄い。今は元いた世界を失った悲しみよりも、新たな肉体を手に入れられた歓びの方が、大きいのだ。
その他の友人たちと連絡を取れなくなったのも、それはそれで残念だったが――「ここ最近で一番仲の良かった、アイリーンが一緒にいるしな」という考えに至り、ケイはそこでハッとさせられた。
アイリーンの存在が、自分の中で、大きな心の支えになっている。
その事実に、今さら気付かされたからだ。
(……もし、この世界に来たときに、アイリーンが一緒に居なかったら)
自分は、どうなっていただろうか。ケイは想像してみる。
一応、それなりに、生きていけたであろうとは思う。タアフ村のマンデルではないが、弓の腕さえあれば、傭兵なり狩人なりで生活の糧を得ることはできる。
だが、果たしてそれは、楽しい人生だろうか。
今の自分のように、この世界を楽しもうと、前向きになれただろうか。
(……いや、きっと、なれなかった)
独りなら、不安に呑み込まれていた。なぜ自分がここに居るのか、何をどうやっていけばいいのか――今でも、将来に対する懸念材料は尽きない。それを踏まえたうえで、ケイが前向きでいられるのは、同じ境遇のアイリーンという存在に、自分の悩みや不安を吐露できていたからだ。彼女の前向きさやユーモアのセンスに、どれだけ救われてきたか分からない。
それがなければ、今でも暗い夜には、独りで震えていたに違いない。
(だが……俺は、どうなんだろう)
翻って、自分の立場を考える。
アイリーンにとって、この『乃川圭一』という人間は、どういった存在なのか……。
そのことに思いを馳せると、ケイはまるで、自分の足元が崩れ落ちていくような感覚に襲われる。
サティナで、乗せてもらう船が見つからず、宿屋でくだを巻いていたとき――二人で今後のことを話して以来、アイリーンは、不安を漏らさなかった。
彼女はいつも明るく振舞っており、そしてケイは、そのことに微塵も疑問を抱いていなかった。しかし、よくよく考えてみれば、それは不自然だ。
(アイリーンに、不安がないわけないじゃないか……)
何をどうすればいいのか分からない、とアイリーンは言っていた。自分がどうしたいのか分からない、とも。
しかし――それだけの筈がない。家族はどうしているのか。元いた世界とこちらの世界に時間のズレはあるのか。元の世界の肉体はどうなっているのか。そもそも帰れるのか、帰れないのか。
そういった不安を前に、途方に暮れた状態のことを、「どうすればいいのか分からない」と、彼女は表現していただけではないのか。
話しさえしてくれれば、いつでも相談には応じるのに――とは思わないでもないが、ケイはそこで、ある恐るべき仮説に辿り着いてしまう。
あるいは自分は、乃川圭一という男は。
もはやアイリーンにとって、悩みを打ち明けるに値しない存在なのではないかと――。
思い返すは、サティナの街での一件だ。リリーが誘拐され、その救出の是非を巡って、アイリーンと対立した夕べのこと。
勿論、ケイもリリーを助けたくなかったわけではないが、怪我や死のリスクを鑑みて、殴り込みには消極的だった。結果的にアイリーンが先行し、見事リリーを救い出したわけだが、――今となっては、あの時の自分が、みみっちく感じられて仕方がない。
結果論であるということは分かっている。また、リスクを恐れて慎重に立ち回ることが、間違いだと思っているわけでもない。
しかし――あの時、『見捨てる』という選択肢を、アイリーンは『ひとでなし』のすることであると断じた――
失望されたのか、と。
ケイは、恐れる。自分には相談せず、アレクセイには話をしていた、というのは、そういうことではないのか。実は、アイリーンは明るく見せかけているだけで、あの笑顔の下で自分を軽蔑しているのではないかと。
まさかとは思うが、そう考えると、背筋に震えが走るようだった。
締め付けられる心が、彼女には、彼女だけには嫌われたくないと、叫ぶ。
『……どうすればいい』
呟く
昨夜、
『俺は、どうしたいのか……』
アイリーンに嫌われたくない、というのだけは確実だが……。
考え込んでいるうちに、野営地の方から賑やかな声が聴こえ始める。
見れば、いつの間にか、太陽が顔を出していた。思ったよりも時間が経っていたらしい。もう一度溜息をついて、ケイは重い腰を上げる。
(……どんな顔をして会えばいいのか、分からなくなってきた)
この頃、――いや、この世界に来てから、ケイはアイリーンとの距離を測りかねている。しかし、今日はそれが一段と酷くなりそうだった。
朝日を受けて、川の水面がきらきらと輝く。
しかし、その煌めきはただただ眩しいだけで。
美しさとして楽しむ余裕は、今のケイにはなかった。
†††
野営地に戻ると、アイリーンは既に目を覚ましており、「グッモーニン、ケイ!」といつもと変わらぬ様子で、愛嬌たっぷりに挨拶してきた。
その、『変わらない感じ』にホッとしつつも、不安感は完全に拭いきれず、ケイはどこかぎこちなく「おはよう」と返してしまった。アレクセイが話しかけてきたのを良いことに、どうにかこうにか、誤魔化したが。
軽い朝食を摂ってから、隊商は再び出発した。
ホランド曰く、早目に次の村を通過し、今日中に湖畔の町"ユーリア"に辿り着くのが目標らしい。
ケイはというと、昨日と同じように、最後尾のピエールの馬車の横でサスケの手綱を握っている。前方には相変わらず、スズカに跨るアイリーンと、それについて歩きお喋りをするアレクセイの姿があった。
「…………」
ケイはただ、黙って、それを見ていた。
次の村に到着したのは、出発してから二時間後のことだ。
昼前の、中途半端な時間帯。村人との商売のために、軽く一時間ほど滞在するそうだが、ピエール曰くこの村は『美味しい』商売相手ではないらしい。村に滞在するのも、物流のための慈善事業のようなもので、用事が終わり次第すぐに出発するとのことだった。
当然、村に居る間は、護衛たちの休み時間となるわけだが――ケイは、ダグマルに許可を取り、"
「ケイ、どこに行くんだ?」
「……ちょっと、昼飯の準備で、狩りにな。弓も使わないと腕が鈍る」
サスケに跨ろうとしたところでアイリーンに見咎められたが、動揺を悟られないように極力素っ気なく答えて、さっさと村を出る。
あまり時間をかけると、隊商の皆を待たせてしまうかもしれないので、野兎三羽と大型の鳩に似た鳥を一羽仕留め、手早く血抜きを済ませてから村に戻った。
アイリーンは、アレクセイと話をしているのではないか、と予想していたケイであったが、どうやら木陰で寝転がって昼寝をしているようだ。アレクセイは川べりで暇そうに、村で買ったらしいビワに似た果物を食べている。独りで出掛けたのは自分のくせに、その事実に少しホッとしながら、ケイはハイデマリーに狩ってきた獲物を手渡した。
「……どうした、ケイ。シケた面してんじゃねえか」
手持無沙汰になって、サスケの傍でぼんやりとしていると、赤い顔をしたダグマルが陽気に話しかけてくる。その手には小さめの壺、近くに寄ってみれば微かに酒臭い。どうやら葡萄酒を直呑みしているらしい。
「まだ昼にもなってないぞ、いいのか、そんなに呑んで」
「なぁに、かまやしねえ。どうせすぐにユーリアに着くしな。それに、ここらは盗賊も獣も出ねえんだ」
「……馬から落っこちても知らんぞ」
「そこまで酔っ払いはしねえよ」
ガッハッハ、と大笑いするダグマル。しかしその言葉とは裏腹に、そこそこ出来あがっているようにも見える。それほど酒には強くない体質なのか。
(酔っ払いの相手は面倒なんだがな……)
さりとて、他にやることもなし。ケイはダグマルの話に付き合うことにした。
「で、ケイ。お前、ユーリアじゃ一発『買う』つもりかい?」
「……何をだ?」
「何、って。……そりゃナニをだよ」
怪訝な顔をするケイに、ぐへへと下衆な顔で笑うダグマル。しかし、いつまでもケイが察さず、きょとんとしたままなので、呆れたように天を仰いだ。
「なんだオメエ、知らねえのか。ユーリアといえば、屈強な船乗りや傭兵が集まる町だ。男が集まる所にゃ、女も集まる。……色街だよ、色街!」
ここにきて、ダグマルの『買う』という言葉に合点がいく。
「……なんだって急に、そんな話を」
平静を装って返すも、興味がゼロといえないのも、ケイの辛いところだ。
「別に急でもねえよ、みんな楽しみにしてるぜ? お前も、
ぐへへへ……と意味深に、アイリーンが昼寝している方向を見やって、ダグマルが再び下衆な顔で笑いかけてきた。
「……いや、いいよ。気持ちはありがたいが」
冷静に考えると、病気とかも怖いし――と、口には出さないでおいたが、丁重にお断りする。
「上玉の揃ってる、良い宿を知ってるんだが……」
「俺には、必要のないことだ。気にしないでくれ」
「そうか……」
くい、と葡萄酒の壺を傾けたダグマルは、ケイに憐れむような目を向けた。
「薄々そうじゃないか、とは思ってたがな。お前やっぱりアレか、
「それは違うッ!」
その後、やたら絡んでくるダグマルと言い合いをしているうちに、出発の時間となった。
†††
村を出てから数時間、昼食の休憩を挟みつつ、隊商は一路ユーリアへと向かう。
北に向かって進むごとに、地形は徐々に起伏のあるものへと変わっていく。草原は平野に、平野は丘に、モルラ川も緩やかに蛇行を始めた。
ダグマルはやはり酒に弱いらしく、馬の上でフラフラになっていたが、その言葉の通り旅路に支障はないようだ。日が傾く頃には、一行は湖畔の町ユーリアに到着した。
ユーリアの特徴は、なんといっても隣接しているシュナペイア湖だろう。サティナから流れてくるモルラ川と、ウルヴァーンから流れてくるアリア川。その二つが交わる交通の要所であり、物資の一時的な集積地、及び船乗りや商人に対する歓楽街として機能している。
町としての性格上、サティナに比べると開放的で、堅固な城郭などは擁していない。また、歓楽街が町の大部分を占める上に、衛兵の数も少ないので、治安はそれなりに悪いようだ。
だが、湖のそばの岩山に領主が城を構えており、城壁の中にはユーリアの騎士や傭兵が詰めているそうで、有事の際への備えは万全とのこと。
「それじゃあ、明後日の昼、十二時の鐘が鳴る時に、この広場に集合だ。解散!」
町はずれの広場。ホランドの声を受け、がやがやと傭兵たちが町に散っていく。隊商は、ユーリアに二日間滞在する予定だ。その間は各自宿屋に泊ることとなり、今回の場合、宿泊費は自腹となる。
「よし、それじゃあケイ、オレたちも行こうぜ」
「あ、ああ……」
ケイはアイリーンに強引に腕を引かれ、商人街の一角を歩いていた。勿論、サスケとスズカも一緒だ。
「さて、厩舎のある、そこそこの宿屋となると……」
きょろきょろと、周囲を見回しながら歩くアイリーン。宿屋の密集する商人街だけに、『INN』と書かれた看板は山ほどあるが、逆により取り見取りすぎてどれを選べばいいのか分からない状態だ。
「見当がつかないな。ホランドの旦那に聞いておくべきだったか」
「かもなぁ」
ケイの言葉に、ちと急ぎ過ぎたかな、とアイリーンが渋い顔をする。
結局、割高なのは覚悟で、派手な装飾がされたガチョウの看板が目印の、小奇麗な宿を取ることとなった。
「ようこそ、"GoldenGoose"亭へ。お二人様で?」
酒場を兼ねたそこそこに清潔なホールで、女将と思しき中年の女性が、見事な営業スマイルを向けてくる。
「ああ、それと馬を二頭頼む」
小間使いにサスケとスズカを任せ、ケイたちは早速部屋を取ることにした。
「それで、何人部屋が空いてる?」
アイリーンの問いかけに、女将が台帳を開く。ケイの顔に、緊張の色が浮かんだ。
「……そうですね。二人部屋が一つと、大部屋が一つ。あと、個室も二つ空いてますよ」
女将の言葉に、(来た!)と頷くケイ。
「そっか、それじゃあ――」
「個室で頼む」
アイリーンが言う前に、ずいと割り込んだ。ケイとアイリーンの顔を見比べて、不思議そうに女将が小首を傾げる。
「二人部屋の方がお得になりますが?」
「いや、個室がいい。……アイリーンも、いいよな?」
ケイは、確認の意を込めて、アイリーンを見やった。アイリーンは少し眉をひそめ、
「……うん。いいけど……」
「それじゃあ決まりだ」
どこかホッとした様子で、カウンターにジャラリと二日分の代金を置くケイ。
(これで、ようやく一人になれる……)
ダグマルの言葉ではないが、正直なところ、ケイはかなり溜まっている。ぶっちゃけた話、発散したくてたまらないのだ。
(これで二人部屋になっちまったら、かなりやりづらいからな……)
その上、二人部屋は、色々と危険だ。サティナではずっと同じ部屋に泊り、ここ数日はさらにテントでほぼ同衾状態だったが、そろそろケイの理性が限界に近付きつつある。アレクセイ由来のストレスもあって、このまま悶々とした状態が続けば、突発的な衝動に負けてしまう可能性があった。
それで、アイリーンとの、友人関係すら崩れてしまったら――考えるだけでも恐ろしい。
(元々、二人部屋だったのも、個室がなかったからだし……俺には、俺という獣から、アイリーンを守る義務がある……)
イマイチ煮え切らない表情のアイリーンをよそに、ケイがそんなことを考えていると、
「アイリーン!」
聞き覚えのあるハスキーボイス。ぎょっとして、ケイとアイリーンは同時に振り返る。
見れば、そこには、荷物を抱えて、満面の笑みを浮かべるアレクセイ――
「よ、よぉ……」
「奇遇だな、アイリーン! 俺もこの宿を取るつもりなんだ」
「そ、そうか。それじゃ」
自分たちの荷物を抱えて、そそくさと二階に上がっていく。「あ、待ってくれよ!」というアレクセイの声を無視して、とりあえず片方の個室に、逃げるようにして入った。
「……なんでヤツが……」
ベッドの上に腰を下ろして、げっそりとした表情のアイリーン。
「……イヤなのか?」
「う、う~ん。なんというか、ちょっと鬱陶しいな」
身も蓋もないアイリーンの言葉を聞いて、しかし努めて平静に、ケイは「そうか」と首肯した。
「でも最近、色々と話してたじゃないか」
「別に大したことじゃないよ」
探るような言い方をするケイに、小さく肩をすくめて見せたアイリーンは、
「さ、それよりケイ、ちょっと町を見てみようぜ! さっきウマそうなもん売ってる屋台があったんだ!」
ちょうど小腹も空いてきたことだし、それもいいなと思ったケイは、一緒に町に繰り出すことにした。宿屋のホールでアレクセイには遭遇したが、アイリーンがそれとなく理由を付け、同行は断った。
「こっちの方から良い匂いがするな」
「金には余裕がある。食い倒れと洒落こむか」
懐の財布をいじりながら、幾分か楽しそうな様子で、ケイ。街中なので武装は解いているが、腰のケースには"竜鱗通し"を、さらに財布や宝石類も、全身に分散して身につけている。
ユーリアはサティナに比べると遥かに規模の小さな町だが、その分人口密度が高いので、道を行き交う人も多い。そして通行人が多いということは、それをカモにするスリも多いということだ。"
「それで、その屋台ってのは?」
「んーと、たしかこっちに……」
二人で連れだって、商人街をふらふらと歩いていると、道端から陽気な音楽が聴こえてくる。見やれば、井戸端の小さな広場に、人だかりができていた。
「あれは……?」
「見てみようぜ!」
アイリーンがケイの手を引いて、人だかりに突撃する。ケイとしては、スリが山ほど居そうな人の群れは遠慮したかったのだが、仕方がない。
ぐいぐいと野次馬を押しのけて、中心に到達するとそれは、
「……大道芸人か」
ぽつり、とアイリーンが呟いた。
広場に居たのは、派手な服に身を包み、笛や太鼓などの楽器を演奏する芸人達だった。
その中心には、陽気な音楽に合わせ身体をくねらせる踊り子。ゆったりとした動きで腰を振りながら、彼女は妖艶な流し目を野次馬に向けていた。
その格好は、半裸どころか、殆ど裸といっても差し支えがないほどに扇情的なものだった。股間は腰布で隠しているものの、メリハリの利いた上半身には、御情け程度の薄布と亜麻色の髪しか覆い隠すものがない上に、覆われたところも色々と透けている。しかもそれが、リズムに合わせて、ゆさゆさと揺れるのだ。いや、むしろ、「揺らしている」といっていい。
群衆の中から、踊り子の前に置かれた平皿に、次々に銅貨が投げ入れられている。下品なヤジが飛べば、薄く笑みを浮かべた踊り子は、そちらに向けて挑発的な仕草で肉体美を披露し、さらに白熱した男達が歓声を上げる。その場にいた男どもは、誰も彼もが鼻の下を伸ばしていた。
そして、不幸なことに、やはりケイも男であった。
いや、数日の禁欲を強いられた後で、このような状況下に置かれ、目が釘付けになってしまったケイを、咎めるのはあまりに酷というもの。
しかし、それでも
「…………」
傍らでムスッとした表情をする、アイリーンという少女の存在を、うっかり失念してしまったことだろう。
「……ん? あれ? アイリーン?」
ふと、ケイが我に返った頃には。
その隣から、アイリーンの姿は、消えていた。
†††
「何だよ、何だよっ」
ぷっすりとした脹れっ面で、肩を怒らせて歩くアイリーン。
不機嫌な表情のまま、"GoldenGoose"亭に戻り、愛想笑いを浮かべた女将から荒々しく鍵を受け取って、部屋に入った。
雑然と荷物の置かれた、狭い個室。
ドサッと身を投げ出すように小さなベッドに突撃し、そのまま寝転がってボスボスと枕を殴る。
「……何だよ」
しばらく枕を痛めつけたあと、力尽きたようにうつ伏せになって、シーツにぐりぐりと顔を埋めた。
――最近、なんだか、ケイが冷たい。
アイリーンはそう、感じていた。
一緒に話していてもノリが悪いし、ゲーム時代のような、あけすけな態度を取らなくなった。何かを自分に隠しているような雰囲気もあるし、近頃では、会話をするときに目を合わせるのすら避けているように思われる。
(なんか、暗そうな顔してるから、せっかく町に連れ出したってのに……!)
全然楽しそうにしないばかりか、笑顔を見せたと思ったらアレだ。もう、なんというか、最悪だった。
それに――腹が立つのは、アレクセイの件。
(なんで止めないんだよ。なんで何も言わないんだよ)
アイリーンはバイリンガルの英語話者だが、やはりロシア語の方が話す分には楽だ。そのため、情報収集を兼ねて、最初はアレクセイと積極的に交流を図ったが――近頃はいい加減、鬱陶しくなってきた。なので、出来ればケイと話したかったのだが、ケイはどうやら自分を避けている。そればかりか、アレクセイが自分に話しかけてくると、澄まし顔でそれを放置して何処かに行ってしまう始末。
(何だよっ、何だよ……そんなにオレと話すのがつまんないのかよ……)
しょんぼりとした顔で、枕をぽすぽすと叩く。
二人の仲がぎこちなくなったのは、いつからだろう。
アイリーンは、考える。始まりはおそらく、サティナのゴタゴタのあと――はっきりとしたのは、やはり、この隊商に加わってからだ。
サティナのゴタゴタ――そのことに思いを馳せると、アイリーンは自分の中の怒りが、しおしおと萎びていくのを感じた。
あの時――リリーの救出の是非を巡って、ケイと対立した時。
アイリーンは、自分が「ひとでなし」という言葉を出したことを、今では深く悔やんでいた。この言葉がケイを傷つけてしまったのは、あの時の反応からしてまず間違いない。そして傷つくということは、『人を見捨てる』という選択肢を、アイリーンが知らぬ間に取っていたということだ。
なぜ。いつ。どこで。聞いていない以上、それは知りようがない。
しかし、推測はできる。
アイリーンが把握できていないということは、『こちら』に来た直後、矢を受けて気絶していた間か、あるいは直接戦闘に関与していない、草原の民との遭遇戦での出来事だろう。タアフの村に関することか、あるいは襲い掛かってきた草原の民にまつわることか――そこまでは分からないが、何にせよ、今さらそれを咎めようとは思わない。
彼が、好き好んで人を見捨てるタイプではないことは、アイリーン自身よく理解しているつもりだ。
ケイが何を選択したにせよ、それはきっと、断腸の思いで決めたことだろう。その間自分は、逃げるか、気絶するかしていただけだ。
そんな人間に、その行為を「ひとでなし」と言われて、ケイが何をどう思ったか――。
(……ひょっとするとオレ、嫌われちゃったのかな)
ぶるりと、背筋を震わせる。
実は、そう考えると、辻褄は合うのだ。
このところケイが、冷たいわけも。どこか、会話にぎこちなさが漂う理由も――。
「……なんでだよ」
ぽつりと、アイリーンの呟きが、虚ろに響く。
狭く、小さく――
それでも、広すぎる部屋に。
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