幕間. 根城
――話は、数日前まで遡る。
リレイル地方南部。
辺境の村ラネザよりさらに南、凶暴な獣たちの徘徊する深い森の奥。
村の住人たちが【
ひっそりと、『それ』は佇んでいる。
……
樹海を蛇行しながら流れる川。
その水面を、滑るように小舟が進んでいく。
しん、と沁み入る静けさの中に、時折、さざ波の音だけが響く。
小舟に乗るのは、五人。いずれも、黒い外套に身を包んだ男達。
船尾にて、ゆったりと櫂を漕ぐ者。
クロスボウを抱え、周囲を警戒する者。
舳先に吊るした香炉の火が、消えないよう見張る者。
残りの二人は、舟の真ん中で、身を寄せ合うようにして座り込んでいた。
そこに、一切の会話はない。会話する余裕がない、というべきか。真ん中の二人は俯いたまま身じろぎもせず、他の者はそれぞれの役割に集中していた。あるいは、彼らにとっても、ここは油断できない場所なのかもしれない。例え獣避けの香を焚き染めていたとて、それは絶対の安全を保証するものではないのだ。
どれほどの時間が経ったか――。
延々と、同じ場所を通り続けているのではないかと。そう錯覚してしまうほどに代わり映えのしなかった景色が、徐々にその様相を変え始める。
樹木の密度が薄くなり、代わりにごろごろとした石材が散見されるようになった。地面に横たわる苔むした石柱。崩壊しひび割れた巨大な石壁。遺跡、あるいは廃墟。そんな言葉を連想させる。かつて、ここで何かが栄え、そして滅び去った跡――。
と、頭上より、バサバサと羽音が聴こえてきた。
同時に、小舟を丸ごと覆い隠すような、巨大な影が差す。思わず全員が空を見上げると、三羽の黒い鳥が舟を取り囲むように旋回していた。そのうちの一羽が包囲の輪を外れ、ゆっくりと小舟に接近してくる。
ばさり、ばさりと吹き荒れる風。穏やかだった川面が、風圧に吹き散らされる。近づいて見れば、圧倒されるほどにその鳥は大きかった。両脚の爪は短剣のように鋭く、嘴はぎざぎざの歯が生えた恐ろしげなもので、体長はおそらく十メートルを優に超えるだろう。まさしく、怪鳥とでも呼ぶべき存在。
【――Ni honoras la nigra dentego!】
小舟の舳先、香炉の火の見張り役だった男が、片手に金属製のメダルを掲げて高らかに叫ぶ。
ずん、と音を立てて、近くの石壁に降り立った怪鳥は、翼を畳みながら首を傾げてそちらを覗き込んだ。握り拳ほどもある大きな赤い瞳が、じっとメダルを捉えて動かない。
ごくり……と、真ん中に座り込んでいた男の一人が、生唾を飲み込む音が響く。
「……ガァ」
ほどなくして、怪鳥は興味を失ったように視線を外し、一声鳴いて再び翼を広げた。来たときと同じように羽音を響かせながら、頭上の二羽と共に何処ともなく飛び去っていく。
「……おっかねぇ」
怪鳥の後ろ姿を見送りながら、ほっと溜息をつくように、先ほど生唾を飲み込んだ男。風にフードがあおられて、その相貌が露わになっていた。短く刈り込んだ茶髪に、こけた頬、げっそりとやつれた顔。歳の頃はまだ若い、二十代前半ほどであろうか。
青年の名を、『パヴエル』という。
壊滅したモリセット隊の、数少ない生き残りの一人だ。右肩の傷は未だ癒えておらず、出血で弱った身体には力が入らない。そんな衰弱した状態であるにも関わらず、ベッドから外に連れ出され、さらに化け物のような鳥には睨まれて、肝を冷やしたパヴエルの顔色はお世辞にも良いとは言えなかった。
「……あぅぇえぉぁ」
その隣では、布で口元を隠したラトが、ぼんやりとした表情で何かを喋っている。それが意味のある言葉なのか、あるいはただ赤子のように声を上げているだけなのか。本人が気狂いになってしまった今では、確かめる術すらない。
そんな二人をよそに、小舟は再び進み始める。舳先の男は、落ち着いた様子で懐にメダルを仕舞っていた。香炉の火は突風で吹き消されていたが、これ以上、獣避けの香の必要はない。
ここから先は、彼らの
視界が開け始める。見やれば、川の上流。小高い丘の上に、ひっそりとたたずむ建築物の影。がっしりとした石造りの外壁が連なり、幾重にも水堀が取り囲む中、控え目な高さの尖塔がそびえる。苔むして古びてはいるが、明らかに人の手が入っている、堅牢な要塞建築。
――『それ』に、名前は付けられていない。
だが、それを知る者は単純に、『城』とだけ呼ぶ。
獣の跋扈する樹海と、黒き翼の怪物に守護され、滅び去った古代の都市の中心部に、静かにそびえ立つ古城。
イグナーツ盗賊団。
その、知られざる本拠地だ。
†††
水門を潜り抜け、城の中へと通されたパヴエルにラトは、無口な黒服の男たちに連れられて、尖塔の一つを登っていった。
肩を貸してもらいつつ、フラフラになりながらも、塔の頂上へと辿り着く。目の前には、複雑な装飾の施された、重厚な木製の扉。その両側には、まるで岩のように微動だにしない、全身鎧で武装した衛兵の姿がある。
――ここを『城』だとするならば、中に居るのは、あるいは『王』か――
そう考えたパヴエルの、顔色がさらに悪くなる。下っ端に過ぎない彼にとって、『城』を訪れるのはこれが初めてであったし、そもそも昨日までは、その所在地すら知らなかったのだ。ましてや盗賊団の首領になど、お目にかかったこともない――
額に冷や汗が浮き上がり、口の中はからからに乾いていた。今のパヴエルには、隣で白痴のように呆けた表情をしているラトが、ただただ羨ましく見えて仕方がない。
「……お頭、連れてきました」
黒服の一人が、控え目に扉をノックする。「通せ」と中からくぐもった声。パヴエルの緊張は、この時ピークに達した。
ギィッ、と軋みながら、扉が開かれる。入らないという選択肢はない。もうどうにでもなれ、と半ば自棄になったパヴエルは、黒服たちと共にその中へ足を踏み入れた。
――それほど、広くはない部屋だ。
ふかふかの赤い絨毯が足音を吸いこむ。そこは拍子抜けするほどにこじんまりとした空間だった。しかし塔の最上部の一室だけあって、解放感が素晴らしい。まず目に入ったのは、窓の木枠にはめられたガラスだ。透明で混じり気がなく、真っ直ぐに成型された品。それは、貴族の館でもお目にかかったことのないほどに、上質なものだった。
「よく来たな」
窓の前、執務机に向かっていた男が、羽根ペンを動かしながらふっと顔を上げる。その眼光に射竦められ、パヴエルは人形のように硬直した。
大男。
彼を形容するのに、これ以上に相応しい言葉があろうか。
全身の盛り上がった筋肉。まるで山のような存在感。手の中の羽根ペンが、ともすれば玩具のように見えてしまうほど太い腕。どことなく熊を連想させる彫りの深い顔立ちは、「公国の将軍だ」と言われれば信じてしまいそうなほどに、威厳に満ち溢れている。
外の衛兵は要らないんじゃないか、と瞬間的にパヴエルはそう思った。ただ椅子に座っているだけなのに、空気が渦巻くような力強さがひしひしと伝わってくる。モリセット隊を壊滅させた、謎の弓使いとはまた別種の、絶望にも似た圧倒的強者の風格。
「――カァ」
部屋の片隅、止まり木の鴉が一声鳴き、気圧されていたパヴエルはハッと我に帰る。
「は、はいっ」
背筋をぴんと伸ばし、慌てて答えるパヴエルに、大男は薄く笑みを浮かべた。
「モリセット隊のパヴエルに、そっちはラトランド、だったな? さっそく詳しい話を聞かせてもらいたいところだが――先にこれを終わらせちまおう。少し待ってもらっていいか」
「も、もちろんです」
こくこくと頷くパヴエル、大男はニカッと野性味のある笑顔を見せて、机の上の書類に視線を戻す。
しばし、紙の上を羽根ペンが走る音だけが響く。緊張に凝り固まったまま、パヴエルはちらちらと部屋の観察を試みた。上質な赤い絨毯、ボードゲームの置かれた丸テーブル、上品な仕上げの木の椅子に、書物や巻物がぎっしりと詰められた本棚。
部屋の隅に飾られているのは、大男に相応しい巨大な鎧だ。普通の
「……クゥ」
そこでふと、止まり木の黒い鴉と目があう。首を傾げて、身を乗り出すように、こちらを覗き込む赤い瞳。そこに、まるで心を見透かすような、得体の知れない知性の光を見た気がして、薄気味が悪くなったパヴエルはそっと目を逸らした。
「――よし、こんなもんか」
最後にさらさらとサインをし、羽根ペンをインク入れに戻した大男が、ばさりと書類の束を傍らの黒服の男に差し出す。
「いつものように頼む。お前たちは下がっていいぞ」
「畏まりました」
大男に促され、付き人の黒服たちが恭しく部屋を辞する。ぱたん、と扉の閉まる音。残されたのは大男にパヴエル、ラトの三人だけとなった。
「はぁ~、まったく、肩がこる……」
ごりごりと首を鳴らしながら、肩を回す大男、
「さて、待たせたな。これでゆっくり話ができる」
机の上で手を組み、改めてパヴエルたちに向き直る。その野生的な体格に不釣り合いなほど理知的な――そうであるからこそ底が知れない――目に見据えられ、パヴエルはびくりと身体を震わせた。
「……むっ」
が、緊張して顔色の悪いパヴエルに、何を思ったのか大男は顔を険しくする。
「そういえば、お前たちは負傷しているんだったか?」
「…………」
「え、ええ……」
厳しい表情の大男に、呆けたように何も言わないラトの隣、自分は何かやらかしたのかと戦々恐々としながら、パヴエルは小さく首肯した。
パヴエルの返答に、渋い顔になった大男は、
「むぅ、そいつぁ悪いことをした。立ちっ放しだと辛いだろ、ちょっと待て」
やおら立ち上がり、部屋の隅、丸テーブルの傍らに置いてあった椅子を二脚、ひょいと抱え上げて持ってくる。
「ほれ、とりあえずこれにでも座れ」
「そっ、そんなっ、大丈夫ですっ」
「なーに、減るもんでもなし、気にすんな」
何でもない顔で、「ほれほれ」と椅子を勧める大男。頭目が手ずから椅子を用意するという事態に驚愕し、ひたすらに恐縮するパヴエル。しかしそんな彼をよそに、「おおおぉぉぅ」と呻きながらラトがさっさと腰を下ろしてしまったので、おっかなびっくりで席に着いた。
「よしよし、それでいい」
満足げに頷きながら、大男はどっかと自分の椅子に身を投げ出し、くいと首を傾げる。
「さて、二人とも、改めてよく来たな。俺がイグナーツ盗賊団の頭目、『デンナー』だ」
堂々たる名乗り。
――デンナー。
その名を聞いて、パヴエルは動きを止めた。
吸い寄せられるように、部屋の隅に立てかけられた、使い込まれたバトルハンマーに視線をやる。
「デンナー……"巨人"の『デンナー』?」
思わず、といった様子で、口からこぼれ出た言葉。それには答えず、大男――デンナーは、ただその笑みを濃くする。
「……すっすいません、自分は、パヴエルです」
目上の人間を前に呆然とする、という失態に気付いたパヴエルは、すぐに気を取り直して姿勢を正した。
「……それと、こいつが、ラトランドです。口をやられてうまく喋れないのと、その、ちょっと頭がイカレちまったみたいで……」
「うむ、報告でもそう聞いている」
机の引き出しから書類を取り出して、それを眺めながら顎ひげを撫でつけるデンナー。
「たしか、タアフの村の近く、だったな。弓使いの男に奇襲されて、モリセット隊は壊滅、モリセットの野郎も死亡、と……」
「はい」
「詳しい話を聞かせてくれ」
真面目な顔のデンナーに促され、ぺろりと唇を湿らせたパヴエルは、順序立てて最初から話し始める。二人組の旅人を襲撃したこと、それを逃がしてしまったこと、野営の最中で奇襲を食らったこと――。
デンナーは時折それに質問を挟みつつ、手元の紙にメモを取りながら、真剣な顔で話を聞いていた。
「なるほど、な……モリセットの最期はどうだった?」
「すいません。自分は気絶していたもので、分かりません」
「……そうか、ならいい。気にするな」
申し訳なさそうに小さくなるパヴエルに、「何でもない」という顔で手をひらひらさせるデンナー。
「……そして、これが、」
気まずさを払拭するように、パヴエルはそっと、胸元から『それ』を取り出した。黒い布に覆われた物体。ことん、と机の上に置く。
デンナーはおもむろに手を伸ばし、その布を剥ぎ取った。中から姿を現す、鈍い銀色の刃。
――ハウンドウルフの血で汚れた、短剣。
「ハウンドウルフに刺さってたんで、多分、襲撃者の所持品かと……。逃げる途中で見つけたんで、回収しておきました」
「……うむ。でかした」
短剣を手に取り、陽光に照らすように眼前に掲げる。指先で刃を弾くと、ぴぃんと澄んだ音が響いた。
しばらく無言で手の中の短剣をいじっていたデンナーは、顔を上げてふいに正面からパヴエルを見据える。
「パヴエル。お前、魔術について知識はあるか」
「えっ? ……いえ、ありません。精霊語で精霊にお願いして、奇跡が起こせるってこと以外は、特に……」
「ふむ。こういうとき、敵の所持品を探しておくってのは、モリセットに教えられていたことか?」
「はい。それが手がかりになるかもしれないから、と隊長にはいつも言われてました」
「そうかそうか。あいつも上手くやってたんだな」
何度も頷くデンナーは、上機嫌なようでどこか寂しげでもあるという、不思議な表情をしていた。
「――わかった。二人とも、報告ご苦労だったな」
立ち上がったデンナーが、ぱんぱんと手を鳴らす。すぐさま扉が開かれて、黒服のメイドが二人、しずしずと入室してきた。
「二人に部屋を用意しろ。それと滋養の付く食べ物もな。ああ、一人は口がダメになっているから、そこは気を利かせろよ」
「かしこまりました、デンナー様」
恭しく頭を下げたメイドたちは、「こちらへ」とパヴエルたちを部屋の外に誘う。
「えっ、いや、そのっ」
唐突な、まるで客人のような扱いに、目を白黒させるパヴエル。助けを求めるようにデンナーを見やると、彼はニカッと口の端を吊り上げ、
「なあに、休暇みたいなもんだ。こんな辺鄙な場所だが、ゆっくりするといい。傷が癒えたら、またそれになりに働いてもらうがな」
ガッハッハ、と声を上げて笑う。
困惑の表情を浮かべつつも、ありがとうございます、と頭を下げたパヴエルは、結局一言も喋らなかったラトと共に、メイドたちに連れられて部屋を辞した。
ぱたん、と扉が閉じ、部屋にはデンナーと、赤い瞳の鴉だけが残される。
デンナーはどっかと椅子に腰を下ろし、行儀悪く執務机の上に足を投げ出した。
「……どう思う、
手の中で短剣を弄びながら、独り言を呟くように。
「カァ~」
部屋の鴉が一声鳴き、澄まし顔で毛づくろいの真似をする。
「親父。俺までからかうのはやめてくれ」
「カァ~カァ~、カぁ~カッカッかッかッかッ!」
その鳴き声が、途中からしわがれた老人のそれに変わっていく。
「……そうさの。かッかッ、まぁ、只者ではあるまいて」
鴉は翼をはためかせ、止まり木から執務机へ。ぎょろり、と蠢いた赤い瞳が、デンナーを見据える。
黒い鴉。
瞳が燃えるような赤であることを除けば、見た目は何の変哲もない、ただの鳥。
それがまるで、当然であるかのように、鴉は朗々と喋り出す。
「凡人ならば、モリセットの坊主に、奇襲された時点で『詰み』じゃろう。それをいなし、逆襲を仕掛け、なおかつ十人の隊を壊滅させたとなると……その力量を疑う余地はあるまい。問題はむしろ、」
「『何故そんな使い手が、そんなところに居たのか』」
「じゃのう」
深々と頷く鴉に対し、デンナーは手元の書類に目をやった。ボリボリと頭を掻きながら嘆息する。
「おかしいよなぁ。黒装束をまとった金髪碧眼の乙女に、草原の民風の弓使いの男。しかも男の方がかなりの使い手ともなれば、目立たないはずがねえんだが」
「海辺の町ならともかく、タアフの村は内陸部じゃからのう。モリセット隊と接触する前に、近くの街なり村なりで話題に上るはずじゃ」
「ああ。それなのに調べても調べても、全く情報が出てこないってのが解せねえ」
ばさり、と書類を机の上に放り出し、デンナー。紙面上には、近隣の街や村々に潜り込んだ構成員の報告が、事細かに記されていた。
「うむ。何者かの、作為を感じるの。不自然であるということは、そういうことじゃ。あくまで、魔術師としての勘じゃがの……」
「親父の勘は良く当たる。どこが怪しいと思う?」
「タアフの村と言えば、バウケット領じゃろ? ならばサティナしかあるまいて」
「ま、ウチの『客』じゃないデカい街といえば、サティナくらいのもんだしな……」
しばし、考え込むように、一人と一羽は沈黙した。
「……まあいい、すぐに分かることさ。親父、いつものように頼む」
「
黒羽の鴉は、短剣の前、ばさりと翼を広げる。
【 Barono de nigregaj, Stina.】
ぎらりとその瞳が光る、
【 Vi sercas la mastro... ekzercu!】
呼びかけに呼応するように、卓上の刃が微かに鳴動した。
「ふむ……」
鴉の両目が、まるでカメレオンのようにぎょろぎょろと目まぐるしく蠢く。しかし、それも長くは続かず、視線はすぐに一点へ定まった。鴉は真っ直ぐに東を向いて、小さく首を傾げる。
「――見つけた。サティナじゃ」
「ほう、やはりな。となると、その『弓使い』とやらは、あの街の回し者か。サティナの何処に居る? 高級市街なら、領主に雇われた傭兵でまず間違いないと思うが」
「これは……妙じゃの。商人街かのう、何の変哲もない宿屋におるわい。ふぅむ、黒装束ではないが、金髪の女子も連れておる。背中を向けておるので本人の顔は見えぬが――」
実況するように、虚空を見つめながら、鴉はさらに言葉を続けようとした。が、その時、机の短剣がカタカタと震えだし、部屋の空気がぞわりと異様な雰囲気を孕んだ。
「む、いかんッ」
鴉の声に、焦りの色が浮かぶ。ばさりと翼を翻して、目の前の短剣から飛び退った。
―― Sinjoro ――
部屋の中。
―― Kion vi volas, huh ? ――
無邪気な、それでいて妖艶な、声が。
轟々と窓の外、風が吹き荒れる。ガタガタと揺らされる窓枠。何か不吉な予感に襲われたデンナーは、咄嗟に床に伏せた。
突風が、吹きつける。
けたたましい音を立てて、部屋の窓が割り砕かれた。飛び散るガラスの破片、ばさばさと舞い散る書類、獣の咆哮のように唸りながら、吹きこみ渦巻き荒れ狂う風。
「こ、これはッ!」
吹き飛ばされないよう、机の上で必死に張り付きながらも、鴉は見た。
――放置されていた短剣に、見る見る間にひびが入っていき、ボロボロに崩れ去っていく様を。
「! 待て!」
慌てて短剣に近寄ろうとしたところで、バシンッと音を立てて、鴉はまるで見えない手にはたかれたように、部屋の端まで弾き飛ばされる。
「親父ッ!」
「大事ない! しかし――!」
身を起こしたデンナー、その目の前でざらざらと、砂のように短剣が崩壊した。その細かな粒子は風に巻き上げられ、虚空へ誘われるように溶けて消えていく。
―― Gis la revido ――
鈴の鳴るような、悪戯っ子のような、笑いを含んだ声。巻き上がる風の中に、デンナーはひとりの、羽衣をまとった少女の姿を幻視した。
そして唐突に、風は止む。
「…………」
後には呆気にとられたようなデンナーと、部屋の隅で羽根を散らし、頭痛を払うように首を振る鴉だけが残された。
「……親父、いったいどういうことだこりゃ」
めちゃめちゃになった部屋の惨状に、唇を尖らせたデンナーが、咎めるような目で鴉を見やる。しかし茫然と口を開けた鴉は、
「……かッ」
ただ、息を詰まらせたような声を、
「かッ、かッかッ、カカカッッ、カッハハハハハハッ!!」
興奮してばさばさと翼を動かしながら、引き攣ったように笑い始める。
「かッかッかッ、彼奴め、気付きおった! わしの『眼』に気付きおったぞ! カカカッ、傑作!! こいつは傑作じゃ!」
「俺には面白くもなんともないんだが……どういうことだ」
書類を整理しながら、憮然とするデンナー。羽ばたいて、デンナーの肩に止まった鴉は、その横顔を覗き込むように、
「魔術師じゃよ」
そっと、囁いた。
「件の弓使いの男は、魔術師じゃ。大精霊の加護を受けておる」
「大精霊?」
「いかにも。"妖精"や"鬼火"なんぞの子供騙しではない、強大な元素の精霊よ。この場合は、十中八九、風じゃろうが」
何が可笑しいのか、鴉はくっくっくと再び喉を鳴らす。
「勘弁してくれよ、親父が油断したおかげで部屋はこの有り様だぞ……」
デンナーは額を押さえて、小さく溜息をついた。窓ガラスは粉砕され、家具や調度品は倒され、書類やら何やらが散乱し、部屋はまるで竜巻の直撃を受けたかのようだ。
「くふッ、かッかッ。すまんのぅ、いやはや。……あの若者、興味が湧いた」
トンと机に飛び降りて、鴉。ぎらぎらと輝くその双眸には、知性のそれとはまた別種の、何ともおぞましい輝きがある。
「欲しい。あの精霊の力、是が非でも欲しい。どうにかして、我が物としたい。それに……。 Tiuj kiuj insidas en la sablo... alie gi estus unu el la vizitantoj...」
焦点の定まらぬ目で何事かをぶつぶつと呟く鴉に、書類をまとめ上げながらデンナーは再び小さく溜息をついた。
「……まあ、いいさ。とりあえず結論として、件の弓使いはサティナの関係者と見てもいいか」
「そうさの。凄腕の弓使い、それも魔術師など、その辺に林檎のようにごろごろと転がってはおるまい。
うむ、と頷いたデンナーは、ぱんぱんと手を鳴らす。
すぐに扉が開かれ、黒服のメイドがしずしずと入ってくる。人形のような澄まし顔をしていた彼女たちであったが、部屋の惨状を見て、流石にその表情を変えた。
「デンナー様、これは……」
「うむ。ちょっとした手違いで、悪戯っ子が入ってきちまってな……お前たち、掃除は任せたぞ」
「は、はい……」
本気とも冗談とも取れぬ態度、おどけたように肩をすくめるデンナーに、メイドたちは困惑しながらも頷いた。ばさり、と飛んできた鴉をその腕に止めて、
「それじゃあ、俺は屋根裏に戻る。何かあったら呼べ」
「かしこまりました」
頭を下げるメイドたちを尻目に、デンナーは部屋を後にする。
「……しかし、あの部屋の扉も、考えようによっては不便だな」
「カァ」
複雑な装飾の施された、木の扉。螺旋階段を登る前に、ちらりと見やってデンナーはひとり小さくごちた。ただの扉に見えるそれは、実は盗聴対策として、一部の限られた音しか通さない魔法がかけられている。密談には好都合だが、裏を返せば、中で何が起きても外の人間には分からない。
螺旋階段を、登る。
かつかつ、とブーツの踵が石段を打つ音だけが響く。パヴエルが最上階だと思っていた執務室だが、その上には実は小さな屋根裏部屋がある。デンナーが自分以外の立ち入りを禁じている、完全にプライベートな空間だ。
階段の上、小さな木の扉の鍵を開けて、デンナーは屋根裏部屋に入る。デンナーの巨体には不釣り合いなほど狭い部屋には、大きめの寝台にこじんまりとした本棚、それに止まり木と、小さなサイドテーブルだけがあった。
「さて、どうするかね、親父」
デンナーの問いかけに、止まり木に移った鴉が首を傾げる。
「……サティナへの対応かの?」
「それも、だが、イグナーツのことさ。……この『盗賊ごっこ』も、そろそろ終いにしていいんじゃねえか」
寝台に腰かけ、肘をついて手を組んだデンナーは、真っ直ぐに赤い瞳を見つめた。
「時間は充分にかけた。種も充分に蒔いた。奴隷商の仕事も、せこいクスリの商売も、諜報の真似ごとも、もううんざりだ。
最近は、サティナも取り締まりを強化してきたからな。割に合わねえから、ウチもあの街からは手を引くことを決めたばかりだ。ここで示し合わせたように、向こうが敵対行動に出てきたのも、何かのサインじゃないかと思ってな」
「……頃合い、かの」
「ああ」
ぽつりと呟くような鴉に、デンナーは深々と頷く。くっく、としわがれた声で、鴉は喉を鳴らした。
「……正直なところ、わしも、伝書鳩の役にはもう飽き飽きでのぅ」
「それは、今の
意地の悪い笑みを浮かべるデンナー。
「まあ、件の弓使いのこともあるしの。相応に準備せねばならん」
「ああ……だがそろそろ、取りかかろう」
「相分かった。となればデンナー、わしは少し
「分かった」
デンナーが頷くと、止まり木の鴉の瞳から、すっと赤い色が抜けて薄くなった。
「……カァーッ、カァーッ」
一声、二声。首を振りながらきょろきょろと周囲を見回す様子は、まるでただの鳥だ。
それを見ながら、デンナーは独り嘆息する。
「まったく、モリセットの野郎。これからってときに死んじまいやがって……」
イグナーツ盗賊団の構成員は数知れないが、その中でもモリセットは、デンナーとは十数年の付き合いになる最古参の『仲間』の一人だ。
思い描くのは、数週間前、幹部クラスの集まりで最後に顔を合わせたときのこと。
――お頭、俺たちがこれ以上、『盗賊』を続ける意味はあるんですかい?
モリセットはデンナーに、このように問うた。
イグナーツ盗賊団は、その名の通り、盗賊団だ。
しかし旗揚げから十余年。商売柄、女子供を攫うこともあり、その関係で盗賊団は奴隷商とのつながりを得た。限りなくブラックに近いグレーの領域ではあったが、そこで表社会への間口を確立したのだ。
それを契機に、デンナー達は、様々なものに関わり合っていった。その巧みな隠密行動から密輸や密売にも手を染め、合法・非合法を問わず薬品も扱うようになり、それらのカモフラージュとして真っ当な商売にさえも手を出した。近頃では、自分がイグナーツの手先であるということを知らずに、働いている者も多いことだろう。
そして、魔術を介した通信と活動範囲の広さは情報収集を助け、さらなる組織の拡張を可能とした。今では幾つかの街と裏取引を行い、イグナーツ盗賊団は諜報組織の真似ごとまでしている。
――巨大な、それでいて組織化された、公国の裏社会の大部分を占める存在。
それが、イグナーツ盗賊団の現状だ。
その組織の全体像を、把握している者は非常に限られている。モリセットは、そんな数少ない構成員の一人だった。彼がデンナーに疑問を呈したのは、イグナーツ盗賊団の莫大な資金源において、盗賊稼業の占める割合が余りに少なく、殆ど儲けがなかったことだ。
詰まる所、今となっては、盗賊稼業は『無駄』に過ぎぬのではないかと。
「……俺たちは、"盗賊"である必要があったんだよ」
しかしデンナーは、このように答えた。
「所詮は盗賊だが、ついでに諜報の真似もしている。そんな姿勢を、立場を、演出しなきゃならなかったんだ」
イグナーツは巨大で、強大な組織だ。しかし『表』の連中に無駄な警戒心を掻き立てて、全て敵に回してしまうと、それを相手に戦い切れるほど組織としての体力がない。
故に、油断させなければならない。所詮はただの、盗賊であると。
また、各々の街との取引のうちには、『手を結んだ領地内での活動は自粛する』というものも含まれていたため、示威行為としてもやはり"盗賊稼業"は必要だった。
――盗賊をやるなら、利益を出せ。
――その代わり、被害は出すな。
犠牲を払って利益を取り、それで採算を合わせるのではなく、犠牲が出るくらいならそもそも襲うな、と。デンナーはそう、モリセットに指示していた。
モリセットは特別に強いわけではないが、用心深く、狡猾な男だ。欲を出すことも調子に乗ることもなく、ついこの間まで、淡々とその任務をこなしていたわけだが、
「まったく、死んじまいやがって」
ぽつりと、寂しげに。
「……まあ、それももう終わりだ」
顔を上げ、デンナーは寝台横のサイドテーブルを、そっと撫でた。
音もなく、テーブルの表面に、幻のように地図が浮かび上がる。主要な大都市が全て収められ、リレイル地方の詳細な地形が記された、本来であれば国の最高機密とされてもおかしくないレベルの地図。
その上に、同じような幻の
おもむろに腰を上げ、窓の外を見やる。
地平の果てまで広がる、緑の景色。
森と、そこに埋もれた、廃墟の姿。
「これまで、色々なものを手に入れてきた――」
巨大な盗賊団の首領として、デンナーはおおよそこの世に存在する、ほぼ全てのものを獲得してきた。
様々な金銀財宝を略奪し、女を手に入れ、金を手に入れ――今ではこうして、一城の主にまでなった。
しかしそれでも。
まだ、奪い取ったことのない、ものがあった。
振り返る。そこに浮かび上がる、幻の地図。
――アクランド連合公国。
「さあ、」
にやりと。
男は、獣のような、獰猛な笑みを浮かべた。
「――国盗りを、始めようか」
運命の歯車は、回り出す。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます