幕間. 根城


 ――話は、数日前まで遡る。



 リレイル地方南部。


 辺境の村ラネザよりさらに南、凶暴な獣たちの徘徊する深い森の奥。


 村の住人たちが【深部アビス】と呼び、決して足を踏み入れることのない、危険な領域に。


 ひっそりと、『それ』は佇んでいる。



 ……



 樹海を蛇行しながら流れる川。


 その水面を、滑るように小舟が進んでいく。


 しん、と沁み入る静けさの中に、時折、さざ波の音だけが響く。


 小舟に乗るのは、五人。いずれも、黒い外套に身を包んだ男達。


 船尾にて、ゆったりと櫂を漕ぐ者。


 クロスボウを抱え、周囲を警戒する者。


 舳先に吊るした香炉の火が、消えないよう見張る者。


 残りの二人は、舟の真ん中で、身を寄せ合うようにして座り込んでいた。


 そこに、一切の会話はない。会話する余裕がない、というべきか。真ん中の二人は俯いたまま身じろぎもせず、他の者はそれぞれの役割に集中していた。あるいは、彼らにとっても、ここは油断できない場所なのかもしれない。例え獣避けの香を焚き染めていたとて、それは絶対の安全を保証するものではないのだ。


 

 どれほどの時間が経ったか――。



 延々と、同じ場所を通り続けているのではないかと。そう錯覚してしまうほどに代わり映えのしなかった景色が、徐々にその様相を変え始める。


 樹木の密度が薄くなり、代わりにごろごろとした石材が散見されるようになった。地面に横たわる苔むした石柱。崩壊しひび割れた巨大な石壁。遺跡、あるいは廃墟。そんな言葉を連想させる。かつて、ここで何かが栄え、そして滅び去った跡――。


 と、頭上より、バサバサと羽音が聴こえてきた。


 同時に、小舟を丸ごと覆い隠すような、巨大な影が差す。思わず全員が空を見上げると、三羽の黒い鳥が舟を取り囲むように旋回していた。そのうちの一羽が包囲の輪を外れ、ゆっくりと小舟に接近してくる。


 ばさり、ばさりと吹き荒れる風。穏やかだった川面が、風圧に吹き散らされる。近づいて見れば、圧倒されるほどにその鳥は大きかった。両脚の爪は短剣のように鋭く、嘴はぎざぎざの歯が生えた恐ろしげなもので、体長はおそらく十メートルを優に超えるだろう。まさしく、怪鳥とでも呼ぶべき存在。


【――Ni honoras la nigra dentego!】


 小舟の舳先、香炉の火の見張り役だった男が、片手に金属製のメダルを掲げて高らかに叫ぶ。


 ずん、と音を立てて、近くの石壁に降り立った怪鳥は、翼を畳みながら首を傾げてそちらを覗き込んだ。握り拳ほどもある大きな赤い瞳が、じっとメダルを捉えて動かない。


 ごくり……と、真ん中に座り込んでいた男の一人が、生唾を飲み込む音が響く。


「……ガァ」


 ほどなくして、怪鳥は興味を失ったように視線を外し、一声鳴いて再び翼を広げた。来たときと同じように羽音を響かせながら、頭上の二羽と共に何処ともなく飛び去っていく。


「……おっかねぇ」


 怪鳥の後ろ姿を見送りながら、ほっと溜息をつくように、先ほど生唾を飲み込んだ男。風にフードがあおられて、その相貌が露わになっていた。短く刈り込んだ茶髪に、こけた頬、げっそりとやつれた顔。歳の頃はまだ若い、二十代前半ほどであろうか。


 青年の名を、『パヴエル』という。


 壊滅したモリセット隊の、数少ない生き残りの一人だ。右肩の傷は未だ癒えておらず、出血で弱った身体には力が入らない。そんな衰弱した状態であるにも関わらず、ベッドから外に連れ出され、さらに化け物のような鳥には睨まれて、肝を冷やしたパヴエルの顔色はお世辞にも良いとは言えなかった。


「……あぅぇえぉぁ」


 その隣では、布で口元を隠したラトが、ぼんやりとした表情で何かを喋っている。それが意味のある言葉なのか、あるいはただ赤子のように声を上げているだけなのか。本人が気狂いになってしまった今では、確かめる術すらない。


 そんな二人をよそに、小舟は再び進み始める。舳先の男は、落ち着いた様子で懐にメダルを仕舞っていた。香炉の火は突風で吹き消されていたが、これ以上、獣避けの香の必要はない。


 ここから先は、彼らの縄張りテリトリーだ。


 視界が開け始める。見やれば、川の上流。小高い丘の上に、ひっそりとたたずむ建築物の影。がっしりとした石造りの外壁が連なり、幾重にも水堀が取り囲む中、控え目な高さの尖塔がそびえる。苔むして古びてはいるが、明らかに人の手が入っている、堅牢な要塞建築。


 ――『それ』に、名前は付けられていない。


 だが、それを知る者は単純に、『城』とだけ呼ぶ。


 獣の跋扈する樹海と、黒き翼の怪物に守護され、滅び去った古代の都市の中心部に、静かにそびえ立つ古城。



 イグナーツ盗賊団。



 その、知られざる本拠地だ。




          †††




 水門を潜り抜け、城の中へと通されたパヴエルにラトは、無口な黒服の男たちに連れられて、尖塔の一つを登っていった。


 肩を貸してもらいつつ、フラフラになりながらも、塔の頂上へと辿り着く。目の前には、複雑な装飾の施された、重厚な木製の扉。その両側には、まるで岩のように微動だにしない、全身鎧で武装した衛兵の姿がある。


 ――ここを『城』だとするならば、中に居るのは、あるいは『王』か――


 そう考えたパヴエルの、顔色がさらに悪くなる。下っ端に過ぎない彼にとって、『城』を訪れるのはこれが初めてであったし、そもそも昨日までは、その所在地すら知らなかったのだ。ましてや盗賊団の首領になど、お目にかかったこともない――


 額に冷や汗が浮き上がり、口の中はからからに乾いていた。今のパヴエルには、隣で白痴のように呆けた表情をしているラトが、ただただ羨ましく見えて仕方がない。


「……お頭、連れてきました」


 黒服の一人が、控え目に扉をノックする。「通せ」と中からくぐもった声。パヴエルの緊張は、この時ピークに達した。


 ギィッ、と軋みながら、扉が開かれる。入らないという選択肢はない。もうどうにでもなれ、と半ば自棄になったパヴエルは、黒服たちと共にその中へ足を踏み入れた。



 ――それほど、広くはない部屋だ。



 ふかふかの赤い絨毯が足音を吸いこむ。そこは拍子抜けするほどにこじんまりとした空間だった。しかし塔の最上部の一室だけあって、解放感が素晴らしい。まず目に入ったのは、窓の木枠にはめられたガラスだ。透明で混じり気がなく、真っ直ぐに成型された品。それは、貴族の館でもお目にかかったことのないほどに、上質なものだった。


「よく来たな」


 窓の前、執務机に向かっていた男が、羽根ペンを動かしながらふっと顔を上げる。その眼光に射竦められ、パヴエルは人形のように硬直した。


 大男。


 彼を形容するのに、これ以上に相応しい言葉があろうか。


 全身の盛り上がった筋肉。まるで山のような存在感。手の中の羽根ペンが、ともすれば玩具のように見えてしまうほど太い腕。どことなく熊を連想させる彫りの深い顔立ちは、「公国の将軍だ」と言われれば信じてしまいそうなほどに、威厳に満ち溢れている。


 外の衛兵は要らないんじゃないか、と瞬間的にパヴエルはそう思った。ただ椅子に座っているだけなのに、空気が渦巻くような力強さがひしひしと伝わってくる。モリセット隊を壊滅させた、謎の弓使いとはまた別種の、絶望にも似た圧倒的強者の風格。


「――カァ」


 部屋の片隅、止まり木の鴉が一声鳴き、気圧されていたパヴエルはハッと我に帰る。


「は、はいっ」


 背筋をぴんと伸ばし、慌てて答えるパヴエルに、大男は薄く笑みを浮かべた。


「モリセット隊のパヴエルに、そっちはラトランド、だったな? さっそく詳しい話を聞かせてもらいたいところだが――先にこれを終わらせちまおう。少し待ってもらっていいか」

「も、もちろんです」


 こくこくと頷くパヴエル、大男はニカッと野性味のある笑顔を見せて、机の上の書類に視線を戻す。


 しばし、紙の上を羽根ペンが走る音だけが響く。緊張に凝り固まったまま、パヴエルはちらちらと部屋の観察を試みた。上質な赤い絨毯、ボードゲームの置かれた丸テーブル、上品な仕上げの木の椅子に、書物や巻物がぎっしりと詰められた本棚。

 部屋の隅に飾られているのは、大男に相応しい巨大な鎧だ。普通の板金鎧プレートメイルよりも重厚な、質実剛健な造りのそれは、幾多の戦いを潜り抜けてきたのか、あちこちに修繕の跡や傷が見られた。その隣には、壁に無造作に立てかけられた戦鎚バトルハンマー。これも随分と使い込まれたものなのだろう、きちんと手入れがなされているにも関わらず、全体がどす黒く鈍い光を放っていた。


「……クゥ」


 そこでふと、止まり木の黒い鴉と目があう。首を傾げて、身を乗り出すように、こちらを覗き込む赤い瞳。そこに、まるで心を見透かすような、得体の知れない知性の光を見た気がして、薄気味が悪くなったパヴエルはそっと目を逸らした。


「――よし、こんなもんか」


 最後にさらさらとサインをし、羽根ペンをインク入れに戻した大男が、ばさりと書類の束を傍らの黒服の男に差し出す。


「いつものように頼む。お前たちは下がっていいぞ」

「畏まりました」


 大男に促され、付き人の黒服たちが恭しく部屋を辞する。ぱたん、と扉の閉まる音。残されたのは大男にパヴエル、ラトの三人だけとなった。


「はぁ~、まったく、肩がこる……」


 ごりごりと首を鳴らしながら、肩を回す大男、


「さて、待たせたな。これでゆっくり話ができる」


 机の上で手を組み、改めてパヴエルたちに向き直る。その野生的な体格に不釣り合いなほど理知的な――そうであるからこそ底が知れない――目に見据えられ、パヴエルはびくりと身体を震わせた。


「……むっ」


 が、緊張して顔色の悪いパヴエルに、何を思ったのか大男は顔を険しくする。


「そういえば、お前たちは負傷しているんだったか?」

「…………」

「え、ええ……」


 厳しい表情の大男に、呆けたように何も言わないラトの隣、自分は何かやらかしたのかと戦々恐々としながら、パヴエルは小さく首肯した。


 パヴエルの返答に、渋い顔になった大男は、


「むぅ、そいつぁ悪いことをした。立ちっ放しだと辛いだろ、ちょっと待て」


 やおら立ち上がり、部屋の隅、丸テーブルの傍らに置いてあった椅子を二脚、ひょいと抱え上げて持ってくる。


「ほれ、とりあえずこれにでも座れ」

「そっ、そんなっ、大丈夫ですっ」

「なーに、減るもんでもなし、気にすんな」


 何でもない顔で、「ほれほれ」と椅子を勧める大男。頭目が手ずから椅子を用意するという事態に驚愕し、ひたすらに恐縮するパヴエル。しかしそんな彼をよそに、「おおおぉぉぅ」と呻きながらラトがさっさと腰を下ろしてしまったので、おっかなびっくりで席に着いた。


「よしよし、それでいい」


 満足げに頷きながら、大男はどっかと自分の椅子に身を投げ出し、くいと首を傾げる。


「さて、二人とも、改めてよく来たな。俺がイグナーツ盗賊団の頭目、『デンナー』だ」


 堂々たる名乗り。



 ――デンナー。



 その名を聞いて、パヴエルは動きを止めた。


 吸い寄せられるように、部屋の隅に立てかけられた、使い込まれたバトルハンマーに視線をやる。


「デンナー……"巨人"の『デンナー』?」


 思わず、といった様子で、口からこぼれ出た言葉。それには答えず、大男――デンナーは、ただその笑みを濃くする。


「……すっすいません、自分は、パヴエルです」


 目上の人間を前に呆然とする、という失態に気付いたパヴエルは、すぐに気を取り直して姿勢を正した。


「……それと、こいつが、ラトランドです。口をやられてうまく喋れないのと、その、ちょっと頭がイカレちまったみたいで……」

「うむ、報告でもそう聞いている」


 机の引き出しから書類を取り出して、それを眺めながら顎ひげを撫でつけるデンナー。


「たしか、タアフの村の近く、だったな。弓使いの男に奇襲されて、モリセット隊は壊滅、モリセットの野郎も死亡、と……」

「はい」

「詳しい話を聞かせてくれ」


 真面目な顔のデンナーに促され、ぺろりと唇を湿らせたパヴエルは、順序立てて最初から話し始める。二人組の旅人を襲撃したこと、それを逃がしてしまったこと、野営の最中で奇襲を食らったこと――。


 デンナーは時折それに質問を挟みつつ、手元の紙にメモを取りながら、真剣な顔で話を聞いていた。


「なるほど、な……モリセットの最期はどうだった?」

「すいません。自分は気絶していたもので、分かりません」

「……そうか、ならいい。気にするな」


 申し訳なさそうに小さくなるパヴエルに、「何でもない」という顔で手をひらひらさせるデンナー。


「……そして、これが、」


 気まずさを払拭するように、パヴエルはそっと、胸元から『それ』を取り出した。黒い布に覆われた物体。ことん、と机の上に置く。


 デンナーはおもむろに手を伸ばし、その布を剥ぎ取った。中から姿を現す、鈍い銀色の刃。



 ――ハウンドウルフの血で汚れた、短剣。



「ハウンドウルフに刺さってたんで、多分、襲撃者の所持品かと……。逃げる途中で見つけたんで、回収しておきました」

「……うむ。でかした」


 短剣を手に取り、陽光に照らすように眼前に掲げる。指先で刃を弾くと、ぴぃんと澄んだ音が響いた。


 しばらく無言で手の中の短剣をいじっていたデンナーは、顔を上げてふいに正面からパヴエルを見据える。


「パヴエル。お前、魔術について知識はあるか」

「えっ? ……いえ、ありません。精霊語で精霊にお願いして、奇跡が起こせるってこと以外は、特に……」

「ふむ。こういうとき、敵の所持品を探しておくってのは、モリセットに教えられていたことか?」

「はい。それが手がかりになるかもしれないから、と隊長にはいつも言われてました」

「そうかそうか。あいつも上手くやってたんだな」


 何度も頷くデンナーは、上機嫌なようでどこか寂しげでもあるという、不思議な表情をしていた。


「――わかった。二人とも、報告ご苦労だったな」


 立ち上がったデンナーが、ぱんぱんと手を鳴らす。すぐさま扉が開かれて、黒服のメイドが二人、しずしずと入室してきた。


「二人に部屋を用意しろ。それと滋養の付く食べ物もな。ああ、一人は口がダメになっているから、そこは気を利かせろよ」

「かしこまりました、デンナー様」


 恭しく頭を下げたメイドたちは、「こちらへ」とパヴエルたちを部屋の外に誘う。


「えっ、いや、そのっ」


 唐突な、まるで客人のような扱いに、目を白黒させるパヴエル。助けを求めるようにデンナーを見やると、彼はニカッと口の端を吊り上げ、


「なあに、休暇みたいなもんだ。こんな辺鄙な場所だが、ゆっくりするといい。傷が癒えたら、またそれになりに働いてもらうがな」


 ガッハッハ、と声を上げて笑う。


 困惑の表情を浮かべつつも、ありがとうございます、と頭を下げたパヴエルは、結局一言も喋らなかったラトと共に、メイドたちに連れられて部屋を辞した。




 ぱたん、と扉が閉じ、部屋にはデンナーと、赤い瞳の鴉だけが残される。




 デンナーはどっかと椅子に腰を下ろし、行儀悪く執務机の上に足を投げ出した。


「……どう思う、?」


 手の中で短剣を弄びながら、独り言を呟くように。


「カァ~」


 部屋の鴉が一声鳴き、澄まし顔で毛づくろいの真似をする。


「親父。俺までからかうのはやめてくれ」

「カァ~カァ~、カぁ~カッカッかッかッかッ!」


 その鳴き声が、途中からしわがれた老人のそれに変わっていく。


「……そうさの。かッかッ、まぁ、只者ではあるまいて」


 鴉は翼をはためかせ、止まり木から執務机へ。ぎょろり、と蠢いた赤い瞳が、デンナーを見据える。


 黒い鴉。


 瞳が燃えるような赤であることを除けば、見た目は何の変哲もない、ただの鳥。


 それがまるで、当然であるかのように、鴉は朗々と喋り出す。


「凡人ならば、モリセットの坊主に、奇襲された時点で『詰み』じゃろう。それをいなし、逆襲を仕掛け、なおかつ十人の隊を壊滅させたとなると……その力量を疑う余地はあるまい。問題はむしろ、」

「『何故そんな使い手が、そんなところに居たのか』」

「じゃのう」


 深々と頷く鴉に対し、デンナーは手元の書類に目をやった。ボリボリと頭を掻きながら嘆息する。


「おかしいよなぁ。黒装束をまとった金髪碧眼の乙女に、草原の民風の弓使いの男。しかも男の方がかなりの使い手ともなれば、目立たないはずがねえんだが」

「海辺の町ならともかく、タアフの村は内陸部じゃからのう。モリセット隊と接触する前に、近くの街なり村なりで話題に上るはずじゃ」

「ああ。それなのに調べても調べても、全く情報が出てこないってのが解せねえ」


 ばさり、と書類を机の上に放り出し、デンナー。紙面上には、近隣の街や村々に潜り込んだ構成員の報告が、事細かに記されていた。


「うむ。何者かの、作為を感じるの。不自然であるということは、そういうことじゃ。あくまで、魔術師としての勘じゃがの……」

「親父の勘は良く当たる。どこが怪しいと思う?」

「タアフの村と言えば、バウケット領じゃろ? ならばサティナしかあるまいて」

「ま、ウチの『客』じゃないデカい街といえば、サティナくらいのもんだしな……」


 しばし、考え込むように、一人と一羽は沈黙した。


「……まあいい、すぐに分かることさ。親父、いつものように頼む」

相分あいわかった、鳥たちに探させよう……」


 黒羽の鴉は、短剣の前、ばさりと翼を広げる。


【 Barono de nigregaj, Stina.】


 ぎらりとその瞳が光る、


【 Vi sercas la mastro... ekzercu!】


 呼びかけに呼応するように、卓上の刃が微かに鳴動した。


「ふむ……」


 鴉の両目が、まるでカメレオンのようにぎょろぎょろと目まぐるしく蠢く。しかし、それも長くは続かず、視線はすぐに一点へ定まった。鴉は真っ直ぐに東を向いて、小さく首を傾げる。


「――見つけた。サティナじゃ」

「ほう、やはりな。となると、その『弓使い』とやらは、あの街の回し者か。サティナの何処に居る? 高級市街なら、領主に雇われた傭兵でまず間違いないと思うが」

「これは……妙じゃの。商人街かのう、何の変哲もない宿屋におるわい。ふぅむ、黒装束ではないが、金髪の女子も連れておる。背中を向けておるので本人の顔は見えぬが――」


 実況するように、虚空を見つめながら、鴉はさらに言葉を続けようとした。が、その時、机の短剣がカタカタと震えだし、部屋の空気がぞわりと異様な雰囲気を孕んだ。


「む、いかんッ」


 鴉の声に、焦りの色が浮かぶ。ばさりと翼を翻して、目の前の短剣から飛び退った。



 ―― Sinjoro ――



 部屋の中。



 ―― Kion vi volas, huh ? ――



 無邪気な、それでいて妖艶な、声が。



 轟々と窓の外、風が吹き荒れる。ガタガタと揺らされる窓枠。何か不吉な予感に襲われたデンナーは、咄嗟に床に伏せた。


 突風が、吹きつける。


 けたたましい音を立てて、部屋の窓が割り砕かれた。飛び散るガラスの破片、ばさばさと舞い散る書類、獣の咆哮のように唸りながら、吹きこみ渦巻き荒れ狂う風。


「こ、これはッ!」


 吹き飛ばされないよう、机の上で必死に張り付きながらも、鴉は見た。


 ――放置されていた短剣に、見る見る間にひびが入っていき、ボロボロに崩れ去っていく様を。


「! 待て!」


 慌てて短剣に近寄ろうとしたところで、バシンッと音を立てて、鴉はまるで見えない手にはたかれたように、部屋の端まで弾き飛ばされる。


「親父ッ!」

「大事ない! しかし――!」


 身を起こしたデンナー、その目の前でざらざらと、砂のように短剣が崩壊した。その細かな粒子は風に巻き上げられ、虚空へ誘われるように溶けて消えていく。



 ―― Gis la revido ――



 鈴の鳴るような、悪戯っ子のような、笑いを含んだ声。巻き上がる風の中に、デンナーはひとりの、羽衣をまとった少女の姿を幻視した。


 そして唐突に、風は止む。


「…………」


 後には呆気にとられたようなデンナーと、部屋の隅で羽根を散らし、頭痛を払うように首を振る鴉だけが残された。


「……親父、いったいどういうことだこりゃ」


 めちゃめちゃになった部屋の惨状に、唇を尖らせたデンナーが、咎めるような目で鴉を見やる。しかし茫然と口を開けた鴉は、


「……かッ」


 ただ、息を詰まらせたような声を、


「かッ、かッかッ、カカカッッ、カッハハハハハハッ!!」


 興奮してばさばさと翼を動かしながら、引き攣ったように笑い始める。


「かッかッかッ、彼奴め、気付きおった! わしの『眼』に気付きおったぞ! カカカッ、傑作!! こいつは傑作じゃ!」

「俺には面白くもなんともないんだが……どういうことだ」


 書類を整理しながら、憮然とするデンナー。羽ばたいて、デンナーの肩に止まった鴉は、その横顔を覗き込むように、


「魔術師じゃよ」


 そっと、囁いた。


「件の弓使いの男は、魔術師じゃ。大精霊の加護を受けておる」

「大精霊?」

「いかにも。"妖精"や"鬼火"なんぞの子供騙しではない、強大な元素の精霊よ。この場合は、十中八九、風じゃろうが」


 何が可笑しいのか、鴉はくっくっくと再び喉を鳴らす。


「勘弁してくれよ、親父が油断したおかげで部屋はこの有り様だぞ……」


 デンナーは額を押さえて、小さく溜息をついた。窓ガラスは粉砕され、家具や調度品は倒され、書類やら何やらが散乱し、部屋はまるで竜巻の直撃を受けたかのようだ。


「くふッ、かッかッ。すまんのぅ、いやはや。……あの若者、興味が湧いた」


 トンと机に飛び降りて、鴉。ぎらぎらと輝くその双眸には、知性のそれとはまた別種の、何ともおぞましい輝きがある。


「欲しい。あの精霊の力、是が非でも欲しい。どうにかして、我が物としたい。それに……。 Tiuj kiuj insidas en la sablo... alie gi estus unu el la vizitantoj...」


 焦点の定まらぬ目で何事かをぶつぶつと呟く鴉に、書類をまとめ上げながらデンナーは再び小さく溜息をついた。


「……まあ、いいさ。とりあえず結論として、件の弓使いはサティナの関係者と見てもいいか」

「そうさの。凄腕の弓使い、それも魔術師など、その辺に林檎のようにごろごろと転がってはおるまい。わしらイグナーツへの対策として雇われた傭兵か、あるいは……。いずれにせよ、ただの偶然ということはなかろうて」


 うむ、と頷いたデンナーは、ぱんぱんと手を鳴らす。


 すぐに扉が開かれ、黒服のメイドがしずしずと入ってくる。人形のような澄まし顔をしていた彼女たちであったが、部屋の惨状を見て、流石にその表情を変えた。


「デンナー様、これは……」

「うむ。ちょっとした手違いで、悪戯っ子が入ってきちまってな……お前たち、掃除は任せたぞ」

「は、はい……」


 本気とも冗談とも取れぬ態度、おどけたように肩をすくめるデンナーに、メイドたちは困惑しながらも頷いた。ばさり、と飛んできた鴉をその腕に止めて、


「それじゃあ、俺は屋根裏に戻る。何かあったら呼べ」

「かしこまりました」


 頭を下げるメイドたちを尻目に、デンナーは部屋を後にする。


「……しかし、あの部屋の扉も、考えようによっては不便だな」

「カァ」


 複雑な装飾の施された、木の扉。螺旋階段を登る前に、ちらりと見やってデンナーはひとり小さくごちた。ただの扉に見えるそれは、実は盗聴対策として、一部の限られた音しか通さない魔法がかけられている。密談には好都合だが、裏を返せば、中で何が起きても外の人間には分からない。



 螺旋階段を、登る。



 かつかつ、とブーツの踵が石段を打つ音だけが響く。パヴエルが最上階だと思っていた執務室だが、その上には実は小さな屋根裏部屋がある。デンナーが自分以外の立ち入りを禁じている、完全にプライベートな空間だ。


 階段の上、小さな木の扉の鍵を開けて、デンナーは屋根裏部屋に入る。デンナーの巨体には不釣り合いなほど狭い部屋には、大きめの寝台にこじんまりとした本棚、それに止まり木と、小さなサイドテーブルだけがあった。


「さて、どうするかね、親父」


 デンナーの問いかけに、止まり木に移った鴉が首を傾げる。


「……サティナへの対応かの?」

「それも、だが、イグナーツのことさ。……この『盗賊ごっこ』も、そろそろ終いにしていいんじゃねえか」


 寝台に腰かけ、肘をついて手を組んだデンナーは、真っ直ぐに赤い瞳を見つめた。


「時間は充分にかけた。種も充分に蒔いた。奴隷商の仕事も、せこいクスリの商売も、諜報の真似ごとも、もううんざりだ。

 最近は、サティナも取り締まりを強化してきたからな。割に合わねえから、ウチもあの街からは手を引くことを決めたばかりだ。ここで示し合わせたように、向こうが敵対行動に出てきたのも、何かのサインじゃないかと思ってな」

「……頃合い、かの」

「ああ」


 ぽつりと呟くような鴉に、デンナーは深々と頷く。くっく、としわがれた声で、鴉は喉を鳴らした。


「……正直なところ、わしも、伝書鳩の役にはもう飽き飽きでのぅ」

「それは、今のを止めても終わらないぜ。むしろ、今よりもっと忙しくなるんじゃないか」


 意地の悪い笑みを浮かべるデンナー。


「まあ、件の弓使いのこともあるしの。相応に準備せねばならん」

「ああ……だがそろそろ、取りかかろう」

「相分かった。となればデンナー、わしは少し。『此奴』の世話は頼んだ」

「分かった」


 デンナーが頷くと、止まり木の鴉の瞳から、すっと赤い色が抜けて薄くなった。


「……カァーッ、カァーッ」


 一声、二声。首を振りながらきょろきょろと周囲を見回す様子は、まるでただの鳥だ。


 それを見ながら、デンナーは独り嘆息する。


「まったく、モリセットの野郎。これからってときに死んじまいやがって……」


 イグナーツ盗賊団の構成員は数知れないが、その中でもモリセットは、デンナーとは十数年の付き合いになる最古参の『仲間』の一人だ。



 思い描くのは、数週間前、幹部クラスの集まりで最後に顔を合わせたときのこと。



 ――お頭、俺たちがこれ以上、『盗賊』を続ける意味はあるんですかい?



 モリセットはデンナーに、このように問うた。



 イグナーツ盗賊団は、その名の通り、盗賊団だ。



 しかし旗揚げから十余年。商売柄、女子供を攫うこともあり、その関係で盗賊団は奴隷商とのつながりを得た。限りなくブラックに近いグレーの領域ではあったが、そこで表社会への間口を確立したのだ。

 それを契機に、デンナー達は、様々なものに関わり合っていった。その巧みな隠密行動から密輸や密売にも手を染め、合法・非合法を問わず薬品も扱うようになり、それらのカモフラージュとして真っ当な商売にさえも手を出した。近頃では、自分がイグナーツの手先であるということを知らずに、働いている者も多いことだろう。

 そして、魔術を介した通信と活動範囲の広さは情報収集を助け、さらなる組織の拡張を可能とした。今では幾つかの街と裏取引を行い、イグナーツ盗賊団は諜報組織の真似ごとまでしている。



 ――巨大な、それでいて組織化された、公国の裏社会の大部分を占める存在。



 それが、イグナーツ盗賊団の現状だ。


 その組織の全体像を、把握している者は非常に限られている。モリセットは、そんな数少ない構成員の一人だった。彼がデンナーに疑問を呈したのは、イグナーツ盗賊団の莫大な資金源において、盗賊稼業の占める割合が余りに少なく、殆ど儲けがなかったことだ。


 詰まる所、今となっては、盗賊稼業は『無駄』に過ぎぬのではないかと。



「……俺たちは、"盗賊"である必要があったんだよ」



 しかしデンナーは、このように答えた。



「所詮は盗賊だが、ついでに諜報の真似もしている。そんな姿勢を、立場を、演出しなきゃならなかったんだ」



 イグナーツは巨大で、強大な組織だ。しかし『表』の連中に無駄な警戒心を掻き立てて、全て敵に回してしまうと、それを相手に戦い切れるほど組織としての体力がない。


 故に、油断させなければならない。所詮はただの、盗賊であると。


 また、各々の街との取引のうちには、『手を結んだ領地内での活動は自粛する』というものも含まれていたため、示威行為としてもやはり"盗賊稼業"は必要だった。


 ――盗賊をやるなら、利益を出せ。


 ――その代わり、被害は出すな。


 犠牲を払って利益を取り、それで採算を合わせるのではなく、犠牲が出るくらいならそもそも襲うな、と。デンナーはそう、モリセットに指示していた。

 モリセットは特別に強いわけではないが、用心深く、狡猾な男だ。欲を出すことも調子に乗ることもなく、ついこの間まで、淡々とその任務をこなしていたわけだが、



「まったく、死んじまいやがって」



 ぽつりと、寂しげに。



「……まあ、それももう終わりだ」


 顔を上げ、デンナーは寝台横のサイドテーブルを、そっと撫でた。


 音もなく、テーブルの表面に、幻のように地図が浮かび上がる。主要な大都市が全て収められ、リレイル地方の詳細な地形が記された、本来であれば国の最高機密とされてもおかしくないレベルの地図。


 その上に、同じような幻のフラグが立ち上がり、表面をびっしりと埋め尽くした。港湾都市キテネ、城郭都市サティナ、鉱山都市ガロン、要塞都市ウルヴァーン――それらの街に突き立つ、色や形の異なる無数の旗。デンナー達が仕掛け、ばら蒔いた、『種』の証――。



 おもむろに腰を上げ、窓の外を見やる。



 地平の果てまで広がる、緑の景色。



 森と、そこに埋もれた、廃墟の姿。



「これまで、色々なものを手に入れてきた――」



 巨大な盗賊団の首領として、デンナーはおおよそこの世に存在する、ほぼ全てのものを獲得してきた。


 様々な金銀財宝を略奪し、女を手に入れ、金を手に入れ――今ではこうして、一城の主にまでなった。



 しかしそれでも。



 まだ、奪い取ったことのない、ものがあった。



 振り返る。そこに浮かび上がる、幻の地図。



 ――アクランド連合公国。 



「さあ、」



 にやりと。



 男は、獣のような、獰猛な笑みを浮かべた。



「――国盗りを、始めようか」




 運命の歯車は、回り出す。





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