21. 救出


 耳元で風が唸る。


 夕闇の街。


 夜景が後方へ流れ去っていく。


 黒装束の少女は、駆ける。


 家々の屋根を、たんっ、とんっ、と。


 軽い足音だけ置き去りにして。



 足元から伸びる黒い影。


 魚……鳥……猫……あるいは人の腕。


 楽しげに、跳ねるように、泳ぐように。


 目まぐるしく姿を変えながら、道を指し示す。


 黄昏の乙女『ケルスティン』。


 薄明を司る、宵闇と残光の化身。



 アイリーンは、精霊の導きに従って、リリーの元へと向かっていた。



 ケルスティンは陰を往き、影を操る精霊だ。

 陽が沈んだ後の、それでいて完全な暗闇ではない、限られた環境下でしか顕現できない儚い存在。


 ケイが契約を結ぶ中位精霊・風の乙女『シーヴ』に比べると、物理的な干渉能力は遥かに劣り、また影を操るという特性上、直接的な攻撃力は無いに等しい。


 が、そうであるが故に消費魔力が少なく、また触媒を選り好みもしないため、術の行使にほとんどコストがかからない。扱いに癖があり、使いどころが限定されるので、純魔術師ピュアメイジには向かないとされるが――魔術はあくまで補助的なものとする魔法戦士ニンジャにとって、それはおあつらえ向きの契約精霊といえた。



「……ここか」


 旧市街の一角。


 屋根の上で身をかがめ、アイリーンはひと気のない寂れた通りを望む。足元の影は手の形を取り、真っ直ぐに目の前の建物を指差していた。


 薄汚れた路地に面した、石造りの二階建て。飾り気も何もない、倉庫のような構造だ。一階と二階の窓からは、それぞれ明かりが漏れている。探るまでもなく、建物全体から人の気配。特に一階からはわいわいと、男たちの騒ぐ賑やかな声も聴こえてきていた。


 ひらりと身体を跳ねさせて、通りの向こう側の屋根へと飛び移る。助走もなしに軽々と三メートルを越える跳躍、四つん這いになって音もなく瓦の上に着地した。四足のまま、そろそろと気配を消して慎重に窓に忍び寄る様は、まるで猫科の肉食動物のようだ。


 屋根の縁に足を引っ掛けて、蝙蝠のように逆さにぶら下がったアイリーンは、そっと雨戸の隙間から中の様子を覗き見る。


(……意外と片付いてんな)


 第一印象。


 それは、がらんどうな、生活感のない空間だった。ほとんど家具の類も見当たらず、ただ殺風景にフローリングの床が広がっている。部屋の片隅には小さなテーブルと椅子が置かれ、卓上のランプの明かりで読書をする優男が一人。奥には下への階段があり、賑やかな声と男たちの揺れる影が見て取れる。


「…………」


 ぱら、ぱらと優男が本のページをめくる音だけが響く。雨戸の外の忍者にはまるで気付く様子もなく、どうやら二階に居るのは彼一人のようだ。それからしばらく観察するも優男は読書に熱中したままで、これ以上は特に情報は得られそうにないと判断したアイリーンは、そっと窓から離れた。


 腰のポーチから鉤縄を取り出し、屋根の端に引っ掛けて地上へ降下。今度は通りとは反対側の、勝手口の前に降り立つ。


 微かに匂うアルコール臭。近づいてみれば一階は相当に騒がしい。中ではかなりのどんちゃん騒ぎが繰り広げられているようだ。それでも気取られないよう、細心の注意を払いながら、アイリーンは慎重に一階の窓を覗き込む。


(! あれは……)


 アイリーンの顔に浮かぶ、驚きと困惑の色。部屋には、酒を片手にテーブルを囲み、大盛り上がりの男が七人ほど居た。皆、身なりの汚いごろつきばかりであったが――その中に見知った顔が一人。


(――ボリス! なんでこんなとこに)


 ごろつきに肩を組まれ、酒に酔った赤い顔で大笑いしているゴツい体格の男。ボサボサの黒い癖毛にぎょろぎょろとした目つき。


 間違いない、数日前に工房の前で見かけたボリスその人であった。


 窓から離れたアイリーンは、壁にもたれかかって小さく唸る。


(……あの野郎が一枚噛んでやがるのか)


 リリーは賢い子だ。頭の回る彼女が、滅多なことで犯罪に巻き込まれるはずがないと、モンタンたちに話を聞いてからアイリーンは疑問に思っていた。


 身内による犯行。


 今のボリスを『身内』と考えて良いものかはさて置き――彼が誘拐に関わっていたのだとすれば、リリーが油断してしまってもおかしくはない。


(アイツ、金を借りたり散々世話になってるくせに、恩人の娘を誘拐するとはどういう了見だ……!?)


 困惑は、呆れに変わり、やがて怒りの炎と燃え始める。

 これは一発ぶん殴らねば気が済まない、と思うアイリーンであったが、怒りに任せて正面から殴り込みをかけるような真似はしなかった。


【 ...Kerstin】


 小声で、足元の揺らめく影に呼び掛ける。


【 Kie estas Lily?】


 アイリーンの問いかけに、影が人の手の形を取り、壁をスクリーン代わりにしてすっと上を指差した。


「……二階unua etago?」

『 Neniu 』


 ちゃうちゃう、と手を振った影が、流麗な筆記体となり答える。


「じゃあ一階teretago?」

『 Neniu 』

「……屋根裏tegmentoとか?」

『 Neniu 』

「ええー」


 ならどこだよ!! というツッコミをぐっと堪え、冷静に考える。


中二階interetago……隠し部屋か?」

『 Jes 』


 筆記体の後、ビッと親指を立てる黒い手の形を取り、ケルスティンは揺らめいて普通の影に戻った。


(隠し部屋か……)


 なかなか凝った真似をしやがる、と独りごちながら、しかしアイリーンは密かに安心する。わざわざ隠し部屋に監禁するということは、つまりリリーはまだ生きているということだ。仮に、リリーの居場所は地面の下、などと示されていれば、アイリーンも流石に冷静ではいられなかったかもしれない。


(さて、どうするかな)


 腕を組んで、考え込む。


 ここで奇襲を仕掛け、建物を制圧してしまうか。


 あるいは戦闘を避けてリリーの救出を試みるか。


(……殴り込みをかけて全員ボッコボコにして、リリーを隠している場所を吐かせてから助け出す……)


 自身の鬱憤も晴らせることを考えると、それはなかなかに爽快なアイデアだ。しかし諸々のリスクを考え合わせた結果、最終的にアイリーンは、「スマートにリリーだけを救出できるなら、それに越したことはない」という結論に達した。


【 Kerstin, mi dedicas al vi tiun katalizilo.】


 懐より、大粒の青緑色の宝石ラブラドライトを取り出し、とぷんと、足元の影に沈める。


【 Vi priskribas la plankon plano de ci tiu domo, kaj vi diros al mi la pozicio de Lily.】


 建物の石壁に手をつき、


Ekzercu執行せよ.】



 瞬間、建物の輪郭を影が走った。



 おそらく、内部の人間で、『それ』に気付いた者はいない。


 部屋の隅で、テーブルの裏で、あるいは自分の足元で、黒い影がかすかにさざめいたことになど――。


 アイリーンの眼前に影が立ち上がる。漆黒の線により、建物の内部構造が3DCGのように描画されていく。日も暮れた夕闇の中で、黒い立体モデルは非常に見辛いが、それでも間取りや人間の位置は把握できた。


 倉庫のような広めの造りで、間取りに特に奇妙な点はない。一階にはごろつきが七人、二階にいるのは優男一人だけのようだ。しかし、肝心のリリーが――彼女の隠されている場所が、見当たらなかった。


【 Kie estas Lily?】


 アイリーンの問いかけに、地面から浮かび上がった漆黒の手が、ちょいちょいと立体モデルの中ほどの、真っ黒な箱状のスペースを指差す。


「……」


 それは、二階の優男のすぐ傍、床下に隠された小さな空間だった。隠し部屋――と呼ぶには、あまりに狭い。中が描画されずに真っ黒であるのは、そこに一切の光源がないことを示す。



 つまり、リリーは、身動きも取れないほどに狭く、真っ暗な小部屋に監禁されているのだ。



 アイリーンの顔が、険しいものになる。これが、いたいけな子供に対する仕打ちか、と。狭く暗い空間に閉じ込められたリリーが、どれほど恐怖を感じていることか、想像するだけで胸が締め付けられるようだった。しかもそれを為した上で、飲めや歌えやの宴会だ。



 まさしく、下衆の極み。


 拳の一発では済まされまい。



 胸の奥底で燃え盛る怒りは、まさしく義憤と呼ぶにふさわしい。窓から漏れる一階の明かりを、アイリーンはぎろりと睨みつけた。今すぐにでも雨戸をぶち破って暴れ出したい気分であったが、どうにか呼吸を整え、連中をボコるのは後回しと自分に言い聞かせる。



 ひとまずは、リリーの救出が先だ。



 くんっ、と身をかがめ、軽く地面を蹴る。垂直な石壁のごく僅かな凹凸を足場に、隣の建物との壁と壁の合間をタンッタタンッと素早く駆け登った。


 降り立つ、屋根の上。


 鉤縄を回収しつつ、先ほどケルスティンが炙り出した建物の間取りを思い描く。


(中二階の隠し部屋、か……入口は二階にあるのかな)


 先ほどのように、二階の窓に取りついて、雨戸の隙間から優男を睨みつける。独りきりで読書する彼は、おそらく隠し部屋の番も兼ねているのだろう。――それにしても、幼い少女を監禁しておいて、あんな澄ました顔で本に読みふけるとは、一体どういう神経をしているのか。


 改めて、憤りの感情が燻り出す。青い瞳に、めら、と獰猛な光が宿った。


(……まあ、いい。奇はてらわず、順当に、)


 黒いマフラーの下、冷静さを取り戻すように、表情を消す。


(――正々堂々、忍び込もうか)


 雨戸の留め金に、手をかけた。





 ……キィィ。





「うん?」


 本を読んでいた青年は、金属の軋むか細い音に、ふと顔を上げる。


 見れば、テーブルのすぐそばの雨戸が、開け放たれていた。

 まるで風に吹かれたかのように、ゆらゆらと揺れる戸の留め金。微かな空気の流れが、そっと頬を撫でる。


「……おかしいな」


 何故、独りでに開いているのか。


 今日はそんなに風も吹いていないはずだが、――と。


 本を片手に席を立ち、窓から顔を出して周囲を確認するも、夜の空気はむしろ静かに、穏やかに、風は強いどころかそよいですらいなかった。


「……。妙なこともあるもんだ」


 どこか、空恐ろしげに。


 小さく呟いた青年はしかし、名状しがたい嫌な予感を振り払うように、頭を振ってそっと雨戸を閉める。



 その瞬間、視界が黒色に染まった。



「んグッ!?」


 困惑の叫びはくぐもり、遠くへは響かない。天井から背後に降り立ったアイリーンが、顔面にマフラーを巻き付けたのだ。混乱した青年がそれを振りほどこうと、しゃにむに顔をかきむしる間に、アイリーンは素早く正面に回り込んで両の拳を構えた。


 全身のばねを使って、打ち放つ。


 ドッドンッと鳩尾を抉る二連撃、青年の胴がくの字の折れ曲がる。一瞬、身体が浮き上がるほどの衝撃に、ごぷりと逆流した胃液がマフラーを汚す。喉に詰まる吐瀉物、呼吸をも許さぬ激痛、呻き声すら出せない青年は、ただ腹を押さえてがくりと膝をついた。その姿はまるで、断罪の時を待つ咎人のように――そこへ、止めの回し蹴りが側頭部に炸裂し、青年はそのままボーリングのピンのようになぎ倒される。


One down一丁上がり...」


 振り抜いた足をすっと降ろして、アイリーンは小さく呟いた。床の上、ぴくりとも身じろぎをしない青年を前に、その言葉はあまりに素っ気ない。ともすれば酷薄とすら取れる容赦のなさ、しかし、これでもアイリーンは手加減している方だった。ゲーム時代より筋力が低下しているとはいえ、肉体のスペックを限界まで引き出す格闘術は健在だ。全力で蹴りを放っていれば、優男の細い首など簡単に折れ砕けていただろう。


「さて、リリーはどこかな……」


 もはや男になど興味の欠片もなく、アイリーンは目を細めて床に視線を走らせる。ケルスティンの【探査】によれば、テーブルから数メートル離れた床下に、隠しスペースがあるはずだ。


「……ここだな」


 それは、すぐに見つかった。床板をよくよく注意して見れば、一部分にだけ不自然な切れ込みが入っていることが分かる。短剣の刃をそこへねじ込むと、てこの原理で板は呆気なくはがれた。


 こいつぁ楽勝だぜ、と嬉々として床板を取り外すアイリーンであったが、すぐにその顔から表情が抜け落ちる。


 床板の下から、重厚な金属製の蓋が現れたのだ。


 見るからに頑丈そうな造りだった。がっちりと組まれた留め金は金庫を連想させる。つるりとした表面に一か所だけ、直径二センチほどの歯車状のスリットが開いていたので、そこへ指を突っ込んでダメ元で引っ張ってみた。


「……まあ、ダメだよな」


 開かない。予想通りビクともしない。十中八九、このスリットは鍵穴だろう。NINJAの嗜みとして、簡単な構造の錠前ならばアイリーンでも開錠できたのだが、手持ちの道具でこの金属製の蓋をどうにかするのは無理そうだった。


 無言で立ち上がったアイリーンは、床に倒れ伏した優男を軽く蹴り飛ばして、未だ意識がないことを確かめてから持ち物を探り始める。酸っぱい吐瀉物の臭いに辟易としながらも、上着やズボンのポケットを手当たり次第にひっくり返した。


「…………」


 しかし、この鍵穴に対応するような代物は、何も見つからない。ポケットから金属製の鍵は出てきたものの、この鍵穴には小さすぎる。仕方がないので、部屋の棚なども粗方漁ってみたが、結局めぼしいものは見当たらなかった。当の優男から鍵の在り処を聞き出そうにも、マフラーをはぎ取ってみると完全に白目を剥いて泡を吹いており、頬をはたこうが鼻をつまもうが一向に目を覚ます気配がない。


(……どうしよっか)


 床に胡坐をかいて、膝の上に頬杖を突く。しばしの思考の停滞。この『蓋』に対して【追跡】を使い、鍵の位置を探り出すという手もあったが、それをすると手持ちの触媒をほとんど使い切ってしまう。かといってこのまま、手当たり次第に探すのも時間の無駄に思われた。


 どうするか。


『ガッハハハハ……!』

『あーはっはっはっ!』


 そうしている間にも、階下から響いてくる、ごろつきどもの笑い声。


「……」


 じっとりと、目を細めたアイリーンは、やおら立ち上がり。


 背中の鞘から、しゃらりとサーベルを抜き放った。



 ――同じ魔術を使うなら。



 まだ、こちらの方がよい、と。



(ま、結局こうなるか……)


 胸元から触媒の水晶の欠片を取り出しながら、アイリーンは渋い顔でひとり肩をすくめる。階下、ランプの炎に揺れる男たちの影を見やった。


 刃の具合を確かめるように、ひゅんひゅんとサーベルを回す。


 ――問題ない。ビッ、と空を裂いて振り下ろした一刀は、ぶれることなく。


 かすかな殺気を余韻に残し、ぴたりと止まる。


「……待っててな、リリー。すぐに助けるから」


 小さく、呟き。


 アイリーンは一切の躊躇いなく、


 そのまま階下へ、身を躍らせた。




         †††




 日が暮れてから、どれほどの時間が経ったか。


 そんなことを気にする奴は、ここにはいない。一階で酒を酌み交わすごろつきたちは、夜はまだまだこれからだ、と言わんばかりに大いに盛り上がっていた。


「――そんで、ソイツを裸にひん剥いて、表に逆さ吊りにしてやったってワケよぉ!」

「ヒーッヒッヒッヒ、ひでぇ話だ!」

「ガッハハハハハ! 完全にとばっちりじゃねえか!!」


 大して面白くもない酔っ払いの話に、大して可笑しくもないのに大笑いする酔っ払い。酒さえ入っていれば猫が歩いても面白い。飲んでは笑い、笑っては飲む。最初、この場に呼ばれたときは緊張気味だったボリスも、今ではすっかり上機嫌でエールをがぶ飲みする始末だ。


 渦巻くような男たちの熱気に、むっとするアルコールの匂い。


 そこへ酒飲み特有の高すぎるテンションが入り混じり、部屋はまさしく混沌の様相を呈していた。



 しかし、そんな乱痴気騒ぎに、突如として姿を現す、黒づくめの闖入者。



「……あん?」


 最初にそれに気付いたのは、階段の真向かいに座っていた一人だった。「酒は充分だが女っ気が足りねえ」と、そう考えていた矢先のこと。ジョッキに新たに継ぎ足したエールを、ぐいと喉に流し込もうとしたまさにその瞬間、階段から姿を現した黒装束の美少女に目を奪われる。


 しばし、呆けたように動きを止める男。傾けたジョッキから、だばだばとエールがこぼれおちる。


「――へへっ」


 ああ、自分は酔っ払いすぎて、妙なものが見えているのだと。そう判断した男は、にへらとだらしない笑みを浮かべて、改めてぐいぐいと酒をあおり出した。


 逆に面食らったのはアイリーンだ。第一発見者が騒ぎもせず、へらへら笑いながら再び呑み始めるのは予想外だった。しかしすぐに気を取り直して、左手に握っていた水晶の欠片を足元の影に叩きつける。


【 Kerstin!】


 精霊をぶ声に、何事かと驚いたごろつきたちが、一斉にアイリーンの方を見やった。



 階段下に佇む、黒装束の少女。


 その背後、薄闇の向こう。


 ごろつきたちは、穏やかな微笑を浮かべる、貴婦人の姿を幻視した。



 呆気にとられる男たちをよそに、アイリーンは素早く左手で印を切る。


【 Kage, Matoi, Otsu.】


 視界、男たちの姿を指でなぞった。


Vi kovras覆い隠せ!】



 アイリーンの足元。



 ヴン、と影が震える。



 それに共鳴するように。



 男たちの影。



 さざめき、うごめき。



 弾け飛ぶ。



 漆黒の濁流。



 それは無音。



 だが轟音を錯覚させるほど。



 爆発的に。



 男たちの全身を、包み込んだ。



「うわあああぁぁッ!?」

「何だコリャァああ!!」

「ヒイイイィィッッ!?」


 一瞬で、その場は大混乱に陥る。ごろつきたちからすれば、突如として足元から湧き出た黒い影バケモノに丸飲みにされたのだ。

 驚きのあまり椅子ごと倒れる者、影を振り払おうと暴れる者、混乱と恐れで身動きすら取れない者――男たちの反応は様々であったが、実際のところ、ケルスティンの『影』に直接的な害はない。混乱の少ない者から順に、視界が奪われたことを除いては、特に影響がないことに気付くだろう。



 だが、それを許すアイリーンではない。



 部屋の中。



 一息に、踏み込む。



 一人目。椅子から転げ落ち、床に這いつくばっている男。程よく足元にあった頭をサッカーボールのように蹴り飛ばす。ゴン、と鈍い音、一撃で昏倒。


 二人目。椅子ごと倒れて、後頭部を打ったのか、頭を抱えて呻く男。太腿に刃を突き刺し、サックリと足を封じる。


 三人目。影を振り払おうと躍起になって暴れる男。得物を振るって右腕を切り裂き、傷の痛みに動きを止めたところで、その頭部に苛烈な殴打。サーベルのナックルガードと柄頭でタコ殴りにする。


 四人目。身がすくんで動けないのか、椅子に座りっぱなしの男。流れるような回し蹴りを頭に叩き込み、壁際まで吹き飛ばす。


 五人目。そろそろ術の効力が切れかけているのか、まとわりつく影が薄れている男。這いずるように出入り口まで辿り着いていたので、動けないようふくらはぎを撫で斬りにする。


 六人目――と、テーブルを囲むごろつきたちを、反時計回りに制圧してきたアイリーンであったが、ここで気付く。床にへたり込み、顔から影を振り払おうとしているのは、他でもない、


「テメェ、ボリスッ!!」


 視界を潰されたまま、いきなり誰かに名を呼ばれ、びくりと身体を震わせるボリス。アイリーンはその胸倉を引っ掴んで、引きずり起こすように無理やり立たせた。


「ヒッ、だっ、誰だッ……何だッ!?」


 怯えながらも、胸倉を掴む手を引き剥がそうと抵抗するボリスであったが、サーベルを床に突き立てたアイリーンは、お構いなしにその顔面を張り倒す。


 パァン! と鋭い音が響き、脳天を揺さぶられたボリスは、ふらりと壁に手をついた。幸か不幸か、その一撃で顔面の影が振り払われ、一瞬白目を剥いたボリスはしかし、すぐに視界を回復させる。


 が、その瞬間、「ヒッ」と息を詰まらせた。


「……今のが、リリーの分だ」


 文字通り、目を白黒させるボリスが見たのは、――背筋の凍るような、冷たい表情。しかし青い瞳には、めらめらと怒りの炎が燃えるようで、


 ぶぅんと、


 唸る左のアッパーカットが、もじゃひげの顎に炸裂した。


「がッ!?」


 のけぞる。まぶたの裏で星が散る。切れた口の中、広がる血の匂い。


「これはモンタンの分ッ」


 叫んだアイリーンは、間髪入れずに右拳を振りかぶり、


「ごぶぅ……ッ!?」


 抉り込むようなボディブロー。ごぷりと腹の酒が逆流する、


「これがキスカの分ッ!」


 腹を押さえてふらふらと後ずさるボリスを前に、すっ、と右脚を引く。


 構える。


「そしてこれが、」


 ぐるんっ、と身体を回転させ、打ち放つ。


「――オレの分だッ!!!」


 全力。


 必殺の回し蹴り。


 ボリスの鳩尾に、突き刺さった。


「――――ッ!!」


 もはや、悲鳴すら出ない。まるで冗談のように吹き飛ばされたボリスは、そのまま石壁にゴッ、ビタアァァンと激突する。


「ぁ、ッげ……」


 ずるずると。壁にもたれかかって尻もちをついたボリスは、目を裏返らせて酒を吐き出しつつ、それでも何かを求めるように手を彷徨わせ、


「……ォぼ」


 そのまま何も掴むことはなく力尽き、自らの吐瀉物の上にどちゃりと倒れ伏した。


「……ふン」


 目を細め、ただ鼻を鳴らすアイリーン。


「――あぁッ、クソッ、チクショウッ、何だってんだよコレは!!」


 その時、最後に残されていた一人が、ようやく顔にまとわりついていた影を振り払うことに成功する。


「……あ?」


 しかし、視界が回復すると同時に、動きを止めた。見回せば、無事なのは自分だけ。周囲には、まさしく死屍累々といった様子で倒れ伏す仲間たち。


「さて、ナイスなタイミングだな」


 目の前には、床からサーベルを引き抜いて、ぽんぽんと刃の背で肩を叩く、正体不明の黒装束の美少女。


 その笑みは、少女の美貌には不釣り合いなまでに獰猛で。


 思わず、尻もちをついたまま後ずさったごろつきは、無意識のうちに、媚びるような愛想笑いを浮かべていた。


 すっ、と喉元に、サーベルの刃が突きつけられる。



「――テメェに、訊きたいことがある」



 男にできたのは、ただ阿呆のようにコクコクと頷くことだけであった。




          †††




 真っ暗な、狭い空間。


 手足は縛られ、口には猿ぐつわをかまされ。


 体操座りの格好のまま、身じろぎもできない。


(なんで……こんなことに、なったんだろ)


 虚ろな瞳で、ぼんやりと。


 リリーは、闇の中、視線を彷徨わせる。



 ――気が付けば、ここにいた。



 帰り道のこと。今日、塾はいつも通りに終わったのだが、帰宅自体は遅くなった。コーンウェル商会の御曹司であり、塾では机を並べて勉強する仲の、『ユーリ』という男の子がリリーを引き止めたのだ。


 リリーとしては早く帰りたかったのだが、父親の大得意様であるコーンウェル商会、その跡継ぎの好意を無碍にするわけにもいかない。美味しいお茶を頂きつつ、大して興味もない詩や文学の話を聞き流したが、いとまを告げて屋敷を出る頃には、すっかり遅くなってしまった。


 リリーの身を心配して、ユーリが護衛と共に家まで送ることを提案したが、早く帰りたかったのと、独りでも大丈夫だと思ったのと、御曹司に送迎をさせるなどとんでもないという理由から、断っていた。


 それが、間違いだった。


 あの時、その言葉に素直に従っていれば、と。今となっては、そう思う。


 リリーがいつものように、大通りを歩いていたときのことだった。一人の見知らぬ少年が、声をかけてきたのだ。


 身なりは悪くないが、何だか目つきが悪いという印象の、リリーよりも少し年上の男の子だった。曰く、「ボリスのおじちゃんが、仕事の祝いに家まで料理を持っていこうとしているが、多過ぎて持てないのでリリーに手伝って欲しい」とのこと。


 正直なところ、変な話だとは思った。ボリスの家が旧市街で、夜歩くには危ないことも知っていた。


 しかし、朝の件もあり、「おじちゃんも一人じゃお金を返し辛いし、理由をこじつけて一緒に行って欲しいのかな」などと深読みしたリリーは、その誘いにまんまと乗ってしまったのだ。

 ボリスの家まで送ってくれるという男の子が、ポケットから「食べる?」と蜂蜜飴を取り出したのも、大きかったかもしれない。それを頬張りながら、男の子に連れられて、リリーは意気揚々と旧市街に踏み入っていった。


 そして――そこからの記憶が、曖昧なのだ。うらびれた路地を歩いている途中で、口の中で蜂蜜飴が砕け、変な味の粉末が出てきたのまでは憶えている。その後は、ぐにゃぐにゃと視界が回り、まるで夢の中にいるようで、気が付けばここに閉じ込められていた。


(わたし……どうなっちゃうんだろ……)


 死んだような無表情で、何度も自問を繰り返す。自分が誘拐されて、監禁されているらしいということは、薄々察していた。泣いて、叫んで、もがいて――既に、体力も気力も使い果たしている。


(怖いおじさんたちに連れられて……むりやり働かされるのかな……)


 真っ先に連想したのは、"奴隷"や"身売り"といった言葉だった。鞭を持った『怖いおじさん』に、鉱山のような場所で、重労働を強いられるイメージ。


 それに匹敵する――あるいは、それよりも恐ろしいことを想像するには、リリーはまだ幼すぎた。


 しかし、そうであったとしても、怖くてたまらないことに変わりはない。猿ぐつわを噛みしめ、「えぐっ」と小さくしゃくりあげる。もはや泣き過ぎて、涙は枯れてしまったのだろうか、真っ赤になった瞳からは何もこぼれ落ちなかった。


(パパ……ママ……助けてよぅ)


 もうわがままも言わないし、もっとお勉強も頑張るし、言うこともよく聞くから、と。


(会いたいよぅ、パパ、ママぁ……)


 暗闇の中、顔をくちゃくちゃにして。


 ただ祈り。声も出さずに、泣く。



 ――と。



 頭上で、ガキンッ! という大きな音が鳴った。


 飛び上がらんばかりに驚いて、上を向く。続いて、ギリギリギリ……と金属同士が擦れる音。突然の状況の変化に、目を見開いたリリーは、処刑の時が近づいた死刑囚のようにガタガタと震え始める。


 ガコンッと頭上に光の隙間が生まれ、徐々にそれは広がっていく。頼りない暖色の明かりに、「外だ」とだけ思った。


 ここから出られる、のか。


 あるいは――のか。


「……ん――ッ!! んん――ッッ!!」


 唐突に、恐怖の感情が再燃したリリーは、ほとんど身動きが取れないにも拘わらず、最後の力を振り絞って何かに抗うように身をよじらせた。


「リリーッ! リリーッ!!」


 が、どこか聞き覚えのある優しい声に、その動きを止める。


「リリーッ! 大丈夫か!?」


 見れば、四角形に切り取られた頭上から、こちらを覗き込むアイリーンの顔があった。


「無事か!? 待ってろ、すぐに出してやるからな!」


 かがみ込んだアイリーンは、右手を伸ばしてリリーの背中の縄を掴む。そして、その細腕からは想像できないような力強さで、一気にリリーを引き上げた。


「ひでぇ、こんな小さな子に……なんて真似しやがる」


 猿ぐつわと、手足をキツく拘束する縄に、目つきが険しくなるアイリーン。一方でリリーはいまだに理解が追いつかず、目をぱちくりとさせている。


 短剣で縄を切断したアイリーンは、手早くリリーの猿ぐつわを取り払った。


「助けに来たぞ、リリー。もう、大丈夫だ」


 安心させるように、穏やかな笑みを浮かべて、アイリーンはわしゃわしゃとリリーの頭を撫でる。数秒して、「どうやら自分は助かったらしい」と悟ったリリーは、


「……ふぇっ」


 真っ赤な瞳に、枯れたと思っていた涙がみるみる溜まっていく。


「お……ねえぢゃああぁぁぁああん!!!!」

「よしよし。怖かったな」


 ふらふらと、アイリーンの胸元にすがりついて、火がついたように泣き始めるリリー。一瞬、それに釣られて泣きそうな顔をしたアイリーンは、そっと瞳を閉じてその小さな体を抱き締める。


「大丈夫。……もう大丈夫だから」


 涙と鼻水で、リリーの顔は酷いことになっていた。赤子をあやすように、ゆっくりと身体を揺らす。時折、泣き過ぎてむせるリリーの背中を、アイリーンは優しくさすってあげた。


「……さ。もう、泣きやんで。せっかくの可愛いお顔が台無しだよ、リリー」

「えぐっ、おねえぢゃ、おねえぢゃん」

「パパとママが待ってるから。……おうちに帰ろう」

「うぅ……ぅん、帰るぅ……」


 手を引かれて立ち上がり、目を擦りながらリリーはコクコクと頷く。それを見て、アイリーンは小さく微笑んだ。リリーは可哀そうだったが、とにかく無事に助かって良かった。


 長時間にわたって監禁されていたせいで、足取りの覚束ないリリーを背負い、階段を降りて行く。途中、呻き声を上げて倒れ伏す男たち――特に、気絶してひっくり返ったままのボリスを見て、背中のリリーがはっと息を呑んだが、気にせずに居間を突っ切って玄関から表に出た。


「さて、お家はどっちかな」


 とりあえず、現在位置は旧市街の真ん中あたりだ。日が沈んだときの記憶を頼りに方角に当たりを付け、とりあえず大通りに出れば間違いあるまい、と判断したアイリーンは、街の中心部に向かって歩いていく。


 しかし、歩き始めて一分も経たないうちに、


「……なんだアレ」


 前方に、揺れる大量の明かり。石畳を走る大人数の足音と、ガチャガチャと金属の装備が擦れ合う音。


 道の向こう側から駆けてきたのは、ランタンを掲げた衛兵の一団だった。


「あっ! アイリーン!!」


 そして、その中から、ひょっこりと顔を出したのは、


「――ケイ!?」


 思わず、背中のリリーをずり落としそうになりながら、アイリーンは素っ頓狂な声を上げる。



 衛兵の中から飛び出てきたのは、全身フル装備で持てるだけの矢筒を抱え、ハリネズミのようになったケイであった。かなり走り回ったのか、革兜の下、顔は上気し、汗の浮いた額には髪の毛が張り付いている。



「無事か!!?」


 食らいつかんばかりの勢いで、ずいと詰め寄ってくるケイに気圧され、呆気にとられながらもアイリーンは頷いた。


「お、おう……」

「……もう終わったみたい、だな。遅すぎたか……」


 アイリーンの背中のリリーを見て、安堵のため息を吐きつつも、気が抜けたように膝に手をつくケイ。その背後、「リリーッ! リリーッ!」と聞き覚えのある声が響く。


「……! パパーッ!」


 目を見開いたリリーが、アイリーンの背中からぴょこんと飛び降りて、声のする方へと駆けていく。

 衛兵たちの一団の後ろから、フラフラになりながらも、モンタンが走り出てきた。


「リリーッ!! 無事だったかい!?」

「パパー! パパぁーッ!!」

 

 モンタンの腕の中に、飛び込むようにしてリリー。二人揃って道の真ん中にずるずると座り込み、そのまま声を上げて泣き始める。


「よかった! 本当に、無事でよかった! ああ、リリー……!」

「パパぁーッ! こわかったよぉーッ!」


 ひしと抱きしめ合う親子二人を、穏やかな表情で、アイリーンとケイは見守っていた。


「あ~。その、なんだ」


 しかし、そこで横から声がかけられる。顔を向ければ、そこには衛兵の一人。年配の、立派な黒ひげを蓄えた男だ。


「あっ、アンタはあの時の……!」


 黒ひげを指差して、アイリーン。彼は、サティナの街の検問を抜ける際、主にポーションの件で『世話になった』衛兵の一人であった。


 兜を外してぼりぼりと頭をかいた黒ひげは、困ったような顔で、


「すまないが、状況の説明を求めたいんだが」

「ああ……まあ、見ての通りだ」


 リリーとモンタンの方を示し、ケイは小さく肩をすくめた。


「アイリーンが、子供の救出に成功したのさ」

「いや、まあ、そりゃ見れば分かるが……」


 輪をかけて困り顔になった黒ひげは、胡散臭げな視線をアイリーンに向ける。


「……腕利きの魔法戦士が救出に向かった、とは聞いていたが。このお嬢ちゃんが?」

「ああ、そうだ。彼女がその魔法戦士さ。……アイリーン、結局、リリーはどこで監禁されていたんだ?」

「この通りを真っ直ぐ、歩いて一分もしないところの、倉庫みたいなヤツ。中にごろつきが八人いたから、とりあえず死なない程度に痛めつけておいた。……あと、ボリスもグルだった」

「……なんだと?」


 最後、小声で付け足した情報に、ケイは眉をひそめて表情を険しくする。ますます訳が分からない、といった様子の黒ひげは、半信半疑ながらも追求は諦めたようで、「おい、お前ら! 誘拐犯の住処は近いらしいぞ!」と周囲の部下に声をかけていた。


「ってか、ケイもケイだよ。どうしてここに?」


 アイリーンの問いかけに、ケイは自嘲するように乾いた笑みを浮かべる。


「……まあ、お前が出て行ったあと、衛兵に連絡して、モンタンを説得して……援護なり何なりが、出来ればと思ってな。尤も、来るのが遅すぎたみたいだが……」

「いや、それもだけど。何で、この場所が分かったんだ?」


 首を傾げるアイリーンに、気まずげな表情で、つと視線を逸らすケイ。



 その背後。


 ランタンの明かりに照らされた宵闇の空に。


 アイリーンは、妖艶な笑みを浮かべる、羽衣をまとった少女の姿を幻視した。



「え、ええー?」


 唖然としたアイリーンの顎が、がこん、と落ちる。


「……触媒エメラルド使ったのかよ? 無駄すぎる……!」

「……。いいんだよ、別に!」


 しばし、渋い顔をしたケイであったが、開き直ったようにアイリーンを見据えて、


「宝石の一つや二つ、いつでも買える! だが、」


 だが……、と。


 黒い瞳を揺らし、口を開いたケイは――そのまま何も言えずに、再び目を逸らした。


「まあ、その、なんだ。……遅くなって、すまん」


 すっと、頭を下げる。ケイの思わぬ行動にぱちぱちと目を瞬かせたアイリーンであったが、やがて「しょうがないな」という顔になって、コツンとケイの頭を小突いた。


「……別にいいよ。来てくれただけでも、嬉しいし。それに……」


 出発前、自分の言葉が、ケイを傷付けてしまったらしいことを、思い出す。


「…………」


 しかし、どうだろう。今ここでそれを謝ると、問題を蒸返すことにならないだろうか。



 今は――。



 唇を引き結んだアイリーンは、ぽん、とケイの肩に手を置いて、笑顔を作った。


「ま、本当に『来てくれただけ』、だけどな! 気持ちは嬉しいけど、はっきり言って今回はクソの役にも立ってないぜ!」

「くっ、事実だけに言い返せない……!!」


 はっはっは、と笑うアイリーンを前に、悔しそうな顔をするケイ。


「だいたい何だよその格好! 戦争でもおっぱじめる気か? そんなに矢持ってても、使い切れねえだろ!」

「そんなことはない、何かに役に立つかも知れないじゃないか! ほっとけ!」

「市街戦で弓は使えねぇだろー」

「いざとなれば壁ごとブチ抜くつもりだったさ!」



 やいのやいのと、騒がしく。そのそばでは、おいおいと泣く親子二人。さらにそれを取り巻く衛兵たちの輪。



 兜をかぶり直しつつ、夜空の月を見やった黒ひげは、


「……はぁ。早く帰りてぇ」


 ただ、小さく溜息をついた。




          †††




 その後、衛兵たちの手によって、ボリスら誘拐犯一味は全員が御用となった。


 調べてみると、建物内部からは麻薬など非合法の物品が次々と見つかり、実は大規模な麻薬組織のアジトであったことが判明した。ボリスは、その組織の下っ端だったらしい。

 厳しい取り調べにより、芋づる式に構成員が捕縛され、ボリスを含むその殆どが打ち首となった。斬首を免れた残りの者は奴隷に落とされ、鉱山やサティナ北西部の汚物処理村で、死ぬまで強制労働を課せられるそうだ。


 ただ、全ての構成員が口にしていた、まとめ役の『細身の男』については、『トリスタン』という名前が分かったのみで、他には何も情報が得られなかった。どれだけ市内を捜索しても見つからないため、既にサティナから脱出している可能性が高いそうだ。



 モンタン一家はというと、今回の一件で、全員が心身ともに疲れ果てていた。


 特にリリーは大きなショックを受けているようで、しばらくは塾にも行かず、家でゆっくりと過ごすとのこと。モンタンも、しばらくは休業するそうだ。


「当分は、家族水入らずで過ごすつもりです」


 ケイに借りた銀貨を返しながら、モンタンは無理やり笑みを浮かべて、しみじみとそう言った。「本当に、ありがとうございました」と、アイリーンの手を握って、何度も頭を下げていたのが印象的だった。



 ケイたちは、事件の後も、三日間サティナに滞在した。


 革職人のコナーに任せていたミカヅキの皮の仕上がりを待つのと、護衛の仕事を探すためだ。


 今回の一件を通し、幸か不幸か、ケイたち――主にアイリーンだが――は、『評判』という形で信用を得ることに成功した。


 悪人たちのアジトに颯爽と殴り込み、誘拐された子供を見事救い出した正義の魔法戦士。そしてそれがうら若き乙女ともなれば、評判にならないわけがない。アイリーンの武勇伝はあっという間にサティナの街に広がり、前日に仕事を探したときとは打って変わって、逆に商人の方から護衛を頼まれるほどの人気ぶりであった。


 その中で最も大手だったのが、モンタンの得意先でもあるコーンウェル商会だ。何でも、商会の御曹司のユーリという少年は、誘拐当日にリリーを遅くまで屋敷に引きとめていたらしく、それが誘拐の一因になったのではないかと、自責の念に苛まれているそうだ。同時に、リリーを無事に助け出したアイリーンには深く感謝しているようで、救出の翌日には宿屋まで、本人が直々に多額の謝礼を届けに来た。


 謝礼はユーリ少年のポケットマネーから出ているとのことだったが、それがなんと金貨数枚分に匹敵するほどの大金だった。驚いたのはケイもアイリーンも同じで、有難く頂戴しようとはしたものの、正直なところ、それほどの大金を手渡されるとそれはそれで持ち運びに困る。


 魔術の行使にエメラルドや水晶などの触媒を消費した、と言うと、聡い少年はすぐにその意図を察し、金貨一枚ほどの現金を残していったあと、残りの額に相当する宝石類が翌日に届けられた。ケイが【顕現】を二回使えるだけのエメラルドに、アイリーンが枯渇の心配をしなくて済むほどの上質な水晶とラブラドライト。『宝石の一つや二つなど~』というケイの言葉が、思いのほか早く実現した形だ。


 ちなみにユーリは、リリーが塾通いを再開する際に、護衛を付けることを画策しているらしく、アイリーンをコーンウェル商会専属の護衛として雇うことを提案してきた。男の護衛だとリリーが怖がるかもしれないが、アイリーンならばリリーと知己である上に、器量・力量ともに問題ないというわけだ。謝礼とは別に、これまた目が飛び出るような報酬が提示されたのだが、ケイもアイリーンもサティナに留まるつもりはないので、断腸の思いでその話は断った。


 護衛の話が無くなって、ユーリは至極残念そうにしていたものの、ケイたちがウルヴァーンに向かう予定であることを知ると、すぐに仕事の口を利いてくれた。サティナから街道を北上し、ウルヴァーンまで陸路で向かう隊商の護衛。それも、かなり報酬の良い、数日前までは考えられないような破格の待遇だ。今まで全く接点のなかった少年に、ここまで世話になるとは、流石にケイも予想外だった。




(――情けは人のためならず、か)


 出立の朝。サティナの北門前にて、ケイはその言葉の意味を考えずにはいられない。


 目の前では、今回護衛として参加する隊商の面々が、積荷の最終チェックを行っていた。ケイとアイリーンは準備万端で、ケイはサスケに、アイリーンは新たに『スズカ』と名付けた草原の民の馬に跨っている。ちなみに残りの二頭は、コーンウェル商会経由で売却済みだ。


「おねえちゃん……行っちゃうの」

「うん、ごめんな。どうしても、ウルヴァーンに行かないといけないんだ」


 ケイの隣では、アイリーンとリリーが、別れの挨拶をしている。


「…………」


 申し訳なさそうなアイリーンに、リリーはただ俯いた。「行かないで」とも言わない。ダダをこねて泣きもしない。ただ、無表情で、黙り込んだまま――。これはこれで、来るものがある。


「そうだ。リリーには、これを上げよう」


 スズカからひらりと飛び降りて、アイリーンはリリーの目線までしゃがみこんだ。


「……これは?」

「お守りさ」


 アイリーンがリリーの手に握らせたのは、チェーンに吊り下げられた紅水晶ローズクォーツの結晶だった。


「昨日の夜、作っておいたんだ。魔法をかけておいたから、日が沈んだ後なら、一度だけオレを呼ぶことができる。だからもし、また何か危ない目にあったとしても、それで呼んでくれれば、すぐに助けに来られるよ」


 尤も、『呼ぶ』といっても、瞬間移動ができるわけではない。ただ局所的な【顕現】を利用して、ごくごく短い間、会話ができるだけの代物だ。他にもお守りを起点に、遠距離から影を送り込むくらいのことは出来るかも知れないが、所詮は子供だましの域を出ない。


 しかし、その言葉は、まさしく魔法のように劇的に作用した。瞳に輝きを取り戻したリリーは、大切そうに、ぎゅっとお守りを握りしめる。


「……おねえちゃん、ありがとう」


 精一杯、健気な笑みを浮かべて礼を言うリリーであったが、その瞳にみるみる涙が溜まっていき、すぐに表情が崩壊した。


「おねえちゃあぁぁん……」

「……よしよし」


 胸に顔をうずめて静かにすすり泣くリリーの頭を、そっとアイリーンが撫でつける。ケイはそれを、馬上から黙って見守っていた。


「……ケイさん」


 と、リリーたちを邪魔しないように、ケイの横にモンタンとキスカがやってくる。


「やあ、どうも」


 流石に馬上のままでは失礼なので下馬しようとするが、モンタンがそれを押しとどめた。


「ケイさん。今回は、本当にありがとうございました」

「……俺は何もしていない。礼なら、アイリーンの方に頼む」


 頭を下げるモンタンたちに、ケイは困ったように微笑んだ。苦笑い、と形容するには、少々苦すぎる味。


「アイリーンさんには、もう何度もお礼を言いましたし。いえ、というか勿論、回数の問題ではないんですが……」


 自分の言葉を否定するように、慌てて手を振るモンタンをよそに、キスカが一抱えほどあるバスケットを差し出した。


「サンドイッチです。こんなもので申し訳ないですけど、今日のお昼にでも、アイリーンさんとどうぞ」

「おお、それは有難い。……バスケットごと頂いても?」

「ええ、もちろんです」

「ありがとう」


 バスケットをサスケの鞍に括りつけつつ、笑顔で答える。その間に、気を取り直したモンタンが中型の矢筒を取り出した。


「すいません、何だか捻りがなくて申し訳ないんですが……何本か追加で、長矢を仕上げておきました。是非使ってください」

「おお、これは……。矢は、既に沢山あるんだが……いいのか?」

「もちろんですとも」


 深々と頷くモンタン。実際のところ、矢は本当に沢山ある。モンタンから買い占めたものがその殆どだが、問題はその体積だ。ケイの腰、サスケの鞍の両側、サスケの背中、と合計で四つも矢筒がある。しかもそのうち三つがかなり大型のものだ。


「……ありがたく、頂戴しよう。ただ、矢筒は充分に空きがあるから、矢だけ頂いてもよろしいか」

「ええ、どうぞどうぞ」


 矢だけを抜き取って、腰の矢筒に仕舞う。心なしか、他のものよりもさらに丁寧に仕上げられている気がした。



「よーし。それじゃあそろそろ出発するぞー!」



 隊商の先頭から、声が上がる。商人たちが荷馬車に乗り込み、護衛の戦士たちは馬上で背筋を伸ばす。



 出立の、時が来た。



「それでは、そろそろ」

「ええ。……お元気で」

「本当に、ありがとうございました」


 ケイに向かって頭を下げたモンタンとキスカは、最後の機会とばかりにアイリーンにも別れの挨拶をしに行った。


 モンタンたちと、名残惜しそうに会話するアイリーン。それから視線を剥がし、ケイはぼんやりと、晴れ渡った空を見上げる。


 がらがら、と車輪の音を立てて、隊商の荷馬車がゆっくりと進み始めた。


 ぽん、とサスケの脇腹を蹴り、ケイも前進する。


「おねーちゃーん! またねー!!」

「おう、元気でなー! 絶対また来るからなー!!」


 ケイの隣、アイリーンが背後のリリーたちに向かって大きく手を振っている。




 この世界に転移してから、おおよそ十日。




 なぜ、自分たちは、この世界にやってきたのか。




 その謎を解き明かすために、ケイとアイリーンは旅立つ。




 目指すは、北。リレイル地方の中心部。




 ――要塞都市、"ウルヴァーン"だ。




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