20. 誘拐


 昼下がり。サティナの街の大通りは、多くの人々で賑わっていた。


 馬の手綱を引いて、宿場を探す傭兵。

 革の荷物袋を抱えた、身なりの良い商人。

 浮浪者と思しき、汚い格好の子供。

 黒い貫頭衣に身を包んだ、公益奴隷。


 そんな雑踏をすり抜けるようにして、リリーはひとり、軽やかな足取りで塾へ向かう。


 ケイたちの案内を務めた、その翌日のこと。


 相変わらずアイリーンの真似で、髪型は今日もポニーテールだ。リリーが一歩を踏み出すたびに、頭の後ろで青いリボンが揺れる。


「――おーい、リリー。元気かー?」


 と、その時。背後から聴こえてきたのは、野太い男の声。


 思わず足を止めて振り返れば、そこにはぎこちなく笑みを浮かべるボリスがいた。


「……おじちゃん」


 ぱちぱちとゆっくり目を瞬かせて、表情を曇らせるリリー。その声に滲む、微かな警戒と困惑の色。

 

 "ボリスとは、あまりお話しちゃいけないよ"


 悲しげなモンタンの顔と、その忠告が頭をよぎる。


「よお。……こうやって直接会うのは、随分と久しぶりだな」


 はにかんだように頬をぽりぽりとかきながら、明後日の方向を見やるボリス。


 その言葉通り、こうしてリリーとボリスが顔を合わせるのは、随分と久しぶりのことだった。リリーの記憶が正しければ、最後に口を利いたのはもう一年も前のことになるだろうか。ボリス本人は何度も家へ金を借りに来ているのだが、ここ最近リリーは昼間は塾に通っている。昔に比べるとお互いに、とんと会う機会が無くなってしまったのだ。


「……どうしたの。おじちゃん」


 父親の忠告はあったが、さりとて目の前にいる人を無視するわけにもいかず、ボリスに向き直ったリリーは、上目遣いでスカートの裾をぎゅっと握った。


 正直なところ。


 リリーは今でも、ボリスのことを嫌ってはいない。


 どうしても嫌いになれない、というべきだろうか。勿論リリーも、近頃のボリスは金の無心に来るばかりで、父親を困らせていることは知っている。

 それでもリリーの心の奥底には。

 ありし日の、『優しいボリスのおじちゃん』のイメージが、いまだに強く焼き付いて離れないのだ。


 幼い頃、モンタンやキスカが共に仕事に忙殺され、リリーの面倒を見る余裕がなかったとき。

 二人に代わって世話を焼いてくれたのが、他でもないボリスであった。


 今よりも明るく、まだ真面目だった頃のボリス。幼いリリーの我がままに付きあって、よくお馬さんごっこやおままごとで遊んでくれた。近所のいじめっ子に泣かされたときは、自分のことのように怒ってくれたこともあった。ボリスの肩車に乗せられて、散歩した川沿いの遊歩道。夕日に照らされた道で、モンタンたちには内緒で買ってくれた蜂蜜飴の味。


 そんな――セピア色に彩られた記憶。


 身なりは汚く髪はぼさぼさで、目つきもすっかり悪くなってしまったボリスに、当時の面影はない。だが、だからこそリリーの幼心にも、「おじちゃんも大変なんだろうな」という、おぼろげな同情心のようなものがあった。


「いや、な。実はな」


 声をひそめたボリスは周囲の視線を気にするように、リリーの目線までしゃがみ込んで、懐から小さな革袋を取り出して見せる。


 ちゃら、と。


 金属の擦れ合う音。


「実はな――モンタンにそろそろ、お金を返しに行こうと思うんだ」

「えっ、ホントっ!?」


 ボリスの言葉に、リリーの表情がぱっと明るくなった。


「ああ。実は最近、ようやく仕事が上手く行きそうなんだよ」

「わあ、すごいすごい! 良かったね、おじちゃん!」

「ありがとうよ。今までは、モンタンに世話になりっ放しだったからな……そろそろ、恩を返さないと」


 革袋を懐に仕舞いつつ――ニィッ、と笑う。


「きっと、パパも喜ぶよ! ……おじちゃんは、何のおしごとをしてるの?」

「ははっ……、それはヒミツさ」


 ぱちりとウィンクをしたボリスは、「ところで、」とリリーを見下ろした。


「リリーはこれから何処に行くんだい?」

「わたしは、今から塾にいくの!」

「塾か。リリーはお勉強頑張ってるんだな。……しかしその塾ってぇのは、どこでやってるんだい?」

「高級市街の、コーンウェルさんのお屋敷だよ!」

「なるほどねえ。それで、夕方くらいまでお勉強なんだろう?」

「うん! だいたい、夕方の四時くらいにはおわるけど」

「へえ! そいつぁ凄い、俺だったらそんなに長い間、机に座ってじっとしてられねえや。……いつも塾には、一人で行ってるのかい?」

「うん。最初の頃は、パパかママが送ってくれてたけど、わたしはもうおとなだから、一人で大丈夫なの!」

「ははっ、偉いなぁ。リリーもすっかり大きくなったんだな!」


 えっへんと胸を張るリリーに、すっと目を細めるボリス。


「よし、それじゃ頑張っているリリーに、」


 ごそごそとズボンのポケットを探り、「ほら、」とボリスが右手を差し出した。


「ご褒美を上げよう。飴ちゃんだよ」

「わあー、おじちゃんありがとう!」


 小さな飴玉の包み紙を受け取り、飛び跳ねて喜ぶリリー。


「さぁて、というわけで、俺はそろそろ行くよ。リリーもお勉強頑張ってな」

「うん! おじちゃんも、おしごと頑張ってね!」

「ああ――」


 背を向けて歩き出していたボリスは、にっこりと振り返った。


「――頑張るよ。それじゃあ、またな」

「またねー!!」


 雑踏に消えるボリスの背中を見送って、リリーも意気揚々と塾へ向かう。


 歩きながら、飴玉の包み紙を開けた。琥珀色の、丸い飴玉。さっそく口の中に放り込むと、蜂蜜の芳醇な香りとまろやかな甘みが、いっぱいに広がった。


「……ふふっ」


 飴を舌の上で転がしながら、リリーは楽しそうに微笑む。元々軽やかだった足取りが、今ではまるでスキップのようだ。


 嬉しかった。


 ボリスがまた、昔のように戻ったことが。


(これでパパも、おじちゃんのこと見直すかな)


 まるで自分のことのように、誇らしくて。


 リリーは信じていた。


 再び、ボリスとモンタンが仲良く出来る日が来る、と。


 全てが幸せな方向へ向かっていると――


 その時リリーは、信じていたのだ。




          †††




「高い! 銀貨30枚はぼったくりだろ!?」

「いーや、これ以上びた一文負からねえ!!」


 サティナ北東部の川沿い、街の外の船着き場にて、ケイは船頭と言い争っていた。


「下流の町"ユーリア"までだぞ! ウルヴァーンまでなら兎も角、川の流れに乗っていくだけなのに何でこんなに高いんだ!」

「バッキャロー! 馬四頭も乗っけたら、どんだけ場所取ると思ってんだ!! こちとら乗せる品物は山ほどあんだよ、貰うもんは貰わねーと採算が合わねえ!!」

「だからって銀30は吹っ掛けすぎだろ! なんだ、アンタらは金銀財宝でも運ぶつもりなのか!?」

「そんな割の良いもん運びたくても運べねーよ!! 普通に資材やら家具やら積んでりゃ、銀30くらいすぐにならぁ!!」


 口角泡を飛ばす勢いで、額を突き合わせ騒ぎ立てる二人。ケイに胡乱な視線を向けつつ船に資材を積み込みこんでいく船乗りたち、「あーあー」という顔でオロオロと見守るアイリーン。


「あーわかった! もう結構だ! 悪いが他を当たらせてもらうッ!」

「こちとらテメェみたいなのは願い下げだ! とっとと行った行ったァッ!」


 しばらくして、交渉決裂というよりもケンカ別れに終わったケイは、シッシッと手を振る船頭に背を向けて、のしのしと歩き出す。


「クソッ不愉快だッ、どいつもこいつも吹っ掛けてきやがる!」

「足元見てるよなぁ、これで三人目か……」


 肩を怒らせるケイの横、アイリーンが小さく溜息をついた。



 ことの発端は、『ウルヴァーンには船でも行ける』という情報だった。



 昨日、旧市街で武具を叩き売ったあと、ケイたちはウルヴァーンへ向かう隊商に合流すべく、護衛の仕事を探すことにした。

 タアフからの道中で草原の民の襲撃を受けたことで、このまま二人旅を続けるのは危険だと判断したためだ。隊商やその護衛の戦士たちと共に移動すれば、襲撃される可能性をぐっと減らすことができる。


 しかし。


 結論から言えば、ケイたちは護衛の仕事はおろか、被護衛対象として金を払ってすら、隊商に加えてもらうことができなかった。


 何故か。


 それはひとえに、ケイたちの『信用の無さ』が原因だ。


 基本的に冒険者ギルドや魔術的な何かによる、気軽な身分証明の存在しないこの世界では、業種に関わらず仕事とは人に頼んで紹介してもらうものだ。ゲーム内では、簡単な頼みごとをしてくるNPCの仕事を何度かこなし、その信用度を上げていくことで、護衛などの難易度の高い仕事が解放される仕組みとなっていた。


 そしてこちらの世界に転移してから四日、当たり前だが異邦人エトランジェであるケイたちに後ろ盾は存在しない。サティナに限れば、矢職人のモンタンは『顔見知り』ではあるが、あくまで顧客と店主の間柄に過ぎず、彼がケイの人となりを保証することはないだろう。


 よって、素性も明らかではなく、保証人もおらず、ケイは草原の民のような顔つきで、アイリーンに至っては粗暴な性質で知られる『雪原の民』訛りの英語を話すとなれば、仲間に加えたくないと思われても仕方のないことだった。なまじ、ケイがぱっと見で屈強な戦士と判るだけにタチが悪い。仮にケイがならず者だった場合、獅子身中の虫どころの騒ぎではなくなるからだ。


 それでも豪商の一人は、ウルヴァーンまでの道中、アイリーンを『貸す』ことを条件にケイたちを受け入れることを提案したが、当然のようにその話は蹴った。そして結局、合流する隊商が見つからずに、途方に暮れていたところで聞きつけたのが、『陸路ではなく水路でもウルヴァーンには行ける』という情報だった。


 サティナは"モルラ川"に面した都市であり、そのため下流――北への河川舟運が盛んに行われている。それに便乗して川を下れば、陸路よりも遥かに速く、そして安全に移動できるのだ。


 しかしスピーディに川を『下れる』のは、ウルヴァーンとサティナの中間に位置する"シュナペイア湖"までの話。そこから北上するには、今度はウルヴァーンの側から流れてくる"アリア川"を遡上していかなければならない。


 ウルヴァーンもまた、サティナと同様、高地に位置する都市なのだ。


 基本的に風力と人力で川の流れに逆らうことになるので、川を遡上するのはお世辞にも速いとは言えない。よって、シュナペイア湖の町ユーリアからは、陸路に切り替えなければならないが――それでも陸路を半分に短縮できるならば、それに越したことはないとケイは考えていた。



 考えていたのだが。



 そこで立ちふさがったのが、まさかの『運賃』の問題であった。



「こちらが大所帯とはいえ、銀貨30枚は舐めてるよなぁ」

「……全くだ」


 頭の後ろで手を組んで、ぼやくようにアイリーンが言う。その隣を歩くケイの言葉には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。


 先ほどから、船着き場の船主たちに何度も交渉しているのだが、ケイたちはことごとく運賃を吹っ掛けられている。銀貨30枚などというのはまだ生温い方で、銀貨50枚、果ては金貨に近い額を要求してくる者まで、様々だ。


 銀貨30枚前後が相場――ということは流石にあるまい、とケイは考える。今のケイたちにならば払えない額ではないが、そもそも銀貨30枚といえば、庶民の成人男子の三年分の食費に等しい。先ほどの船頭は、普通に荷を運べばそれくらいにはなると豪語していたが、家具やら資材やらを運ぶだけでそんなに稼げるはずがない。


 業突く張りなのか、よそ者には意地悪なのか、あるいは単純に面倒で船に乗せたくないだけなのか――いずれにせよ、世知辛い話だ。


 その後も手当たり次第に船頭へ声をかけて回ったが、結局銀貨30枚を下回る額は提示されることなく、ケイたちは徒労感に苛まれながら宿屋に戻ることとなった。


「ああ……なんだか、無駄に疲れた」

「だなー」


 二人して、うだーっとそれぞれのベッドに身を横たえる。出掛ける前にたらふく昼食を詰め込んだのが、ちょうど消化の時間と重なったのか、眠気が酷い。


「…………」


 しばし、ぼーっと天井を眺めるだけの沈黙が続く。しんしんと降り積もっていく、弛緩した無気力感。


「……なあ、ケイ」


 ぽつりと、アイリーンがケイを呼んだ。


「うん?」

「ウルヴァーンに、行ってさ。……そのあとケイは、どうするつもりなんだ?」


 ちらりと横を見ると、向こう側のベッドで、寝返りを打ったアイリーンがじっとこちらを見つめていた。


「そう、だな……」


 天井に視線を戻したケイは、小さく呟いて、ぼんやりと考えを巡らせる。


 要塞都市ウルヴァーン。別名、『公都』。


 領主エイリアル=クラウゼ=ウルヴァーン=アクランド公が居城を構える巨大都市にして、北の異民族に睨みを利かせるリレイル地方の最前線。城郭都市サティナや港湾都市キテネなど、幾つかの大都市を従えアクランド連合公国を形成する――


 昨日、聞き込みで収集した情報だ。


「……まずは、ウルヴァーンにあるらしい『公都図書館』とやらに行ってみようか。利用料はかなり割高って話だが、一般人にも開放されているようだし、こちらの歴史や伝承を調べてみたいと思う。なぜ俺たちがこの世界に来たのか、何か、手がかりがつかめるかも知れないからな」


 『ここ』が異世界であるのは良いとしても、この世界に転移した原因はいまだ謎のままだ。ゲーム内で濃霧の中に突入した後、そこで何が起きたのか――ケイもアイリーンも一切憶えていない。


 このまま何も分からずじまいなのは、どうにも気持ちが悪かった。

 何者かがケイたちを召喚したのか。

 あるいはその他の『何か』に起因する超常現象なのか。

 せめて原因が何であるか、見当くらいはつけておきたいというのが、ケイの考えだ。


「それで……それを調べて、どうするんだ?」

「……うぅむ」


 続けざまのアイリーンの問いかけに、「痛いところを突かれた」と言わんばかりに唸ったケイは、自分もごろりと寝返りを打って青い瞳を見つめ返す。


「正直なところ、その後どうするかは、……決めてない。今さら何言ってんだ、と思うかもしれないが、俺もまだ混乱してるんだ」


 様子を窺う。真摯な表情を変えないアイリーンに、ケイは言葉を続けた。


「元々、『少しでも長生きして、一秒でも長くゲームを楽しむ』くらいにしか、考えてなかったからな俺は……」


 ケイにとって、【DEMONDAL】は、もはや生きる目的だった。

 この三年間は、ゲームが人生だった、とさえ言ってもいい。

 それが突如として現実化したことで――生きる目的が何なのか、分からなくなってしまったのだ。


「だから、思いつかない。思い描けない。これからの自分の将来が……」

「うん……オレも、同じだな。どうすればいいのか、分かんないんだ。自分が、どうしたいのかも……」


 茫然たる表情で、アイリーンが呟く。


「……難しいな」


 視線を逸らし、ベッドから起き上がったケイは、窓に寄りかかって商店街の雑踏に目を落とす。


 今日は良い天気だ。


 店主と値引き交渉を白熱させる旅人に、飾られた織物をじっくりと値踏みする商人。果物の入った籠を背負って早足で歩いていく農民、その間をすり抜けるようにして走り回る子供たち。

 と、一人の小さな男の子が石畳に蹴躓き、膝を擦りむいて大声で泣き出した。わらわらとその周囲に子らが集まり、通りがかった大人に慰められ、男の子はぐずりながらも友達に手を引かれて、そのまま歩き去っていく。


「なあ、ケイ。ケイは、帰ろうとは……思わないよな」


 背後から、遠慮がちに投げかけられたアイリーンの声。


「……思わないな。例え元の世界に帰れるとしても、俺はこっちで生きるよ」

「そっか……そうだよな……」


 ケイが振り返ると、アイリーンはうつ伏せになってぐりぐりと枕に顔をうずめていた。


「……アイリーンは、どう思う?」

「オレか。……オレは、どうだろうな」


 しばし、動きを止めるアイリーン。


 数秒ほどで、バッと顔を上げて、


「わかんない!」

「わかんないか」

「うん。……オレも、ケイほどじゃないけどさ、特にリアルが充実してたってわけでもないし」


 一瞬、ふっと遠くなる視線。


 そう言われてはたと気づく、アイリーン――もといアンドレイも、ほぼ丸一日ログインし続けるような、立派な廃人だったことに。


 麗しく、まだ若いこの少女もまた、仮想世界へ引き籠るに至る『何か』を抱え込んでいたのだとすれば――


「――そうか」


 ケイは小さく肩をすくめ、おどけるような笑みを浮かべた。アイリーンにもきっと、色々あるのだろう。ケイのように「こちらで生きる」と即答しない分、まだ悩む余地はあるのだろうが、それでも本人が話さないなら、敢えて聞き出す必要もないとケイは思う。


「まあ、何も急いで結論を出すことはない。俺はどちらかというと、選択の余地がないだけだからな……」

「……そうだな。何も今、答えを出さなくてもいいわけか。そもそも、帰れるかどうかも分かんないわけだしな! よし! 保留保留!」


 上体を起こし、腕を組んでうんうんと頷くアイリーン。無理やりテンションを切り替えている感はあるが、言っていること自体は至極正しい。帰る帰らないの前に、そもそもどうやってこの世界に来たのかすら分かっていないのだ。


 それに――


(……俺たちの肉体は、今どうなってるのか)


 果たして自分は生きているのだろうか――と。


 そんな疑問も浮かんだが、口には出さなかった。


「よし! そうと決まれば、ダラダラしてても仕方がないな! ケイ、オレに提案があるぜ!」


 アイリーンがバッと挙手する。


「ん、何だ?」

「とりあえず馬二頭くらい売り払おうぜ! 二人旅で四頭は多すぎる。船主が吹っ掛けてきてたのは確かだろうけど、馬が場所とるってのも正論だと思うんだ」

「……そうだな。四頭いると維持費も馬鹿にならないし、ここで売るってのもアリだろう。ただ問題は……」


 渋い顔で、ケイは部屋の中を見回した。贅沢にも二人で使う四人部屋。草原の民の武具を全て処分したため、かなりすっきりと広く見える。が、モンタンの矢にそれを収める大型の矢筒が幾つか、野宿を想定した小さな鍋に三脚、毛布やテントなど細々とした生活雑貨も新たに買い足したため、依然として所持品は多い。


「馬二頭でこれ全部運ぶのか……」

「う、う~ん。何とかなるだろ?」

「いや、そりゃ何とかはなると思うんだが」


 問題は、その配分だ。


 こうして改めて冷静になって見てみると――荷物の大部分を、矢と矢筒が占めていることに気付く。


 気付かされる。


「…………」


 乾いた笑みを浮かべ、壁際の数本の矢筒を見つめるケイ。それを察したアイリーンが「よっ」とベッドから起き上がり、矢を物色し始めた。


 矢筒から抜き出したのは、カラフルな彩色の一本――メロディが変わるという売り文句の鏑矢だ。日の光にかざすように、手の中で弄んでいたアイリーンはボソリと一言、


「……コレ、何の役に立つんだろ」

「……何かしらの役に立つだろ」


 目を逸らしつつ、答えるケイ。


「そうか?」

「も、勿論。例えば……ほら、その、アレだ」


 言葉を探す。


「……合図とか」

「いつ誰に使うんだよ」


 ぺしっ、とアイリーンのツッコミが脇腹に入る。


「いや、それ以外にもだな。例えば……ほら、敵の注意を引きつけたりとか! 野獣相手とかだと効果的だと思うぞ、一応攻撃にも使えるし……とは思うが、それなら最初から普通の矢の方が……うん……」


 何やら軟体動物のように手を動かしつつ、フォローしようとして自滅の方向へ向かうケイに、曖昧な笑みを浮かべたアイリーンは最早何も言わなかった。



 と、その時、



「――ん」


 突然、首筋にピリッとした鋭い感覚が走り、弾かれたようにケイは振り返る。


「……」

「どうした、ケイ?」

「……いや、」


 気のせいだろうか。何か、視線のようなものを感じたのだが。


 窓から顔を出して外を見回すも、特に変わったものは見受けられなかった。ただ、向かいの屋根にいた鴉が一羽、ガァッと一声鳴いて飛び去っていく。


「なんか見られた気がしたんだが」

「気のせいだろ。ってかケイ、何だよこの矢! 一体どんな使い方するんだコレ」


 訝しげなケイをよそに、アイリーンが次に取り出したのは、やたらとゴテゴテした機械仕掛けの矢だった。その先端には矢じりの代わりに、金属製のケースのようなものが取り付けられている。


「ああ、それか! それはモンタン氏の自信作だ。なんとたった一本で、多数の敵を制圧できるという代物さ」

「……どうやって?」

「うむ。実はその先端のカートリッジには、びっしりと小さなダーツが入っているんだ。ワイヤーとバネ仕掛けで、ダーツが前方へ放射状にばら撒かれる、という仕組みさ。早い話が散弾だな。仕掛けが作動する距離は、5mから15mまで、このツマミで調整できるようになっているらしい」

「へ、へえ」


 したり顔でとくとくと解説するケイに、若干気押されたかのようなアイリーン。


「……ただ、ダーツという特性上、貫通力に限界がある。相手が盾を持ってたり、革防具より硬い鎧を装備してたら、ほとんど効果がなくなるのが玉にきず……」

「何だよそれ全然ダメじゃん!!」


 ビシィッ、と突っ込みが脇腹に入る。


「やっぱりコレ微妙じゃーん返品しようよーケイー」

「いっいやっ、あれだけ気前よく大人買いした手前、そういうわけにもだな……」


 目を泳がせるケイに、面白がったアイリーンがずいずいと攻勢に出る。


「別にいいじゃん返品しちゃえばー!」

「しかしそれだとモンタン氏に悪い気が……」

「気にしないって! 向こうも商売なんだからさ!」

「う、うーむ」

「使えないなら意味ないし、『冷静に考えたらやっぱりいらなかった』って言えばいいじゃん?」

「そ、それもどうかな……」



 矢の実用性の有無、返品の是非を巡って、二人して騒々しく話し合う。



 そうこうしている間に、先ほど感じた違和感のことなどは、すっかり忘れ去っていた。




          †††




 そして、日が暮れ始める頃。


 夕食を食べつつ話し合った結果、明らかに役に立ちそうにない幾つかの矢は返品することになり、ケイたちは再びモンタンの工房へと向かった。


「うぅむ……やはり申し訳ないな……」

「だいじょーぶだって、気にすんなよケイー」


 モンタンの工房に近づくにつれ、気まずさが募って足取りが重くなるケイに、全く気にする様子を見せないアイリーン。遠慮や思いやりの気持ち云々というよりも、国民性の違いが如実に表れている。

 そんな中、大通りを歩いている際に、ケイはふと店じまいを始めつつある青果の露天商に目を止めた。


「そうだ、手土産の一つでも……」

「……だから、気にし過ぎだっつの」


 どこまでも弱気なケイに、思わず苦笑するアイリーン。とは言いつつも、二人揃って露店を物色し、アイリーン曰くリリーの好物だという熟れたサクランボをどっさりと買いこんで、それを手土産にすることにした。




 工房に着く。


 日が沈みかけ、暗くなりつつあるというのに、モンタンの家には明かりも付いておらず、どこかひっそりとした雰囲気だった。


「失礼する、俺だ、ケイだ」


 こんこん、と表の扉をノックするも、暗い工房の中から返事はない。


「……留守っぽい?」

「分からん」


 首を捻りつつドアノブに手を掛けると、鍵はかかっていなかった。


「……モンタンー? いるかー?」


 遠慮がちに、ドアを開けて工房の中に入る。すると奥の部屋の方でガタガタッと音が響き、モンタンがふらふらと姿を現した。


「ケイさん。すいません気付きませんで……」

「……お二人さん共、いらっしゃい……」


 モンタンに続いて、キスカも奥から顔を出す。二人とも、顔色が優れない。どこかやつれたような、憔悴したような、そんな表情だった。


「ああ……すまない、何かお取り込み中だっただろうか」


 二人の様子からただならぬ雰囲気を感じ取り、たじろぎながらもケイが尋ねると、


「いえ! そんな……そんなことは、無いです。お気になさらず」


 強い語調で、モンタンが否定する。


「……して、ご用件は?」


 有無を言わさぬ口調、というべきか、それ以上の追及を許さぬ確固たる態度で、極めて事務的にモンタンは言葉を続けた。


「うむ……いや、言い辛いんだが、実は、昨日帰ってからよく考えた結果な……」


 腰から大型の矢筒を取り外しながら、ケイが要件を切り出すにつれ、モンタンの表情が険しくなっていく。何とも言えない気まずさを感じながら、ケイは話を進めていた。


「あの、キスカ」


 そんなケイをよそに、さくらんぼの入った紙袋を手に、アイリーンがキスカに話しかける。


「ええアイリーン。どうしたの」

「これ。さくらんぼなんだけど」


 顔色の悪いキスカを気遣うように、そっと袋を差し出した。ぼんやりと夢遊病者のような動きでそれを受け取るキスカ。


「ちょうど、美味しそうなのが、露天商で売ってたんだ。みんなで食べるといいと思って……ほら、たしかリリーの好物だったよな?」


 手の中の袋を見つめていたキスカが、その言葉に、はっと顔を上げる。


「……そういえば、リリーは、いないのか?」


 ふと思いついたように。アイリーンのそれは、外の暗さを鑑みての、何気ない質問だった。


「…………」


 しかし、顔面を蒼白にして唇をわななかせたキスカは、腰が抜けたようにへなへなと、その場に座り込んでしまう。


「うっ……、ぐっ……」

「え? えっ?」


 紙袋を胸に抱え、ぽろぽろと瞳から涙をこぼし始めたキスカに、ぎょっとして硬直するアイリーン。


「キスカッ」


 妻が泣き出してしまったことに気付き、気遣うようにモンタンが駆け寄る。モンタンに背中を撫でられ、キスカは紙袋を抱えたまま、おいおいと声を上げて泣き始めた。


「……何か、あったのか」

「…………」


 恐れ慄くようなアイリーンの問いかけに、しかし、モンタンは黙して俯いたまま、何も答えない。


「リッ、リリーが、リリーが……、」


 泣きじゃくりながらキスカ、


「……リリーが、拐われたんです……」


 アイリーンがはっと息を呑み、ケイは表情を険しくした。白状した妻に、モンタンは額を押さえて頭を振る。


「どういうことだ」

「…………」


 黙って立ち上がったモンタンが、奥の部屋に消えた。がさがさ、と何かを探る音、ほどなくその手に二通の封筒を持って、戻ってくる。


「……いつもなら、リリーが帰ってくる時間のことでした。ドアがノックされたので、表に出てみると、誰もおらずにこの手紙が残されていました」


 そう言って差し出す、一通の封筒。アイリーンが受け取り、ケイが後ろから覗き込む。薄暗い工房の中、手紙は非常に読みづらいが、しかしケイの瞳はそれをものともせずに文面を克明に読み取った。


 殴り書いたような、わざと字体を崩したような、汚い字。そこには、『娘の身柄を預かった』『このことは衛兵には知らせるな』『身代金として金貨一枚』などいった脅迫文が並べられていた。


「金貨一枚だと……?」


 その、あまりに高額な身代金に唖然とするケイ、


「衛兵には、衛兵にはもう知らせたのか!?」


 焦燥に駆られたような、そんな表情でモンタンに突っかかるアイリーン。


「……知らせ、ようとしました。しかし……」


 苦々しい顔で、モンタンは説明する。


 勿論、この手紙を受けて大いに動揺したモンタンとキスカは、たまたま家の前を通りがかった警邏中の一人の衛兵に、やはりこの件を相談しようとしたらしい。


 しかし、衛兵に声を掛けようと扉を開けた瞬間、玄関前に置かれていた二通目の封筒に気付いたのだそうだ。


「それが、これです」


 手ずから二通目を開け、その文面を見せてくる。『衛兵に言おうとしたな』『次は無い』『次にしようとすれば、娘の命は無いものと思え』などと書いてあった。


「それと……これが……」


 震える手で封筒から取り出したのは、一房の、モンタンのそれにそっくりな、茶色がかった金髪。


 ――リリーの髪の毛。


「監視、されてるんです。身動きがとれません。仮に私が衛兵に接触すれば、彼らにはそれが分かるんです……」


 ガタガタと、凍えたようにその身を震わせるモンタン。


「その手紙にある通り、誘拐犯は、明日の未明にスラムの入り口あたりに、身代金を持ってこいと要求しています。うのていで駆けずり回って、出来る限り資金は集めましたが、それでも金貨一枚には遠く及びません……」


 ふっと、顔を上げたモンタンの、その瞳は虚無にも似た絶望の色に染まっていた。


「ケイさん。後生です」


 力なく。膝をついたモンタンが、


「――お金を。お金を貸して下さい……っ!」


 ケイの足元に、すがりつくようにして、


「ほんの少し。ほんの少しでもいいんです。金貨一枚は無理でも、少しでも多く身代金を用意できれば、リリーは返してもらえると思うんです。だから、だからっ!」


 涙ながらに、訴える。


「お願いです、お金を貸して下さい……っ」

「…………」


 ケイは、閉口した。



 ――返品どころの、騒ぎではなかった。



 薄暗い工房の中、モンタンとキスカがすすり泣く声だけが響く。


「……すまない。今、手持ちがこれだけしかないんだ」


 懐を探ったケイは、銀貨を五枚取り出して、モンタンの手に握らせた。


 はっ、と目を見開いたモンタンは、


「こ、こんなに! ありがとう、ございます! ありがとうございます!!」


 顔をくしゃくしゃにして、鼻水まで垂らしながら、何度もケイに頭を下げた。



 ――本当は。



 懐に、もっと銀貨はあるのだが。


(これは……多分、ダメだな)


 誘拐された子供が、そのまま確実に生かされていると――特に、この世界においてそう思えるほど、ケイは楽観主義者ではなかった。そして仮に生きていたにせよ、身代金を払ったところで、無事に帰ってくる確証もないのだ。

 募金、あるいは慈善事業。

 そんな単語が脳裏をよぎる。この場を凌ぎ、自分の中である程度の決着を図る、妥協のライン。


 何度も何度も礼を言うモンタンとキスカの言葉を、どこか冷めた心で聞き流す。


 しかし、ふと横を見ればアイリーンが、食い入るような目で作業テーブルの上に置かれた便箋を。


 さらに言うなら――『茶色がかった一房の金髪』を、見つめているのに気付く。


「…………」


 そっと手を伸ばしたアイリーンは、モンタンたちに気付かれないように、髪の毛を幾本か回収した。


 ふっ、と。


 青い瞳が、一瞬ケイを見やる。


「……ケイ。オレは先に戻るぜ」

「あっ、おい! アイリーン!」


 ケイの制止も聞かずに、アイリーンは走って工房を出て行った。






「おい、アイリーン!」


 ケイが宿屋に戻る頃には、アイリーンは既に黒装束に着替え終わり、背中にサーベルを背負っていた。


「アイリーン、お前何を考えてるんだ!」

「そんなの決まってる! 助けに行くのさ!」


 ケイの問いかけに、「お前こそ何を言うんだ」という顔で即答するアイリーン。


「……ッ」


 その答えが予想できていただけに、ケイは頭痛を堪えるように、額を押さえて天を仰いだ。そんなケイをよそに、アイリーンは投げナイフのベルトをつけ、手にはグローブを、足には脛当てをと、着々に戦闘態勢を整えていく。


「……いいか、落ち着け。落ち着けアイリーン。俺たちは今、ゲームの世界にいるんじゃない」

「そんなことは、分かっている」

「いいや、お前は分かってない! 『助けに行く』とは簡単に言うがな、それがどういう意味かお前は理解していない!」


 澄ました態度のアイリーンに、思わずケイの口調が荒くなった。


「お前が考えていることは分かる! 【追跡】で髪を使えば、リリーの位置は簡単に分かるからな! だがアイリーン、今回の件は、話を聞く限りだと単独犯じゃないぞ! お前が助けに行くというのなら、十中八九、犯人たちと戦うことになるだろう!」


 きっ、とその端整な顔を睨みつけた。


「そうなったとき、お前に人が斬れるかッ?」

「……悪人相手に、容赦するつもりはない」


 一瞬の間。しかし言い切る。だがケイはそれを、アイリーンの躊躇いの表れであると取った。


「……覚悟はご立派だがな、アイリーン。本当にそれができるかどうかは、別問題だ」

「出来るさ。オレは今クールだが、同時に怒ってもいるんだぜ、ケイ。身代金が金貨一枚だなんて、リリーを帰すつもりがないとしか思えない。オレにはそれが許せねえ」


 見返す、その青い目のまっすぐさに、ケイは思わずたじろぎそうになる。


 しかしそうなる前に、瞳は揺れ、アイリーンは気まずげに視線を逸らした。


「……勿論、これはオレの勝手だよ。だから、ケイを巻き込むつもりはない。『コレ』はオレが一人でやる」

「……何?」


 ぴくりと、ケイの眉が跳ね上がった。


 心に、微かな苛立ちが走る。



 ――違う。そうじゃない。


 ――そういうことじゃない。



「市街戦は、ケイには都合が悪い。だが逆に、オレにとっては得意なフィールドさ。時間帯もいい感じだし、オレ独りでも――」

「アイリーン」


 独白するように言葉を続けるアイリーン、その両肩を掴み、ケイは瞳を覗き込んだ。


「……」


 戸惑ったようなアイリーンの表情を、至近距離で眺めながら、しばし迷う。何をどう言うか。


「……アイリーン。ここは、ゲームの世界じゃない、リアルなんだ。ゲームと違って、何が起きるか分からない。一瞬の油断が、ほんの少しの読み違えが、致命的なんだぞ。怪我で済まずに……死ぬかもしれない。本当にそれが、わかってんのか……?」


 囁くような、懇願するようなケイの口調に、アイリーンの表情は硬い。


 しかし同時に。それは何処までも、真摯なものであった。


「……ケイに、一度命を助けられておいて、何言ってるかって思うかもしれないけどさ。それでも、オレは、……リリーを放ってはおけないよ。ゲームの世界じゃないなら、尚更だ。リリーはNPCじゃない、生きた人間なんだ。オレは彼女を助けるよ」

「なんでだ。なんでなんだ、別に頼まれたわけでもないのに……俺たちには、関係ないじゃないか……」

「『関係ない』だって!?」


 信じられない、という顔をしたアイリーンが、ケイの腕を振りほどく。


「『関係ない』わけがないだろう! オレたちはもう、彼らと関わり合ってるんだぞ!? 『関係ない』なんてことはないんだ、ケイ!」


 もどかしげに、首を振ったアイリーンは、言葉を続ける。


「オレは……オレには、『力』がある。リリーを探して、救い出せるだけの力が! もちろん、危険なのは分かってるさ。死ぬかもしれないし、オレ自身、人を殺めることになるかもしれない。……それでも、」


 それでも、と自分の考えを反芻した。


「オレに、それが出来るなら。オレに、誰かが救えるなら。オレはそれをやるべきだ。出来るだけの力があるのに、見なかったことにして、尻尾を巻いて逃げるのは、それは、――」



 俯き、声を絞り出すように、



「――『ひとでなし』のすることだよ」



 がつん、と。



 頭を殴りつけられたような衝撃が、ケイを襲った。



 無知、であるが故に言える、純粋な言葉。



 しかしその純度の高い正義感は、今のケイには鋭すぎた。



 歯を食いしばって俯くアイリーンには、愕然とするケイの表情が見て取れない。



「…………」


 どすん、という音にアイリーンが顔を上げると、ケイは顔を押さえて、力なくベッドに腰を降ろしていた。


「……勝手にしろ」


 暗く沈んだぶっきらぼうな口調に、自分の放ったことばが、ケイを酷く傷つけたことを悟る。


 そして悟ったがゆえに、これ以上は何も言えなかった。ここでケイの機嫌を取るようなことを口にすれば、二人の間の溝がさらに深まると、直感的に察してしまったから。


「……ごめん」


 ただ一言、謝った。


「…………」


 ケイは無言のままだったが、のろのろと腰のポーチに手を伸ばし、中から『それ』を引き抜いてアイリーンに放り投げる。


 慌ててアイリーンが受け止めると、それは、ガラスの瓶だった。


 中で、とろりと粘性のある、青い液体が揺れている。



 ――ハイポーション。



「……持ってけ」


 視線を逸らしたまま、ケイは呟くようにして言う。


「……ありがとう」


 短く、答え。



 たんっ、と小さな音が響く。



 ケイが顔を上げたとき、そこにはもう、少女の姿はなかった――









 人々の営みを、その眼下におさめ。



 屋根を踏みしめた、黒装束の少女。



 ぶわりと。



 建物の壁に煽られ、吹き寄せる冷たい風。



 黒いマフラーが流れ、たなびき、はためく。



 ――見やる。



 城郭の外、西に広がる草原の大地。



 黄昏の太陽が――沈みゆく。



 見上げれば、月。



 銀色に輝ける夜の女神。



 茜色から、群青へと。



 空はそのかおを、変えゆく。



 再び見つめる地平線。



 太陽は――沈んだ。



「さあ……の時間だ」



 小さく呟いた、少女。



 懐より取り出すは、水晶の欠片。



 祈るように。願うように。



 一瞬、瞑目した少女は、



【 Mi dedicas al vi tiun katalizilo.】



 その手より欠片を、おとす。



 重力に引かれる、透明な結晶。



 とぷん、と。



 それは、足元の影に呑まれ。



 ざわざわ、ゆらゆらと。



 蠢き、揺らめく。



 魔性のもの。



【 Maiden krepusko, Kerstin.】



 呼吸を整え。



 少女は、ぶ。



Vi aperos顕現せよ.】





 果たして、逢魔が時。





 ――黒き影はそれに応えた。



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