19. 仕事


 ぴょこぴょこと。


 金髪のポニーテールを揺らし、ケイたちの前を歩いていた幼い少女が、くるりと笑顔で振り返った。


「こちらがサティナのシンボル、『サン=ディルク時計台』でーす」


 幼い少女――リリーが示した石造りの時計台を見上げ、ケイとアイリーンは「おおー」と感嘆の声を上げてみせる。


「これは42年まえ、いまの領主さまが生まれたときに、先代さまが記念に建てられたものなんだよ。おもりがおちる力で歯車を回す、『じゅーすい式』って方式で動いてるんだ! 領主さまのまほうの時計を見て、毎日めしつかいたちが時間をあわせてるから、とっても正確なの!」

「へぇ~そうなんだ」

「リリーは物知りだなぁ」


 ケイとアイリーンに口々に褒められて、リリーは「えっへん」と得意げだ。



 モンタンの工房を訪ねた、翌日。



 ケイたちはリリーに連れられて、サティナの街を歩き回っていた。


 もちろん歩き回るといっても、ただ街を観光しているわけではない。リリーの案内で、モンタンと懇意にしている職人たちの所を訪ねて回っているのだ。ケイの背中には既に、先ほど防具屋で購入した、合金張りの薄い木製の盾が背負われている。矢を弾く程度には頑丈だが、それほど重くはなく、アイリーンにも使い易い優れた一品。モンタンの知り合いということで少し値引きして貰えた。


「じゃー次は、コナーおじさんのとこに行くよー」

「コナーおじさんってのは、なんの職人なんだっけ?」

「かわー!」


 アイリーンの問いかけに、リリーが元気よく答える。


 昨日は結局夜までモンタンの工房に入り浸り、夕食にまで招かれたケイとアイリーンであったが、ケイがモンタンと意気投合している間に、アイリーンはキスカ・リリー親子とすっかり仲良くなっていた。奥の部屋でお茶をご馳走になり、リリーと手毬や歌などで遊んだ後は、ちゃっかり裏庭を借りて一緒に水浴びまで済ませたらしい。その人懐っこさ、要領の良さには、ケイも恐れ入る。


「ふんふんふん~ふんふんっとぅっとぅるとぅーかちゅーしゃー♪」


 アイリーンから教わったらしい、うろ覚えのロシア民謡を口ずさむリリー。モンタン譲りのくすんだ金色の髪は、昨日までは三つ編みのおさげにしていたが、水浴びのあとにアイリーンの真似をしてポニーテールに変えたそうだ。アイリーンの手を引いてトコトコと歩く姿は、顔のつくりこそ少々違うものの、まるで歳の離れた姉妹のようだ。「リリーはホント可愛いな~」と笑顔のアイリーン。


 本来ならば、この案内役はモンタン本人がする予定だったのだが、今朝工房を訪ねたところ、貴族関連で急な仕事が入ったらしく、モンタンもキスカも準備にてんてこ舞いになっていた。


 そこで、代わりとなったのがリリーだ。昨夜のうちにアイリーンを「おねーちゃん」と慕うようになっていたリリーは、快く案内役を引き受けてくれた。ついでとばかりに、張り切って街の見どころを紹介する親切心を、ケイとアイリーンは微笑ましげに見守っている。


「つづいて、こちらが初代領主さま、『パトリック=ハイメロス=サティナ=バウケット伯』の銅像でーす」

「おおー」


 街の広場、仁王立ちで空を指差す良い笑顔の男の銅像を見上げ、ケイとアイリーンは再び感嘆の声を上げてみせた。


 サティナの観光は、今しばらく続く――。




「それにしてもリリーは、随分と街の歴史に詳しいんだな」


 名所をあらかた見終わり、職人街の一角を歩きながら、感心した様子でケイは言った。


 それはお世辞ではなく、本心からの言葉だ。リリーは、その年齢ゆえに言い回しこそ少々つたないものの、名所の解説には専門的な単語が頻繁に登場し、またその歴史的背景もよく理解しているようだった。両親がイギリス系でバイリンガルのアイリーンは、問題なくリリーの話を理解できているようだったが、後天的な英語話者であるケイには分からない語彙も多く、そのたびに十歳児に解説を頼む羽目になるのは何とも情けない気分だ。


 アイリーンの手を引いて歩くリリーは、「ふふん」と得意げな笑みで、


「マクダネルせんせーの塾で、いっぱい勉強してるの!」

「マクダネル?」

「うん。コーンウェル商会で、『めきき』をしてる学者さん。歴史にとってもくわしいんだよ!」


 小首を傾げるケイに、意気揚々とリリー。コーンウェル商会といえば、昨夜の夕食時にも話題に挙がっていたが、確かモンタンの取引先の中でも最大手の商会のはずだ。


「ほう。塾に通わせてもらってるのか」

「うん。一年くらい前に、パパの知り合いが、せんせーを紹介してくれたの。ママに読み書きは教わってたから、お話をしてみたら、『なかなか見どころがある』って、せんせーが。いまは、歴史と算数をやってるよ! お友達もできたし……」


 と、そこで、楽しげだったリリーの顔が曇る。


「でも、おかねもちの家の子は、ときどきパパのこと馬鹿にするから、あんまりすきじゃないな……」

「お父さんのこと馬鹿にするのかー。それは悪い子だな!」


 わしゃわしゃと、アイリーンが元気づけるように、リリーの頭を両手で撫で回した。くすぐったそうに身をよじらせたリリーが、お返しとばかりにアイリーンの脇腹に手を伸ばす。「あひゃひゃやめてッ脇腹は弱ッあはははっ!」と悶絶するアイリーンを、ケイは後ろから生温かい目で見守っていた。


「……でも、『おおきくなったらお友達にはなれないから、今のうちに仲よくしときなさい』って、ママが言ってたー。だから、仲よくするの」

「偉いな! それがいい」

「リリーは、大人だな……」

「えへへ、わたしおとなー!」



 そんなことを話しているうちに、職人街の東、目的の革工房に到着した。



「コナーおじさーん! お客さんだよー!」


 木の扉を開けながら、リリーが大きな声で呼びかける。革製品独特の湿った匂い。


 薄暗い工房の奥で、革を太い針で縫いつけていた職人が、リリーの姿を認めてにっこりと微笑んだ。


「おや、リリーか。今日も元気かー?」

「うん! おじさんは?」

「元気いっぱいさ!」


 革を机に置き、ふんっ、と力こぶを作りながら登場したのは、五十代前半ほどの樽のような体形の男――革職人のコナーだ。革の前掛けを盛り上げて、でっぷりと突き出た腹は絵に描いたようなビール腹、白髪は両側の生え際が大幅に後退しており、それは俗に言う、M字禿げという奴だった。


「それで、お客さんかね?」

「うん、パパがね、コナーおじさんに紹介して、って」

「ほうほう、なるほどな。いらっしゃい、お二人さん。モンタンの紹介とあっちゃぁ、無下にはできねえな」


 ニカッ、と野性味のある笑顔で、右手を差し出すコナー。そのゴツゴツとした職人の手を握り返しながら、「よろしく、ケイだ」「オレはアイリーン」と簡単に挨拶を済ませる。


「それで、用件は?」

「うむ、実はこの皮の加工をお願いしたいんだが――」


 と、ケイが持参していたミカヅキの皮を取り出したところで、ゴーン、ゴーンと時計台の鐘の音が響き渡る。「あっ」と声を上げたリリーが、くいくいとアイリーンの服の袖を引っ張った。


「おねーちゃん、おにーちゃん、ごめんね。わたし、そろそろおうちに帰る」

「そうなのか?」

「うん。午後から、せんせーの塾があるの。ごはんたべて用意しないと」

「そっかー」


 至極残念そうなアイリーンが、「おうちまで送ろうか?」と提案するも、リリーは首を横に振った。


「だいじょーぶ、そんなに遠くないし。ひとりでも帰れるよ!」

「そっかー。わかった、気をつけてな!」

「うん! コナーおじさん、おねーちゃんたちをよろしくね。おにーちゃんも、またねー!」


 リリーはポニーテールを揺らし、ぱたぱたと慌ただしげに走り去って行った。


「……本当に大丈夫か?」

「旧市街ならともかく、ここらは衛兵ガードが多い。近所もみんな顔見知りだしな、悪いこたぁできねえよ」


 それでもまだ心配げなアイリーンに、肩をすくめながらコナー。心配しなさんな、と笑って肩を叩かれ、「そうか」と渋々、アイリーンは納得の様子を見せる。


「話の腰が折れたな、それで?」

「ああ、この皮なんだが、思い入れのある品でな……」


 その後、しばらくコナーと話し合った結果、ミカヅキの皮は非常に質が良いとのことで、ケイとアイリーンにそれぞれ一つずつの革財布を作ることとなった。


「それで、どのくらいで出来る?」

「そうさな、……まあ余裕を見て四日ほど貰おうか」


 ケイから受け取った銅貨と小銀貨を、手の中で転がしながらコナーが答える。


「四日か……思ったより長い。処理が不味かったか?」

「いや、処理は上等だが、なめしがまだ不十分だな。このままだと長持ちしねえぞ。せっかく質が良いんだし、大事な物なら時間をかけるべきじゃねえか? まあ、どうしてもというなら早目に仕上げるが」


 どうする? と問いかけるコナー。ケイがアイリーンを見やると、


「……せっかくだし、時間かけてやって貰った方がいいんじゃねえの?」

「そうだな、俺もそう思う。……お願いしよう」

「任せな」


 それなら早速、と作業に戻ろうとするコナーを、ケイは「ちょっと待ってくれ」と呼び止める。


「すまない、それともう一つ。実は今、手元に草原の民の武具一式が八人分あるんだが、買い取り先に心当たりはないだろうか?」

「八人分……ねえ。どうやって手に入れた?」

「……サティナに来る途中で襲われたから、返り討ちにして剥ぎ取った」


 正直なケイの回答に、コナーは眉を寄せて困った顔をした。


「死人の、それも草原の民の武具か……。悪いが、好き好んで買う奴がいるとは思えねえな」

「……やっぱりダメか」


 ケイの表情も渋くなる。というのも、先ほど立ち寄った防具屋でも、買い取りを断られていたからだ。


 昨夜の夕食後に、モンタンへ話を持ちかけた際も、その反応がイマイチだったので薄々感づいてはいたが。


 需要がない。


 人気がない。


 草原の民の武具が、全くウケないのだ。


「そもそも連中の武具は、質自体はそれほど良くねえからなぁ。湾刀は切れ味こそ良いが、刃が硬いせいで折れやすい。革鎧も、装飾は素晴らしいが、柔らかめに仕立ててあるせいで肝心の防御力が低い。

 強いて言うなら、複合弓だな。あれは馬上でも扱い易いから、傭兵の中には、好んで使う奴もいるらしい。だがそういう物好きな連中は、大抵もう自前のを揃えてるからな……」

「鎧も武器も、売り捌くには厳しいか」

「だなぁ。特にこのところは、武具全般が値下がり気味でな。そこそこの物が新品で安く買えるってぇのに、わざわざ中古を使おうって奴は――」

「――いないだろう、な」


 半ば諦めの表情で、ケイはぼりぼりと頭をかきながら溜息をついた。


「確かに剥ぎ取りのとき、質が微妙だとは思ったんだよな……自分が欲しくない物を、他人が欲しがる道理はない、か」

「違いねえ。辺境の村ならともかく、この街だとちょいと厳しいな。見習い職人の練習作やら、製作過程で傷が付いた失敗作やらがゴロゴロしてる。質が悪い中古品なんざ、売り物にならんよ」


 小さく溜息をついたコナーは、そこでふと遠い目をする。


「実際のところ、厳しいんだよなぁこの界隈は。"戦役"のときは、特需で掃いて捨てるほどいた職人も、今じゃ随分と減っちまった。腕が二流で脱落した奴、見切りをつけて農民に戻った奴、安売り合戦で自滅して大借金こさえた奴――色々いるな」


 お手上げのポーズを取り、脇に吊り下げられていた革のマントをぽんぽんと叩いた。


「かくいう俺も、近頃は日用品ばかりで、革鎧なんざ長らく仕立ててねえ。せいぜい傭兵の常連客が、たまに修繕や手入れのために、自前の鎧を持ち込むくらいのもんよ。適当に武器防具を作ってりゃ、気楽に食っていけたのは、もう遠い昔の話さ」

「今は、不景気なのか」

「不景気というより、平和なんだよ。単純に、武具を買う必要がねえ。戦役が終わってからしばらくは、ボロ装備の更新のためにまだ売れていたんだが、今は、なぁ……。

 使わないから壊れない、壊れないから替えが要らない、替えが要らないから新しい物は買わない……ま、当然の流れだわな」

「成る程」

「でも、全く売れないってわけでもないんだろ?」


 工房の隅、マネキンに着せられた小奇麗な革鎧一式を指差して、アイリーンが横から口を挟む。


「んー、そうだなぁ嬢ちゃん。売れるには売れるが、それだけで食っていくには辛い、ってとこか。俺は独り身だからまだ何とかなるが、最近はどこも副業で何かしら別の物を作ってるよ。俺しかり、モンタンしかり……まあモンタンは本業でもかなり儲けてるから別格だが」

「やはり彼は、かなり上手くやってる方なんだな」

「ああ、そりゃあもう! 戦役が終わったあとに、本業で売り上げを伸ばしたのは多分アイツだけだろうさ」


 おどけたような笑みで肩をすくめたコナーが、前掛けのポケットから取り出したパイプを口にくわえる。


「……っふー。元々、単価の低い矢は、安くしようにも限界があるからな。周りの職人が借金こさえてまで、安かろう悪かろうの値下げ合戦をする中で、アイツだけが質を高めて高級路線に切り替えたのさ。お蔭で貴族やら大商人やら、金払いの良い固定客を捕まえられたってわけだ。

 モンタンが成功したと聞いて、後追いで値段を上げる奴らもいたが、質が伴わないことには意味がねえ。腕のいいほんの数人は生き残ったが、他はすぐに消えていった。周りの流れに逆らう胆力、需要を見抜く先見の明、上客を満足させるだけの腕前……全く、アイツは大した奴だと思うよ」


 ランプの火をパイプに移し、ぷかぷかと煙を吐き出しながら、コナーは腰をさすって椅子に座り込んだ。


「あーいてて……この歳になるとガタがきていけねえ」

「ああ、すまないな。長話に付き合わせてしまって」

「ははっ、俺が勝手に喋ってただけさ、気にすんな」


 申し訳なさそうな顔のケイに、手をひらひらとさせるコナー。


「まあ話が逸れたが、悪いな、そういうわけで俺には武具の買い取りはできねえや」

「そうか……残念だが、詳しい話を聞けて良かったよ。それじゃあそろそろ――」

「あ、いや、ちょっと待て。俺のところでは無理だが、捨て値になってもいいなら、処分出来る場所は知ってるぞ」


 炭の欠片を手に取り、コナーが紙切れに何かを書きつける。


「ほら、これが住所だ。旧市街の北、ブノワ通りの5番、ちょうどスラムとの出入り口あたりだな。

 ここに廃品回収屋がある。殆ど金にはならねえが、捨てるよりはマシだと思うぞ。ちょいとばかしガラの悪い場所だが、まあ兄ちゃんなら大丈夫だろ。一応武装はしておいた方がいい、ここらほど衛兵が多くねえからな」

「ブノワ通り……旧市街の北、だな? あとで行ってみよう、ありがとう」

「なぁに、いいってことよ。それくらいしか出来なくてすまんな」


 コナーから紙切れを受け取って、「それではまた、四日後に」と、ケイたちは工房を後にした。




          †††




 夕焼けに染まる街。


 城壁に日光を遮られ、薄暗くなった表通りを、幼い少女は早足で進む。


(今日はちょっと遅くなっちゃった……)


 塾帰り。アイリーンを真似たポニーテールをぴょこぴょこと揺らし、道をうろつく酔っ払いや傭兵の姿に不安げな顔をしながら、リリーは家路を急いでいた。


「ただいまー」


 裏口の扉を開けて居間に入る。するとそこには、明かりもつけずに、ぐったりとテーブルに突っ伏す両親の姿があった。


「おかえり、リリー……」

「今日は遅かったのね……」


 薄暗い家の中、生気のない二人の声が響く。


「今日は歴史だったから、マクダネルせんせーの『わるいくせ』が出たの」

「ああ、だから遅くなったのか。あの人の歴史好きは大概だからね……」

「アナタは人のこと言えないでしょ」

「パパとママは、どうだったの?」


 リリーの問いかけに、モンタンとキスカは疲れ切った笑みを浮かべた。


「大変だった……まったく、在庫が20本しかないのに、30本も装飾矢を納入なんて無茶な話だよ。装飾をたった一日で10本も仕上げたのは、生まれて初めてだな……」

「何とか間に合ってホントに良かったわ。ビューロー家は大得意様だし……」

「でも次からは、せめて二日は余裕見てもらいたいよね。心臓に悪い……」

「パパもママもおつかれさま!」


 死人のように脱力しきった二人に、リリーは努めて明るい声をかける。


「あー。ほんとに疲れたわー、こんなに働いたのいつぶりかしら……。あら、もうすっかり暗くなっちゃったのね。リリーごめんね、今からママご飯の用意するから。もうちょっと待っててね」

「いやキスカ、しなくていいよ。今日は久々に、みんなで外に食べに行こう」


 ぱんぱん、と服に付いた木屑をはたき落としながら、表情を明るくしたモンタンが椅子から立ち上がった。


「せっかくだから豪勢に、『ミランダ』なんてどうだい?」

「えっ、パパほんと!?」

「アナタ、いいの!?」


 モンタンの提案に、驚いたリリーとキスカの言葉が重なる。

 レストラン『ミランダ』といえば、サティナの街では五本指に入る最高級の店だ。庶民が出入りできる店、と限定すれば、街で一番のレストランと言ってもいい。シェフの腕前は掛け値なしの一級、その味は貴族の舌をも唸らせ、現にサティナの領主の係累も、お忍びで度々訪れていると専らの噂だ。


 そして当然のように、『ミランダ』の料理は、庶民からすれば目玉が飛び出るほどに高い。


 しかしモンタンは、妻と娘を安心させるように、


「ああ、構わないさ。今日の仕事でかなり稼げたし、昨日ケイさんが矢の試作品をあらかた買い取ってくれたからね。懐にはかなり余裕があるんだ」


 火打石でランプに火を灯しながら、ほくほく笑顔のモンタン。


「……そうね、たまには贅沢もいいかもしれないわ」

「わーい、やったー! パパありがとー!!」

「はっはっは、いやぁケイさんの腰のケースを見て、弓使いだとはすぐに分かったけど、あそこまで金払いが良い人だとは思わなかったなぁ。ホント、中まで入って貰って正解だったよ」


 ランプの仄かな明かりの中、モンタンは悪戯っ子のようにぺろりと舌を出して見せる。妻に故郷の話を聞かせてやってほしい、という建前でケイを工房に招いたものの、結局のところ、タアフ村の話など全くしていないのだ。


「さあ、そうと決まればおめかししないとね! 流石にこんな格好でミランダには行けないよ」

「わたしも着替えてくるわ。もちろん、リリーもオシャレしないとね!」

「やったー、オシャレするー!」


 キャッキャと嬉しそうなリリーの姿に、先ほどの疲れも吹き飛んだ様子で、モンタンとキスカの足取りも軽い。

 濡らした布で身体を拭き清め、髪型を整えるなどして身繕いし、モンタンは重要な取引で大商人相手に着る一張羅を、キスカは庶民でも分不相応にならない程度のシンプルなドレスで着飾る。リリーは可愛らしいエプロンドレスを着せてもらい、髪には赤いリボンをつけて大はしゃぎしていた。


「それじゃあ二人とも、忘れ物はないね」

「ないわよ」

「だいじょうぶー!」


 ランプを片手に、懐へ銀貨の入った巾着を仕舞い、護身用の小刀を持ったモンタンが、厳重に家の扉に鍵をかける。

 隣家の住人に出掛ける旨を伝え、留守の家に注意を払ってもらうよう頼み、モンタンたちは意気揚々と夕焼けに染まる道を歩き出した。


 職人街から南、高級市街へと向かう。


「さぁて、何を食べようかな」

「今日のメニューは何かしらね」

「わたし、ビーフシチューが食べたーい!」


 親子三人、リリーを真ん中にして手を繋ぎ、仲良く大通りを歩いていく。


 先ほどまで寂しげに感じられた夕暮れの街が、一転、どこか優しげに微笑んでいるかのようだ。


 滅多にない豪勢な食事に期待を膨らませ、弾むような足取りのリリー。

 調子を合わせて自らもはしゃぎつつ、その姿を愛おしげに見守るキスカ。

 そして、そんな愛する妻と娘に、慈しむような笑みを向けるモンタン。



 ――おだやかで、あたたかな家族の団らんが、そこにはあった。



 その姿はきらきらと眩しく、微笑ましく。



 日の暮れた、薄明かりの中にあってさえ。



 まるで、本当に、輝いているかのようで。



 それを。



 大通りの、はるか彼方より。



 呆然と。



 あるいは、悄然と。



 薄闇の中に身を置いて、じっとりと見つめる男の姿があった。



 ――ボリスだ。



「…………」


 今しがた、寿命を削る思いで検問を突破したばかりの、懐に金属製のケースを潜めたボリスは、食い入るようにモンタンたちの後ろ姿を見つめていた。


 ぎりぎりと。


 軋み、響いたのは、何の音。


「……くっ、」


 込み上げる言葉を呑み込んで。


 ボリスはくるりと踵を返し、薄汚れた路地を走る。



 ひた走る。



 辿り着いたのは、裏町の寂れた小さな酒場。


「……エール」


 いつものように、カウンターの席にどっかと腰を下ろし、ぶっきらぼうに注文した。


 ごん、と目の前にジョッキが置かれるや否や、乱暴にそれをつかみ取って、ごくごくと不味いエールを飲み下した。


 腹の奥底で。


 ぐるぐると回る、煮え滾るように熱い。


 燃えるような、どろどろとした何か。


「――よう、兄弟。良い呑みっぷりだな」


 と、二杯目のエールを頼もうとしたところで、隣の席に痩せた男が腰を下ろす。


「……あんたか」


 いつもの男だった。陰気な顔をしたボリスは、いつものように、カウンターの下で金属のケースを手渡す。


「ハハッどうした、随分とシケた面じゃねえか」


 そう笑いつつ、男がすっとボリスの前に革袋を置いた。馴れ馴れしい様子の男を半ば無視するように、ボリスは黙って袋の中身を確認する。


 いつもより軽い。中を見ると、鈍い銅と、僅かに銀の輝き。


「!」


 だがよくよく確認すれば、それは銀貨ではなく、ただの小銀貨であった。


「…………」


 やはり合計すると、銀貨一枚には、ギリギリ満たない。


 そんな量。


「どうした、それだけじゃ不満って顔だな?」


 耳元で、意地の悪い声。はっとして横を見やれば、痩せた男がニヤニヤと陰険な笑みを浮かべていた。


「そっ、そんなことは、」


 誤魔化すようにエールのジョッキを手に取り、しかしすぐにそれが空であることに気付く。


「……そんなことは、ねえよ……」


 俯いて、小さく呟いたボリスであったが、そのジョッキを握る手が、力のこもる余り白くなっているのを、隣の男は見逃さなかった。


 ふっ、と薄い笑みを浮かべた男は、指先でとんとん、とカウンターを叩く。


 ちゃりん、と銅貨が数枚、ボリスの前に置かれた。


「――付いてきな、ボリス」


 そう、短く言って。男が席を立ち、酒場を出て行く。


 呆気にとられた顔で、その背中を見送ったボリスは、固まったまま。


 しかしすぐに、目の前の銅貨が酒代であることを察し。


 そして、この『仕事』に携わって以来、初めて男から『名前』を呼ばれたことに気付き、ガタガタと慌ただしく席を立った。




「遅いぜ、まさか俺が待たされるとは思ってなかった」


 酒場の外、壁に寄りかかるようにして、皮肉な笑みを浮かべる男。


「す、すまねえ、ちょっとびっくりしちまって、う、動けなかったんだ。すまねえ、ほんとにすまねえ」

「……ふっ。まあいいさ」


 しどろもどろに謝るボリスに、鼻で笑った男は、「付いてきな」と再び歩き出す。ボリスは黙って、その背中についていった。


「…………」


 沈黙。ただ、カツカツと、靴の踵が石畳を打つ音だけが響く。


 ――本来、あの酒場は。


 サティナの街の暗部、ならず者たちが集まって、互いで互いの声を打ち消し合い、聞かれると少々都合の悪い話をするために設けられた場所だ。


 それを。


 こうやって、さらに外へ連れ出されるということは。


「…………」


 ボリスは、自分の胸の内に、恐れとも期待とも知れぬ、不思議な高揚感が広がっていくのを感じた。


「……俺もさ、」


 歩きながら、前の男が唐突に口を開く。


「昔は、『運び』をやってたんだ。今のお前みたいにな」


 そこで足を止め、街の片隅、暗い路地の一角で壁にもたれかかる。


「だから、大体お前がどんなことを考えてんのかは、分かる。『銀貨一枚は安すぎないか?』『俺の命の値段はそんなものなのか?』……と、まあ、こんなところだろ」

「……っ」


 楽しむような、それでいて、どこか試すような口調に、ボリスは言葉を詰まらせた。


 そしてその沈黙は――どこまでも雄弁な肯定。


「……そう硬くなるなよ。別に責めてるわけじゃねえんだ」


 にやにやと。男が顔に張り付けた笑みは、相変わらず意地が悪い。しかしすぐにその笑みを引っ込めて、男は鋭い表情で言い放った。


「はっきり言うが、ボリス。お前の命の値段は銀貨一枚以下だ」


 そのあんまりにもあんまりな言い様に、ボリスは言葉を失う。しかしそこで、「ただし、」と男は言葉を付け加えた。


「――それには、『今のお前の』、という条件が付く」


 懐から金属製のケースを取り出し、ひらひらとそれを見せつけるように、振る。


「これはな。お前がどう思ってるかは知らないが、マジで頭の中から理性を吹っ飛ばすような、ヤバい代物なんだ。そんじょそこらの組織がチマチマと運んでる、チンケな『粉』とは格が違う。――なんつったって、たったこれだけの量で、金貨一枚に届こうかって値が付くんだからよ」

「金……ッ!?」


 がこん、とボリスの顎が落ちた。全く、想像の埒外の高値。庶民ならば十年は食っていける額。金貨一枚、金貨いちまい、きんかいちまい、その言葉が脳髄に沁み渡り、自分がそれを運んでいたという事実に、今更のように背筋が震えた。


「だが、お前の手取りは、銀貨一枚以下だ。なんでだか分かるか?」

「……わ、わからねえ」


 真っ直ぐに瞳を覗きこまれ、ボリスは熱に侵されたかのようにただ首を振った。


「教えてやるよ。それはな、必ずしもお前である必要がなかったからだ。これを運ぶのがな」


 その言葉を、口の中で反芻する。反芻する間にも、男は言葉を続ける。


「ボリス、お前は確かに、命を賭けてる。だがな、その『命を賭ける役』は、必ずしもお前である必要はないんだよ。命を賭ける、そいつぁ大したことだ。しかし覚悟さえあればガキでも出来るような仕事だ、違うか?

 それよりももっと重要な仕事がある。例えば、衛兵を買収するのは誰だ? 運ばれたブツを安全に売り捌くのは誰だ? さらに言うなら、そもそも『これ』を生産してるのは? それをサティナまで運ぶのは? 全体の行程を管理するのは? そもそもの資金を提供するのは? ……考え出したらきりがねえ。もしこれらを全部一人でこなせたら、ボリスよ、お前は金貨を独り占めできるぜ」

「……む、むりだ。そんな……そんなことを、独りでだなんて……」

「そう、無理だ。だから分担してやるしかない。そしてお前は、その末端、一番どーでもいい仕事をやってたんだよ」

「そんな……」


 男の容赦ない言葉に、怒りとも、哀しみとも、虚しさとも知れぬ感情が、込み上げて、胸の中で、ごちゃごちゃになっていく。


 途方に暮れたように俯くボリス、それをよそにケースを懐にしまった男は、代わりに平たい金属製の酒瓶――スキットルを取り出し、蓋のコルクを抜いた。


 きゅぽんっ、と小気味の良い音。酒瓶の中身を一口、口に含んだ男が、「お前もどうだ?」と差し出してくる。


 渡されるままに、ボリスも瓶を傾けた。そして中の液体が舌に触れた瞬間、思わず目を見開く。


「……美味い」


 ぽつりと。呟く言葉と共に、芳醇で、鼻の奥にすっと抜ける、甘いアルコールの香り。


 久しく口にしていなかった、上等な酒の味。


「ボリス。お前は今まで、糞つまらないどーでもいい仕事をやってきた」


 酒瓶を取り戻し、蓋を閉めた男が、


「だが、それも今日で終わりだ」


 真っ直ぐに、ボリスを見つめる。


「――組織は、この街から手を引くことを決定した」

「えっ!?」


 男の言葉に、ボリスはがつんと頭を殴られたような衝撃を受けた。


「そっ、それは、ほっ本当に――」

「しっ、でかい声出すんじゃねえ馬鹿」


 顔をしかめる男に、慌てて口を押さえるボリス。


「……いいか、よく聞け。正直、最近のサティナの警備は厳しすぎるんだ。買収やら何やらでどうにかやり繰りしてるがよ、はっきり言って割に合わねえんだわ、この街」

「……それは、たしかに、わかるが」


 ――なら、自分はどうなるのだ。


 まだ、借金の返済は終わっていない。自分の分け前に多少の不満はあったが、それでもこの仕事がなくなれば困る。


 まるで足元の地面ががらがらと崩れ去っていくような、そんな感覚。


「というわけでだ、ボリス。お前、うちに来い」


 しかし、続けざまに投げかけられた言葉に、ボリスの思考は完全に停止した。


「……へ? 来いって、それはつまり……街を出ろと? なんで?」


 理解が追いついた瞬間、頭をよぎったのは、喜びではなくむしろ当惑。なぜ自分が? という、信じきれない、信用しきれない、そんな疑念を伴った黒い感情。


「お前に見込みがある……というと、はっきり言ってかなり語弊がある。正直そこまで甘い話でもないんだが、」


 そう前置きして、男は肩をすくめた。


「ボリスお前、気付いてねえのか。今回で10回目なんだよ、お前が仕事をこなすのは」

「……言われてみれば」

「今まで散々やらせといて何だが、この仕事は生存率が低い。実はお前以外にも運び人はいたんだが、何人かは捕まってな、」


 さっ、と親指で首を掻き切る動作。ボリスの顔から血の気が引いた。


「まあそういうわけで、運にせよ実力にせよ、お前は栄えある10回目を生き延びたという実績があるわけだ。――これが理由の一つ。次に、そこに至るまで、仕事の秘密を保ち続けた――という信用が一つ。そして最後、これが一番重要なんだが、」


 にやり、と男は意地の悪い笑みを浮かべ、


「『ウチ』のことを知ってる奴を、このまま放置なんざ出来ないんだわ」


 その言葉の意味を理解したとき――ボリスの顔は紙のように白くなった。


「……提案、というより、命令か」

「拒否権はあるぜ? 酷く高くつくけどな、割に合わねえ話さ」

「しかし……俺には、借金が……」

「踏み倒しちまえ、そんなもん。今更なんでそんな真面目なんだよ」


 ボリスは黙って、頭の中で考えを巡らせる。


 そもそも、ボリスがこの街を離れられなかったのは、持ち家があるという事実と、イマイチな矢作りの腕しかなかったのが原因だ。

 借金を踏み倒して逃げようにも、中途半端な職人の腕前では、人脈のない見知らぬ街では生きていくことはできない。


「……次の街でも、俺は運び人なのか」

「いいや。もうちっとまともな働き方をしてもらう。……具体的には、まあ俺の仕事の見習い、手伝い、雑用、そんなとこだな」


 簡単だろ、と笑う男。意地の悪い、しかし厭らしさはない笑み。


「……ほ、本当か」


 10回も、薄氷を踏む思いで命を賭け続けてきたボリスからすれば、それは、


「……信じられねえ、やりたい、俺はやりたいッ」


 まるで、天国のような話だった。


「よし。……とはいえ、まだすぐの話じゃねえ。早くても一週間後くらいだ、それまでに諸々、身の回りの整理はしておきな」

「お、おう!」


 興奮に身体を震わせるボリスに、しかし、男は「ああそうだ、」と思い出したかのように、


「……忘れてたわ。もう一つだけ、簡単な仕事がある」

「…………」


 動きを止めて、胡散臭げな表情をするボリス。


「いや、そんな顔するなって。『運び』に比べりゃカスみたいな仕事さ」

「……というと?」

「実はな。さるお方に納品する予定だった奴隷のガキがよ、この間死んじまったのよ」

「……奴隷?」


 薬関連ではなく、唐突に飛び出た『奴隷』という単語に、首を傾げるボリス。


「ウチでは奴隷も扱ってんのさ。……もちろん、非合法のやつな。んでまあ、これが結構急な話でよ、納品するのに代わりの奴隷が必要なんだが、」


 んふぅ、と鼻で溜息をついた男は、そこで表情を曇らせる。この男の、貼り付けたような笑顔以外の表情は初めて見たな、とボリスはそんなとりとめのないことを考えた。


「その『さるお方』ってのが、……早い話が、変態でよ。器量良しのメスガキじゃねえと、満足できねえタチなんだわ。器量良しの『女』なら幾らでもいるんだが、ガキは今手元になくてな……というわけで、今度スラムへ人狩りに行こうって話なんだが、お前も来るだろ?」


 まるで、ピクニックにでも誘うような、気軽な口調。



 それは確かに――非合法ではあるが――麻薬の密輸に比べれば、『カスみたいな仕事』であった。



 が、しかしその話を、ボリスは途中から、殆ど聞いていなかった。



 頭の中に浮かんだのは、それは――



 光り輝くような、幸せそうな、とある家族の――



「…………」


 沈黙したままのボリスに、男はにやりと、意地の悪い笑みを、


「どうしたボリス、そんな悪い顔して」

「……その、メスガキってぇのは、」


 昏い目は、どす黒く汚れ、濁っている。


「メスガキってぇのは、スラムで探さなきゃならねえのか?」

「……薄汚れた物乞いのガキの顔を、イチイチ確認すんのは手間だからな。別にスラムには拘らねえぞ?」



 その返答に――笑みを一層濃くしたボリスは、「へ、へへ」と、引きつったような声を上げた。





「――心当たりがある」





 夜は、更けていく。



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