16. 公平


 さらさらと。


 小川のせせらぎが、耳に心地よい。


 穏やかな昼下がりの陽光。照らされた水面はきらきらと美しく。


 木立を吹き抜ける清涼な風が、さわさわと葉擦れの音を運んできた。


 兜を脱いだケイは、木陰に腰を降ろして、ふぅ、と小さく溜息をつく。



 タアフの村を発ってから、はや数時間。



 超過重量で辛そうなサスケの体調を鑑みて、ケイとアイリーンは木立でしばしの休息を取っていた。


 川に首を突っ込んで、がぶがぶと水を飲んでいたサスケが、「ぷはぁッ!」と盛大に一息をつく。それを尻目に、ケイはバックパックをごそごそと探り、包み紙の中から堅焼きのビスケットを取り出してぼりぼりとかじり始めた。


「はぁ。……さすがに三、四時間も乗ってると、キツいなぁ~」


 ケイの隣、木の根っこに腰かけたアイリーンが、首をゴキゴキと鳴らしながら大きな溜息をつく。


「そうだな。……流石にダレてきた」


 水筒の水でビスケットを飲み下し、ややげっそりとした顔でケイ。どちらかといえば、「かったるい」というニュアンスのアイリーンに対し、ケイの言葉は少々切実だ。



 タアフの村から今まで、何事もなかった。



 かれこれ数時間、小川を辿るようにして東へ進んでいるが、右手には森、左手には草原を望む田舎の道は、驚くほどに穏やかで、のどかだった。


 通行人は、時たま森の獣や草原の兎を見かけるくらいのもので、行きずりの旅人や隊商に出会うこともない。一度、タアフよりも貧相で小さな規模の村も見かけたが、胡散臭げにこちらを見る住人に手を振っただけで、接触することもなかった。


 欠伸が出るほどに、平和で退屈な道のり。


 しかしこんな状況下でも、ケイは自分に予断を許さなかった。


 どんなに平和に見えても、森の中から唐突に、凶暴なモンスターが飛び出してくるかもしれない。茂みの暗がりに、草原の草陰に、盗賊や追剥が潜んでいるかもしれない。


 いつ、どこから現れるとも知れぬ敵に備えて、即時に矢を放てるよう、ケイは弓を手に警戒し続けていたのだ。


 少数での旅路に警戒が不可欠なのは、ゲーム内でも同じこと。しかしゲームでの移動時間は、どんなに長くてもせいぜいが一時間だったのに対し、ケイはもう三時間以上、神経を尖らせ続けている。


 背中側に座るアイリーンが後方を見張っているので、負担は幾分か軽減されているものの、殺気の感知はやはりケイの領分だ。いずれにせよ全方位に気を払う必要があり、しかも実際に、危険に曝されるのは自分たちの命となると、精神的な重圧もひとしおだった。


 流石にそろそろ、集中力が持たない。


 ゆえにこの休息は、サスケだけではなく、ケイにも必要なものといえた。ビスケットをかじる今も、ケイはもちろん警戒を続けているが、移動しながら次々と現れる地形に注意を払い続けるのと、一点に留まって周囲を警戒するのとでは、心理的負担が全く違う。


 ――あと十分ほど休憩したら、出発するか。


 小川の澄んだ水を眺めながら、ぼんやりと考えていると、横でアイリーンが立ち上がる気配。


「……ケイ、大丈夫か?」


 こちらを覗き込むように。視界に、アイリーンの心配げな顔が大写しになる。


「……問題ない。気を張ってたから、ちょっと疲れただけだ」


 はは、と小さく笑って見せると、「……そっか」と呟いたアイリーンは、表情を曇らせたまま木の根の上に座り直した。


 しばし、互いが互いの様子を探り合うような、そんな沈黙が流れる。


 なんとなく気まずくなってしまった空気を誤魔化すように、視線を泳がせたケイは、首元に垂らした白い顔布をそっと撫でつけた。


 それは、盗賊との戦闘で駄目になった元の一枚の代わりに、シンシアが出立前に贈ってくれたものだ。シンプルな白い布地に、一筋の赤い模様。彼女は裁縫が得意らしく、左端の頬にあたる部分には、赤い糸を使った可憐な花の刺繍が施してある。


 これで可愛い雰囲気になりますよ、というのはシンシアの言だが――たしかに、刺繍そのものはよく出来ており、とても可愛らしいのだが、一応は戦装束である顔布にチャーミングな装飾を施すあたり、何か独特な彼女のセンスを感じる。


 マンデルから忠告を受けた以上、ケイが顔布を使う時が来るとすれば、それは殆どの場合、対人戦闘を意味するのだが――。


 小さく溜息をついて頭を振ったケイは、薬液が乾いてパリパリになった頬の包帯を撫でながら、ちらりと横を見やる。


 木の根に腰かけるアイリーンは、足の爪先を伸ばしたり曲げたりしながら、頭上を見上げて木漏れ日に目を細めていた。風避けのマントに、刺繍の入った頭のスカーフ、さらさらと風に揺れるポニーテール。黒革の籠手に、革のベスト、ベージュのチュニックからすらりと伸びる脚は、"NINJA"の黒装束と脛当てに包まれている。


 手足の防具を着けている、背中にサーベルを背負っている、という二点を除けば、『余所行きに少しおめかしした村娘』という印象だ。しかし、そんな可憐な旅装束に、ケイはむしろ渋い顔をする。


「……なあ、アイリーン」

「ん? どした?」

「やっぱり、鎖帷子、着ておかないか?」


 革鎧の隙間から覗く鎖帷子を、じゃらじゃらと鳴らしてみせた。


 ――軽装過ぎる。


 ケイが今、最も懸念しているのは、他でもないアイリーンの防御力の低さだ。

 革防具はおろか、布防具と呼べるものすら着けず、普段着のままでいるのは余りにも無防備なのではないかと。言外にそう指摘するケイに、対するアイリーンはなんとも微妙な表情で答えた。


「……やめとく。重いし、サイズ合わないし、重いし、重いし……」

「いや、しかしなぁ。この間みたいに矢で射られたらと思うと……」

「アレは油断してただけだ! 今なら避けるなり弾くなりできるさ!」

「……本当か?」

「できるって!」

「……本当に?」

「なんだよその目は! いや、説得力がない自覚はあるけどさッ!」


 なんなら試してみるかウラーッ、とサーベルの柄に手をかけるアイリーンを「まあまあ」と落ち着かせながら、ケイは唸る。


 たしかに、アイリーンの技量ならば、視界圏内から飛来する矢に対応することは、そう難しくないだろう。それは『アンドレイ』の時代から付き合いがあるので分かる。受動感気パッシブセンスが苦手といっても、あからさまな攻撃は探知できるわけだし、見てから捌くなり避けるなりするだけの反射神経もあるはずだ。ケイが全方位に受動パッシブの網を張っており、アイリーンは一方向にだけ集中していればよい現状、よほどの事態でなければ遅れを取ることもないとは、ケイも思う。


 思うのだが。


「う~む、しかし、どうにも不安なんだよな……」

「気持ちはわかるけどさ……でもオレから機動力とったら、何も残らないだろ? 特に女の身体に戻ってから、さらに筋力落ちたっぽいし。体重も軽くなったみたいだから、ただ動く分には問題ないんだけどさ……」


 気だるげにゆっくり立ち上がったアイリーンが、「よっ」と身をかがめて垂直に跳び上がる。


 ふわりと。


 まるで重力を感じさせない動きで頭上の木の枝を掴み、くるりと逆上がりの要領で回転して、枝の上に降り立つ。


 ケイが足を掛ければ、確実に折れてしまうであろう細さの枝。しかしアイリーンは、僅かに木の葉を揺らしただけだった。


 アイリーンの身体能力の秘訣は、何と言ってもその体重の軽さにある。筋力の強さの割に、体重が異様に軽いのだ。


 キャラクターの『生まれ』は細身な体格の『森林の民』を選び、三つの紋章枠のひとつをどマイナーな『身体軽量化』で潰してまで減量、さらに『身体強化』『筋力強化』の紋章で最低限の筋力を確保し、各種戦闘系のマスタリーによって運動能力の底上げを図る。


 そうして誕生したのが、極限までに機動力に特化した軽戦士、"NINJA"アンドレイだ。防御はまさしく紙そのものだが、身軽さにおいては他の追随を許さぬ、まさしく浪漫の塊。


 ゲーム内では、型にさえはまれば爆発的な強さを発揮するキャラクターであったが――しかし、話が現実となると、そうも言っていられなくなる。


「……ゲームの中なら、矢が刺さろうが腕がもげようが動けていたが……現実だとそうもいかないぞ」

「そりゃあ分かってるけどさ。でも仮に、防具のおかげで生き残れたとしても、重さのせいで逃げ切れずに捕まって嬲りモノ、なんてのは御免だぞ?」

「それは……まぁな。難しいところだ……」


 ぽりぽりと頭をかきながら、ケイは困り顔。だがそこで、アイリーンの『嬲りモノ』という言葉で、ふと考える。


 ――仮に、強盗や追剥の類がケイたちに襲撃を仕掛けるのであれば、ひと目で美人と分かるアイリーンよりもむしろ、ケイを優先的に攻撃するのではないだろうか。


 そして初日に遭遇した盗賊たちも、最初の一矢はケイに放ってきたことを思い出した。


(初撃がアイリーンに行かないんなら、機動力があった方がいいか……)


 不意打ちでも初手を凌げれば、アイリーンはその機動力で逃げ切れるし、撹乱や攻撃に回ることもできる。ケイは鎖帷子を着けたままなので生存率が上がる。


「……そうだな。身軽なままでいる方がベターか」

「うん、オレもそう思う」


 木の上で腕を組み、うんうんと頷いたアイリーンは、どこか視線を遠くして小さく溜息をついた。


「あぁ。……こんなことなら、"竜鱗ドラゴンスケイル"着けてくりゃ良かったなぁ……」


 "竜鱗鎧ドラゴンスケイルメイル"――飛竜の鱗を縫い付けて作る、今のアイリーンが装備できる防具の中で、おそらく最高の防御力を誇る鎧だ。布地をベースとしているため動きを阻害せず、鉄よりも堅牢な飛竜の鱗はしかし羽のように軽い。デッドウェイトが命取りとなる軽戦士にとって、それは最高の相性を持つ鎧といえた。


 飛竜の鱗は極めて貴重な素材なので、充分な量を確保できずに、『アンドレイ』は胸から胴の一部を守れる程度の鎧しか作れなかったが、それでも他の追随を許さないその性能から、どんなサイズであれ"竜鱗鎧"は軽戦士垂涎の一品であった。


 ゲーム内でアンドレイは、その鎧を後生大事に銀行に預けており、紛失ドロップの心配がない武道大会や特定のイベント以外では、決して持ち出すことはなかった。


 今の状況下であの鎧があれば、どれほど頼もしかっただろうかと、ケイは考える。


「こんな状況になるなんざ、予想できる奴はいないだろ。仕方がないことだ」

「まぁーな。その点ケイはラッキーだったな……良い弓持ってて」

「違いない。……どうだ、鱗取りに、"飛竜"でも狩りに行くか?」


 弓を持ち上げてケイがそう言うと、アイリーンは「ハッ」と乾いた笑みを返した。


「冗談。命がいくつあっても足りねーよ……。今のケイがあと100人と、オレが50人くらいいたら考えるかな。あと弩砲バリスタ投石機カタパルトが最低5機ずつは欲しい」

「それに水系統の純魔術師ピュア・メイジもな」

「あーそっか、魔術師も必要か……」


 無理だな……と。


 二人揃って遠い目をする。




 "飛竜"は、空飛ぶ宝の山だ。


 骨や鱗は防具に。


 牙や爪は武器に。


 眼球は高位の魔術触媒に。


 内臓は魔法薬や霊薬の材料に。


 中でも"飛竜"の血には、飲めば身体能力が強化されるという、プレイヤーが死亡しない限り半永久的に持続するバフ効果があるので、生産職から戦闘職まで全てのプレイヤーがその恩恵を求めてやまない。


 しかし、【DEMONDAL】のサービス開始から三年。プレイヤーの手による"飛竜"の討伐は、未だに片手で数えられる程度しか確認されていない。


 その数、僅か五頭。


 大手の傭兵団クランが連合を組んで討伐に成功した三頭と、【DEMONDAL】サービス開始二周年記念、三周年記念のイベントでそれぞれ討伐された二頭のみだ。


 何故、これほどまでに少ないのか――理由はいくつかあるが、最も大きいのは、まず"飛竜"が強すぎることだろう。


 でかい、空を飛ぶ、火を吐く。


 "飛竜"の特徴を端的に表せばこうなるが、その強さは、もはや凶悪というレベルではない。


 まず、"森大蜥蜴グリーンサラマンデル"並の巨体は、それ自体が既に凶器だ。さらに全身が最高の防具の代名詞たる"竜鱗"で覆われており、弱点らしい弱点といえば眼球や鼻の穴、鱗が存在しない口腔くらいしか存在しない。


 そこに加えて、飛行能力と、炎の吐息ブレスだ。


 "飛竜"は戦闘中、滅多に地上には降りて来ない。獲物が息絶えるか、腹にため込んだ可燃性の粘液が底を突くまで、目標の上空を旋回しつつブレスを浴びせ続けるという、その優位性を最大限発揮できる戦い方を好む。


 つまり、どうにかして"飛竜"を空から叩き落とさなければ、ブレスに蹂躙されるのみで、そもそも『戦い』にすらならない。


 そこで必要とされるのが、弩砲バリスタ投石機カタパルトといった攻城兵器だ。囮役が"飛竜"を射線上に誘い込み、投網やロープを投射して翼に絡みつかせ、地面に叩き落としてタコ殴りというのが、"飛竜"狩りの定石とされている。これは、落下時に大きなダメージを期待できるので、かなり有効な戦術だ。ある傭兵団クランが討伐した一頭に至っては、勢いよく頭から地面に突っ込んだ結果、首の骨が折れて即死したらしい。


 しかし、有効な戦術であるといっても、飛行中の"飛竜"に原始的な兵器を命中させるのは容易ではなく、そもそも命中したところで上手いこと翼が封じられる保証はない。攻城兵器の攻撃が不発に終わり、再装填を終える前に全てが焼き尽くされ、撤退せざるを得なくなった、というのはよく聞く話だ。


 そして、地に堕ちたところで竜は竜、翼が封じられても炎の吐息ブレスは健在で、その火力は地上戦においても如何なく発揮される。例え地上戦力が充実していても、水系統の魔術師の加護がなければ、全員仲良く消し炭にされて終わりだ。


 "飛竜"を引き付けられる優秀な囮役。


 対空弾幕を張るに足る十分な数の攻城兵器。


 攻城兵器を運用できるだけの人員。


 地上で"飛竜"と交戦する屈強な戦士団。


 "飛竜"のブレスを軽減できるだけの、豊富な魔力を持つ水系統の魔術師。

 

 そしてこれらを揃えられる組織力・資金力をもってして、ようやく、"飛竜"と戦うためのスタートラインに立てる。


 ワープ魔法やチャットの類が存在しない【DEMONDAL】では、まず頭数をかき集めて集団行動を取るだけでも一苦労だ。さらに、大勢のプレイヤーがお祭り気分で集う周年記念のイベントならばともかく、平時の"飛竜"狩りでは敵対組織の妨害や嫌がらせも予想され、道中では他モンスター("森大蜥蜴"、"大熊")や盗賊NPCなどとも遭遇しうるので、いずれにせよ一筋縄ではいかない。


 "飛竜"狩りを企画して、それを実行に移せるだけのプレイヤー集団は、ゲーム内にも数えるほどしか存在しないのが現状だ。


 加えて、ゲーム内のマップの探索が進むにつれ、【深部アビス】と呼ばれる森や高山の奥地で、老衰して死に場所を選ぶ"飛竜"の姿が確認されるようになった。狩りに大規模な戦力を動員するよりも、【深部】の探索に人員を割いた方がコスパが良いと判明したので、近年では"飛竜"狩りをわざわざ決行する傭兵団クランは減少傾向にある。


 余談だが、ケイの"竜鱗通し"の材料は、サービス開始三周年記念の"飛竜"狩りイベントで手に入れたものだ。


 普段はいがみ合う傭兵団クラン同士も、忌み嫌われるPKすらも、皆が手を取り合って一致団結し、果敢に"飛竜"に立ち向かっていくのがこのイベントの醍醐味だ。長年の確執を水に流し、同じ戦場に立つ戦友として助け合い、あるいは肩を並べて一心に剣を振るう。オンラインゲームの原点、ひとつの世界のプレイヤーとして共に戦う高揚が、連帯感が、そこにはあった――


 "飛竜"を倒すまでは。


 "飛竜"が息絶えると同時に、その連帯感にひびが入り、呆気なく砕け散って崩壊するのは、このイベントのお約束だ。


 「お友達ごっこは終わりだぜ」と暴れ出すPKたち、竜の血を飲もうと殺到するプレイヤーの群れ、それらを横殴りになぎ倒す弩砲バリスタ投石機カタパルトの砲弾。敵対組織に向けて攻撃魔術がぶっ放され、矢の雨が降り注ぎ、竜の上によじ登って意味もなく雄叫びを上げていたプレイヤーが飛来した投斧ハチェットに打ち倒される。


 そんな混沌とした空気をよそに、ケイは竜の血を口にし、翼の腱を剥ぎ取り、ついでに隣のプレイヤーをぶち殺して翼の皮膜を奪い取り、いつの間にか死んでいたアンドレイの遺体を担いで、その場から脱出することに成功した。


 それが、十日ほど前の出来事だ。幸いなことにイベント以降、ケイは一度も死亡していない。"竜鱗通し"の使用感を鑑みるに、竜の血の効能は、『こちら』の世界にも持ちこされているようだった。


(アイリーンの言うとおり、俺はかなりラッキーだったな……)


 ケイの元々の筋力では、"竜鱗通し"はどうにか実戦でも扱えるというレベルで、ショートボウのような気軽な運用は到底望むべくもなかった。


 竜の血の身体強化は死ぬまで有効だが、再受肉リスポーンの存在しない『こちら』では、それで十二分に役に立つ。


(俺は充分ラッキーだ……無い物ねだりをしても仕方がない、か)


 とりあえず今は、自分のできるベストを尽くそう、とケイはひとり頷く。



 結局その後、さらに十分ほどのんびりしたところで、ケイたちは再び出発した。



 サスケの背中に揺られながら、ケイはちらりと後ろを見やり、


「そうだ、アイリーン。次の町に着いたら、盾を買おう」

「盾? 何に使うんだ?」

「決まってるだろ、お前のためだよ。飛び道具対策だ」

「……え~」


 ケイは前方を見張っていたが、声だけでアイリーンの嫌そうな顔が容易に想像できたので苦笑する。


「いらねーよ、重いし……」

「邪魔な時は捨てればいいだろ」

「え~……」

「あとレザーアーマーも買おう、最低限の胸部だけ守るヤツ。お前の胸のサイズに合うのがあればいいな」

「んー、小柄な男向けのヤツなら、普通に使えると思う……って、だからいらねーっての!!」


 ぽこぽこと、抗議の拳が背中を叩く。ははは、と声を上げて笑いながら、ケイはひとり、弓を握る手に力を込めた。




          †††




 それから、しばらくして。


 相も変わらず、周囲への索敵に神経を擦り減らすケイに、見かねたアイリーンが、街道を北に外れることを提案した。


 曰く、小川を併走するように草原を突っ切って行けば道に迷う心配もなく、それでいて視界が開けるので、不意打ちを受ける可能性もぐっと減る、と。


 よくよく考えてみればその通りで、ケイたちは馬車を抱えているわけでもなし、必ずしも整備された街道の上を行く必要はない。


 アイリーンの助言通り道を北側に外れたケイは、草原の大地が描く緩やかな丘陵を眺めながら、しばしの心休まる旅路を満喫していた。



 ――しかし。



 安らかなる時は、唐突に終わりを告げる。


「あっ」


 後方を見張っていたアイリーンが、小さく声を上げた。「どうした」と振り返ったケイは、見やる。


 左手後方。距離は、五百メートルほどの彼方か。


 草原の丘を越えて、続々と姿を現す黒い騎馬。


 その数、八騎。


「…………」


 二人の沈黙が、緊張を孕んだ。片手で輪を作り、それを望遠鏡のように覗き込みながら、ケイはさらに目を凝らす。


 黒い騎馬を駆る者たち――細やかな紋様と、羽根飾りで彩られた革鎧。アジア系を彷彿とさせる濃い顔立ちには、独特なうねりを描く黒い刺青。何人かは、顔布を着けているようだった。


 間違いない。草原の民だ。


 不意に、脳裏にマンデルの言葉が甦る。



『――盗賊まがいの不義を働く草原の民もいると聞く』



 ぐっ、と内臓を掴まれたかのような不安感が、腹の奥底から湧き上がる。


 件の草原の民もケイたちの姿に気づいたらしく、数人がこちらを向いて、何やら言葉を交わしているのが見えた。


「……絡まれたら厄介だ。街道に戻るぞ」

「う、うん」


 こくこくと、アイリーンが不安げに何度も頷く気配を背に、ケイはサスケを加速させて街道の方へと手綱を引いた。


 ちらりと後ろを振り返ると、草原の民は、何故か、こちらへ馬首を巡らせ、


「なんか、追ってきてるんだけど」


 そう言うアイリーンの声は、微かに震えている。それをよそにケイの瞳は、彼らが矢筒の口の覆いを取り外しているところを、捉えた。


「…………」


 ハァッ、ハァッという、サスケの苦しそうな呼吸音が響く。


「……連中、なかなか良い馬に乗ってやがる」


 舌打ち交じりのケイの言葉は、苦々しい。度々、振り返って確認するごとに、少しずつ彼我の距離が近づいていた。サスケにかなり無理をさせているにも関わらず――やはり、超過重量が、不味い。


「オ、オレのせいだ、街道から外れようなんて、言ったから……」

「落ち着け、お前のせいじゃない」


 顔面蒼白なアイリーンに、間髪いれずケイは声をかける。


「街道にいたら、気付かずに奇襲されていた可能性もある。早い段階で見つけられて、むしろ良かったぐらいだ」


 口ではそう言うものの、本当にそうだったかは、分からない。


 ぺろりと唇を舐めたケイは、首に垂らしていた顔布をずり上げつつ、鋭い視線で周囲を見回した。顔布の赤い花の刺繍が、ひらひらと風に揺れる――。


 そしてふと、前方に生い茂る木立に目を止めたケイは、


「……アイリーン」

「っ、うん」

「前、見えるか。あの木立」

「うん」

「あそこで、悪いが、ちょっと降りてくれ」

「……えっ?」


 困惑の声。


「もちろん、置いてくわけじゃないぞ。サスケを楽にしてやりたくてな」

「戦うのか?」

「ああ。連中は、どうやらヤル気のようだからな」


 ふん、とケイが小さく鼻を鳴らすと、アイリーンは、「そうか、分かった、……分かった」と呟いた。


「オレは……どうする。隠れとけばいいのか?」

「そうだ。連中に気付かれないよう降りて、じっとしておいてくれ。あとは俺が何とかする」

「…………」


 アイリーンは、何も言わない。そうしている間にも、目の前に木立が迫る。


「そろそろだ、準備しろ。速度緩めるぞ」

「いや、大丈夫だ。速度はそのままで突っ切ってくれ」


 きっぱりとしたアイリーンの返答は、声こそは硬かったものの、それでも芯のしっかりと入ったものだった。


「お前が身軽でよかったよ、鎖帷子を着てなくて正解だったな」

「そーだろ? だから何度もそう言ってるじゃねーか」

「全くだ。次の町に着いたら、一杯おごるぜ、相棒」


 ケイの軽口に、アイリーンは「ハッ」と笑い声を返す。


「楽しみにしてるよ、相棒」



 がさりと、サスケが茂みを突き破り、木立に突入した。


 狭まる視界。


 木々の幹に、緑の葉に、ケイたちの姿が覆い隠される。



「行けッ」

「あいよッ!」


 たんっ、とアイリーンがサスケの背中を蹴り、空中に浮かびあがった。


 勢いもそのままに、革の手袋でしっかりと木の枝をつかみ、そのままくるりと身体を回転させつつ、ぱっと手を離した。


 水平方向の運動エネルギーを回転で相殺し、別の枝へと跳び移ったアイリーンは、体勢が安定すると同時に素早い動きで、さらに樹上へと登っていく。


(……見事だな)


 横目でそれを見送ったケイは、こんな状況下にあっても、感嘆の念を禁じえない。あれほどの勢いで跳び移ったにも関わらず、樹木は風にそよいだ程度しか揺れていなかった。この視界の悪さならば、ケイ並の視力でもない限り、絶対にバレることはない、と確信する。


 続いてケイが、鞍に括りつけられていた荷物を次々に取り外していくと、見る見るうちにサスケの足取りが軽くなっていった。



 木立を、抜ける。


 ぶわりと、広がる視界。


 何も遮る物のない、草原の大地。



 どうやら襲撃者たる草原の民は、ケイが木立の中に居座る可能性を考慮していたらしい、二手に分かれて木立を挟み込み、包囲するようにして前進していた。


 その数は、変わらず八騎のまま。アイリーンには気付いていないようだと、ケイはひとまず安心する。彼らは真っ直ぐに突き抜けたケイの姿を確認するや否や、小魚の群れがそうするように、再び合流して追いかけてきた。


 カヒュッ、カカヒュッカヒュンと、乾いた連続音。


 鈍い殺気を背中で感じ取り、弾かれるように振り返ったケイは、己の"受動感気パッシブセンス"の導くままに左手を振るう。


 パシッ、という音を立てて、ケイに命中するはずだった矢が、朱色の弓に叩き落とされた。他の矢は近くをかすめ飛びつつも、ケイ・サスケ両者とも害することなく、草原の大地に突き刺さる。


(――射かけて、来たな?)


 心の中で、問いかけた。


 こちらから、先制攻撃を仕掛けるつもりは、なかった。なぜなら、本当に敵かどうか、分からなかったからだ。


 しかし他でもない彼ら自身が、彼らの意志を、立ち位置を表明した。ならば、それに対する返答は、ひとつしかあるまい。


 ばくん、ばくんと、心臓の鼓動の音。熱い血潮が全身を駆け巡り、頭の中は燃え滾るようだった。それでいて世界は冷たく、鋭く、どこまでもフラットに収束していく。


 右手で、矢筒から一気に、三本の矢を引き抜いた。


 上体を逸らし、仰向けに寝転がるようにして、サスケの背に身を横たえる。


 遥か後方、天地逆転した視界の中で、ケイの瞳に八騎の敵が映り込んだ。



 迷いなど、在る筈もない。



 かき鳴らす、まるで楽器のように、左手の強弓。蒼穹に響き渡る死神の音色、三重奏。


 草原の民の戦士たちは、閃く銀色の光を知覚した。


 瞬間。


 先頭から順番に、三人が吹き飛んだ。


「――え?」


 呆気に取られた後続の、一瞬の思考の停止は、ケイに上体を起こし次の矢をつがえる時間を与えた。


「馬鹿なッ!」


 草原の民の一人、壮年の戦士が愕然とした表情で叫び、そしてそれが最期の言葉となった。馬の頭部を貫通した矢がその胸に突き立ち、馬上から身体を吹き飛ばしたのだ。


「ッ、散れェ――ッ!!」


 顔布で表情を隠した戦士のひとりが、逼迫した声で仲間たちに叫ぶ。動きに変化をつけなければ、ただのよい的であると。


 それとほぼ同時、カァンッ! と小気味よく響く、快音。


 弓の音を耳にして、慌てた顔布の戦士は乱暴に手綱を引いた。あるじの唐突な指示にも、よく躾けられた草原の民の馬は応える。身体を傾け、速度を殺さずに左へ転進、見事な回避運動を取って見せた。


 ――そして、そこへ吸い込まれるように、突き立つ矢。


 苦痛のいななきと共に崩れ落ちる騎馬、馬上から投げ出された騎手は、「えっ」とただ間の抜けた声を上げた。


 ――なんで。回避運動を取ってたのに。


 呆然としたまま、地面に勢いよく叩きつけられる。パキバキィッ、と派手に骨が折れ砕ける音、ごろごろと転がりながら後方へ、景色と共に流れ去っていく。


「そ、んな」


 一部始終を見ていた残りの戦士たちの全身から、どっと冷や汗が噴き出た。


 の回避であったにも関わらず、矢は狙いを違わずに、標的へ突き刺さった。


 これでは――これでは、まるで、未来が見えているかのようではないか。


 残りの三人ともが、得体の知れない恐怖に捕らわれて身震いする。


 だが、ケイからすれば、それは大したことではない、ただのテクニックだった。


 単純に、視たのだ。


 「散れ」と叫んだ直後、顔布の戦士の瞳が左へ動いたのを。


 そして手綱を握る左腕の筋肉が、右腕よりも先に硬直するのを。


 視線や筋肉の動きから、次の手を予測する。


 そんな、近接格闘ならば誰もが使うような技術を、ケイはただ単に、その強力な視力をもって、弓の射程範囲にまで拡張しただけに過ぎない。


 が、そんな理屈など知る由もない残りの三人からすれば、それは未知との遭遇、異次元の恐怖であった。


「クソッ、化け物めッ!」


 叫んだ一人が矢をつがえ、弓を一息に引き絞り、放つ。


 しかし、それはケイを命中することなく僅かに横に逸れ、代わりに反撃の一矢を呼び寄せた。ドパッ、と水気のある音を立てて首が千切れ飛び、血飛沫が吹き上がる。


「ヒッイィイイイィィィッッ!」

「だっダメだっ逃げ――ッッ!」


 残りの二人が泡を食って手綱を引き急制動をかけるが、反時計回りに旋回しつつ弓を構えていたケイに、それは悪手以外の何物でもなかった。


 カン、カァンと。


 それぞれの馬が体勢を整えるよりも速く。


 飛来した矢によって、二人の騎手の頭が弾け飛んだ。


「……こんなもんか」


 どちゃっ、と馬上から滑り落ちる遺体を尻目に、ぽつりと呟く。



 ケイが最初の一矢を放ってから、おおよそ二十秒。



 草原の民の襲撃者、八騎を相手取った戦闘は、終了した。



 しかしケイは、それでも気を抜かずに、馬上から、明らかに死亡していると分かる死体以外に、一本ずつ矢を打ちこんでいく。止めの一撃。前回、盗賊を逃がしてしまった反省からだ。例えひと目で瀕死と分かる状態であったとしても、確実に息の根を止める。


 また、生き残った馬も同様に、反抗的な態度、及び逃走の意志が見受けられた場合は、容赦なく射殺する。馬は賢い動物だ。下手に生かしたまま逃すと、草原の民の居住地まで戻って仲間を呼んできかねない。『こちら』に来たとき、離れ離れであったケイとアイリーンを、引き合わせてくれたミカヅキのように。



 淡々と、機械的に後始末を進めていたケイだったが。



 ある一人の草原の民の戦士を見て、その動きを止める。



 倒れ伏した愛馬の横で、地面にへたり込んだ一人の戦士――ケイが、回避運動を先読みして矢を命中させた、顔布の戦士だった。


 見れば、落馬の衝撃でやられたのか、右腕と左脚が、妙な方向にねじ曲がっていた。


 重度の骨折――しかし、死に至るほどではない。そんな状態。


 地面に座り込んだまま、痛みを堪えるように荒い呼吸で、涙目になりながらも戦士はキッとケイを睨みつけた。


「……女、か」


 ぽつりと。思わず、といった様子で、ケイの口から言葉が漏れる。



 顔布の戦士は、ケイよりも少し年下程度の、若い女だった。



 顔には当然のように、草原の民特有の、黒い紋様が刺青で彫り込まれている。しかし、それでも目鼻の作りがはっきり分かる、アジア系の濃い顔立ちの美人だった。よくよく見れば、革の胸当てを押し上げる胸のふくらみや、女性らしい曲線を描く腰つきが目に入る。


 ずぐん、と。


 血の匂いに麻痺した脳髄の奥で、何か痺れるような甘い感覚が鎌首をもたげるのを、ケイはおぼろげに自覚した。


「…………」


 恐ろしく無表情のまま、じっとこちらを見つめるケイに何を思ったのかは知らないが、身体を引きずるようにずるずると後退した女は、左手で腰の湾刀を抜き放ち、ケイに向けて構える。


 ふるふると揺れる刃先、ケイを睨みつける釣り上がったまなじりから、涙が一筋こぼれ落ちた。


「くっ……、こっ、殺せッ!」


 震える声で、叫ぶ。



 ――言われるまでも、ないことだった。



 我に返ったように。


 無言のまま矢をつがえたケイは、女の顔面に向けて無造作に一撃を叩き込んだ。


 ズチュッ、という湿った音を立て、矢じりが女の右目に深く深く潜り込む。耳と鼻から血を噴き出した女は、糸が切れた操り人形のように仰向けにひっくり返り、そのままカクカクと細かく身体を痙攣させた。命の残滓と呼ぶには、あまりに滑稽な姿。


 まるで酔っ払いでもしたかのように、ぐらぐらと視界が揺れている。戦闘時とは異なる、妙に大きく聴こえる心臓の鼓動。この、胸を締め付ける感覚が何なのか、判断しかねたケイは、ただ空を見上げて深呼吸を繰り返した。


「……ケーイ!」


 と、遠くから、アイリーンの声。弾かれたように前を見やれば、木立の方から、心配げな表情のアイリーンがぱたぱたと駆けてきている。


「……終わった、のか?」


 周囲に散在する死体を前に、青白い顔のアイリーンは、呟くようにして問うた。


「ああ。全滅だ」


 顔布の位置を直しながら、明後日の方向に目をやったケイは、簡潔に答える。


「そ、そっか……。うっ」


 風の向きが変わり、風下になったアイリーンに、鮮血の香りが一気に吹き付けた。口元を押さえ、思わず俯いたアイリーンが、さらに足元に転がっていた女の死体を見て目を見開く。


「……女?」

「……ああ。顔布をしてたから、そうとは気付かなかった。だから、手加減も出来なかった」


 目を逸らしたまま、ケイは早口でそう言った。


 アイリーンと目を合わせるのが、怖かった。


「…………」

「……俺は、他を見てくる」


 沈黙に耐えかねて、そそくさと、ケイは他の死体の場所へと移動し、物品漁りを開始した。金目の物を集めていると、数分としないうちにアイリーンが側にやってきて、近くの死体にしゃがみこんだ。


「……オレも、手伝う」

「いや、いい。アイリーンはしなくてもいい」


 紙のように白い顔のアイリーン。明らかに無理をしているのがバレバレだったので、ケイは軽い感じを演出しつつ、その提案を却下した。


「でっでも、ケイだけにやらせるなんて、そんな、」

「あー、それじゃあアレだ、馬が逃げないように見張っといてくれないか。サスケの近くにいるヤツら」


 もっしゃもっしゃと、近くで草を食むサスケを指差して、ケイ。サスケの周囲では、三頭の馬が尻尾を振りながら、サスケと同じように草を食んでいる。草原の民の乗騎の中でも、特に従順な性格の馬だ。


 この三頭は生かして連れて行くことにしたので、アイリーンにはその見張りを担当してもらうこととなった。


「……なあ、ケイ」

「ん?」


 草原の民の矢筒から質のいい矢を選別していると、アイリーンが声をかけてくる。


「何だ?」

「『こっち』の世界だと、女も、普通に戦うのかな」

「……さあな。分からん」


 分からない、としか言いようがなかった。真面目に答えるにはデータが少なすぎるし、今のアイリーンには、答えたくなかった。


「ただ、まあ……男だろうが女だろうが、死ぬときは死ぬんだろうな、『こっち』の世界は……」


 ケイが独り言のように呟くと、アイリーンは「そっか」と短く返した。




 最終的に、多数の質の良い矢に、まずまずの量の銀貨銅貨、そして装飾品など金目の物を手に入れたケイたちは、捕えた馬にも可能な限り生活物資や武具なども載せてから、再び東へ向けて出発した。


 ケイはサスケに、アイリーンは特に性格が穏やかな一頭に乗り、他二頭は荷物の運搬役に用いることになった。


 道中、あまり会話もないままに、街道に併走するようにして草原を突っ切ること、一時間弱。


 丘陵地帯から平地に移り、視界が開けてきたところで、巨大な川――"モルラ川"と、大きな城壁を持つ街が見えてきた。




 近隣の村々の生産物が集積され、多くの商人や職人でにぎわう街。




 ケイとアイリーンは、城郭都市"サティナ"に到着した。





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