15. 村人


 暑苦しいような、重苦しいような。


 何とも形容しがたい、不快な感覚。


 夢現ゆめうつつのぼやけた頭のまま、アイリーンは『それ』を振り払う。ぶよん、としたものに手がブチ当たり、「んごぉッ」と妙な声が聴こえた気がした。


「……ん」


 薄く目を開くと、木の梁が剥き出しになった天井が見える。ああ、そうか、自分は眠っていたのだと。頭の中、流れていく状況認識。


 ベッドの上、ゆっくりと上体を起こす。


 むにゃむにゃ、と寝惚け眼のまま、部屋の中を見回した。


「……お、お目覚めですか」


 そして緑のドアの前、額に脂汗を浮かべて畏まる小太りの男――ダニーと目が合う。


「……。!?」


 眠気が吹き飛んだ。


 ――なぜ、コイツがここにいるのか。


 寝室に、さほど親しくもない男が入り込んでいた、という事実。


 例えそれが家主であったとしても。違和感を伴った気味の悪さ。


 不意に、先ほど手にブチ当たった、ぶよんとした感触が甦る。


 ぞわりと、背筋に悪寒が走った。


「……」


 身体を守るようにシーツを掻き抱き、黙ったまま目つきを険しくするアイリーンに、さらに顔色を悪くしたダニーは「ちょ、朝食の用意はできております」と言ってそそくさと部屋から出て行った。


 ばたんっ、と扉の閉まる音。


 ほぼ同時、シーツをめくり、アイリーンは全身をぺたぺたと触って、何か異常はないか確かめた。


 ――大丈夫。


 特に異変はない。


「……何だったんだアイツ」


 思い出したように、両腕に鳥肌が立つ。


「……きもっ」


 生理的な嫌悪感。寒気を堪えるように、両腕をさすった。


 そわそわと、酷く落ち着かない気分になったアイリーンは、不安げに視線を彷徨わせ、窓の外を見やる。


 森の緑が目に入り、少し平静を取り戻すとともに、ふと「ケイに会いに行こうかな」と思い立った。


 ベッドから降りて、借り物の木靴を履く。木から削り出したシンプルなデザインのそれは、サイズが合ってないのでぶかぶかだったが、表面が滑らかに仕上げられているので履き心地は悪くない。


 あの、脂ぎった男が居間にいたら嫌だったので、アイリーンは緑の扉は使わず、窓枠を乗り越えて直接外へ出た。


 カポカポ、カポンと。


 木靴の音を立てながら、穏やかな陽光を浴び、土がむき出しの道を行く。


(……体が軽いな)


 歩きながら、アイリーンは昨日に比べ、明らかに体の調子が良いことに気付いた。自然と窓枠を乗り越えられた時点で気付くべきだったが、しっかりと足腰に力が入るのだ。


 ふふっ、と小さく笑みがこぼれ、自然と足取りも軽くなる。


(えーと、ケイは何処にいるんだっけ)


 確か――クローニンだかクローネンだか、そんな感じの名前の、村長の次男の家にいたはずだ。


 それは、憶えているのだが。


 彼の家が何処にあるのか、思い出す以前に、そもそも全く知らないということに気が付いた。


「……えーと、」


 どうしたものか、とその場でうろうろしていると、村の中心の方から、壺や革袋を抱えた女たちが歩いてくるのが見えた。姦しく響く話し声。


「……あら、アイリーン様。いかがなされたのですか、こんなところで」


 その集団の端、いつも通り柔らかな笑みを浮かべたシンシアが、アイリーンに目を止めて声をかけてくる。それに続いて他の女たちもアイリーンの存在に気付き、先ほどまでの姦しさはどこへやら、ハッとした表情で猫をかぶったように大人しくなった。


「ケイに、会いに行こうと思った、んだけど……。何処にいるか、分かんなくって」


 面と向かって問われると、なんだか、ただ「ケイに会いに行く」というのが、気恥ずかしく感じられた。アイリーンは目を泳がせて、しどろもどろに答える。


 その、何とも初々しい雰囲気に、村の女たちが「あらぁ~」とはやし立てるような声を上げ、さらに羞恥心を煽られたアイリーンは自分の頬がかぁっと熱くなるのを感じた。


「あっ、ケイ様でしたら、うちに!」


 そんな中、「はいはいはい!」と元気に手を上げたのは、そばかす顔の若い女だ。


「あなたは?」

「クローネンの妻の、ティナです!」


 水の入った壺を抱えた、そばかす顔の女――ティナは、アイリーンにぴょこんと一礼して見せた。


 我が家はこちらになります、というティナに連れられて、カポカポと村の中を歩いていく。案内されてみれば、クローネンの家は拍子抜けするほどに近かった。「狭い家ですが、どうぞ」と中へ招き入れられる。


「ケイ様は、早朝に狩りに出かけられたようです。でも、もう日も高いですし、そろそろお戻りになる頃かと」

「そうだったんだ」


 居間に通され、テーブルの席に着いたアイリーンは、さりげなく部屋の中を見回した。ティナの言葉通り、村長の家に比べればやや手狭で質素だが、板張りの床には塵ひとつ落ちておらず、かなり清潔な印象を受ける。


 これなら裸足で歩いてもいいな、などと思いながら、テーブルの下でカポカポと木靴を動かして暇を潰した。そんなアイリーンをよそに、ティナは壺の水を鍋へ移して、かまどで火を起こして、と何やら忙しそうだ。


「――今、お茶を淹れますので」

「ああ。ありがとう」


 乾燥ハーブの束を手に微笑みかけるティナに、彼女が自分のためにお湯を沸かそうとしていると気付き、アイリーンは軽く会釈して礼を言う。


「……」


 しばしの沈黙。ぱちぱちと、かまどの焚き木が弾ける音だけが響く。


 テーブルに肘をついてぼんやりとしていると、頭に浮かぶのはやはり、先ほどの『アレ』だった。


 脂ぎった男の顔が脳裏をよぎり、すぐに消え、代わりに柔らかで線の細い、慈しむような微笑みが思い起こされる。


「……なんでシンシアさんは、結婚したのかな」


 ぽつりと、率直な疑問が口を衝いて出た。


 シンシアとダニー。少なくとも、見かけだけでいえば、到底お似合いとはいえないような夫婦だ。ダニーにそれほど人間的な魅力があるとも思えないし、その美しさから引く手数多だったであろうシンシアが、なぜ、よりにもよってダニーと結婚することを選んだのか、純粋に疑問だった。


「あ~……義姉さんは、色々と気の毒ですよね」


 アイリーンの独り言に、したり顔のティナ。


「気の毒?」

「望んだ結婚ではないんですよ。殆ど身売りみたいなもんです」

「……というと?」


 僅かな興味の色を覗かせて小首を傾げると、「ここだけの話ですよ」という常套句で声をひそめたティナは、


「もう十年近く前の話になりますけど。義姉さんの妹さんが、熱病にかかってしまったんです。街に行けば治療薬は手に入ったんですけど、それが物凄く高価で……。義姉さんの家は裕福じゃなかったので、どうしたものか困っていたところに、あの男が、」


 ティナの『あの男』という言葉には、かなり棘があった。


「――『助けることもできるんだがなぁ』なんて、金をちらつかせながら言い出したんですよ。その時、義姉さんには、両想いの恋人がいたことを知りながら!」

「……へぇ、それは」


 つまり、妹を救うために、恋人を捨ててダニーの元へ嫁いだということか。


 うーん、と唸り声を上げたアイリーンは、眉をひそめて何とも居た堪れない表情を浮かべた。


「……それで、その妹さんは、助かったの?」

「……はい。


 頷くティナの顔は、渋い。


「でも病気が治って一か月もしないうちに、森の外れで運悪く獣の群れに襲われて、亡くなりました」

「うわぁ」

「しかも、それを知っての第一声が、言うに事欠いて『金が無駄になった』ですよ。それも義姉さんの前で……あの豚野郎」

「ぶ、豚……」


 直球だが的確な言い様。不覚にもツボに入ったアイリーンは一瞬、顔をひきつらせる。

 それにしても、シンシアを義姉と呼ぶならばダニーは義兄なわけだが、ティナは随分と彼を嫌っているようだ。


「……彼のこと、嫌ってるんだ」

「そりゃもう! この村でアイツが好きな奴なんていませんよ!」


 腰に手を当てたティナは、ぷんぷんと擬音が聴こえてきそうな勢いで頬を膨らませた。


「いつも偉そうに人を顎で使ってくるし、その割に自分は仕事しないし! 家に閉じこもってばかりで、たまに外に出たかと思えば、ただぶらぶら散歩してるだけだったり、街に遊びに行ったり。しかも話によると娼館通いしてるらしいですよ、金で義姉さんを娶った癖に……。義姉さんには気の毒だけど、子供がいつまで経っても出来ないのも、みんな天罰だって言ってます」


 そこまで早口で言ってから、ティナは小さくため息をついた。


「はぁ。将来、あれが村長になるのかと思うと、気が重い……いっそのこと、ウチのダンナが村長になってくれたらいいのに」


 ぷすーっ、と息を吐くティナの言葉に、アイリーンの表情が渋いものとなる。


 金で買った婚姻。嫌われ者。娼館通い。


 アイリーンの中で、ただでさえ印象最悪だったダニーの評価が、さらに下降していく。そして、自分は少なくともあと一日、この村に――村長の家に――留まるという事実が、ずっしりと心にのしかかってきた。


「あの、ティナさん」

「はい?」

「実は、ここだけの話、」


 声をひそめたアイリーンは、先ほどの『アレ』を、ティナに打ち明けた。


「ええッ!?」


 ダニーが部屋に居た、というくだりで、目を見開いて顔を青ざめさせたティナは、


「だだだ、大丈夫だったんですか!?」

「多分……。何もされてないと思うけど……」

「何か、どろどろしたものとか、かけられてませんでした?!」

「そ、それも多分大丈夫……」


 うええ、と顔をしかめながら、アイリーンは首を振った。


「はぁ~まさかあの豚、客人にまで……?」


 頭痛を堪えるように、額を押さえたティナ。光彩の開いた瞳で、ゆらりと、台所の肉切り包丁を見やる。


「いっそのこと……そうだわ、そうすればクローネンが村長に……」

「いっ、いや! 個人的には、ただ泊まる家を変えられないかなって……!」


 打算と欲望の色に瞳を濁らせ始めたティナに、アイリーンは慌てて声を上げた。「いやですねー、冗談ですよー」と朗らかな笑みを浮かべるティナだが、冗談なのか本気なのか、なかなか判断に迷うところだった。


 と、そのとき、ばたんと音を立てて外への扉が開かれる。


「おーいティナ、いるか――って、あれ」


 草刈り鎌を手に、手拭いで汗を拭きながら家に入ってきたのは、クローネンだった。居間の椅子にちょこんと腰かけるアイリーンに目を止めて、ぱちぱちと瞬きしたクローネンは、


「……なんでウチに姫さんが?」

「あなたぁいいところに! ちょっと聞いてよ、酷いのよ!!」


 ぷふぁぁっと振り返って目を輝かせたティナが、獲物に食らいつく猟犬のように距離を詰め、ことの顛末を説明する。


「――と、いうわけなのよ! あなた、これはチャンスよ!」


 ティナは鼻息も荒く、


「徹底的に糾弾して、アイツを次期村長の座から蹴落としてやりましょう!」

「…………」


 頭痛を堪えるように、ぺしっと額を押さえ天を仰いだクローネン。小さく溜息をつき、無言のまま、ティナの額をスコーンッと草刈り鎌の柄で叩いた。


「あだぁッ!?」

「……すまない、姫さん。ちょっと待っててくれ」


 申し訳なさそうなクローネンは、額を押さえて「うごぉぉぉ」と呻くティナの腕を掴み、そのままずるずると家の外まで引きずっていく。


「あ、うん……」


 ひとり、残されたアイリーンは、半ば呆然としたまま。


「……あ、お湯沸いてる」


 しゅーしゅーと、鍋の蓋から吹き出る湯気の音だけが、静かに響いていた。




         †††




「ちょっと、痛いじゃない、何すんのよ!」

「静かにッ、あんまりでかい声を出すな!」


 家の外。声を荒げるのは、額を赤くしてお冠のティナに、負けじと彼女を睨みつけるクローネンだ。


「頼むから、あんまり騒ぎを大きくしないでくれ……!」

「なんでよ、千載一遇のチャンスだわ!」

「チャンス? チャンスだと!」


 はっ、とクローネンは乾いた笑みを浮かべた。


「姫さんはともかくとして、あのケイとかいう男は化け物だ! 下手にことを荒立てて、怒りを買ったら何をされるか分からん!」

「豚野郎に全部かぶって貰えばいいじゃない、別にアイツが殺されたってわたしは構わないわ」

「お前な……!」


 ティナのあんまりな言い様に、思わずクローネンは顔を引きつらせる。


「あんなのでも一応、俺の兄貴なんだぞ!」

「知ってるわよ! わたし、貴方のことは好きだけどあいつは嫌いだわ。大嫌い」


 ぷい、と顔をそむけるティナ。


 幼少期、両親の生業である養豚を手伝っていたティナは、当時ガキ大将だったダニーに幾度となく『豚臭い』とからかわれて泣かされており、今でもそれを相当根に持っている。ただの農民の癖に、水浴びや掃除が潔癖症一歩手前まで習慣化してしまったのも、そのせいだ。


「お前が兄貴を嫌ってることは知ってる。だがそれとこれとは話が別だ、兄貴が死んだら誰が村長を継げる!?」

「……っあなたよ! あなた以外に誰がいるっていうの!?」


 信じられない、と言わんばかりに頬を紅潮させ、声を裏返らせるティナ。しかし対するクローネンの表情は、げっそりと、どこかうんざりしたように。


 ――自分には無理だ。


 その想いは、どこまでも苦々しい。


 クローネンは、自覚しているのだ。自分には、ダニーの代わりは務まらないと。


 たしかに、ダニーには人間的な欠点が多い。


 まず村の若年層には好かれていないし、女がらみとなると途端に理性を失くす節がある。その上、大飯食らいで、意地汚く、欲深で、守銭奴。そして何かにつけて尊大な態度を取り、それに反感を抱く村人は、実際のところかなり多い。


 "自分でも、村長は務まる"


 "むしろ、皆に慕われている自分の方が、ダニーよりも村長に相応しい"


 そう考えていた時期が、クローネンにもあった。周囲の友人に持ち上げられ、調子に乗っていたのか。あるいはダニーは嫌われているという事実が、背中を押したのか。それとも単純に、ダニーを村長に推し、自分には目もくれない父親ベネットへの反発心だったのか。いずせによ、クローネンは成人するまで、自分の方がずっと村のまとめ役に向いていると、そう信じて疑っていなかった。


 しかし本格的に、村の運営に関わる仕事に触れたとき。


 おのずと、悟ってしまった。


 片や、幼い頃より、書物や商人たちの話から見聞を広め、ずっと勉学に励んできたダニー。


 片や、勉学を放り出し、友人たちと一緒に野山を駆けずり回って遊んでいた、自分。


 頭の地力が、知識量が。


 余りにも――違いすぎた。


 たしかにクローネンには、読み書きや計算の素養がある。怠けて途中で放り出したとはいえ、椅子に無理やり縛り付けられるようにして、ある程度の教養をベネットから叩き込まれていたからだ。


 ゆえに税の計算や帳簿の管理など、村長として要求される最低限の業務は、こなすことができる。


 しかしそれはあくまで、『最低限』。村の代表として、もっと重要な業務は他にある。


 例えば、商人から適正価格で商品を購入したり。


 あるいは、村の生産品を適正価格で販売したり。


 また、それらをこなすための人脈を開拓したり。


 知識も、経験も、咄嗟の機転も、全てが足りないクローネンには、上手く出来ないようなことばかりだった。しかし、そんな煩雑な仕事を、ダニーはまるで商人のように難なくこなす。


 それを間近で見せつけられたクローネンは、己の不甲斐なさに、そして兄との決定的な能力差に、ただ、打ちのめされた。


 しかも。それをこなした上で、ダニーは金策も忘れていなかった。


 行商人たちの話から、あるいは街の片隅でのさり気ない会話から、拾い上げた情報を分析・統合し、市場の傾向や物価の動向を予想する。


 そして農作物の作付けを調整したり、価格が高騰しそうな物品を買いしめたり、流行り病を察知してあらかじめ薬を準備したり――そういったダニーの情報処理能力は、クローネンからすればもはや、異次元の領域であった。


 "商人の家に生まれていればよかった"


 ある日、ダニーがぽつりとこぼした言葉だ。ダニーには確かに、商才がある。それは、ただの田舎村の村長として使い潰すには少々惜しいと、クローネンも心底からそう思えるほどに、素晴らしい才能だ。


 仮に、長男でなければ。あるいは、ベネットに教え込まれた、次期村長としての責任感がなければ。


 ダニーは商人として独り立ちし、とっくの昔に村を去っていたかもしれない。しかし現実には、彼は彼なりに村のことを思って、タアフの地に留まっている。


 タアフの村は、近隣の村に比べて、豊かだ。


 質の良い農具に、酒や甘味などの嗜好品。いざという時のためには、様々な種類の薬も揃っているために、急な病気や怪我にも対応でき、村人を死なせずに済むことが多い。


 物質的に、精神的に、ゆとりのある生活。しかしこの『豊かさ』は、その殆どがダニーの手によるものであることを、クローネンは知っている。彼が稼ぎだした金が、それらを買うのに充てられているところを、すぐ傍で目の当たりにしてきたからだ。


 そしてベネットからダニーへ、代替わりを見守ってきた村の年寄たちも、それを分かっている。ベネットの代よりも、明らかに向上した生活水準。決してベネットが無能であったわけではない。ただ、『金を稼ぐ』という一点において、ダニーがベネットの追随を許さぬ才能を発揮しただけのこと。それらが分かっているだけに、ダニーの尊大な態度を受け入れ、彼が村長となることを支持しているのだ。


 それだけの権利が、実績が、ダニーにはあると、認めているから。


「……俺には、無理だ」


 クローネンは、ゆっくりと首を振る。


「俺には、兄貴の代わりは務まらない」

「なんで!? あなたなら出来るわ、わたしも手伝うし、皆もあなたの方が良いって言ってるし――!」

「そういう問題じゃない」


 本当に、単純に、能力が足りていないのだ。いくらティナが手伝おうと、皆が協力してくれようと、それは埋めようのない差だった。


 あるいは。


 皆のまとめ役として、クローネンが形だけの村長として収まり、ダニーが裏方として働く、という形が構築できれば、それは理想的であるのかも知れない。


 しかし、それはほぼ確実に実現しないだろうと、クローネンは思う。


 なぜなら、ダニーは『村長になるために』、この村に留まっているからだ。幼い頃より次期村長として育てられたダニーは、『自分が村長になる』ということを、半ば当然と受け止めている節がある。それは責任感であり、ある種の諦念だ。その、『当然』という想いのみが、ダニーを村に縛り付けている。


 それが無くなれば、果たして、どうなるか。


 十中八九、ダニーは村を出るだろう。プライドの高い彼が、冴えない弟の陰で裏方に徹することなど、許容できる筈もないのだから。第一、村にしがみつかずとも、既に構築した人脈と自身の才能で、ダニーは商人として充分に食っていける。


 村に残る理由が、見当たらなかった。


 そしてダニーが出て行ったあとの村には、ただ頼りないクローネンだけが残される――。


 薬も酒も、いずれは無くなる。農具は買い替えなければならない時が来る。


 そのとき、新たにそれを調達するだけの金を、クローネンは捻出することができない。タアフの村は、再び近隣の村と同じ生活水準にまで、戻らざるを得なくなるだろう。決して貧しくはないが、豊かでもない。そんな暮らしに。


 それは――極力、避けるべきだ。


「だから、何度も言ってるだろう。お前が手伝ってくれたところで、どうにもならないんだ!」

「なんで……なんでそんなこと言うのよ! やってみなければわからないじゃない!」

「俺には分かるんだ! 俺とお前なんかが一緒に知恵を捻ったところで、兄貴の頭には敵わないんだよ!!」


 悔しげに顔を歪ませたティナに、クローネンはなんとも言えないもどかしさと、苛立ちを胸に募らせる。


 おそらくティナは、自分の夫が、よりにもよって自分が最も嫌いな男に、劣っているのが嫌なのだ。そしてただ劣っているだけではなく、それを本人が認めていることが、どこまでも気に食わないのだろう。だからこうやって癇癪を起こす。


 それが――クローネンには、どうしようもなく苛立たしい。


 ティナも含めて、村の若い衆の多くは、ダニーの功績を理解できない。理解しようともしない。


 尊大な態度。人使いが荒い。肉体労働をしない。


 確かにそれらは欠点でもあるが、その上っ面だけに目をやって、中身を全く評価しようとしないのだ。


 仮にクローネンが、いかにダニーが有能であるかを説明しても、彼らはただ感情に任せて、すぐさまそれを否定する。曰く、やれば自分たちにもできる。曰く、それほど大したことではない。根拠も経験も知識もなく、ただ感情に任せてそう言い張る。


 何処までも幼稚で、救いようがないほどに無知だった。さしものクローネンも、嫌気が差す。


 ともすれば、彼らをいつも馬鹿にしている、尊大な兄の心境が理解できてしまう程度には――。


「……はぁ。もういい。この話は終わりだ」


 大きく溜息をついて、ひらひらと手を振ったクローネンは、有無を言わさぬ口調でそう言い切った。 


 ――自分は、裏方に徹する。


 クローネンは、そう心に決めている。村の自警団のまとめ役として皆の不満を受け止め、ダニーと村の若い衆の間を取り持つ、橋渡しの役目を果たすのだと。


 それこそが、自分がこのタアフの村に一番貢献できる在り方であると、クローネンはそう考えている。


 願わくば、最愛の妻くらいにはこれを理解してもらいたかったのだが、――不満たらたらの表情のティナを見て、クローネンは再び小さく溜息をつき、嫌な考えを振り払うように首を振った。


「……ティナ。お前は兄貴が殺されても構わないと言ったがな。そもそも事を荒立てると、兄貴一人の命じゃ済まされない可能性もある。だから極力穏便に、謝り倒してでもやり過ごす必要があるんだ」

「そんなこと、分かんないじゃない!」

「『分からない』で済まされるか馬鹿! 仮に法外な賠償を要求されても、あのケイとかいう男に逆らえる奴はこの村にいないんだぞ!? マンデルでさえだ! そうなったとき、お前に責任が取れるのか!?」

「……それは、」

「分かったなら黙ってろ。……姫さんには、俺から謝っておこう。兄貴は……いや、姫さんも会いたくはないだろうしな、向こうが望むなら謝らせるが……いずれにせよ、穏便に片付くことを祈るしかないか。ウチ以外に寝室に空きがある家、あったかな……」

「…………」


 ブツブツと額を押さえて考え込むクローネンを、ティナは、ただ恨みがましい目でじっと睨みつけていた。


 が、ふっと、その視線がクローネンの背後へと逸れる。


「……あ。戻ってきた」

「なに?」


 ティナの呟きに、クローネンはばっと後ろを振り返った。すると、村の入り口の方に、馬に跨ったケイとマンデルの姿。


「帰ってきたのか……」


 こんなときに限って良いタイミングだ、と乾いた笑みを浮かべるクローネン。


 ケイの隣に轡を並べるマンデルを見やり、続いてティナへちらりと視線を向けて、小さく溜息をついた。


 ――ティナも、マンデルを見習ってほしいもんだ。


 しみじみと、そう思う。


 ここらでは名の知れた弓と短剣の名手であり、かつて"戦役"では手柄を立てたマンデルは、村の中でも特に一目置かれた存在だ。


 指折りの発言権と、タアフの皆に対する大きな影響力を持つ彼ではあるが、今のところ、クローネンではなくダニーが村長になることを支持している。


 理由は、「ダニーの方が、より優秀であるから」だ。

 

 勿論、自分と比較して、の話ではあるが、クローネンはそれを気にするつもりはない。むしろ、マンデルのなんと理知的なことか、と感涙を禁じえないほどであった。


 本来ならば、――そんな彼を差し置いて、ただ感情に振り回されるだけのティナには、爪の垢を煎じて飲ませてやりたいところだが。


(今はそれどころじゃない、か)


 とりあえず。ケイの怒りを買わないように、細心の注意を払って謝罪しなければならない。


(……ああ。なんで俺だけ、こんな気苦労を……)


 自分が決めたこととはいえ、なんともやり切れない思いを抱えたクローネンは、自分を落ち着かせるかのように静かに深呼吸。


「……はぁ」


 そしてその日、何度目になるか分からない、小さな溜息をついた。




          †††




 村に戻ると、クローネンにいきなりその場で平伏されたので、ケイはかなり困惑した。


 なんでも話によると、ダニーがアイリーンの寝込みを襲おうとしたらしい。


「何……?」


 それを聞いたケイが、夜叉の形相に変貌するのを見て、アイリーンが「待て待てケイ!」と慌てて話に割り込んでくる。


 アイリーン曰く、別に襲われたわけではないようで、ただ目を覚ましたら部屋にダニーがいた、というだけの話らしい。


 それはそれでどうかと思ったケイだが、アイリーンが気にしないと言うので、そこまで深刻に事態を捉えるのはやめにする。ただ、泊まる家は変えたいという要望にはこたえて、最終的にアイリーンとケイがそれぞれ家をチェンジすることとなった。ケイの代わりにアイリーンが来ると聞いて、ジェシカがはしゃいでいたのが印象的だった。


 ベネット宅へと移ったケイは、アイリーンは気にしないと言ったものの、家で顔を合わせるたびにダニーへプレッシャーをかけ続けた。そのため、夕食時、シンシアが冷や汗を浮かべる程度に、緊張感のある空気になってしまったのはご愛嬌だ。


 食後は、またぞろ部屋に引きこもって昨夜のように待機するつもりだったのだが、ベネット宅の寝台があまりに寝心地が良すぎて、完全武装であったにも関わらずケイはそのまま熟睡してしまった。幸いなことに、盗賊たちの夜襲はなかったのだが。



 そして、翌朝。



 クローネンの家の前、村人風のだぼだぼのズボンに、革のベストを羽織ったアイリーンが、「よっほっ」と声を出して体を動かしていた。


「どうだ? 調子は」


 傍で見守るケイの問いかけに、アイリーンは答えず、ただ小さく笑みを浮かべる。


 たんっ、と。


 地を蹴った助走。砂利ッ、という足音を置き去りにして、一陣の風が吹き抜ける。


 踏み込み。側転。ロンダート。そこから繋がる連続のバク転。


 ダンッ、とひと際大きな音を立てて、跳ね上がる身体。見上げるような跳躍。


 あざやかな、後方伸身宙返り、三回捻り。


 ぴたりと、その着地は、ブレることもなく。


 ゆっくりと顔を上げたアイリーンは、にっと悪戯っ子のような笑みを浮かべ、


「悪くないね!」

「そうか」


 うむ、と腕を組んで満足そうに頷くケイの横で、見守っていたクローネンとティナが、あんぐりと口を開け固まっていた。


「わーおねーちゃんすごーい!!」

「へっへへーそーだろそーだろー」


 足元にじゃれついてくるジェシカに、得意げなアイリーン。キャッキャと楽しげなジェシカに応えるようにして、次々に宙返りやバク転などを披露する。


(この調子なら、もう大丈夫だな)


 快復――と言っていい。これならば、万が一の事態に巻き込まれても、柔軟に対応できるはずだ、と確信した。



 ケイは、出立を決意する。



 その後、アイリーンがいなくなると聞いて泣き出したジェシカを宥めたり、ベネットから用意して貰った食料や生活物資を受け取ったりと。


 なかなかに手間取ったが、日が高く昇り切る前に、ケイたちはなんとか出立の準備を終えた。


「短い間だったが、村長、世話になったな」


 村はずれ。見送りに来たベネットたちに囲まれながら、ケイは背後の森を見やる。


 ここから木立を抜け、小川に沿った道を東へと辿って行けば、サティナの街へ着く。目的地は城塞都市ウルヴァーンではあるが、安全のためにケイたちは街道を辿り、幾つかの街や村を経由していくことにしたのだ。


「短い間だったが、楽しかったぞ、ケイ」

「ああ、マンデル、俺もだ」


 マンデルと握手を交わしながら、ケイは笑いかける。


「いやはや、お名残り惜しいですのぅ」


 髭を撫でながら、至極残念そうな表情を浮かべるのはベネットだ。本当は、ケイたちがさっさと村を出て行ってくれるので、ほっと一安心しているところだが、そんな内心はおくびにも出さない。


「本当に。こちらとしても後ろ髪をひかれる思いだよ」


 ケイも笑顔を張り付けたまま、それに答える。


「それと、手紙の件は、ありがとうございます。よろしくお願い致しますぞ」

「なに、お安い御用だ」


 頭を下げるベネットに、ひらひらと手を振ってポシェットから封筒を取り出すケイ。


 何でも、ベネットの娘はサティナの街の職人の家へ嫁いでいるらしく、ケイたちが街に寄るならば、ついでに手紙の配達を頼まれたのだ。本来ならば行商人に頼むらしいが、配達料を取られるとのことで、あわよくばそれを浮かせようという魂胆なのだろう。


「確かに届けよう。サティナの街の、キスカ嬢でよかったな?」

「『嬢』というような歳でもありませんがの」


 ほっほっほ、と笑い声を上げるベネット。


 その隣、腰を曲げた呪い師のアンカが、楚々と進みでる。


「ケイ殿、」


 懐から幾つかの水晶の欠片を取りだしたアンカは、


【 Bondezirojn. La grandaj spiritoj benos vin.】


 しわがれた声で、朗々と唱える。


 ぱきん、と水晶がひび割れ、緩やかな風が吹いた。


 アンカの手の平から風にすくわれた水晶が、きらきらと光り輝きながら、空へと散って行く。


 くすくす、という無邪気な笑い声を、ケイは聞いた気がした。


「――あなたの旅路に、幸多からんことを」


 祝福を終え、どこか得意げな顔で、アンカ。


「……ありがとう、婆様」

「ありがとな! アンカ婆さん!」


 一礼したケイとアイリーンは、おもむろにサスケに跨る。ケイは鞍に、アイリーンはその後ろ、ケイの背中にぴったりとくっつくようにして。


 加えて生活物資まで載せられたサスケが「お、おもい」と言わんばかりに困り顔でケイを見やるが、最高速で飛ばすわけではないので、旅路に支障はないはずだ。「すまん、頼むぞサスケ」とケイが首筋を撫でると、サスケは「しかたない」と言わんばかりに鼻を鳴らして溜息をついた。


 ぽん、とケイが脇腹を蹴ると、サスケはゆっくりと進み始める。


「それじゃーなー、みんなー! 元気でなー!」


 ケイの背後、アイリーンが見送りの村人たちへ手を振って叫んだ。「元気でなー!」とそれに返す言葉が聴こえてくる。


 ぱっかぱっかと。響く蹄の音。木立に入り、見送りの姿も見えなくなったアイリーンは、サスケの背中に座り直した。


「……良い人たちだったなぁ、ケイ?」

「……そうだな」


 アイリーンの無邪気な声に、ふっと、ケイは肩の力を抜く。


「また、来れるかな?」


 しかし、続けて投げかけられた問いに、しばし、言葉を失った。


「……来れるさ」


 しばらく間をおいてから。



 ケイは、静かに答えた。「また今度来ようぜ!」というアイリーンの声を、聞き流しながら――。




 この世界に転移してから、おおよそ二日。




 村での休息を終えたケイたちは、サティナの街を目指して、出発した。







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