14. 狩人


 さぁぁぁ、と。


 広がりのある葉擦れの音が、風に運ばれてくる。


 草原。地平線の果てまで続く、緑の大地。


 抜けるような青空に、ひつじ雲がふわふわと漂う。


(……平和だな)


 サスケに跨り、ぐるりと周囲を一望したケイは、漠然とそう思った。


 目に優しい、心休まる風景――といってもよい。


 しかし胸の奥。燻り続ける、焦りに似た何か。


 とぐろを巻く陰鬱な感情が、ちくちくと胸を刺す。


 爽やかな風が吹き抜けても、なお


 ケイの心は、晴れなかった。



 ――と。



 視界の果て。


 茶色の小さな影が、草むらでもぞもぞとうごめく。


「……見つけた」

「またか。……早いな」


 ケイの呟きに、隣で轡を並べていたマンデルが、呆れの表情を作った。彼の跨る村の駄馬の鞍には、血抜きを済ませた兎が何羽も括りつけられている。どこか乾いた笑みを浮かべるマンデルをよそに、ケイは足でぽんとサスケの腹を蹴り、弓に矢をつがえた。


 ぱっかぱっかと、緩やかに前進を始めた馬上。しっかりと狙いを定めたケイは、ぎりぎりと弦を引き絞る。


 快音。


 突如として響き渡った鋭い音に、耳を立てた兎が草むらからひょっこりと顔を出し、何事かと周囲を見回した。そこへ、勢いよく銀色の光が突き刺さる。


 キュィッ、と短い悲鳴を上げて矢の餌食となった兎の、周囲にいた仲間たちが文字通り脱兎のごとく逃げ出した。


「仕留めた」

「風が吹いてるんだぞ。……よくもまぁ、あの距離でやれる」


 何気ないケイの報告に、額を押さえたマンデルの言葉はもはや嘆きに近い。二人揃って馬を進ませ、後足で空を蹴るようにしてもがいていた兎を拾い上げた。


「悪いな」


 胴体に刺さっていた矢を引っこ抜き、血を払い飛ばしながらケイ。すかさずマンデルが横からナイフを差し出して、その兎の首を掻き切った。


 ぴちゃぴちゃばしゃ、と緑の大地にこぼれ落ちる赤い液体を眺めながら、ケイは自分の手の中で、小さな命が暖かみを失っていくのを感じる。


「……さて。こんなとこか」

「そうだな。……そろそろ、村に戻ったほうがいい」


 ケイから受け取った兎を鞍に括りつけながら、マンデルが草原を見渡して言った。


 盗賊たちの剥ぎ取りに向かった、その翌朝。


 本来ならば、すでに村を逃げ去っていたはずの、ケイは。


 何故か――草原で、兎狩りをしていた。




          †††




 昨夜のこと。


 盗賊を逃したことを悟ったケイは、アイリーンにああ言おう、こう言おうと考えを巡らせながら、村長の家に引き返していた。


「おいアイリーン、話が――」


 ばん、とノックもせずに扉を開け、居間に入ったケイの目に飛び込んできたのは、しかし、


「おねーちゃん、あ~ん」

「ん~ん、これ美味いな!」

「これこれジェシカ、こぼれとるぞ」

「アイリーン様、お代りはありますので、遠慮なさらず食べてくださいね」

「お、ありがと!」


 ジェシカを膝に乗せて、夕食を食べさせて貰っているアイリーンに、孫好きのひとりの祖父の顔になったベネット、そしてそんな三人を慈しむように見つめるシンシアの姿だった。


 テーブルを囲んだ、まるで家族のように、和気藹々とした団らんの光景――。


「あ、ケイ! おかえり!」


 口の端にパン屑をくっつけた、アイリーンの無邪気な笑顔を見て、ケイは、何も言えなくなってしまった。


「お帰りなさい。ケイ様も、いかがですか。ご夕食はまだでしたでしょう」

「あ、ああ……ありがとう」


 シンシアに促されるままに、ケイもまたアイリーンの真向かいの席に着く。隣に座るベネットが、目ざとくケイの腰の長剣に気付いたが、そのまま何も言わずにつっと目を逸らした。愛しの孫娘の前では、計算高い村長ではなく、ひとりの祖父のままでいたいらしい。


(……まあ、どうせこの状況じゃ話も切り出せないしな)


 とりあえず大人しく夕食を頂こうか、とケイは肩の強張りを自覚して、小さく息をついた。


「どうぞ。お口に合えばよいのですが」

「ケイ、シンシアさんのスープ美味しいぞ!」


 野菜スープや堅パン、火で炙った塩漬けの豚肉。それらの皿を並べたシンシアが、どうぞ、とにこやかに語りかけてくる。シンプルながらも栄養バランスの良さそうなメニュー。かぐわしい香りが鼻腔を刺激する。


 しかしそれらを前にしても、食欲は全く、湧かなかった。




 食わねば失礼、というよりも、食えるうちに食っておけ、という精神で、ほとんど味も分からぬままに、ケイは無理やり食事を詰め込んだ。


 手早く食器を片付けたシンシアが、ジェシカをクローネンの元に送り届けるため家を出たので、ケイとアイリーン、それにベネットの三人だけが居間に残される。


「村長、盗賊たちの物資についてだが、この剣と銀貨は俺が貰い受ける。その代わり、残りのものは全て、そちらにお任せすることにした」

「ほぉ……それは、それは」


 ケイの申し出に、意外そうな顔をしたベネットは、「ありがたい話ですのぉ」と呟きつつもゆっくりと髭を撫でつける。その目には喜色というよりもむしろ、猜疑の色。なぜそこまで都合のよい申し出を? とケイの話の裏を読み取ろうとするかのように。


「――この村の人々の御蔭で、俺達は随分と救われた。その礼と考えれば、これでも安いくらいだ」


 大袈裟すぎない程度に愛想笑いを張り付けて、ケイは歯の浮くような台詞を口にした。だが嘘はついていない。『命の値段に比べれば安すぎる』という一点において、皮肉にも、それは偽らざる本心だった。


「……勿体ないお言葉ですじゃ」


 一応、ケイの善意によるものと解釈したのか、納得した様子でベネットは頷いた。


「いやちょっと待てよケイ、でも剣と銀貨だけじゃ少なすぎないか?」


 そこで、横から口を挟んだのはアイリーンだ。


「鎧とか、かさばるヤツはいらないと思うんだけどさ。矢とか生活物資とか、そこらへんのは貰っといた方がいいんじゃね?」

「…………」


 矢は、遺品回収の際にこっそりと質のいい物を選りすぐって補給はしていたが、生活物資に関してはその通りだった。


 ぱちぱちと目を瞬いたケイが、困り顔でベネットを見やると、老獪な村長は思わずといった様子でくつくつと喉で笑う。


「いやはや。そちらのお嬢様の方がしっかりとなされておりますな、ケイ殿」

「……うぅむ」

「しかしながら、お気持ちは分かり申した。代わりと言っては何ですがの、生活物資に関しては、こちらで工面しておきましょうぞ」

「……ありがたい」


 素直に、頭を下げる。ケイとしては、「剣と銀貨だけは頂戴いたす!」とドヤ顔で言ってのけた直後だけに、地味に恥ずかしかったが仕方がない。


 むっすりとした表情のケイが可笑しかったのか、アイリーンがからからと笑い始め、それに同調するようにして、ベネットも厭らしさのない含み笑いを洩らす。


 笑いの波が引いたあと、そこには、静かな沈黙が訪れた。


「……どうすっかなぁ、この後」


 ぽつりと、テーブルに頬杖をついたアイリーンが、小さく呟く。


「それについてなんだが、アイリーン」


 その話題を待っていたと言わんばかりに、身を乗り出すケイ。


「ウルヴァーンに行こうと思うんだ」

「……えっ、ウルヴァーンって存在すんの!?」


 思わず声を上げたアイリーンが、ベネットを見やって「あ」と自分の口を押さえる。ベネットはぴくりと眉を動かした以外は、特に反応を見せなかった。「存在する」という言い方は、『こちら』の世界の住人には、少々妙な発言だったかもしれない。


「村長。申し訳ないのだが、今一度、地図を見せて頂けないだろうか」

「よろしいですとも」


 ベネットに地図を取ってきてもらい、アイリーンに見せる。"タアフの村"、"城塞都市ウルヴァーン"、"港湾都市キテネ"などの位置情報を説明しつつ、それとなく『こちら』の地形がゲーム比10倍の広さになっていることなども伝えた。


「へぇ……」


 指先で唇を撫でながら、興味深げに地図に見入るアイリーン。


「俺としては、早ければ明日の朝にでも、ウルヴァーンに向かって出発したいと思うんだが。どうだ、アイリーン」


 興味をそそることには成功した。このまま押せば、アイリーンには事実を伏せたまま、村を早く出れるのではないか。


 そう思ったケイだが、期待は裏切られる。


「……ごめん、ケイ。実は、ちょっとな、」


 申し訳なさそうに、歯切れの悪いアイリーン。


「――なんかさ、体に力が入らないんだよ」


 その言葉に、ケイは固まった。




 結論から言うと、ケイたちはあと一、二日、村に留まることとなった。


 原因は、アイリーンの体調不良だ。体に痛みもなく、意識もはっきりとしているアイリーンだが、毒の後遺症なのか、体力が回復しきっていないのか、酷く体が重く疲れやすい状態が続いているらしい。


「出来れば、もうちょっと休んでからにしたい。このままじゃ、あんまりにも、ケイの足手まといだ……」

「そうか……」


 寝室でベッドに横たわり、表情に影を落とすアイリーン。


 薄暗い部屋の中。アイリーンと二人きりになったケイは、迷う。


 リビングから寝室にまで移動するのにも、アイリーンは壁に手をついて、ふらふらと力なく歩いていた。成る程これは重症だ、とひと目で分かる頼りなさ。現状、数歩も歩けばフラついてしまうアイリーンは、身体能力において一般人以下の状態といえる。ともすれば幼女ジェシカとすらいい勝負だろう。


 ケイは考える。サスケに二人乗りして移動する予定だったが、万が一、何者かと戦闘状態に陥った際は、アイリーンが自力で動けなければ困ったことになる。戦え、とまでは言わないが、少なくとも、逃げたり隠れたりできる程度には。


 このままの状態で外へ連れ出すのは、少々リスクが高い。


 勿論、村に留まったまま盗賊の逆襲を受けるくらいならば、逃げ出した方がまだマシではあるが。少なくとも幾ばくかの休養は必須。


(明日発つのは、どちらにせよ厳しい、か)


 ふぅ、と一息ついたケイは、考えをまとめた。


「――そう、だな」


 顔を上げ、朗らかな笑みを浮かべる。


「まあ、ここ一日二日くらいは、様子を見ようか。丸一日寝込んでたから、体が弱ってるんだろう。ひょっとしたら、ポーションの副作用かもしれないし、ゆっくり食っちゃ寝してれば、すぐに良くなるさ」

「お、おう」


 唐突に、やたらポジティブなことを言い出したケイに、しばしアイリーンは目をぱちくりとさせたが、


「……まあ、そうだよな! ゆっくり休んで、とっとと治しちまおう! よし、となればオレは寝るぜ、ケイ!」


 にひひ、と調子を合わせて笑顔になり、掛け布団を顔までずり上げた。



 ――今は、盗賊の件は、伏せておく。



 ケイは、そう決めた。


 襲撃の可能性は、ろくに身動きを取れない以上、今のアイリーンが悩んでも仕方のないことだ。いらぬ心労を抱えたままでは、治りも遅くなるだろう。


 だから、今は、アイリーンには心配をさせないでおく。


 建前の中に、独善を含んでいることは自覚しつつも、ケイはそう決めた。


(……まあ、今は体調を整えることに集中して貰わないと、な)


 これからどうなるか分からん、と思いつつ、ケイはぽんぽんとアイリーンの頭を撫で、「さて、」と立ち上がる。


「それじゃあ、俺はクローネンの家に戻ろう。……また明日、だな」

「うん。また明日」


 ランプの明かりを吹き消し、ドアのノブに手をかけたケイは、ふと思い出したかのように振り返る。


「そういえば、アイリーン。この間は婆様が来たから聞きそびれたが、魔術に関してだ。こっちには触媒も持ってきてるよな?」

「ん? ……一応、こっちに来る前には、充分に使える量は持ってたぜ。ってか、ホントに魔術って使えんの?」

「俺に使えて、お前には使えないってこともないだろ」


 小さく肩をすくめたケイは、アイリーンを見つめて、


「体調が回復したら、試してみると良い。充分に使える量って、大体どれくらいだ? 【顕現】なら、何回ぐらい使える?」

「【顕現】か、アレ消費デカいもんなー。触媒全部に魔力も使って、二回くらいが限界じゃね?」

「……そうか、まあ、そんなもんか」


 となると、【追跡】できるのも二回。ケイと合わせても三回。


(触媒は温存しといた方がいいか……)


 逃げた盗賊を【追跡】しようにも、遺された大量の物資の中から、たった三回で当たりを引けるとも思えない。アイリーンの触媒は、ケイのエメラルドよりは入手しやすいが、小さな村で大量に工面できるものでもなかった。ここで賭けに出るよりは、手元に置いておいた方が良いだろう。


「それにしても、何で急に触媒の話?」

「いや、これからウルヴァーンに行くにしても、ルートを考えないといけないからな。用意する物資について考えてたんだ、そのついでさ」


 小首を傾げるアイリーンに、半笑いで答えて誤魔化した。


「……そっか」


 納得はしたのか、ふわぁ、と小さく欠伸をしつつ、仰向けから横向きになったアイリーンは、


「おやすみ、……ケイ」

「……おやすみ。アイリーン」


 ぱたり、とドアを閉じ。


 そのまま村長宅を辞去したケイは、クローネンの家に戻った。


 クローネンたちとの挨拶もそこそこに、割り当てられた小さな部屋に引っ込んで、置いてあった鎖帷子を、静かに身にまとい始める。


(多分、今夜は大丈夫だと思うが……)


 帷子の上からベルトを締め、次に革鎧を着込みながら、思考を巡らせた。


 二人の盗賊が何処へ逃げたのかは分からないが、仮に本隊なり他の団員なりと合流し逆襲を仕掛けるにしても、たった一日では時間が足りないだろう。


 そして、いくら早急に手勢を揃えられたとしても、連中が白昼堂々仕掛けてくるとは考えにくい。


 早くて、明日の夜。


 それ以降は時間が経てば経つほど危ない、というのが、ケイの考えだ。


(幸いなのは、村人が夜警を組んでることか……)


 獣が出たとか出ないとかで、現在、タアフの村の住人は警戒態勢にある。男衆が火を焚き、交代で夜に見張りをやっているので、図らずも、夜襲に備えのある状態となっているのだ。


(だから、仮に夜襲を仕掛けられたとしても――)


 ギュッ、と革の手袋の調子を確かめながら、ケイは暗闇を睨みつける。


(――村人が抵抗している間に、脱出できる)


 包囲されたところで、暗闇はケイの味方だ。継続的な狙撃で包囲網に穴をあけ、他の村人を囮にすれば、逃亡は難しくない。


 難しくはない――。


「……。クソッ」


 陰鬱な気分を振り払うように頭を振ったケイは、ばさりとマントを羽織り、兜をかぶる。


 腰に矢筒をつけ、弓を持てば、完全武装の戦士がそこにいた。


 細く息を吐き出して、ケイは弓を抱えたまま、粗末な寝台にゆっくりと腰を下ろす。


 ギシィィッ……とやや不安になる木材の軋みをやり過ごし、そっと壁に背を預けて、目を閉じた。


(…………)


 静かだ。


(……そもそもが杞憂かも知れない)


 とっぷりと暗闇に身を浸していると、ふと、そんな思いが頭をよぎる。瞼の裏に浮かぶのは、もはや随分と昔のことに感じられる、昨夜の戦闘だ。


(全員、殺したつもりだった)


 手の内にこびりついた感触。一人残らず、矢を叩き込むか、剣で叩き切るかはしたはずだ。それこそ、確実に殺したと思えるほどに。今回逃げた二人も、運良く息があっただけのことだろう。重傷か、瀕死か――ロクでもない状態なのは、まず間違いない。


(草原にも、森にも、獣はいる。無事に逃げ切れるとは限らない……)


 手負いで、移動手段もない人間が二人。血の匂いに惹かれてきた狼の群れにでも遭遇すれば、助かる見込みは限りなく低い。


(だから……何事も、なければ良い……)


 徐々に。


 思考が、有耶無耶になっていくのを感じる。



 そのまま。



 まどろみと覚醒を繰り返しながら、ケイは、


「――――」


 窓から差し込む薄明かりに、いつの間にか、自分が何事もなく一夜を明かしたことを悟った。


「……来なかったか」


 安堵の溜息というには、少々重い。


 疲労は蓄積しているが、さりとて今からひと眠りする気分にもなれない。ただ、外の空気が吸いたかった。だるさの抜け切らない体を引きずって、ケイは部屋から出る。


「……早いな。どうしたんだ、その格好」


 外へ出ると、農具を手に抱えたクローネンに見咎められた。どんよりと、くらい目をした完全武装のケイに、何処となく及び腰な、訝しげな顔。


 まだ日は昇り切っておらず、空は依然として薄暗い。にも拘らず既に仕事の準備とは、農民の朝は早い、ということか。


 働き者なのだな、とどこか斜に構えた心で感心しつつ、この有り様をどう説明したものか、まるで他人事のようにぼんやりと考えを巡らせる。


「――草原に、狩りにでも行こうと思ってな」


 左手の弓をちらりと見せ、言う。


「……随分と重武装なんだな」

「そうでもない。普通だよ」


 真顔のまま言い切って、そそくさとその場から立ち去った。


 向かうは、サスケを預かって貰っている厩舎だ。村の駄馬と共に、寝っ転がってのんびりと干し草を食んでいたサスケを連れ出し、村を出る。


 木立を抜けながら、狩りのついでに周囲の地形把握でもしておくか、とケイが考えていたところで、背後から近づいてくる蹄の音。


「おーい、ケイ」


 追い縋ってきたのは、村の駄馬に跨ったマンデルだった。


「クローネンから聞いたぞ。……狩りに行くんだってな」


 速度を落としたケイに併走したマンデルは、ケイの顔を真っ直ぐに見詰め、


「……おれも行っていいか?」




          †††




 地形把握のため草原を走り回り、ついでに兎も仕留めたケイは、マンデルと共に村へ引き返していた。


 ぱっかぱっかと、村の駄馬に足並みをそろえ、ケイたちはゆっくりと木立を進む。


「……うぅむ」


 駄馬の鞍に揺られながら、遂に最後まで出番のなかったショートボウを片手に、マンデルが唸り声を上げた。


「ケイは、凄いな。……普通、これだけの兎を狩るには、もっと時間がかかる」


 鞍にまとめてくくり付けた兎を、ぽんぽんと叩く。


「そうか?」

「そうさ。……普通は、な」


 あまりにも平然としたケイの態度に、マンデルは小さく肩をすくめた。


 本来、草原の兎は、狩るのはそれほど容易たやすくない動物なのだ。


 まず、発見するのが難しい。生息数は多いものの、野山で暮らす種よりも体が小さいため、草陰に隠れてしまうと非常に見えづらいのだ。


 そして、仮に見つけられたとしても、今度は弓で仕留めるのが難しくなる。草原の兎は非常に臆病で、自分よりも大きな生物の接近を認めると、すぐに逃げ出してしまうのだ。マンデル曰く、草原の兎を確実に仕留めるには、弓よりもむしろ罠を使う方が一般的であるらしい。


「これだけの弓の腕があれば、猟師としても、戦士としても、引っ張りだこだろう。……狩りをするだけでも充分に食っていける」

「……そうかな」

「そうだとも。これは、凄いことだぞ、ケイ。……自分の腕で、どんな時でも、家族を養っていける、ということだ」

「なるほど。……家族、か」


 マンデルの言葉に、ケイはふと顔を上げる。


「マンデルって、家族は、どうなんだ?」

「今は、娘二人と一緒に暮らしている。……妻は二人目の娘を産んだときに、熱病にかかって死んでしまったよ」

「それは……」

「いや、いいんだ。……もう十年も前の話だ」


 申し訳なさそうにするケイに、マンデルが気にするなと手を振った。


「お袋は、俺が結婚するより前に流行り病に倒れた。……親父は、一昨年までは現役の猟師で、元気にしてたんだがな、」


 あごひげをさすったマンデルは、静かな目で森の奥を見やる。


「ある日、『ちょっと見回りに行ってくる』と森へ出かけて行ったきり、帰って来なかった。探しても遺品の一つ、骨の一本も見つからない。……まあ、森に人が呑まれるなんてのも、そう珍しい話じゃないからな。死んだと思うことにした」

「そ、そうか」

「まあ、おれはこんなところだ。……ケイは、どうなんだ?」

「俺の家族か……」


 マンデルに話を振られ、馬上に揺られるケイは遠い目をする。最後に直接、家族と顔を合わせたのは、何年前のことだろうか。


「親父に、お袋に、弟が一人。別に変わり映えのしない、普通の家族だったさ」

「普通の家族、か?」


 そう言うマンデルの目は、何処か疑わしげだ。


「ああ」


 しかしそれを意に介さず、ケイはただ頷いた。


 本当に、『平々凡々』という言葉がお似合いの、普通の家族だった。むしろその『普通』の中で、ケイの存在だけが浮いていたように感じる。


 少し気弱なところのあるサラリーマンの父に、パートで働いていた面倒見の良い母。


 引きこもりがちだった弟に関しては、「おれも兄ちゃんみたいだったら思い切りゲームできたのに」と言われケイがブチ切れて以来、まともに連絡を取っていないので今はどうしているのか知らないが。


「なあ、ケイ。……ケイは、草原の民の出なのか」


 と、元の生活に思いを馳せていたところへ、マンデルが問いかけてくる。


「……。あー、それは、」


 そこらへんの『設定』はまだ考えていなかったので、ケイは咄嗟の答えに詰まった。ゲームの設定、キャラクターメイキングの際に選択した出自を答えるのであれば、『草原の民』と言っても良かったのだが。


「いや、言えないなら良いんだ」


 しかし、ケイの躊躇いをどう解釈したのか、マンデルはすぐに発言を引っ込める。


「独り言を言うとだな。まあ、なんで草原の民の格好をしているのかは、知らないが。……顔に部族の刺青が無い時点で、少なくとも成人の儀を受けていない、外れ者であるのは間違いないわけだ」


 そう言われて、思わず自分の顔に手を伸ばす。と同時に、ゲーム内の草原の民のNPCは、ことごとく顔に刺青を入れていたことを思い出した。


 ちら、とマンデルが横目でケイを見やる。ケイは黙ったまま、目で話の続きを促した。


「もう十数年も前の話になる。ダリヤ草原一帯を治める"ウルヴァーン"のクラウゼ公に、恭順を示すかどうかで、草原の民が内紛を起こした。……その争いのとばっちりを受けた平原の民は多い。そのせいでここらでは、草原の民の受けがあまり良くないんだ」

「……ふむ」

「一応は決着が着いた今でも、部族同士で揉めることはあるらしいし、盗賊まがいの不義を働く草原の民もいると聞く。連中は、人質を取らないからな。怨みも買いやすい。そういうわけで。……もしおれがリレイル地方を旅するなら、草原の民の格好はしないよう、気をつけるだろうな」

「……なるほど」


 最初に村に入った際、警戒態勢にあったとはいえ、やたらと村人たちの態度が敵対的だったのは、そういう理由もあったのかと納得した。


 元々ケイの纏う防具類は『草原の民』風のものが多いが、これは単純にキャラの出自が草原の民だったのと、親しかった革防具職人がそういったデザインを好んで使っていたからだ。


 独特の紋様や、羽根飾りを多用する様式はケイの好みでもあったのだが、それが他者へ悪感情を及ぼすのであれば、話は変わってくる。


「となれば、アレか……この羽根飾りとかは外した方がいいか」

「そうだな、そうすれば大分……なんというか、マシになる。兜のは、そのままでもいいと思うが」


 革鎧の各所、特に肩当てに取りつけられた特徴的な装飾が、エキゾチックな雰囲気を演出するのに一役買っている。これを外しただけでも、随分と質素な見かけになるだろう。


「……あと、顔布もやめておけ、あれはあからさまに怪しい」

「そう、だな」


 顔布は戦闘においては、表情を読まれないという利点があったのだが、普通に旅する分には外しておいた方が良いかもしれない。


 色々と考えることがあるな、とケイは小さく溜息をつく。それにしても、草原の民がここの住人に嫌われていたとは、ついぞ見当もつかなかったことだ。


「ありがとう、マンデル。そこら辺の事情には疎くてな」

「そうだと思っていた。……気にするな」

「……。別に、出自を隠しているわけではないんだが、俺とアイリーンは、ちょっと事情が特殊でな。説明できないというより、し辛いんだ。すまない」

「いや、いい。……だから、気にするな」


 気取らない態度で、マンデルがひらひらと手を振った。


 こんな見ず知らずの自分に、親切にも忠告してくれた思いやりが、痛い。


 盗賊の件が、ちらりと脳裏をよぎった。ケイの心に、何とも言えない申し訳なさが募っていく。


 暗く落ち込んだケイの顔を、憂いを帯びた表情でマンデルが見やる。


「……そうだ、ケイ。ひとつ頼みたいことがあったんだ」

「ん、なんだ?」

「その弓。……触らせてもらえないか」

「ああ。お安い御用だ」


 興味津々な視線を向けるマンデルに、ケイは横からひょいと"竜鱗通しドラゴンスティンガー"を手渡す。


 受け取った瞬間にマンデルの手が、くんっと跳ね上がった。ほぅ、と小さく声を上げたマンデルは、その見た目を裏切る弓の軽さに目を丸くする。


 そして、その軽さを裏切るほどに、


「ぐっ……」


 固い。"竜鱗通し"を構えたマンデルが、一息に弦を引こうと試みた。軋みを上げる弓。胸元近くまで引き絞ったマンデルはしかし、顔を真っ赤にするもそれを維持しきれず、すぐに弦を元に戻す。


「なんて張りだ。おれにはとても使えない。……指が千切れるかと思ったぞ」

「手袋もなしに使ってたら、指の肉がズタズタになるからな」


 弓を使って一番ダメージを受けるのは、弦を引く指だ。"竜鱗通し"の張力は、特に普通の弓のそれよりも強い。ゲームには痛覚が存在しなかったので、素手でも指の肉が削ぎ落ちるまで扱えていたが、現実だと痛みで使えた物ではないだろう。


「しかし、この軽さでこの張力。表面の皮の質感も、見たことがない。……一体、何で出来てるんだこの弓は」


 それは疑問というよりはむしろ、感嘆の声。申し訳なさを押し殺し、無理に小さく笑みを浮かべたケイは、


古の樹巨人エルダートレントの腕木を骨組みに、飛竜ワイバーンの腱を使っている。表皮は飛竜の翼の皮膜だ」


 正直に答えた言葉に、一瞬、動きを止めたマンデルが手の中の弓を二度見した。


「……」


 おっかなびっくり、といった様子で、ゆっくりとケイに"竜鱗通し"を返してくる。


「……とんでもない代物だな」

「信じるのか?」

「ここでおれを担ぐ理由がないし、嘘と断じるには、この弓はあまりにも化け物じみている。……それに、」


 ふっと、マンデルの目が遠くなった。


「――クラウゼ公が戦装束にしていた"竜鱗鎧ドラゴンスケイルメイル"と、この弓の表皮の色がそっくりだ」

「クラウゼ公って、……貴族だろ? 会ったことがあるのか?」

「いや、遠目に見たことがあるだけだ。……十年以上前の話さ」


 懐かしむような、それでいて何処か寂しげな。口の端に薄く笑みを浮かべたマンデルは、小さく肩をすくめた。


「いや、それでもやっぱり、ケイは凄いな。その弓がどれほどの価値を持つのか、おれには見当もつかない。竜の朱き強弓を手にした、風の精霊を従える戦士、か。新月の宵闇から現れ、悪の盗賊団を征討し、麗しき少女の命を救う。……吟遊詩人が好みそうだ」


 まるでおとぎ話じゃないか、と、そう言ってマンデルは、静かに笑った。


 ――そんな立派なもんじゃない。


 おとぎ話の主人公なら、そのまま悪の親玉まで倒してしまうのだろうが。


「そうか、な」


 湧きあがる感情を押し殺し。



 ケイは、引きつったような笑みを浮かべることしか、できなかった。







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