13. 強者
わああぁぁ、と。
包み込むように、響き渡る歓声。
無数の白い光が瞬いた。
星々と喩えるには、眩しすぎる閃き。
目の前に広がる、柔らかな床。
12m×12mの、正方形。
ここは、妖精たちの舞い踊る舞台。
自分もまた、妖精のひとりになる。
チャイコフスキー。白鳥の湖。
流れるような、しとやかな調べ。
身体が自然と、動き出す。
軽やかに、踊るように、舞うように。
たんっ、と。
最後の着地を、決める。
割れんばかりの、喝采。
会心の出来に、自然と笑みが浮かぶ。
やった、と言葉がこぼれ出た。
今まで積み重ねてきたものが。
今ここで、遂に報われたのだと。
そう思い、金色の輝きを確信した。
途端に。
場面が切り替わる。
ばぁんと横殴りの衝撃。
輝かしい全てが吹き飛んだ。
砕かれて。粉々に。磨り潰されて。
熱い。痛い。まるで、燃えるように。
ひしゃげた鉄と、ガソリンの匂い。
割れたガラス、黒い煙。
視界が暗転する。
暗い部屋。
モニタの輝きだけが照らす部屋。
膝を抱えて、座る。
丸く、短くなった脚。
逃げた。
逃げ続けた。
出ておいで、という呼びかけに。
耳を塞いだ。
良い天気だよ、という声に。
カーテンを閉じた。
逃げた。
逃げ続けた。
仮想の世界に。
仮初の世界に。
身駆を求めて。
過去を求めて。
駆ける。
駆け続ける。
霞む視界を。
白い霧の中を。
行きついた先には、
行きついた先には、きっと、
――真っ白な、血の気のない、
「ア"イ"リ"ーン"、」
黒い空洞が、見つめる。
「ア"イ"リ"ーン"、ロ"ハ"チ"ェ"フ"ス"カ"ヤ゛」
†††
「――ああぁぁッッ!?」
ぜえぜえと荒い呼吸、冷たい汗が額を伝う。
寝台の上、目を見開いて飛び起きたアイリーンは、がばりとシーツを跳ねのけて両足をまさぐった。細い指が、太腿を伝い、ふくらはぎを撫で、足首に触れる。
「…………」
たしかな、肉と骨の感触。
足首から先を握ったアイリーンは、そこで、拍子抜けしたように。
ふっと顔から表情が抜けたまま、しばし呆然とする。
「……、あれ」
そこで初めて、我に返り、周囲をきょろきょろと見回した。
それほど大きくはない部屋だ。
緑色の絨毯。レリーフの刻まれた
「……何処だ、ここ」
ぽつりと呟いた。ふと身体を見下ろして、自分が黒装束ではなく、白い薄手のワンピースを身に纏っていることに気付く。服の上から身体を撫でると、ブラは無かったが、下は穿いていた。
――どうして、こんな服を着てるのか。
そんな疑問が脳裏をよぎる中、服を撫でる手が右胸に触れた瞬間。
ズグンッ、と身体の芯に響くような痛みが、フラッシュバックする。
「あっ」
思い出した。
霧を越え、草原を惑い、木立の中、焚き火の薄明かりに照らされた夜の風景を。胸に突き立った矢。自分を抉り取った痛みの記憶。
それはまるで、他人事のように現実離れしていて、頭の中に、おぼろげな、混濁した
しかし、曖昧な記憶の中でも、ひとつだけは、はっきりと憶えている。
声。
自分の名前を呼ぶ声。
「……ケイ?」
ひとり部屋の中、か細い声でその名を呼ぶ。
しかし、当然のように返事はない。ただ窓の外から時折、鳥の鳴き声が聞こえる他は、しん、と静まり返った空間。
ぎゅ、とシーツの端を握りしめ、心細げな表情を浮かべたアイリーンは、再び落ち着きなく周囲を見回し、ふと部屋の扉に目を留めた。
絨毯と同じ、濃い緑色に塗装された木の扉。
数秒の逡巡。こくり、と生唾を飲み込み、意を決したアイリーンは、音を立てないようにそっと寝台から降りた。覚束ない足取りで、壁に手を突きながらふらふらと歩き、ゆっくりと扉を押し開く。
ギィィッ、と想像していたよりも大きな軋み。
びくびくしながらも、部屋の外へ出る。
そこは、リビングのような大きめの部屋だった。部屋の真ん中には大きなテーブル、天井には樹木を象った意匠の金属製のシャンデリア。足元は絨毯ではなく、粗めの木材を打ちっ放した木の床だった。絨毯に比べると薄汚れており、素足ではあまり歩きたくはなかったが、アイリーンに選択の余地はない。
窓を見る。やはりガラスの嵌っていない、質素な作りの窓。もうひとつ、テーブルの反対側には扉があったが、どうやらこれは玄関らしい。
家の外に出るかどうか。
アイリーンは、迷う。
自分が何処に居るのか確認はしたいし、でも裸足だし、そもそも誰がいるのか分からないし、と。
しかしそうやって迷っているうちに、扉の方がギィッと音を立てて開く。
「……あら」
入ってきたのは、線の細い、色白の美人だった。腕に抱えた籠の中には、綺麗に畳まれた衣服が積み重なっている。
「お目覚めになられたのですね」
突然の遭遇に固まって動けないアイリーンに対し、色白の女性――シンシアは、にっこりと優しげに語りかけた。
「あっ、あのっ、はい」
シンシアの柔らかな笑みに少し緊張が解け、なんとか動きを取り戻したアイリーンはこくこくと頷いて返す。
「良かったです。お連れの方が、随分と心配しておられましたから……」
「……連れ? 連れって、ケイのこと!?」
「そうです、ケイ様です」
「……そっか、……ケイ、居るんだ」
テーブルに籠を置きながら、慈しむような微笑みのシンシアに肯定され、ほっと肩の力が抜ける。
「はい。今は、出かけておられますが、そろそろお戻りになる頃合いかと」
「そっか。……ありがと」
安心したのと同時に、ふらりと、足に力が入らない自分を感じた。
なんだか――身体が、重い。
「……お加減が優れないのですか? まだ、身体が弱っておられるのでしょう。お休みになられた方が――」
心配げなシンシアが全てを言い終わる前に、家の外からがやがやと騒がしげな声が聞こえてくる。
「あら、噂をすれば……。アイリーン様、ケイ様がお戻りになられたようです」
がらがらと荷馬車の近づいてくる音を耳にしたシンシアが、にっこりと笑った。アイリーンが「ホント!?」と顔を輝かせる。そんな少女の姿に、今は休むよりもケイと会った方が元気が出るかもしれない、とシンシアは他愛のないことを考えた。
自分が微笑ましげな目で見られているとはつゆ知らず、アイリーンはそそくさと家の扉を開ける。
「ケイ! 戻って――」
きたのか、と。
続けようとした元気な声が、しぼんだ。
赤黒い行進。
目に飛び込んできたのは、疲れ切った表情で歩いてくる男たちと、がらがらと音を立てる荷馬車、そして馬にまたがった一人の青年だった。
青年。バウザーホースを駆り、右手に朱色の弓を持った彼は、間違いなくケイだ。
しかし、籠手や胴の鎖帷子はどす黒く汚れ、その表情は遠目にも険しい。アイリーンが知るケイのアバターそのままの、どこが変わったかと問われても答えられない、それでもアイリーンが知っているケイとは、明らかに何かが違う顔つき。
――ケイであるのは、間違いない。でも自分が知っていたケイではない。
そんな確信めいた困惑が、声をかけることを躊躇わせる。
「! アイリーン!?」
が、困惑している間に、ケイの方が立ち尽くすアイリーンに気付いた。
「アイリーン!! 目が覚めたのか!」
先ほどまでの厳しい表情は何処へやら、顔を輝かせたケイがひらりと馬から飛び降り、アイリーンに駆け寄ってくる。
「――っと、この格好じゃ不味いな」
そのまま抱きつきかねない勢いだったが、自分の体を見下ろして立ち止まった。
片や、真っ白なワンピース姿。
片や、どす黒く血で汚れた姿。
数歩。
近いが、手は届かない。
そんな距離。
「…………」
顔を見合せたまま、お互いに、どこか困惑したような笑みを浮かべる。
「その、オレ、眠ってたみたいだな?」
あはは、とぎこちなく笑ったアイリーンに、「そうだな、」と調子を取り戻したケイが頷いた。
「丸一日寝てたぞ。体の調子はどうだ? 昨日のこと、憶えてるか?」
「ん……体は、多分、大丈夫だ。昨日のことは、焚き火のトコまでは憶えてるけど、そのあとはあんまり」
「矢を食らったのは?」
「憶えてる。そこらへんから、ちょっと夢を見てたみたいに曖昧な感じがする」
「そうか……」
「……もしかして、ポーション、使ったのか?」
右胸の、矢が刺さっていたところを撫でながら、アイリーン。
「ああ。憶えてないのか?」
「幸運なことにな」
ということは、ポーションで治療した痛みも記憶にないというわけだ。けろりとした表情のアイリーンに、それは確かに幸運だ、とケイは少しばかり安心する。
自分で肩の傷を治してみて分かったが、ポーションの痛みは尋常ではない。忘れられるものなら、頭の中から消去してしまいたい経験だ。肩を切り裂かれた傷でさえ拷問じみた苦痛だったのだから、肺を貫通した傷が内側から治療されていく痛みは一体どれほどのものか。想像するだに恐ろしい。
「ぶるるっ」
と、ケイに置いていかれたサスケが、ぱかぱかと二人の元までやってきた。つぶらな目で「げんきー?」と問いかけるように、アイリーンの頬をべろべろと舐める。ふさふさと揺れる尻尾。
「あははっ、こら、くすぐったい……って、あれ?」
じゃれるサスケに笑い声を上げていたアイリーンだが、ふと気付いた。
「なんでケイがサスケに乗ってんだ? ミカヅキは?」
その言葉に、ふっ、とケイの表情が翳る。
「……あいつは、死んだよ」
え、と声を上げるアイリーンに、ケイはサスケの鞍を示して見せる。折り畳まれて括りつけられた、褐色の皮。
「盗賊に矢で射られてな。……さっき、形見を回収してきた」
額当てに、タリスマンに、鬣。そして、綺麗なまま残っていた尻の部分の皮。亡骸の残りは、自然に任せることにした。
「……この皮で、財布でも作って貰うかな」
はは、と口の端を無理に釣り上げた笑みは、どこか痛々しい。
「そ、そっか。
「ああ、
皮の剥ぎ取りは、マンデルに手伝って貰いながら、ケイ自身でやった。そのせいで血に汚れているというのは、嘘ではない。
「でも……"
「アイリーン」
眉をひそめて尋ねてきたアイリーンに、ケイは表情を引き締めた。
「そこらへんの話は、後でしよう。とりあえず、中で待っててくれ。すぐに行くから」
ただ、一言だけ、そっと歩み寄ったケイは、アイリーンの耳に囁く。
「……一日過ごして分かったが。ここは、」
――ゲームじゃない。
†††
『さて、何から話そうか』
身づくろいをしてさっぱりと小奇麗になったケイは、椅子に腰を下ろしおもむろにそう切り出した。
村長宅、一番奥の寝室。
現在、部屋の中にはケイとアイリーンの二人きりだ。ダニーたちには、アイリーンとしばらく話をする旨を伝えてある。
寝台の上で胡坐をかいていたアイリーンが、ケイの言葉にぴくりと眉をひそめた。
『……なんで
『ここの住人に聞かれたくないからだ。Just in case.』
念のためな、と英語を混ぜたケイは、小さく肩をすくめた。
『つまり
『そういうことだ。英語以外の俺達の共通言語ってコレだけだろ。分からない単語は英語でいい』
『オーライ。ところで、魔術って使えんの?』
『使える』
アイリーンの問いかけに、ケイは断言する。
『精霊もこっちには来ているらしい。ただ、魔力を吸い取られる感覚はヤバかった。あれは確実に寿命が縮まってる。もう少しで気絶するところだったし、魔力が切れたら死ぬっていう仕様が、どういう意味だったのかを理解した』
『ってことは、ケイは魔術使ったのか?』
『……ああ。少し野暮用でな』
つっ、と視線を逸らすケイ。
何に使ったのか、尋ねようとしたアイリーンだったが、ケイのむっすりとした雰囲気にどこか壁を感じ、聞きあぐねる。
『――まあ、魔術の話は後でいいとして。問題は"この世界"のことだ』
強引に話の流れを修正し、ケイは真っ直ぐにアイリーンを見据えた。
『俺は最終的に、この世界はゲームではなく、【DEMONDAL】に似た別の世界だろう、という結論に達した』
『……ふむ』
『根拠は、まあ、色々だ。感覚がリアルすぎる。汗やら血やらの細部までが全て再現されている。それにNPC――というか、この世界の住人の言動がAIとは思えない。エトセトラ、エトセトラ、だ』
『なあ、ケイ。昨日って結局あの後、どうなったんだ?』
アイリーンの、どこか不安げな質問。ケイはふぅ、と静かに息を吐き出した。
『そうだな、』
かいつまんで、事の顛末を説明する。アイリーンを抱えて逃げ、
村長の家に厄介になったことや、アイリーンの毒が判明したこと。そして毒の種類を特定するために、盗賊たちに逆襲したことを、ケイは、伝えた。
『…………』
アイリーンの顔が、曇る。
『盗賊は、やっぱり、殺したのか?』
『ああ。……何人かは、な』
『そっか』
神妙な表情で、考え込むように、アイリーンは俯いた。
『…………』
どう、言葉を繋げたものか。ケイは迷う。
別に、恩を着せたいわけではないのだ。ケイ自身が選択したことだし、ケイの中では、ある程度の割り切りはもう済んでいる。
だから、アイリーンにまで、変な罪悪感を背負いこんで貰いたくはない。
それを言葉にしたいのだが、どう言えばいいのかが分からない。何を言っても、アイリーンに気を遣わせそうで。
しかし、考えている間に、アイリーンの方がふっと顔を上げた。
『その……ケイ、』
『ん? なんだ』
蒼い瞳が、ケイを見据えて、揺れる。
『……ありがと。助けてくれて』
はにかむような笑みは、どこかぎこちなかったが。
言葉はすっと、胸に沁みた。
『……なに。まあ、その、なんだ、』
ぽりぽりと頬をかいたケイは、敵わないな、と笑う。どう足掻いても、相手に気を遣わせてしまうのか。しかも、自分の気が少し楽になっただけで、結局は何も出来ていない。
どうにも、自分勝手な野郎だ、と。
ふっ、と笑ったケイは、尊大に腕を組んでふんぞり返り、
『――存分に感謝するが良い!』
『うお、いきなり態度がでかくなった!』
大仰にアイリーンが引いてみせ、顔を見合わせた二人は、くすくすと小さく笑いあう。
『まあ、そういうわけで、ゲームじゃないだろうと思ったわけだ。ゲームにしちゃあ色々と――
『こう言っちゃなんだけど、オレも本気でこれがゲームだとは思ってなかったよ』
アイリーンは小さく肩をすくめた。
『技術が発達すれば、これくらいリアルなVR空間も再現できるかもしれない。けど、今それがいきなり実用化されるのは、流石にちょっとありえないよな』
ベッドのシーツをひらひらとさせながら、ぼやくようにして、その視線はどこか遠く。
『まあな。……それと関連して、"こっち"とゲームの違いなんだが、どうやら復活はナシみたいだ。当たり前っちゃ当たり前なんだが』
仮に誰でも"
『そっか……じゃあ、死なないようにしないとな……』
窓の外の風景を眺めながら、しみじみと呟くアイリーン。その内容が、あまりにも当たり前すぎて、ケイには何処か可笑しくすら感じられた。
「……ん?」
と、そのとき、扉の外側からコツコツと、足音が近づいてくる。
「――ケイ殿。呪い師のアンカにございまする」
コンコン、と扉をノックしながら、しわがれた老婆の声。
「ああ、アンカの婆様か」
椅子から立ち上がったケイは扉を開け、杖をついた老婆を部屋の中に招き入れた。
「申し訳ありませぬ、お邪魔虫でしたかのぅ?」
「いやいや、ちょうど話も終わったところだ――アイリーン、こちらは、お前が寝込んでる間、ずっと世話してくださった、村の薬師の、アンカの婆様だ」
「どうも、迷惑をかけたらしい。ありがとう」
「いえいえ、お気になさらずとも」
アイリーンに礼を言われたアンカは、その微笑みを目にして「……お美しや」と小さく呟いた。しわくちゃになった顔に埋もれる小さな瞳に、アイリーンの姿が映り込む。子供のようにきらきらと、未知への好奇心に輝く瞳。
ケイに椅子に座らせて貰いながら、アンカは手にしていた袋を差し出した。
「ケイ殿。お預かりしていたポーションにございます」
「おお、ありがとう」
そういえばポーションのことを失念していた、とケイは受け取りながら引きつった笑みを浮かべる。思わず中身を検めると、満タンの瓶が数本に、半分ほどまで使った瓶が一本。そこまで劇的に減っているというわけではない。
「タヌキには指一本触れさせておりませんぞ」
「……タヌキ?」
「ベネットのことにございます」
アンカの言葉に、ケイは苦笑を抑えきれなかった。たしかにあの爺ならば、ネコババしかねない。
「村長といえば、彼から聞いたが、俺の頬の手当てもしてくださったようだ。改めてありがとう」
「大したことにはござりませぬ。わたくしめの調合した傷薬です、ポーションほどの効き目はとてもとても……。ポーションをお使いした方がよろしかったでしょうかぇ?」
「いや、ポーションが勿体ない。手当の件、感謝する」
ポーションを使えば、この程度のかすり傷は即座に治る。が、傷薬では致命傷は治せない。アンカがポーションを温存してくれたことに、ケイは素直な感謝の意を示した。
「身に余る御礼にございまする……。さて……、ケイ殿」
んんっ、と咳払いをしたアンカが、真っ直ぐにケイを見据え、居住まいを正す。
「この度は、厚かましながら、二つ、お願いがございまする」
「……なんだろうか」
ケイの眉が下がった。この誠実な、礼儀正しい老婆に、ケイは素直に好感を抱いている。アイリーンの面倒を見てもらった恩もあるし、何か願いがあるならば極力聞いてあげたい、とは思っていた。
しかし、やはりそれは、願いの中身に依る。
「……ひとつは、ポーションのことにございまする」
言いにくそうに、しかしはっきりと言葉を紡いだアンカに、「やはりそうきたか」とケイは思った。二人の会話に、ほぼ置物と化していたアイリーンも、さもありなんという顔をしている。
「病や怪我で、人は死ぬものにございまする。それが自然の運命、逆らえるものにはございませぬ。――しかしながら、生まれたばかりの赤子が、熱に侵され、息を引き取って行くのは、あまりにも虚しく、辛いものにございます……」
ずるり、と椅子から床へ滑り落ちるように、アンカは平伏した。
「今年、出産を予定している女が、村には三人ほどおります。そのうち、何人の赤子が大きくなれるかは、わたくしめにはわかりませぬ。ケイ殿。その魔法薬が、何物にも代えがたい、貴重なものであることは理解しております。しかし、どうか、ほんの僅かな量に構いませぬ。弱った赤子を助けられる程度のポーションを、お与え下されませぬか……」
「よしてくれ、婆様」
床に額を擦り付けるアンカを、ケイは抱え上げて椅子に座り直させる。
手を組んで俯いた、小さな、あまりに弱々しい老婆を前に、ケイは細く長く息を吐き出した。
――ポーションは、生命線だ。
ゲーム内でさえ、素材や生産設備の関係で、
――ここで情に流されるか、自分たちの命を優先するか。
考えるまでもないことだ。自ずと結論は出る。
「……すまない。婆様」
ケイは静かに、頭を下げた。
「これは……流石に、我々が持っていたい」
その言葉に、アンカは痛々しい表情で、ゆっくりと首を振った。
「いえ……最初から、わかっており申した。対価として要求致すには、あまりに過ぎたものであることは……お気になさらないでくだされ、ケイ殿。ただの老いぼれの、世迷いごとにございます」
「すまない……」
潔いアンカの言葉。ケイの中で申し訳なさが募る。
しかし、――耐えた。
「……で、もう一つの方の願いってーのは?」
場に沈黙が降り、飽和する寸前の絶妙なタイミングで、能天気を装ったアイリーンの一言が響く。
「おお……もうひとつ、これも厚かましい願いにございますが、」
表情を幾分か明るく回復させたアンカは、ケイとアイリーン二人に、
「――実はケイ殿に、精霊語のご指南を賜りたいのです」
アンカの申し出に、ケイとアイリーンは顔を見合わせた。
「……というと?」
「真にお恥ずかしながら、わたくしめは村の呪い師でありながら、精霊語の素養がありませぬ。村に伝わる精霊様への呪いの文言が、正しいものなのかどうかすら、分からぬのです」
ここでアンカは、まるで周囲に人がいないか気にするかのように、
「……正直なところ、病人にいくら祈りを捧げても、効能があるとは思えぬのでございます。ゆえに、文言そのものが間違えているのではないかと……」
小さな声で、囁いた。
「その程度ならば、お安い御用だが」
ケイは事も無げに答える。ポーションに比べれば、どうということはない頼みごとだった。
「本当にございますか! ありがとうございまする……」
再び床に平伏しそうになったアンカを、ケイとアイリーンは慌てて止めた。
†††
アンカへの
祈りの文言を添削され、ついでに有用な幾つかの動詞や指示語、精霊が好む触媒などもまとめて教わったアンカは、鬼気迫る様相でそれらを紙に書き取り、感涙に咽び泣きながら帰っていった。
教えた側のケイとしては、喜んで貰って嬉しくはあるものの、正直なところ複雑な心境だ。契約精霊を抜きにした"呪術"など、精霊語が正しかったところで、どれほどの効果があるものかわかったものではないからだ。
魔術も呪術も、精霊語で精霊に話しかけて自分の願いを告げ、魔力や触媒を捧げることにより何らかの目的を達成してもらう、という点で、その本質は変わらない。
ただ、『喚べば精霊が応えてくれる』のが契約精霊ありきの魔術で、『いるかどうかも分からない精霊に取り敢えず頼む』のが呪術、と定義されている。
有体に言えば、呪術は不確実なのだ。
精霊は、何処にでも存在するし、何処にも存在しない。例えば、ケイが契約している精霊【風の乙女】は、風の吹く場所になら何処へでも顕現し得る。
彼女は一陣の風であると同時に、大気全体の流れでもある。【風の乙女】のうち個体名を『シーヴ』と名乗る者は、契約したことにより今はケイ一人に注目しているが、本来ならば風の吹く場所全てを知覚していた存在だ。
その広大すぎる知覚の中で、ひとりの人間が祈りを捧げたところで、いちいちそれに注目する理由が、彼女にはない。
故に、精霊の気を引くために、呪術においては『精霊が好む空間』を演出することが何よりも大切らしいが、実際問題、そういった細かいテクニックを、ケイは知らなかった。
なぜなら、ゲームの【DEMONDAL】において、"呪術"は設定やNPCの話においてのみ示唆される存在で、実際にはプレイヤーがそれを使用することはできなかったからだ。ゆえに解析も、推測すらもできない。
ケイに出来たのは、うろ覚えのNPCの話を参考に、割と顕現しやすい低位の精霊が好む触媒を、アンカに教えることぐらいのことだった。
(……まあ、それでも、ないよりはマシか)
村の中の砂利道を歩きながら、考える。
年齢的にそこそこに魔力があると考えられるアンカが、正しい精霊語で祈りを捧げれば、それなりに精霊の注目を集める、かもしれない。
ケイとしては、宝くじに当たる確率が若干上がった、ぐらいに受け止めて貰いたかったのだが、今後の呪術に大いに期待を寄せているアンカを見ると、なんとも申し訳ない気分になる。
そんなことを考えている間に、村の中心の広場に到着した。
タアフ村の中で唯一、石畳が敷かれている空間。
中央に井戸を配し、普段は洗い物や水汲みなどで生活の中心となる場所に、今は整然と盗賊から回収した武具が並べられていた。
広場を取り囲むように、手の空いている村人たちがぐるりと見物に集まっている。村の生活ではお目にかかれないような武器防具に、大人から子供まで、男たちはみな目を輝かせていた。そんな彼らに、仕方がないわね、と言わんばかりの呆れた視線を向ける、洗い物の籠を手にした村の女たち。
もっとも、死体回収に向かった面子、クローネンやマンデルたちは、やはり死体の記憶を引きずっているのか、はしゃぐ気にもなれないようだったが。
「おや、ケイ殿。お話はもう終えられたのですかな」
石畳の上の武具をじっくりと見定めていたダニーが、ケイに愛想笑いを向けてくる。
「ああ。そちらは、首尾はどうだろうか」
「上々です。流石はイグナーツ盗賊団、装備の質もなかなかですぞ」
「そうか」
ごまをするように揉み手のダニー。鷹揚に頷いたケイは、並べられた長剣にちらりと目をやった。
(……成る程、さすがに一番質がいい奴は取らないでおいたか)
あらかじめ目をつけていた、最も質の良かった長剣は、そのまま地面に置いてあるのを確認する。しかし体感的に、少々剣全体で見ると、どうにもその数が少ないような気がした。おそらく、ケイがアイリーンと話している間に、
苦笑交じりに、そんなことを考えていたケイだったが。
ふと、剣のそばに並べられていた革鎧に目をつけて、その顔色を変えた。
胴鎧が――八つ。
「いかがなさいました? ケイ殿」
「……ダニー殿。一つ尋ねたいのだが、この鎧は、これで回収されたもの全てか?」
「えっ」
ケイの問いかけに、ひい、ふう、みいと鎧の数を数えたダニーは、
「ええ、これで合っている筈です。きっかり八人分。あの場にあった
「……そう、か」
――足りない。
昨夜ケイが戦った盗賊は、全部で十人。
(――二人、逃したのか)
歪みそうになる表情を、必死に押し固める。
今すぐサスケに飛び乗って、現場をもう一度確認しに行こうかとも思ったが、不思議そうな顔でこちらを覗き込むダニーを見てやめた。この業突く張りの男が余計な死体を見逃すはずがないし、第一、ここで怪しまれるべきではない、と。
(……せめて、逃げた奴の所持品、ナイフでも何でもいい、それがあれば【追跡】が出来るんだが、)
整然と並べられた武具を前に、ううむ、と唸る。魔術の行使に必要な触媒の
肝心の、その『持ち物』がどれなのかが、わからない。
だからといって、手当たり次第に試すわけにもいかない。
「…………」
訝しげにこちらを見るダニーをよそに、顎を撫でながら、ケイは考えを巡らせた。
「……ふむ。これら戦利品についてだが」
しばらくして、唐突に話を切り出したケイは、目をつけていた長剣に歩み寄り、おもむろにそれを拾い上げる。
昨夜の戦闘で、ケイのサーベルは刃の付け根が歪み、すっかり使い物にならなくなっていた。元々、力任せに『叩き切る』使い方しかできないケイは、サーベルのような『斬る』タイプの剣と相性が悪い。
それでもわざわサーベルを使っていたのは、相方であるアンドレイに万が一のときすぐに渡せるようにするためだが――現状のケイには壊れにくい、頑丈な長剣が必要だった。
しゃらり、と鞘から白刃を抜き放つ。
手になじむ重さの剣だ。刃渡りは八十センチほど、刃は程よく肉厚で、切れ味も悪くなさそうに見える。試しに、片手で振り回してみた。
ビッ、ピゥッ、と鋭い風切音。
がやがやと騒がしかった村人たちが、その剣圧にぴたりと押し黙った。
(……速い)
一振りの速さに、思わず目を見張ったのがクローネン。
(……ブレないな)
寸分の軸の乱れもなく、ぴたりと止められた剣を見て、ケイの底知れぬ膂力を推し量ったのがマンデル。
「ダニー殿」
「な、なんでしょう」
「この剣と、回収した銀貨は頂戴いたす」
抜き身の剣を手にしたまま、ケイは有無を言わせぬ口調で言い放った。
「その代わり、残りの武具や、装飾品は丸ごと差し上げよう。随分と世話になったからな。よろしいか?」
「なっ!」
ダニーが目を剥いたのは、ケイの申し入れが想像以上に破格のものだったからだ。盗賊たちの銀貨は、それなりの財産になる金額ではあったが、武具や装飾品を全て売り払った際に見込まれる収入は、それを上回るものだ。周囲の村人たちも、おお、とどよめきの声を上げる。
「はっ、はい! 勿論です!!」
「そうか。ならばよかった……ところで、気のせいかもしれないが、剣の数が少々足りない気もするな。まだ、鍛冶屋が手入れをしているのだろうか?どうでもいいことだが、銀貨に
ケイがにこりと笑いかけると、興奮で赤らんでいたダニーの笑顔が、僅かに青ざめて引きつった。
そんな彼をよそに、夕焼けに染まり始めた空を見上げ、ケイは小さく溜息をつく。
「……今日は、なんだか疲れが抜けきれていないようだ。すまない、あとは任せてもよろしいかな」
「も、勿論です」
「ありがとう。戻る、といってもダニー殿の家だが、俺は失礼するよ」
ぱちん、と剣を鞘に戻したケイは、ダニーに背を向けてきた道を引き返し始めた。
(……正直、残りの武具やら装飾品やらも勿体ないが、換金する時間の方が惜しい)
ダニーたちの話によれば、近いうち、具体的にはあと一週間ほどで、行商人たちが村にやってくる。
そのときに武具やら装飾品などを売り払い、盗賊たちから奪った品を現金に換えるか、あるいは諸々の物資と物々交換するのがケイにとっては理想的だったのだが、敵を逃がしたとなればそうも言っていられなくなった。
相手は、地方一帯に名を轟かせるような盗賊団だ。昨夜戦った連中の腕前からして、あれが本隊ということもあるまい。おそらくはせいぜいが一部隊。
となれば――かなりの確率で、報復の攻撃があるはず。
(装飾品も……指輪がヤバそうだしな)
持ち運びが楽な装飾品類は持っていくのもアリだったが、盗賊たちがはめていた指輪のうち、妙に画一的なデザインのものがあったことが気にかかる。
(仮に、アレが盗賊団の印的な指輪だったら、持ってるだけで逆に俺の方が【追跡】を喰らう可能性もあるしな……)
ある程度大きな武装集団ともなると、魔術師の一人や二人がいてもおかしくない。
かといって、「その妙に似た感じの指輪以外の装飾品だけ貰うわ」というのは、いかにも怪しい。よって、装飾品類は全てダニーたちに譲った方が自然だった。
(……まあいい、銀貨全部と長剣だけでも悪くない収入だ)
あとは。
(アイリーンが本調子に戻り次第、村を出よう)
右手に握る剣の鞘に、ぎり、と力がこもる。
明るかった森が、黄昏の中で鬱蒼と暗く染まっていく。
ケイは、なんとも言えない胸騒ぎを抱えたまま、急ぎ足でアイリーンの待つ家へと戻っていった。
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