12. 遺物


 夢すら見ない、深い眠りだった。



 はっ、と突然、覚醒するようにしてケイは目を覚ます。


 水の底から水面へ、一気に引き上げられたかのような感覚。窮屈な寝台の上、目に飛び込んできたのは木造の梁が剥き出しになった天井。ぼんやりとした眠気の残滓を振り払い、ケイはがばりと上体を起こす。


 そこは、こぢんまりとした部屋だった。


 開け放たれた窓からは、穏やかな太陽の光が差し込んでいる。埃のない、清潔に保たれた空間。しかし木箱チェストや虫除けの乾燥ハーブの束、折りたたまれた毛皮など、所狭しと詰め込まれた雑多な生活物資が、物置然とした印象を与える。


 どこか――見覚えが、あった。


(あれ、ここってアイリーンが寝かされてた部屋じゃ……)


 たしか、クローネン、村長の次男の家だったはず。しかし小さな部屋の中に寝台は一つしかなく、そして当然のように、ケイは一人でそれを占有していた。



 アイリーン。



「……何処行った!?」


 叫びながら飛び起きようとした矢先、左の頬を不意に襲った鋭い痛みに、「おぅふ……」と呻いたケイは動きを止め、恐る恐るといった様子で顔に手を伸ばした。


 ざらりとした感触と、疼くような痛み。どうやら左頬には湿布のような、包帯のようなものが当てられており、かさぶたのようにくっついているらしい。そこでケイは、昨夜、盗賊と交戦中に短剣で切り裂かれた頬の傷を、そのまま放置していたことを思い出した。


(誰かが手当てしてくれたのか……)


 触れた指先に、つんと鼻の奥にしみるような薬液の匂いが付いている。おそらくは村の薬師を兼ねている、呪い師のアンカの手によるものだろう。口の中、舌で頬をつついて痛みを再確認したケイは、これからはしばらく喋るのにも物を食べるのにも苦労しそうだ、と少しばかりブルーになった。


 いやしかし、そんなことはどうでもいいのだ、今は。


 アイリーン。アイリーンどこ行った。


 寝床から抜け出し、バンッと勢いよく扉を開いて部屋の外へ出る。


 が、それほど大きくはない上に、構造も単純なクローネンの家だ。扉を開けると、すぐそこは居間だった。部屋の真ん中に置かれた食卓、席について今まさにスープを食べようと、スプーンを手に「あーん」と大口を開けた幼女と、ばっちり目が合った。


「…………」


 ケイは扉を開け放った格好のまま、幼女はスプーンを口に運びかけた姿勢のまま、それぞれ固まる。


 可愛らしい女の子だった。歳は三、四歳といったところだろうか。肩まで伸ばした栗色の癖毛、あどけなさを漂わせる顔にはそばかすが散っており、とび色をした両の瞳は、ケイに視線を釘付けにして大きく見開かれている。まるで森の中で熊にでも遭遇してしまったかのような固まり具合。


「……やぁ」


 ぎこちなく、笑みを浮かべたケイは、とりあえず幼女の緊張をほぐそうと、片手を上げて対話を試みる。


 しかしケイは、自分の現在の格好をすっかり失念していた。


 重武装な上に、装備は自他問わぬ血液でデコレーション済み、この世界の住人の中では頭抜けて筋肉質で大柄な体格と、頬の傷のせいで引きつった笑みは威嚇の表情にしか見えず、それは、いたいけな幼女を怯えさせるには充分に凶悪な様相で、


「キャ~~~~ァ!」


 一拍置いて、本人としては必死な、可愛らしい悲鳴を上げた幼女は、椅子から飛び降り「ママーッ!」と叫びながら、とてとてと家の外へ走り出ていった。右手にスプーンを握りしめたまま。


 あとには、しょんぼりと手を下ろすケイと、食卓の上で湯気を立てるスープだけが残される。


 しばらくして、ぱたぱたと家の外から近づいてくる足音。


「お目覚めになったんですね。お早うございます」


 家の中に入ってきたのは、そばかす顔の若い女だった。洗い物でもしていたのだろうか、濡れた手を前掛けで拭きながらぺこりと頭を下げる。


 どこかで見たことがあるぞ、とケイはしばし考え、このそばかす顔の女は、昨夜村長の家で歓待を受けていた際、アイリーンが死にかけていることを伝えにきた者であることを思い出す。状況から考えるに、クローネンの妻だろうか。


「お早う。申し訳ない、どうやら娘さんを酷く怖がらせてしまったようだ」


 おどけたように肩をすくめ、戸口に目をやった。


 扉の外から半分顔を覗かせていた幼女が、さっと扉の裏に隠れる。


「いえ、うちの子はあまり、村の外の人には慣れていませんから……緊張しているんでしょう。ジェシカ、出ておいで」

「やっ!」


 ジェシカと呼ばれた幼女の声が、扉の外から返ってきた。こりゃ嫌われたもんだ、とケイも苦笑する。


「あ、わたしは、クローネンの妻のティナです」

「俺はケイだ、よろしく。ところで、少々聞きたいんだが、昨夜、俺の連れがここで厄介になっていたと思う。彼女は今どこにいるんだろうか?」

「お連れの方でしたら、村長の家に」


 ハキハキと答えたティナの言葉に、ケイはほっと安堵の息を吐いて、


「そうか、もう意識は戻ったか……」

「あ、いえ、まだ眠られたままみたいです」

「えっ?」


 意識を取り戻したので村長の家に招かれている、と解釈したのだが、違ったようだ。ではなぜ自分と場所をチェンジしたのか、と問えば、


「その、昨日夫たちが倒れたケイさんを運ぼうとしたのですが、重くてなかなか動かせず、代わりにお連れの方は凄く軽かったので、ケイさんをウチに泊めてお連れの方を村長の家に移した方が楽という結論に……」

「成る程、それは……ご迷惑をおかけした」


 がたいがデカい、筋肉質、完全武装、と三拍子そろえば、それは重いだろう。見れば、篭手や脛当て、兜など幾つかの装備は外されているようだが、革鎧の胴やその下の鎖帷子だけでも十分に重量はある。


 しかし、"竜鱗通しドラゴンスティンガー"を含め、外された装備はどこに行ったのだろうか。


「あ、お預かりしている武具は、村の革細工の職人が手入れをしてるはずです。お義父さ――村長が命じたとか」


 腰の鞘があったあたりに手を伸ばし、さり気なく視線を彷徨わせたケイに、目ざとくその意図を察したティナが告げる。


「そうか、ありがたい」


 物が物だけに盗られるとも思っていないが、はっきりと知らされるとやはり安心できるものだ。


(しかし……、もしこの村が悪人ばかりだったら、俺が意識を失った時点でアイリーン共々身ぐるみを剥がされていても、おかしくなかったわけか)


 村ぐるみの追剥。


 ゲーム内にはそこまで酷い罠は存在しなかったが、中世の資料などでは度々その存在が言及されている。もし、このタアフの村がその一つであったならと考えると、なかなかに恐ろしいものがある。


 たまたま善人が多かったからよかったものの、一歩間違えば危なかった、と振り返る。やはり昨夜の自分は、冷静なつもりだったが、何かしら動転していたのだろうか。


「…………」


 突然、ケイが厳しい顔で考え込んでしまったので、何か機嫌を損ねるようなことでもあったのかと、真意を量りかねたティナが困惑の表情を浮かべた。


 しかし、その沈黙が長くなる前に、


「よお、目が覚めたのか」


 戸口から声をかけてきたのは、ピッチフォーク――四、五本の歯を持つ熊手のような農具――を肩に担いだクローネンだった。額に薄く汗をかいているところを見るに、農作業をしていたのか。


「ああ、ぐっすりと眠ったおかげで、随分と元気になったよ。迷惑をかけた」

「なに、気にするな」


 ケイの謝意に、小さく笑みを浮かべるクローネン。昨夜に比べると随分とフレンドリーな様子に、おや、とケイは小さく首を傾げる。


「そういや、あんたが目を覚ましたら、話があるって親父が言ってたんだ。来るか?」

「村長の家か?」

「そうだ」


 アイリーンの様子も見に行きたいケイとしては、是非は無い。


「ああ、行こう」


 重々しく頷いたその瞬間、ケイのお腹がぐぅぅ、と盛大に音を立てた。


「…………」


 何が起きたのか理解できないケイ、目をぱちくりさせるクローネン。ティナが「ふっ」と声を出し、震えながら口を押さえてケイに背を向けた。


「おなかすいたの?」


 いつの間にか、クローネンの影に隠れるようにして足にしがみついていたジェシカが、舌足らずな声で聞いてくる。


「どうやら、そのようだな」


 まるで他人事のケイの返答に、噴き出したクローネンとティナが声を上げて笑う。ケイとしては至極真剣に、幼少期以来の「空腹で腹が鳴る」という現象に感心していたのだが、その真面目くさった態度が尚更笑いを誘うらしい。


「ティナ、まだスープはあったな?」


 笑いを噛み殺しながら、クローネンが尋ねた。


「ええ、あるわよ」

「この腹ペコの客人に昼食を。俺は親父を呼んでくる」


 わしゃわしゃとジェシカの頭を撫でつけてから、クローネンはそそくさと家を出て行った。家の外から押し殺したような笑い声。残されたジェシカが、スプーンをキャンディーのように舐めながら、くりくりとした目でケイを見上げている。


「その、お席にどうぞ。庶民のスープですけど、お口に合うかどうか」


 かまどの鍋から木の器にスープをよそったティナが、ケイに笑いかけた。今更のように恥ずかしくなったケイは、赤面しながら「ありがとう」と席に着く。


「おなかぺこぺこ~」


 ジェシカもケイの対面に座り直し、テーブルの下で足をぶらぶらとさせながら、スープを食べ始めた。


 ケイもティナから木のスプーンを受け取り、供されたスープを口に運ぶ。黄色の、とろりとした液体。口にした瞬間、ざらっとした舌触りと、仄かな甘みのある素朴な香りが広がった。塩以外に調味料は使っていないようだが、素材が良いからか、野菜の旨みが生きている。


「……美味しい。これは?」

「かぼちゃのポタージュです。パンと一緒にどうぞ」


 そう言って、ことりとテーブルに置かれる堅焼きのパンの籠。かなり堅いが、スープに浸してふやかすと食べやすいようだ。


 野菜と穀物中心のさっぱりとした食事だったが、一口味わった途端に猛烈な空腹を自覚したケイは、頬の痛みも忘れてモリモリと食べ始める。


 食べながら、ジェシカが全くパンに手を伸ばさないことを不思議には思ったが、どうやら幼い彼女にとって堅焼きのパンは食べづらいので、代わりにスープに穀物を入れリゾットのようにして食べているらしい。


 にこにこと鍋をかき混ぜるティナは、時折申し訳なさそうに器を空にするケイにお代りを継ぎ足しながら、そんな二人の様子を見守っていた。


「戻ったぞ~」


 クローネン宅から村長の家までは、それほど離れていない。しかしある程度ケイが落ち着くタイミングを計っていたのだろう、たっぷりと時間を置いてからクローネンが戻ってきた。


「ケイ殿、お目覚めになられたのですな」


 杖を突きながら、ベネットが中に入ってくる。その背後には、愛想笑いを浮かべたダニーの姿もあった。


「おじーちゃん!」


 ちょうど食べ終わっていたジェシカが、スプーンを置いて「きゃー」と声を上げる。


「おお~ジェシカや~、今日も元気かのぉ~」


 普段から好々爺然とした笑顔を張り付けているベネットだったが、この時ばかりは本当にだらしなく相好を崩し、「おじいちゃんだよ~」と言いながら孫娘の額にぶちゅ~っとキスの雨を降らせる。あごひげがくすぐったそうにしながらも、キャッキャとはしゃいでいるジェシカ、そんな祖父と孫の姿を穏やかな笑顔で見守るクローネンとティナの夫婦。


 しかし、そんな穏やかな雰囲気の中でただ一人、ダニーだけはどこか、取ってつけたような乾いた笑みを浮かべているのが、ケイには印象的だった。


「さて、ジェシカや。もうお腹も一杯になったじゃろう、お友達と遊んでおいで」

「おじーちゃんは?」

「あとで一緒に遊んであげよう。でも今は、このお兄さんとお話をしなければならないんじゃよ」

「ん~……わかった」


 意外と聞き分けの良いジェシカは、そのままぴょんと椅子から飛び降りて、ぱたぱたと外に走り出ていく。


「……可愛いお孫さんだ」

「間違いありませんな」


 ケイの言葉に、うむ、と重々しく頷くベネット。


 その間にも、食器を手早く片付けたティナが、あらかじめ沸かしていたお湯で人数分のハーブティーを淹れ、「洗い物をしてきますね」と食器を手に、さり気なくその場から席を外す。


 後には、男たちだけが残った。穏やかな団らんの空気が、自然と引き締まっていく。


「さて、ケイ殿。お身体の調子はいかがですかな」


 ケイの対面の席に着きながら、ベネット。ダニーがその横の椅子に腰を下ろし、クローネンはケイの隣で椅子を引いた。


「すこぶるいい。今しがた、馳走になったおかげで腹も膨れたし、大変美味だった。それと、この傷を治療してくれたのは、アンカの婆さんかな」


 思い出したように、ずきずきと痛む頬の傷を撫でながら、ケイ。


「そうですじゃ。あの婆の特製軟膏は、効きますぞ。流石に、ケイ殿のポーションには敵いませんがの」

「そうか、あとでお礼を言わねばな……。それと村長、俺の武具の手入れまで手配してくれた、と彼の妻から聞いたが」


 ケイが隣のクローネンを見やりながら言うと、ベネットはにこりと笑みを浮かべて、


「せっかくのお見事な武具が、返り血で痛みかねませんからの。僭越ながら村の職人に手入れをしておくよう、命じておったのです。とはいえ、こちらの独断となってしまいましたが――」

「いや、こちらとしても助かった。ありがとう」

「それならば僥倖ですじゃ。困ったときはお互い様と言いますからの……ああ、あとでその胴鎧も修繕しておくよう、命じておきましょうぞ」


 愛想よく話を進めるベネット。それに付き合って愛想笑いを張り付けたケイは、タダより恐ろしいものはないな、と心の中で呟いた。


「それで、話があるとのことだが」

「おお、そうでしたの」


 ケイの言葉に、ベネットがぽんと手を打ってみせる。わざとらしいというよりも、予定調和な言動。


「話とは、昨日の盗賊のことですじゃ。昨夜は、詳しいお話を伺おうにも、お疲れの様子でしたからの……」

「申し訳ない」

「お気になさらず。して、事の顛末をお聞かせ願えますかな」

「もちろん」


 ベネットたちに、昨夜、村を出た後のことを話して聞かせる。ミカヅキを駆り現場に戻り、そのまま野営していた盗賊たちを襲撃したこと。その戦闘でミカヅキを失った代わりに、盗賊たちを全滅させたことなど。


「全滅……」


 ケイの言葉を反芻するかのように、ベネット。


 十人近い敵を相手にして戦闘に勝利し、なおかつ全滅させるなど、にわかには信じがたい話だ。しかし、少なくとも何人かを殺害しているのは、ケイが浴びた返り血を見れば明らかだった。


「成る程。話は分かりました、……場所は、『岩山』の近くなのですな?」

「そうだ」

「賊どもの死体は、いかがなされましたかの?」

「そのまま放ってきた。色々と値打ちのありそうなものもあったが、回収する時間も余裕もなかったからな」


 ケイがそう言うと、ベネットとダニーの目がきらりと輝いた。思わず苦笑しそうになる。この話の方向性が見えてきた。


「となれば、やはり回収しに行くべきでしょうな」

「……そうだな。案内しよう」

「ふぅむ、しかしケイ殿は昨日の戦いお疲れでしょう、今日はゆっくり休まれては如何ですかな」

「そうです、『岩山』であれば場所はわかりますし、わざわざケイ殿のお手を煩わせるまでもありませんぞ」


 ベネットが言い、ダニーがそれに乗っかる。

 それに対し、少しばかり影のある哀しげな表情を作ったケイは、


「馬を、そのまま置いてきているのでな。まずは直接、弔ってやりたい」

「なるほど。そういうことでしたら……」


 これ以上、ついてくるなとも言えない。


「いやはや、お手数ですがケイ殿、案内をお願いしてもよろしいですかな」

「もちろん、俺に是非は無い。この村の人々には大変よくしてもらっているし、このぐらいはしないとな」


 ははは、と朗らかに笑った一同は、物資回収の準備をするために一度解散する運びとなった。

 クローネンは人手を集めに。ケイは胴鎧の修繕と、残りの武具を回収するために革職人の所へと向かう。


「……『この村の人々には大変よくしてもらっている』、か。言ってくれるわい」


 自宅へ引き返しながら、ベネットは隣のダニーにぼやくようにして呟いた。それを受けて、小さく肩をすくめたダニーは、


「案外、本当に馬を弔いたいだけかも知れんぞ、親父」

「さてな」


 長年を馬と共に過ごす生粋の草原の民ならともかく、どこか胡散臭く感じられてしまうのが、あのケイという男だった。


「まあ、いずれにせよ、そこまで甘くはなかろうさ」

「たしかにの」


 流石に少しわざとらしすぎたかの、とベネットは苦笑する。そんじょそこらの追剥と違って、イグナーツ盗賊団ほどの規模の盗賊団ならば、そこそこ質の良い武具を使っているはずだ。あわよくば剣の一、二本でも誤魔化せれば、と思っていたのだが、そうは問屋がおろさないらしい。


「まあ、なるようになるじゃろ。取れるだけの物は取ってこい、ダニー」

「分かってる。荷馬車を使うぞ、親父」


 ほくそ笑む親子二人は、体格こそ違えど、やはり似たような顔をしていた。




          †††




 革職人に胴鎧を預け、代わりに籠手や脛当て、兜などを受け取ったケイは、村長の家に戻っていた。


 ケイが訪問した際、"竜鱗通しドラゴンスティンガー"を惚れ惚れと見つめていた年配の革職人は、「この弓に使われている皮膜は何なのか」としきりに尋ねてきた。


 正直に「飛竜ワイバーンの翼の皮膜だ」と答えたケイだが、大笑いした職人はさもありなんといった風に何度も頷き、「そりゃ見たこともないわけだ!」と随分と面白がっていた。どうやら冗談だと思ったらしい。


 逆にそのあと、ケイの革鎧一式が森大蜥蜴グリーンサラマンデルの革だと知った途端、職人がおっかなびっくりな手つきで革鎧を扱いだしたことが、ケイには可笑しかった。


(人を驚かせたいなら、適度な現実味がないとダメってことだな)


 荒唐無稽すぎるのも考えものだ、とケイは思う。


 ちなみに、森大蜥蜴グリーンサラマンデルとは、地域を問わず深い森の奥に棲む大型の爬虫類で、ソロで遭遇すれば逃げるのが一番と言われる上位のモンスターだ。


 その名の通り、深みがかった青緑色の表皮を持つ森大蜥蜴グリーンサラマンデルは、成体ともなればその体長は10メートルを優に超える。


 熊型の巨大モンスター、大熊グランドゥルスと双璧を成す森の王者だ。


 特筆すべきはその機動力だろう。バカでかい巨体から鈍重なイメージがあるが、その見かけに反して森を駆けるのがとにかく速い。木が耐えきれれば木登りすら可能なので、その踏破性は言わずもがなだ。少なくともケイの足では振りきれない相手といえる。


 強靭な革はなかなか攻撃を通さず、分厚い肉は衝撃にも強い。太い腕も、鋭い爪も、長い尻尾もギザギザに尖った歯も、全てが脅威ではあるが、何よりも強力なのはその巨体と重量そのものだ。体当たりやのしかかりを食らえば、どんなプレイヤーでも即死は免れない。しかも、歯の隙間から血液の凝固を妨げる毒が分泌されているので、少しでも噛まれると出血が止まらなくなるというオマケつきだ。顎のサイズの関係で、毒が活きる前に胴体をごっそりと食い千切られ即死するパターンがほとんどだが。


 ともかく、特定の地域に行かねばエンカウントしない飛竜ワイバーンと違い、人里と生活圏がかぶる森大蜥蜴グリーンサラマンデルの方が、こちらの世界では現実的な脅威として認知されているのだろう。実際のところ、地を這う竜といっても過言ではない実力を持つモンスターだ。


 一度獲物を追いかけ始めると猪突猛進なところがあるので、地形を駆使した罠さえ張れば、狩ること自体は不可能ではない。ゲームでは、上級者向けの、比較的手に入れやすい防具の素材として普及していた。が、狩るのが可能とはいえ、入念に準備をしたプレイヤーのパーティーでも、度々事故死は発生しうる。


 ゲームならば笑いごとで済むが、現実リアルとなった今では、後衛のケイですら相手取りたくないモンスターだった。




「ケイ殿、戻られましたか」


 村長の家には、まだダニーもクローネンもおらず、ベネットがひとりテーブルの上で帳簿を広げているのみだった。


「ああ。とりあえず、職人に胴鎧を預けてきた」

「成る程。……その鎖帷子も見事なものですな」


 革の籠手、脛当て、兜に鎖帷子といった出で立ちのケイを見て、ベネットが感心した声を出す。革職人の所で、鎖帷子にこびりついていた血を濡れた布で拭いてきたので、その細やかな鎖の質感がさらに際立って見えた。


「この帷子には何度も命を救われているよ」


 撫でつけると、しゃらしゃらと音を立てる冷たい金属が心地よい。


「ところで、皆が集まるまで、アイリーンの様子を見ておきたいのだが、よろしいか」

「もちろんですとも。こちらへ」


 よっこいせ、と席を立ったベネットに案内され、奥の部屋へと通される。書籍や、巻物の類が収められた本棚。お洒落な装飾の施された木箱チェスト。床には落ち着いた緑色の絨毯が敷かれ、そして、クローネンの家のそれよりも、明らかに上質な大きな寝台の上。


 眠り姫は、そこにいた。


 すやすやと、静かな呼吸を繰り返す様は、まるで本当にただ眠っているかのようだった。普段ポニーテールにまとめていた髪はほどかれ、黄金の糸のようにして枕元に広げられている。汚れていた黒装束を、誰かが替えてくれたのだろう、今は清潔な白い薄手の服を身にまとっていた。血色を取り戻した顔に、苦しみや痛みの色はない。穏やかな陽光の差し込む部屋の中、それはまるで完成された一枚の絵画のようだった。


「アイリーン」


 枕元まで歩み寄り、膝をついてそっとその頭を撫でる。僅かに身じろぎをしたように見えた――気がしたが、それはケイの願望がもたらした錯覚だったのかも知れない。

 

「今朝、何か、うわ言のようなことをおっしゃっていました」


 突然、すぐそばから、か細い声。ぎょっとして見やれば、ベッドの対面、静かに佇む女性の姿があった。


 美しい女性だ。


 全体的に華奢な身体のライン。ただの農村の村人とは思えないほどに肌の色は白く、亜麻色の髪も艶やかに手入れがなされていた。すっと通った鼻筋。穏やかな笑みを浮かべる唇。淑やかさと色気を両立させた目元には、ひとつ、泣きぼくろがあった。そのせいかは分からないが、これほどの美しさにもかかわらず、どこか線の細い、薄幸の雰囲気を漂わせている。


「異国の言葉のようで、何をおっしゃっているのかは分かりませんでしたが……」


 少し、申し訳なさそうに言葉を続けた女性は、


「……申し遅れました。ダニーの妻の、シンシアです」


 声を出せずにいたケイを見て、しゃなりと、淑やかに礼をして見せた。


「あ、ああ。ケイという者だ。よろしく」


 我に返ったケイが慌てて目礼を返すと、くすり、とシンシアは笑った。


「いや、すまない。全く気が付かなかった」

「それだけ、お連れの方が心配でいらっしゃったのですね」


 静かな部屋の中に、シンシアの優しげな声が響く。


「そう……だな。やはり、そうだろう。あなたが、アイリーンの世話をしてくださっているのだろうか」

「今朝からですが、そうなります」

「そうか……ありがとう」


 ケイの心のこもった謝意に、シンシアはやはり静かに、「いえ、」と一言だけ答えた。


 と、そのとき、部屋の外からのしのしと足音が近づいてくる。


「ケイ殿! 準備が整いましたぞ! 参りましょう!」


 ばん、と扉を開けて入ってきたのは、上機嫌なダニーだ。腹の贅肉を震わせてノリノリなダニーを見て、この男はどう足掻いても絵にならないな、とケイは思った。


「いやはや、お連れの方――アイリーン殿は、やはりお美しいですな! まるで女神のようではないか……! ああ、ケイ殿、いつまでも見つめておられたいお気持ちは十分にわかりますが、そろそろ参りませんと日が暮れてしまいますぞ!」


 何が楽しいのか、身振り手振りを交えて声を張り上げるダニー。自分の妻を前に他の女をベタ褒めするのはどうか、と思ったケイだが、シンシアはアイリーンの髪を愛おしげに撫でるのみで、特に反応は見せなかった。


「そうだな、行こうか」


 鎖帷子の位置を直しながら、ケイは立ち上がる。


「シンシアさん、アイリーンを頼む」


 はい、と目礼を返すシンシア。


 アイリーンに目をやり、「行ってくる」と小さく呟いたケイは、マントを翻して部屋を後にした。




 回収作業に向かうのは、総勢で八人。


 ケイ、クローネン、ダニー、マンデル、そして村の自警団の男衆が四人だ。ケイはサスケに乗り、ダニーと数人は荷馬車、残りは徒歩で現場へ向かう。


 手綱を、括り付けていた棒から外す際、「どこへいくの?」と目をぱちくりさせていたサスケに、ケイはただ一言、「ミカヅキを迎えに行くよ」とだけ告げた。


 ミカヅキ、という単語に反応したのか、嬉しそうに尻尾を揺らすサスケを見て、ケイはなんとも、居た堪れない気持ちになった。



 森を抜け、草原を突き進む。



 昨夜とは打って変わって、現場への道のりはなんとも平和なものだ。


 天気は快晴、風は穏やか。真っ青な空には羊雲がぽつぽつと浮かんでいる。


 徒歩の村人たちに速度を合わせ、ぱっかぱっかと蹄の音を響かせるサスケの上、ゆっくりと草原の道なき道を進んでいると、まるでピクニックにでも出かけているかのような錯覚に陥った。


 しかし、現場の廃墟に近づくにつれ、そんな平和な錯覚も徐々に薄れていく。


 まず、異常として感じ取られたのは、ガァガァ、ギャァギャァと、耳をつんざくような鳴き声だ。


 鳥。


 どこからこんなに集まったのか、と。


 疑問に思わざるを得ないほどの、鳥の大群。


 大地を覆い尽くす勢いで、鳥たちが『何か』を啄んでいる。


 そして、それが見える距離まで近づいたあたりで、空気に混ざる死臭が、明らかにその存在感を増す。穏やかな陽光の降り注ぐ草原の真ん中、しかし、局所的に、視覚も嗅覚も聴覚も、不協和音を奏でるように否応なく異常を知らせてくる。


 鳥たちの蠢く木立の廃墟。


 鳥葬、という言葉を、ケイは連想した。


「ええい、邪魔だ邪魔だ! 消えろ!」


 荷馬車から降りたダニーが、棒を振り回して鳥を追い払う。突然の闖入者に食事を邪魔され、恨みがましい声を上げた鳥たちが、バサバサと騒々しく翼をはばたかせ飛び立っていった。


 羽根のヴェールが取り払われ、死体の様相が露わになる。


「…………」


 一同は、一瞬、言葉を失った。



 空き地に転がる四人の盗賊。


 爆発に巻き込まれたかのように、撒き散らされた血肉。


 一夜が明け、鳥に食い荒らされたことを鑑みても、その体の損壊具合は異様であった。


 頭蓋骨を矢で岩に縫い留められている者。


 首が半ばから引きちぎれたようになっている者。


 肋骨ごと心臓を射抜かれ、胸部がごっそりと陥没している者。


胴体が異様に折れ曲がり、口から臓物をぶちまけている者に至っては、人が人に何をどうすればこんなことになるのか、見当もつかない。


 実感が湧かない。


 目玉をほじくられ、皮膚と肉を剥ぎ取られ、鳥に無残にも食い荒らされた顔面からは、とてもではないが、末期まつごの表情を推し量ることなどはできない。


 しかし例外なく、限界にまで開かれた口蓋からは、今にも死者たちの断末魔の叫びが聴こえてきそうで――。


 うぇ、と誰かが嘔吐えずく。


 動きを止めた人間たちに、これ幸いとばかりに戻ってきた数羽の鳥たちが、再び死体をつつき始めた。


 大きな一羽の黒いカラスが、食い破られた腹をつんつんと啄む。傷口に頭を突っ込んで、そのままずるりと大腸を引きずり抜いた。


 でろん、と力なく垂れるそれは、血の気が抜けてもなお、赤く濡れて。


 くちゃくちゃと咀嚼するカラスの黒い瞳が、馬上のケイをじっと見つめた。


「――――」


 ケイは、こみあげる嘔吐きに、耐える。


 濃厚な死臭と、赤と黒で彩られた血と肉の光景。これだけで既に、生理的に、充分な吐き気を催す。


 ましてやそれが、自分の手によるものともなれば。その事実が、そっとケイの首に手を添える。


 馬上、顔を青くしたケイは、静かに空を見上げた。


 後悔などない。罪悪感も、おそらくない。最初の一人を手に掛けた時点で、そんなものは全部投げ捨てた。


 そもそも自分は被害者だ。殺すに足る正当な権利も、理由もある。この盗賊たちは死んで当たり前な存在だと心から思うし、それを殺した自分に責められるいわれはないのだとも考える。


 考えるのだが。


 それでも、単純に気持ち悪いものは気持ち悪いのだ。


 おぇぇ、と耐えきれなくなった若い村人が、膝を突きながら草原に胃液をぶちまける。それにつられるようにして、他の村人も口元を押さえ、何人かはやはり耐えきれずに、吐いた。


 吐かなかったのは、顔色を悪くしたダニーと、同じく気分の悪そうなクローネン、そしてこんな状況下でもいつも通りに見えるマンデルだ。


「ケイ、」


 マンデルが静かに、ケイを見やる。


「次からは、もう少し上品に殺した方がいい。……その方が、片付けが楽だ」


 そしてケイの返事は待たずに、手近の比較的損壊の少ない死体に近寄って、躊躇うことなく遺品を漁り始めた。


「…………」


 クローネンが黙ってそれに続き、ダニーは「おい、お前らしっかりせんか!」と声を張り上げて他の村人たちを叱咤する。


「……ああ」


 低い声で答えたケイは、静かにサスケから降り、誰も手をつけようとしない、一番悲惨な状態の遺体に近づいた。罪や責任といった、様々な言葉や考え方はあるが、少なくとも事実そのものはこういった形で付いて回るのだろう――。


 むせ返るような血臭に辟易としながらも、ふとこちらを見守る鳥たちを見やり、皮肉げに口の端を吊り上げる。立つ鳥跡を濁さず、とはよく言ったものだ。


 その後、ケイたちはその手をどす黒く汚し、革鎧や剣などの武具、指輪などの装飾品、そして銅貨銀貨を回収した。空き地の端に小さな穴を掘り、四人ともまとめて埋葬する。


 ケイはもとより村人たちも、疲れ果てて既にげっそりとしていたが、残念ながらこれで終わりではなかった。案内のケイを先頭に、今度は西へと突き進む。




 第二の現場へと到着した。こちらの死体は空き地のそれに比べると、まだマシな状態だった。のろのろと村人たちが作業に取り掛かる中、サスケの手綱を引いたケイはゆっくりと『それ』に歩み寄る。



 ――酷い有様だ。たった一晩が経っただけなのに、見事な毛並み、逞しい筋肉、それらの見る影もなかった。



 胴体に受けた矢傷を起点にして、はらわたを食い破られている。皮肉なのは、残っていた毒にやられたのか、その周囲で鳥や小動物が死んでいることだ。


 近づいてみれば、腐植土から這い出た無数の虫が、蠢きながら体内の肉に群がっているのが見える。額当てのおかげで顔面の損傷がそれほどでもないのが、唯一の救いか。


「すまん」


 すっかり冷たくなってしまった鼻づらを撫でながら、ケイは呟いた。


「すまん、ミカヅキ。昨日は、……助けてくれてありがとう」


 昨夜の、最期の力を振り絞ったミカヅキの援護がなければ、この場で骸を晒していたのはケイの方だったかもしれない。改めて申し訳なさと、感謝の想いが募る。


 ぶるる、と。


 ケイの横で鼻を鳴らしたサスケが首を傾げ、鼻先でつんつんと横たわる亡骸をつつく。


 目を閉じ、しばしの黙祷を捧げたケイは、ぽんぽん、とサスケの首筋を優しく叩いてから「さて、」と立ち上がった。


 ミカヅキの世話もしたいところだが、盗賊達から剥ぎ取りもせねばなるまい。自分だけは愛馬の死を嘆き、後は他人任せというわけにもいかないだろう。


 だが静かな気持ちで目を転じたところで、頭をざくろのように弾けさせた死体が視界に入り、思い出したように吐き気がぶり返した。


「……うッ」


 歯を食い縛る。意地でも、吐くものかと。しばらく呼吸を整えてから、ケイは敢えて、そのグロテスクな死体に歩み寄り、遺品を剥ぎ取り始めた。


「よーし、値打ちのありそうな物は見逃すなよ! それと革製品は丁寧に扱え、これ以上傷をつけるな! 首元や手もしっかり確かめるんだぞ、装飾品があれば高く売れる――」


 相変わらず指示だけは達者なダニーの声を聞き流し、機械的に作業を進める。脛当てを剥ぎ取り、篭手を外し、胴鎧を脱がせ、懐を漁り、集めた物品をまとめて、森の外で待機する荷馬車まで運ぶ。


 そのうち、服や手が血で汚れても何も感じなくなった。嗅覚も触覚も、感情すらも麻痺させて、何も考えないように、ただ手を動かす。


 気が付けば荷馬車には、血塗れの防具や武器類が山積みになっていた。


「――死体はどうする」


 あらかた片付いたところで、誰とはなしに、ぼそりと呟いた。


「森だからな、そのままでもいいだろう。……誰もこんなところには入ってこない」


 若干疲れた様子で、マンデルが言う。片付けにうんざりしていた全員が、一も二もなく賛同する。どうせ盗賊の死体だ、野晒しにしたところで誰も悲しまない――


 最終的に、革防具や長剣、合金製の短槍、指輪や首飾りなどの装飾品に加え、銀貨の詰まった財布なども獲得したケイたちは、血塗れになって村へと引き返していった。




 ――盗賊たち、の死体を、森の中に残して。






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