11. 対価
一瞬の間隙、そして突然の戦闘再開。
先に我に返ったのは短槍使いの男だ。腰だめに槍を構えて、迎撃の態勢を整える。
対するケイは右手にサーベルを構え、弓使い(モリセット)の存在を意識しつつも、剣士と短槍使いの間で視線を彷徨わせた。
そして、その黒い瞳が、すっと剣士に照準を合わせる。
たなびくマントの影、キンッ、と澄んだ音を立て、左手の指でポーションの瓶を弾く。剣士の顔を目掛けて、ガラス瓶がきれいな放物線を描いた。
それは投擲ですらない、ただ指で弾き飛ばしただけの攻撃。速度も殺気も威力も中途半端、だが中途半端であるが故に注意を引き付ける。
「!」
反射的に動いた剣士の長剣が、瓶を空中で叩き落とした。
破砕。
割り砕かれた瓶が細かな破片を飛び散らせ、その幾つかが剣士の顔に振りかかる。目には入らなかったが鋭利な破片が顔を切り裂き、剣士は「うおッ」と声を上げて一瞬たたらを踏んだ。
「死ねやゴラァッ!」
それをよそに、短槍使いの男が槍を繰り出す。弓を持たぬケイであれば、自分一人でも何とかなると思ったのか。あるいはケイの剣の腕は、
実際のところ、それはあながち的外れでもない。ラトには不意を突かれたとはいえ、事実としてケイは剣を苦手としている。
――
「うおおおッッ!」
鋭い槍の一突き。短槍使いを睨みつけたケイは、横殴りのサーベルをもってそれの返答とした。サーベルの刃が短槍の柄を叩き、けたたましい
金属製。短槍使いの得物は、刃から柄に至るまで、その全てが合金で構成されていた。普通の槍に比べればかなり重量があるはずだが、木製に見せかけた塗装と、軽々と扱う短槍使いの技量が、その材質をケイにそれと悟らせなかったのだ。
眉をひそめるケイに動揺を見て取ったのか、にやりと口の端に笑みを浮かべた短槍使いは強引に槍を振るう。サーベルに弾かれて僅かに狂った軌道を腕力で修正し、穂先をケイに向かって勢いよく突き込んだ。
力押し。腕力に自信があるが故の選択。
しかし次の瞬間、それが悪手であったことを悟る。咄嗟にサーベルの刃の背に左手を添えたケイが、短槍使いを遥かに上回る膂力をもって、力比べを挑んできたからだ。
「――おおおおぉぉッ!?」
尋常でないケイの腕力を感じ取り、短槍使いはサーベルを撥ね退けようと全身全霊で力を込める。
しかし、押せない。
びくともしない。
むしろ槍の構えを無理やり押し広げられている。ただ槍にサーベルを添えられただけにも関わらず、ケイと短槍使いの攻防は一瞬で逆転していた。
がりがりと音を立てて、火花を散らすサーベルが槍の柄の上を滑走する。迫る鋼の刃。短槍使いが身を引くよりも早く、力任せに槍の防御を押しのけたケイが神速で懐へと踏み込んだ。
剣の間合い。レールのように槍の柄を奔ったサーベルが、短槍使いの手元へと辿り着き、当然のようにその指を切り飛ばす。
しかし刃は止まらない。指が地に落ちるよりも速く、サーベルが短槍使いの足の間に割って入る。鋼の凶器が男の内股を薙ぎ、左大腿動脈が切り裂かれ赤い血潮が噴き出した。
だがそれでも尚、無慈悲な剣舞は止まらない。ようやくケイの速さに知覚が追いついた短槍使いが、悲鳴を上げようと口を開く。だがその声が絞り出されるよりも先に、跳ね上がった刃が返す刀で首筋を撫でた。頸動脈を裂く、致命の一撃。
ごぽりと喉から湿った音を立てながら、血飛沫を撒き散らす短槍使い。力なく地に倒れ伏す彼に、しかし目もくれることもなくケイは半身を翻す。
真っ直ぐにサーベルを突き出した受けの構え。我流ではなく、明らかに修練を積んだと分かる滑らかな動き。
一瞬の間に、ケイはもう一人の剣士に対する防御態勢を整えていた。
「ふッ……ざけるなァァァッ!」
長剣を掲げて打ちかかりながら、突き動かされるようにして剣士の男は叫ぶ。
今しがた斬り捨てられた男は、隊でも随一の力自慢だった。合金製の槍を軽々と扱う膂力、そして長時間戦えるスタミナを兼ね揃えた、自他共に認める槍使いだった。
それが。
一瞬、投擲物に気を取られ、視線を戻したときには、サーベルの錆と消えていた。
まさに鎧袖一触。
なんという武威。なんという――理不尽。
(弓に加えて剣も一級だとッ!?)
剣士として、理不尽を感じずにいられない。こんな若さの青年が、何故これほどまでの力を――
しかし、それも当然といえば当然のことだ。
限りなく中世に近いファンタジー世界、【DEMONDAL】。文明の利器に甘やかされることなく育ったこの世界の住人たちは、無論、現代人よりも身体能力に秀でている。特に荒事を生業とするモリセットら一味は、膂力やスタミナにおいて、この世界の一般人をも大きく上回っていた。
が、対するケイは、その世界をモチーフとした
その身体能力は、一言で言うなら化け物。
控え目に言っても人外クラスだ。
加えてケイは、ゲーム内でひたすら洗練され続けてきた汎用剣術を修めている。
プレイヤー同士が動画サイトで情報を共有し、合理的に数学的に、そして人間工学的に研ぎ澄まされてきた
心臓や肝臓などの急所は当然として、全身の動脈や金的、眼球なども積極的に狙っていく。場合によっては武器を放棄することも想定されており、徒手格闘すらも『剣術』の範疇のうちに含まれる。
ケイの場合は筋力に優れるので技巧よりも力に重点を置き、守勢に回りつつもカウンターで急所を狙う、防御的な殺人剣がその基本だ。
ゲーム内では初歩の初歩とされる剣術だが、ケイはこれを完全にものにしており、上級プレイヤー相手に豊富な戦闘経験も積んでいる。基本ゆえに奇をてらった戦法には弱い節があるものの、ケイの"
――そう、例えば、目の前の剣士のような、普通の相手には。
「くそがぁッ!」
怒鳴りつけながら、上段に構えた長剣をケイ目がけて振り降ろす男。
自暴自棄とも取れる正面からの攻撃。殺気を感知するまでもなく、当然のように流れるように、そして機械的にケイは対応する。
上段から迫る長剣に、迎撃のサーベルを叩きつけた。防御というよりもむしろ、武器そのものを破壊するかのような手荒な一撃。
ギイィン、と鈍く刃が共鳴し、夜闇に火花が飛び散る。
「ぐッ!?」
刃がぶつかり合った瞬間に、剣士の手に長剣が吹き飛びそうになるほどの衝撃が襲う。鍔迫り合いになどなりようもなく、ただ弾かれる長剣。
そこで、その衝撃を逃がして回避行動を取るなり、別の手を打つなりすればよかったのだが――無理やり体勢を修正しようとしたのが彼の運の尽きだった。
中途半端に力の篭った構えに、ケイがぐいと割って入る。左手の篭手で剣を押しのけ、無理やりこじ開けるようにして肉薄した。そして突き込むサーベル、革鎧の隙間の喉元に鋭い刃が吸い込まれる。
「こっぉ」
喉を刺し貫かれ、カッと目を見開いた剣士は、そのままぐるりと目を裏返らせた。その身体から力が抜けるのと、微弱な殺気がケイを貫くのとが同時。即座にサーベルで串刺しにした死体を前面に掲げるケイ。
ドッ、と軽い衝撃が死体越しに伝わる。盾代わりにした剣士の背中に黒羽の矢が刺さっていた。
「何なんだよ……何なんだよお前はァッ!?」
見れば、最後の一人、引きつった顔のモリセット。ずっと弓で剣士を援護しようと構えていたのだが、ケイが射線に気を払い、剣士を盾にするように立ち回っていたため、ロクに矢を放つことができなかったのだ。
悲鳴のように叫びながら、弓を引き絞る。
その場にサーベルごと死体を打ち捨てたケイは、転がるようにして迫撃の一矢を避けた。そして、あらかじめ目星をつけていた『それ』を、拾いながら立ち上がった。
ケイの手に握られたそれを見て、今度こそモリセットは顔から血の気を引かせる。
木立の中、ほぼ無きに等しい星明かりを受けて尚、その朱塗りは美しくあでやかに。
矢がつがえられた。
ぎりぎりぎりと。まるで地獄の門が
弦が引き絞られる。狙いはぴたりと、モリセットへ。
定められた。
モリセットの顔面をだらだらと冷や汗が伝う。その手から力が抜けて弓がこぼれ落ちた。触れた空気が弾けそうなほどに、張りつめた殺意がケイの全身から溢れ出している。
「――
問いかけられたモリセットは、媚びへつらう笑みを浮かべようとして、失敗し。
それでも引きつった笑みに近い顔で、
「
カァン、と。
快音とほぼ同時、銀光がモリセットの右膝を撃ち抜いた。
「――――ッ!」
声にならない叫び。膝小僧を貫くように、関節をまとめて破壊され、右足はその機能を喪失した。足をあらぬ方向へと折り曲げながら、モリセットは地面に這い蹲る。
「――ぁ! ぉ――ッッッ!」
あまりの激痛に、しかし痛みのあまりもがくことすら出来ず、ひきつけを起こしたように身体を震わせ絶叫するモリセット。そんな彼をよそに、ケイはゆっくりと歩み寄りながら、新たな矢を引き抜いて弓につがえた。
しばし待つ。
肺の中の空気を根こそぎ絞り出し、呼吸もままならず喘ぐモリセットに、ケイは再び声をかけた。
「お前にチャンスをやろう。俺の質問に答えろ」
その言葉に、モリセットは脂汗にまみれた顔を上げ、じろりと目を細めてから悔しげに頷いた。
「簡単な質問だ。お前たちが使っている毒の名前と系統を教えろ」
「……毒の名は【鴉の血】。系統は"隷属"だ……!」
かすれた声で、モリセットが答える。"隷属"系統――村に残してきた解毒剤の一つが当てはまる。ケイは、自身の表情が変わりそうになるのを必死で抑えた。
「……毒、あるいは解毒剤は、手元にあるか?」
油断無く、いつでも矢を放てるように注意しながら、重ねて問う。
「ある、両方とも……」
胸元を探ったモリセットが、睨むようにケイを見上げながら、目の前に金属製と木製のケースを一つずつ置いた。
「大きい方が毒、小さい方には、解毒剤が入っている……」
「分かった。もう少し前に押し出せ、俺が足で取れるように」
弓をちらつかせながらケイ。この期に及んで、モリセットはそれ以上怪しい素振りを見せなかった。大人しく差し出されたケースをおもむろに拾い上げる。
大きい方のケースは、ガラス製の容器を木細工で覆ったものだ。中にはとろみのあるドス黒い液体。なるほど、見るからに『毒』という感じの代物だった。
対してもう一つの小さいケースは、ケイが持っているそれに近い丸薬入れだ。中には、ケイの持つ解毒剤より一回り小さい、白い錠剤がぎっしりと詰まっていた。
「…………」
しばし考え、ぱちんと丸薬入れのふたを閉めたケイは、毒薬入れを開けて無造作に自分の矢を突き入れた。かき混ぜる。鏃に付着するどす黒い液体――そして、自然にそれを弓につがえ。
放つ。
軽い音が共に、モリセットの左ふくらはぎに矢が突き立った。暗い木立に、再びかすれた悲鳴が響き渡る。
「――なっ、なんでっ」
「お前が本当のことを言っているか確かめたい」
いよいよ顔面を蒼白にして呻くモリセットに対し、淡々と言い放ったケイは、自前のポーチから赤色の丸薬を取り出した。無造作に、モリセットの眼前に放り投げる。
「死にたくないなら飲め。それも"隷属"系の特効薬だ」
「…………」
ハッハッ、と荒い息遣いのモリセットは、しばし視線を丸薬とケイの間で彷徨わせた。
しかし結局、のろのろとした動きでそれをつまみ、口に入れ、飲み込む。よほど酷い味なのか、顔を歪ませたモリセットがえずくような声を上げる。
「…………」
数秒、数十秒と過ぎても、モリセットの体調に異変はない。毒は隷属系、という事実に嘘はないようだった。このとき初めて、ケイは少し気を緩める。
「……どうやら本当らしいな」
「……当たり前だ、……この期に及んで、つまらん嘘など……」
足の傷の失血が響いてきたか、青白い顔でモリセット。
「……その素直なところは評価する」
「じゃ、じゃあ……」
わずかに希望の色を見せるモリセット。ケイは無言のまま、矢筒から新たな矢を引き抜いた。それを見たモリセットは再び滝のように冷や汗を流し始める。
「お前に、もう用はない」
「なぁっ!?」
無慈悲なケイの言に、モリセットが目を剥いた。
「たっ、助けてくれるッて……」
「『助ける』とは一言も言っていない。『チャンス』と言っただけだ」
冷たく言い放ち、ぎりぎりと音を立てて弓を引き絞る。
「お前には『正直に真実を話すチャンス』をくれてやっただろう」
「そんな……」
ケイの目を見て、そこに一切の希望がないことを悟ったのだろう、モリセットは唇をわななかせる。死神の足音が、すぐそこまで迫っていた。
「そんなッ……あんまりだ……!」
憎々しげなモリセットの呟きに、ケイは表情を険しくする。
……もはや、抵抗するすべを失った相手だ。
本当に殺すのか? と心の中で。
そんな風に、ささやく声が。
だが、逃がすのは論外だし、手当をしなければどうせ死ぬ。
そして手当をしてやる時間も義理もない。
ならば。
――そもそも、こいつは俺を、俺たちを殺そうとしたのだ。
そう、自分に言い聞かせ。
ためらいを振り払った。
心を鬼にした。それを自らに強いる。
「……許すわけにはいかない。死ね」
快音。
モリセットが最期に見たのは、自身に迫る銀色の光。
そして弓を構えるケイの背後に、なぜか、羽衣をまとった少女の姿を幻視した。
ひどく無邪気で、それでいて妖しい笑顔を浮かべる少女の姿を。
瞬間、水音を立て視界が真っ赤に染まり、意識が弾け飛んだ。
どちゃり、と地に崩れ落ちるモリセットを背に、ケイは急いでミカヅキの元へと走る。
全く身じろぎしない、褐色の毛並みのバウザーホース。その傍らに膝を突き、名前を呼んで首元に手を当てたケイは、しばしの沈黙のあと「クソッ」と毒づいて下唇を噛んだ。
ミカヅキの身体に、生命の鼓動はなかった。
抜け殻のようになったミカヅキ。目を閉じたまま、口から少量の血の泡を吐いて、息絶えている。
ミカヅキの胴に刺さった矢を見たときから薄々思ってはいたが、例え毒矢でなくとも、これはもう助からなかったかも知れない。狙い澄ましたかのように、腎臓と肝臓のある位置がやられていた。ポーションが数瓶はないと、とてもではないが治療しきれなかったであろう。
「……痛かったろうな。ごめん」
たてがみを撫で、語りかける。遺体を目の前にして、今更のようにじくじくと罪悪感が湧いて出てくるが、ケイには乗騎の死を悼む時間がなかった。
村の方角を見やる。
立ち上がろうとして、ふらついた。体が妙に重いことに気付く。
肉体的にも、精神的にも、ケイは限界寸前まで疲弊していた。当然かもしれない。異世界で、人生で初めてだらけのことに直面し、とうとう殺人にまで手を染めてしまった。
(……いや、だが、これはおかしい)
ただ疲れたにしては――妙な感覚がある。まるで、バケツに開いた穴から少しずつ水が漏れ出ていくような、そんな感覚が。
そこで、はっと気付いた。
(まさか……毒か?)
ケイ自身、盗賊たちとの戦闘で少なからず負傷している。思い出すのは短剣使い、無意識のうちにケイは首の傷に手を伸ばした。
奇襲や暗器のナイフなど、あのような搦め手を使う男が、毒の使用を避けるとは考えにくい。傷はそれほど深くないので、毒も微量しか盛られなかったのだろう。念のため、ポーチのケースから、赤色の丸薬を取り出して飲み込んだ。
「……ぅぇ」
たしかに、酷い味だった。ポーションなど比較にならないほど。吐き気を催したが、若干、身体が軽くなったような気もした。
「……さて、」
改めて村の方角を向き、ケイは考える。ここからタアフの村までは、ミカヅキをトップスピードで走らせて十分弱かかった。人の足ではどれほど時間を食うか――自分が村に戻るまで、アイリーンがもつか。
「厳しいな……」
ふぅ、と小さく溜息をついたケイは、そっと右手を首元に伸ばす。こうなれば、最終手段を使うしかない。ごそごそと首の周囲をまさぐり、篭手越しに細いチェーンを探り当て、ケイは胸元からネックレスを引きずり出す。
銀のチェーンの先には、薄緑色に透き通った、親指の爪ほどもある大粒のエメラルド。
それだけでひと財産になるような、最高級の品だ。ケイは右手にぶら下げたそれを眺め、ミカヅキの遺体に視線を移した。
「……ミカヅキがいるんだから、お前も来てるんだろ」
頼むぞ、と祈るような呟き。
【 Mi dedicas al vi tiun katalizilo.】
囁くように"
直後。
くすくすくす、と。
押し殺したような、小さな笑い声が聴こえた。
何処から、とも言えない。
くすくす、くすくす、と。
草原の葉を揺らす風の音とともに。
ケイの周りを、あらゆる方向から、取り囲むように。
―― Kei ――
耳元。
―― Vi estas vere agrabla ――
耳朶を蕩かすような、甘えた囁き。
ピキッ、と小さな音が響いた。
手元。ぶら下げたチェーンの先、エメラルドに無数の傷が走っている。
見る見るうちに亀裂は数を増やし、緑から白へと色が変わっていくエメラルド。
やがて、パキンと砕け散ったそれは、砂よりも細かな粒子へと姿を変え、吹き抜けた風に誘われて夜闇の中に溶け去って行く。
それを見届けたケイは、虚空に向かって、その名を呼んだ。
【 Maiden vento, Siv.】
すう、と呼吸を整えて、
【
瞬間、ケイは身体の中からごっそりと、何か大切なものが奪い去られるのを感じた。
†††
「ヴィエスタ、グランダ、ヴィサニジ、テュペロソーノ……」
ランプの炎が揺れる、薄暗い部屋の中。
「ヴィエスタ、グランダ、ヴィサニジ、テュペロソーノ……」
しわがれた老女の声が、単調に文言を紡ぐ。
タアフの村、クローネン宅の一室。
小さな寝台の上に、熱に侵され未だ意識の戻らぬアイリーンが寝かされていた。そして寝台を囲むように、村人が四人。彼らはケイが出て行ったあとから、まんじりともせずに、その帰りを待ち続けていた。
一人は、寝台の近くに椅子を置き、発熱でうなされるアイリーンの世話を焼く、村一番の高齢者にして呪い師・アンカだ。
彼女は先ほどからずっと、村に伝わる治癒の文言を唱えながら、水で濡らした布でアイリーンの額に浮いた汗を丁寧に拭っていた。時折、急激に顔色の悪くなるアイリーンに、ケイから預けられたポーションを少しだけ服用させるのも、彼女の役割だ。
「……アンカ婆さん、大丈夫か。もう夜も遅いし、なんだったら俺が代わるが」
そんなアンカに、遠慮がちに声をかけたのは、壁際に控えていた村長の次男・クローネンだ。
「いんや。この程度、どうってことないさね。心配しなさんな」
アンカのゆっくりとした言葉に、「そうか、」と引き下がったクローネンは、どこか残念そうにすら見える。
元々、アイリーンの看病というよりはむしろ、彼女が盗賊団の一味であることを考慮して『見張り』の役割を与えられていたクローネンだったが、盗賊の仲間どころかアイリーンが本当に毒で死にかけていると知ったあとはひどく同情的で、今は自分から積極的にアイリーンの世話をしようとしていた。
自分が、自分こそがケイからアイリーンの世話を仰せつかったのだ、と使命感に燃えるアンカに、やんわりと助力を断られ続けられているが。
「…………」
アイリーンを心配する二人組をよそに、壁に寄りかかるようにして、ぼんやりと虚空を眺めているのは、特徴的な濃い顔立ちをした猟師・マンデルだ。
相変わらず彫の深い顔立ちのせいで、黙っていると何を考えているのか傍目にはよく分からない。ただ、今の彼は、ポーションのおかげで何とか命を繋いでいるアイリーンよりはむしろ、盗賊への戦闘に飛び出していったケイのことを心配していた。
あの、暗闇の中で蝙蝠を撃ち抜いて見せた弓の腕があれば、滅多なこともあるまいとは思いつつも、それでもやはり落ち着かない気分だった。そしてそれを考えて、連想するのはケイの持つ見事な朱塗りの弓だ。
あの矢を放つ際の音からして、かなり張りの強い弓であるはず。ケイが帰ってきたら触らせて貰えないだろうか、などと思考が若干呑気な方向に逸れていく。
そしてそんなことを考えているうちに、再びケイの安否が気になり、心配しては弓のことを考え……という思考のループを、マンデルは延々と繰り返していた。
「……はぁ」
部屋の隅、小さな溜息が響く。他の三人とは少し距離を取り、椅子に座って腕を組んだまま憮然とアイリーンを眺めているのは、村長のベネットだ。
(惜しい……)
アンカが、残り少なくなってきたポーションをアイリーンに飲ませるたびに、苦虫を噛み潰したような顔をする。
ベネットの気持ちを一言で表すならば、『勿体ない』だ。
致死の毒に侵され、死にかけている小娘を延命させるためだけに、目の前で極めて貴重な
ケイは盗賊たちから毒の種類を聞き出し戻ってくる、とは言っていたが、それは流石に無理だろうというのが、ベネットの考えだ。
人数差の問題もあるが、そもそも悪名高い"イグナーツ盗賊団"を相手にしているのがまずい。ここ数年は大人しくしているようだが、一時期は"イグナーツ"の名を聞くだけでも歴戦の傭兵たちが尻ごみするほどに凶悪な武装集団だったのだ。
ケイは質の良い馬を持っているので、あるいは逃げ帰ることくらいはできるかもしれないが、仮に話を聞くために戦闘に陥ったならば、ケイは生きて帰って来ないだろうとベネットは予測している。
そこにきて、余所者の小娘のためだけにポーションを浪費――。
(口惜しい……)
ぎり、と歯噛みしながら、ひとり嘆く。
実は先ほど、ベネットは他三人に、アイリーンにポーションを飲ませるのをやめよう、と提案していた。あえて回復させずに毒で死なせてしまい、ケイが帰ってきた場合は「ポーションを使い果たしてしまったので、治療しようがなく死んでしまった」と説明しつつ、実際には何本かのポーションをネコババしてしまってはどうか、と。
しかしこれは、三人全員に止められた。
あのお方は必ず帰ってくる! と根拠なしに言い張るのがアンカ。
それは流石に酷い、と人が良すぎることをぬかすのが、クローネン。
そして、「俺じゃアイツ相手に嘘をついてバレない自信がない」といって加担することを拒んだマンデル。
三者三様ではあったが、あのマンデルをして、かなり強硬な態度で反対されてしまったので、ベネットも渋々引き下がったのだが。
(それにしても、のう)
惜しい。あまりに惜しい、と。
アイリーンにポーションを飲ませるアンカの後ろ姿を見ながら。ベネットの表情がさらに渋くなる。
(……まぁ、仕方がないのかのぅ)
はぁ、と今一度、小さく溜息をつこうとした――その瞬間。
びゅごう、と。
家の外で、風が吹いた。
「……?」
ただ、風が吹いただけ、のはずだったのだが。
何か違和感を感じたベネットは、羊皮紙で塞がれた窓に、すっと視線をやる。
ぱさ、ぱさ、と。
不自然に、窓の羊皮紙が動く。
なにか――冷たい空気が。
突如、ごうっと音を立てて、部屋の中に一瞬だけ突風が吹き荒れた。
「うおっ!?」
「なんじゃ!」
それぞれ、驚きの言葉を口に。部屋にまで不自然に
真っ暗になった部屋の中――何も見えない。
はずが。
その暗闇の向こう側に、ベネットは、そして部屋に待機する一同は。
ひとりの、羽衣をまとった、あどけない雰囲気の少女の姿を幻視した。
「うおおおッ!?」
「なんだお前は!!」
動揺して素っ頓狂な声を上げる男性陣。が、それに対してアンカだけは、
「せっ、精霊様じゃああああああぁぁ!!」
無邪気な笑みを浮かべる少女の姿に、テンション爆上げで絶叫する。
「精霊!? これが……?」
まるで幽霊か化け物のようだ。『そこにいる』はずなのに上手く知覚できない、存在そのものが希薄に感じられる『何か』の出現に、神聖さよりもむしろ不気味さを感じてしまったベネットは思わず疑わしげな声を出す。
そんなベネットたちの姿に、くすり、と口元をほころばせた少女は、
―― En la nomo de miaj abonantoj, mi transdonu lian mesagxon ――
あどけない雰囲気には不釣り合いなほど、艶やかな声で一同に告げた。
「おお、ありがたやありがたや……」
「婆様、何を言っているのか、分かるのかっ?」
羽衣の少女が何を言ったのか全く理解できなかったベネットは、両膝を床に突き手を擦り合わせて有難がり始めたアンカに勢い込んで尋ねるも、
「分かるわけないさね、精霊語だよこれは!」
気の抜けそうな返答に、ずりっと椅子から滑り落ちそうになった。
「分からんのに、ありがたがっとるのか!」
「このような美しい精霊様がおっしゃることぞ、ありがたいお言葉に違いないさね!」
そんな馬鹿な、と思わず呆れたベネットが、さらに言葉を続けようとしたとき、
『――聞こえるか? ケイだ、アンカの婆さん、聞こえるか』
部屋の中に、『ケイ』の声が響き渡った。
「――ケイ! ケイなのか!?」
目を見開いたマンデルが、大きな声で問う。
『――時間がないので手短に言う。俺の契約精霊に、声を運んで貰うことにした。毒の系統は"隷属"で、特効薬は赤色の丸薬だ。アンカの婆さん、特効薬は、赤色の丸薬だ。一粒でいいから飲ませてやってくれ、頼んだ』
「ケイ、今お前はどうしてるんだ! どこにいる!?」
マンデルが少女に向かって問いかけるも、少女も、ケイも、何も答えない。
―― Jen cio ――
ただ、それだけ、短く告げた少女は。
ごうっ、と部屋の中に再び風を巻き起こし。
次の瞬間には幻のように消えていた。
「…………」
呆気に取られて、しばし、部屋の中が沈黙に包まれる。
「……赤色の丸薬!」
最初に我に返ったのは、やはりというべきか、アンカであった。
「クローネン! 火じゃ! 明かりを!」
「あっ、ああ、わかった!」
アンカに命じられたクローネンが、どたどたと慌てて部屋を出ていき、すぐに外から火種を取って戻ってきた。
ランプに火を灯し、光源を確保。
アンカは懐を探って、ケイから預かっていた丸薬を取り出す。
――そして、あった。確かにあった。
赤色の、丸薬。
「お連れの方を、今お助けしますぞ……!」
震える手で、それをつまみあげたアンカは、アイリーンの唇を開き、少量の水とともに飲み込ませる。
果たして――アイリーンは。
†††
数十分後、タアフの村に、汗まみれになった一人の男が走って戻ってきた。
ケイだ。
頬を切り裂かれ、右肩も血塗れ、顔面は蒼白で幽鬼じみた雰囲気を漂わせるケイに、警戒を担当していた村人たちも村長を呼ぶことすらせず黙って道を開けた。
ふらふらになりながらも、村の中を駆け抜ける。砂利道を抜け、見覚えのある小さな家、クローネンの家へ飛び込んだ。
「アイリーンッ」
ばん、と小さな部屋の扉を開けると、蝋燭の薄明かりの中、寝台を取り囲んでいた四人の村人たちがサッと振り向いた。
「どッ、どうなッ、アイリーンッ」
「ケイ殿、落ち着いて下され」
寝台脇の椅子から立ち上がったアンカが、酸素不足に喘ぐケイの手を引いて、寝台の横までいざなった。
「貴方のご尽力で――助かりましたぞ」
寝台の上。
穏やかな顔で、すやすやと寝息を立てる、アイリーンの姿があった。
「……ああ」
へたり込むようにして、寝台の横で膝を突き、ケイは泣きそうになりながらアイリーンの髪を撫でた。
指に伝わる、確かな暖かみ。生きている。
――よかった。
色々と考えることも、後悔することも、あるが。
どうにかアイリーンだけは、助けられた。
「よかった、……ほんとうに、」
ほっと安堵の溜息をつくと同時。
ふらりと力なく、寝台に突っ伏したケイの意識もまた、泥のような疲労に引きずられ。
そのまま、暖かで心地よい闇の中へと沈んでいった。
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