10. 逆境


 ――これは、捌ききれない。


 ひと目見て即座に、ケイは悟った。


 仮初ゲームの、しかし豊富な戦闘経験が告げる。


 自分はまだいい。矢の一、二本は避けられるだろう。だがミカヅキが避けるには――その体が、投影面積が大きすぎる。


 身体を捻って一本は回避し、続くもう一本は右手の篭手で弾き飛ばした。が、最後の矢がミカヅキの胴体に突き刺さる。


「――ッ!!」


 苦痛に身体をよじり倒れ伏すミカヅキ。その動きに逆らわず、ケイも半ば振り落とされるような形で転がり落ちた。柔らかな森の大地で受身を取り、衝撃を殺したケイはばさりとマントを翻して立ち上がる。


 騎兵が地に落ちた。快哉を上げた盗賊たちが、武器を振り上げて殺到しようするが――


 不意にその足が止まった。


「貴様ら」


 低く抑えられた声から、滲み出る怒りの色。顔布の下、獣のように歯を剥き出しにしたケイは、燃え滾るような血走った瞳で盗賊たちを睥睨した。


 ぶわりと。


 澱んだ空気の森に、重たい風が吹き付ける。


 ケイを中心に爆発した濃密な殺気に、圧倒されたモリセットたちは思わず息を呑んだ。


 が、それも一瞬のこと。


 まばたきほどの間に、ケイの強烈な殺気はぱたりと鳴りを潜めた。


 唐突に。跡形もなく。


 静かに佇むケイは、何も感じさせなかった。怒気も覇気も殺気もなく。


 ただ茫洋として地を踏みしめる、まるで人形のような存在感――


(いや、違う!)


 矢を引き抜こうとする体勢のまま固まったモリセットは、全身をぶるりと震わせた。背筋に焼けつくような感覚が走る。


 これは、そう。


 危機感だ。


 胸の奥底で、直感シックスセンスが警鐘を鳴らしている。


 それは、何も感じ取れないからこそ不味いと。それは、自分を超越した何かが、そこに潜んでいることの証左であると――


 カァン、カンッと。


 風にたなびくマントの下、軽やかに響く快音の二重奏。


 前触れもなく、唐突に、革の生地を突き破った二筋の銀閃が奔る。


「避――」


 けろ、というモリセットの警告を過去のものとして、眼前、弓を構えていた手下が二人、弾け飛んだ。


 一人は額をかち割られ。


 一人は右肩を粉砕され。


 まるで独楽のように空中でくるくると――、そのまま地に叩き付けられる。


「――ッぎやあああああああぁぁァァ!」


 衝撃で矢が折れ、肩の傷口をさらに抉られた弓使いが絶叫した。右肩を押さえて地面をのた打ち回る彼は、自分の身に何が起きたのかをまだ正確に把握できていない。風に翻弄される木の葉のように、濁流に呑まれた小魚のように、圧倒的な武を前にして無力。


(……何も、感知できなかった)


 口の中がからからに乾いていた。モリセットの額からたらりと汗が滴り落ちる。


 目と鼻の先に射手がいるにも関わらず。


 風圧を感じるほどの至近距離であったにも関わらず。何も、感じられなかった。


 これはひょっとすると、夢か幻ではないかと。そんな、現実感をも殺すほどの凄まじい一撃。


 かろうじて理解できたのは、この青年がマントの下に弓を構え、視覚的にも射線の予測を出来なくした上で、またたく間に殺気のない矢を二連射してみせたということだ。


(なんて野郎だ……!)


 そんなまるで曲芸のようなことを、実戦で事も無げに実行してみせた。とんでもない奴に手を出してしまった、と嘆くことも後悔することも、今のモリセットには許されない。粘り気すら感じる冷たい空気の中で、弓を握る手に力を込める。


(こいつに弓を使わせたら不味い)


 あの乾いた音が鳴り響くたびに、手下が一人また一人と倒れていく。




 そして――その『次』が、自分でない保証など。




「ッ殺せェ――!!」


 自身の怯えを振り払うかのように、モリセットは腹の底から雄叫びを上げた。と同時に、新たに矢をつがえ、放つ。


 おおよそモリセットがその痩身から発したとは思えぬ大音量に、硬直していた手下たちもハッと我に返る。慌てて剣を構え突撃する剣士、それに合わせて併走する短槍使い。


 飛来した矢を事も無げに右手で払い落とし、冷めた目で【竜鱗通し】を構えるケイ。前方の盗賊のうち次の標的を見定めようとするが、


(……待てよ)


 ふとした違和感。目の前の盗賊たちを数えた。


 弓使いが三人。短槍使いが一人。剣士が一人。


(――もう一人は、何処にいる?)



 生き残りは、全部で六人いたはず――



 ぴりっ、と背筋に微かな悪寒が走る。


 上だ。樹上を見やれば、視界に大写しになる銀色に輝く刃、小柄な人影――


「くぅッ!?」


 バク転をするように背後に向かって飛ぶケイ、その顔面に鋼の刃が襲い掛かった。裂かれる顔布、左の頬をびりびりと冷たいような熱いような感覚が走る。地に身を投げ出し、距離を取るためにごろごろと転がったが、襲撃者はその隙を逃がさない。


「死ねッ!」


 それは、ショートソードを構えた小太りな男だった。体格に見合わぬ俊敏さで、あっという間に間合いを詰める。


 短剣使いのラト。その見かけによらず身軽さと隠密技術を兼ね備え、奇襲・撹乱を得意とするモリセット隊随一のアタッカーだ。ケイが決定的な隙を見せるまで樹上で息を潜めていたが、満を持して牙を剥く。


 突撃するラト、ぎらりと輝く凶刃。ケイの弓を封じるため、近接戦闘を挑む構えか。

その狙い通り、弓での迎撃は間に合わない――左手で【竜鱗通し】を握り締めたまま、ケイは右手で腰のサーベルを抜き放つ。


「シッ!」


 鋭い呼気と共にラトが刺突を繰り出した。対するケイは無言のまま、横殴りの一撃をその刃先に叩きつける。


 ギィィンと甲高い音、暗い木立が火花の色に染まった。豪快に短剣が弾かれ、ケイの膂力に目を見開くラト。しかしそのまま驚きに囚われることなく、左手で黒塗りのナイフを引き抜き、ケイに向かって突き出した。


 ――踏み込みが浅い。まるで苦し紛れの一撃だ。身を引いて至近距離からのナイフを悠々と回避するケイ、だがその瞬間にラトはにやりと笑った。


 キンッ、と金属音。肌を刺すような危機感。


 ケイが反応するより早く、ナイフに仕込まれたバネが、勢いよく刃を射出する。


(弾道ナイフ?!)


 何とか身体を傾け、あわやというところで直撃は避けた。首の皮が切り裂かれて焼け付くような痛みが走る。体勢が崩れたケイに、追い討ちを仕掛けるラト。ケイのサーベルの牽制を紙一重でかわし、容赦なくショートソードを振るう。


「ぐうぅッ!」


 ケイの口から苦痛の声が漏れる。左肩の革鎧の隙間に刃がねじ込まれた。肉が抉られ、強烈な痛みに思わず弓を取り落とす。


 力任せに体当たりを仕掛け、何とかラトを弾き飛ばしたものの、その背後からは長剣を振り上げた剣士と短槍使いが迫る。


 これは――、まずい。自由の利かぬ左腕。素早く立ち上がった目の前の短剣使いラト、その背後の短槍使いは槍ごと突進してくる構えだ。そして横の剣士の突撃も充分に勢いが乗り、一人離れた弓使いモリセットも虎視眈々とこちらを狙っている。


 おそらく全員でタイミングを合わせて攻撃してくるだろう。特に脅威的なのは目の前の短剣使いと、距離を置いた弓使い。いずれかを迎撃すれば、他の攻撃をまともに喰らう羽目になる。さらに逃げを打つか――いやそれもまずい。立て直しがきかないままではいずれにせよジリ貧に――


 ゆっくりと流れる時間の中、ケイは選択を迫られる。どの攻撃を受けるか、あるいは、いなすのか。


「ぶるるぅォ!!」


 だがここで、倒れていたミカヅキが一石を投じる。口から血の泡を噴きながらも最期の力を振り絞り、半身を起こしてケイと対峙するラトに後ろ足を向けた。


 それにラトが気付くのと、強烈な蹴りが放たれるのが同時。


 ぶぅんと不気味な唸りを上げた蹄が、ラトの顔を直撃した。


「ぼぐゥッ」


 おおよそ人の声とは思えぬくぐもった音を立てて、ラトの顔面が崩壊する。赤黒い血と肉片をばら撒きながら、小太りな身体が吹き飛んでいった。きりもみしながら、頭からぐしゃりと地面に落ちる――バウンドし、激しく痙攣を繰り返す肉体。


「ラトぉッ!」

「こいつっ、よくもッ!」


 額に青筋を浮かべたモリセットが、ミカヅキに向かって矢を放つ。胴体に黒羽の矢が突き立ち、断末魔の悲鳴を上げたミカヅキは、今度こそ力尽きたようにどうと倒れた。


 ケイの頭に、かぁっと血が上る。


「貴様ァッ!」


 憤怒の形相。左頬を切り裂かれ血に塗れたケイの顔は、地獄の悪鬼が如き様相を呈している。だが、その姿は同時に満身創痍。どくどくと血を流す左腕はだらりと垂れ、得物は右手に握り締めるサーベルのみ。圧倒的に自分らが優勢であると知るモリセットたちは、ケイの気迫にも怯える様子を見せなかった。


「ハッハハ、悔しいか! 嬲り殺しにしてやるッ!」


 残忍な笑みを浮かべて弓を引き絞るモリセット。短槍使いと剣士もまた、引きつったような笑みを浮かべている。



 対するケイは、――逃げた。



 くるりと踵を返し、モリセットの狙いを惑わすように、木々の陰に隠れながら走る。


「ッ待ちやがれ!」


 慌てて追いかける剣士と短槍使い。


 モリセットはひとり冷静に、その場から矢を放つ。


 音と殺気で攻撃を察知し、小刻みに動いて矢を回避。ケイはモリセットを中心にして、円を描くように走った。その間にサーベルを口に咥え、右手で腰のポーチを探る。


 取り出したのは、ひとつのガラス瓶だ。


 その中でとぷんと揺れる、青色の液体――使いかけの高等魔法薬(ハイポーション)。


 半分しか残っていないが、肩の傷を治療するには、これだけでも充分すぎるはずだ。瓶のコルクを親指で外す。


 地面に目を走らせ、目当てのものを見つけた。


 そちらに向かって走りながら、何度か深呼吸を繰り返し、覚悟を決めたケイは肩の傷にポーションをぶちまける。


 その瞬間、視界が真っ白に染まった。


『――痛えええええええええええぇぇぇええェェェェッッッッ!!!!!』


 日本語。絶叫。


 腹の底から絞り出したような、空気がびりびりと震える大音量。


 ひとり叫ぶケイの右肩から、白い湯気のようなものが凄まじい勢いで立ち昇った。


 激痛。


 最早、そんな言葉では生ぬるい。


 まるで肩の傷に塩を擦りこまれ、細胞をぷちぷちと針で潰されていくかのような。


 やすりで肉を抉り、磨り潰され、熱した火箸で神経を引きずり出されるかのような。


 今は怒りも憎しみも焦りも、全てが遥か彼方に吹き飛んでいた。吼える。目の前が白くなるような、痛覚の奔流。


「ぐッうおおおおおおおおおおおおオオオオオオォォァァァァァァァァッッッッッ!」


 驚いたのはモリセットたちだ。追いかけていた満身創痍の青年がいきなり絶叫したかと思うと、肩から得体の知れない気体を噴き上げて猛烈に苦しみ始めたのだ。


 ジュウウゥッ、と焼けた鉄を水に突っ込んだような音と共に、迸る涙をぬぐいもせずに慟哭する。口に咥えていたサーベルが地に落ちてカランと音を立てた。その肩から立ち昇る湯気のようなものが何なのか、理解の追いつかないモリセットたちは呆気に取られる。あるいは、彼らの目がケイ並みに良ければ、肩の傷口が真新しい白い皮膚に覆われていく様を見て取れたかもしれないが。


 ぜえ、ぜえと。


「……貴様ら、」


 肩で息をするケイは、ぎろりと目の前の盗賊たちを睨みつける。涙に濡れ、血走った両眼、開かれた瞳孔にモリセットの顔が映り込む。


「――まとめてブッ殺すッ!」


 痛みを全て怒りに転化し、八つ当たりのように宣言。


 乱暴にサーベルを拾い上げ、大地を蹴る。




 停滞していた戦いの火蓋が、再び、切られた。




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