幕間. Laneza


 ――どうにも、寂れた村だった。


 ダリヤ平原の遥か南、森の奥に切り開かれたささやかな土地。


 そこに、ひっそりと隠れるようにして、"ラネザ"の村はあった。


 人口五十人に満たないこの小さな村は、極限にまで過疎化が進んだ限界集落だ。過去の戦役で村を連れ出された若者たちは、奇しくも従軍を経て外の世界を知り、あまりにも閉塞的な生まれ故郷に嫌気がさして、その殆どが村には帰って来なかった。


 村に戻ってきたのは、外での生活の口が見つからなかった者と、戦死者の遺品だけ。


 残った住人のみでの村の再興には限界があり、元々大した特色もなく、しかも街道から大きく外れていたラネザの村は、あっという間に廃れていった。


 時代から取り残された村。


 税務官ですら、税の徴収に来るのを忘れてしまうような、辺境の地。


 ここ十年で人口はさらに落ち込み、住民の半分以上が老人となってしまった今、ラネザ村の消失は、時間の問題と言えた。村人たちに、それを自力で解決する方法は残されていない。交通の便も金回りも極端に悪いこの村を、わざわざ訪ねる物好きなど、そもそも存在しなかった。


 ――を除いては。


 森を貫く一本道、ずるずると身体を引きずるようにして、互いで互いの身体を支え合いながら、のろのろと歩く二人組の姿があった。


 一人は、右肩にどす黒く変色した包帯を巻いた、背の高い茶髪の男。


 もう一人は、顔の下半分を黒布で覆い、杖代わりの木の棒にすがりつくようにしながら、ぎこちなく歩くやつれた男だ。


 二人ともが、全身黒ずくめだった。足には黒染めの革の脛当て、腕には同じく黒革の小手。右肩を負傷した男は長剣を、もう一人は血塗れの短剣を、それぞれに腰に差しているが、それ以外には何も荷物を持たなかった。その身一つで、命からがら逃げ出してきた――そんな、印象。


 人目を避けるようにして、男たちは薄暗い森の中を進む。過疎化の進んだ村には、殆ど人影は見えなかった。しかしそれでも、何人かの村人は彼らの姿を見咎め、――そのまま何も見なかったことにするかのように、目を逸らす。


 そんな村人たちに構うことなく、男たちは歩き続けた。村外れに向かって森を抜けると、やがて開けた空間に出る。


 そこは、墓地であった。


 ぽつぽつと等間隔で並ぶ、草花に覆われた盛り土。墓標代わりに打ちつけられた木の棒、その間を縫うように、よろよろと墓守の家に向かった。


 墓守の家――堅牢な造りの、大きな家だ。村の小さな木造の家々とは違い、質の良い石材でしっかりと基礎が組まれている。寂れた過疎集落の墓守にしては、分不相応なまでに贅沢な住処。


 二人組のうち、右肩を負傷していた方が、なけなしの力を振り絞るように、左手で玄関のドアノッカーを打ち鳴らす。


 一定のリズムを持って叩かれるそれは、明らかに符丁とわかる特殊なノックだった。家の中でガタガタと椅子を引く音が響き、扉が僅かに開かれる。


 隙間から外を窺うように顔を出したのは、灰色の髪に長いあごひげを蓄えた、まるで隠者のような老人だ。立っているのもやっと、と言わんばかりにボロボロな状態の二人組を見て、老人は僅かな動揺を顔に浮かべつつ、ひとまず彼らを中へと招き入れる。


「パヴエル? それに――そっちはラトか? どうしたんじゃその格好は」

「……隊長が、死んだ。俺たち以外は、皆、やられた……」


 居間に入ると同時に老人が問いかけ、右肩を負傷した茶髪の男――パヴエルが、喘ぐように答えた。「何だと……」と眉をひそめる老人をよそに、短髪の男は右肩を押さえながら、壁に背を預けてずるずると床に座り込む。木の棒にすがりながらよろよろと歩くもうひとりの男――ラトは、「ぉぉぉぅ……」と苦痛の呻きを上げながら、居間の椅子にゆっくりと腰を下ろした。


「信じられん……。モリセットめ、あやつ、くたばりおったか……」

「…………」

「パヴエル、一体何があった。モリセットあやつはそうそうヘマをするような男ではなかろう? 襲う相手を間違えたか? それとも、逆に襲撃を受けたのか?」

「…………」


 老人の問いに、しかし『パヴエル』と呼ばれた短髪の男は、俯いたまま答えない。


「おい、パヴエル?」


 若干慌てた老人が、しゃがんでパヴエルの顔を覗き込むと、どうやら話を始める前に気を失ってしまったらしい。


 首筋に手を当て、パヴエルの呼吸と脈があることを確かめた老人はしかし、それがごくごく弱いものであると気付いて「これは不味いぞ」とやおら立ち上がった。


「ロミオー! こっち来い!」


 ぱんぱんと手を叩きながら声を上げる。「はいッ!」と奥の部屋から返事が聞こえ、茶色の癖っ毛を跳ねさせた小間使いの少年が、居間にひょっこりと顔を出した。


「ロミオ、ギスラン先生を呼んでこい。急患が二人だ、そう伝えろ」

「わっ、わかりました」


 居間の負傷者二名にぎょっとした顔をしつつ、ロミオと呼ばれた少年が駆け足で家を飛び出していく。


「しかし……モリセットが死んだか……」


 あごひげを撫でながら、虚空を睨むようにしていた老人だったが、ふと、黙ったまま椅子に座り、くらい目で床をじっと見つめるラトに目を止めた。


「……ラト、お前もずいぶんやつれてるな。一瞬、誰だか判らなかったぞ。どこを怪我した? 足をやられたのか?」

「……」


 その問いかけに、ラトはゆっくりと、顔を覆っていた布を取り外した。布の下から露わになった『傷』に、老人は口元を押さえ「うっ」と数歩後ずさる。


 でろり、と。


 垂れ下る、赤黒い、ぐしゃぐしゃに崩壊した肉の塊。ところどころに散らばる白い欠片が、折り砕かれた歯と骨であることに、数秒してから気付く。


 ラトの、顔から下半分が、消失していた。


 口腔から喉の奥にかけてが、丸見えになっている。僅かに、傷だらけになりながらも、残っている舌が蛇のように蠢いていた。「やぁぇ、ぁぁぅ」と、ラトが言葉にならない呻き声を上げるたび、だらだらと唾液が糸を引いて垂れていく。


 ――やつれるはずだ。


 老人は思う。こんな、『口』ともいえない口では、ろくに物が食べられるわけがない。旅の糧食として重宝される堅焼きのビスケットなど、もってのほかだ。極限にまで磨り潰した粥ですら、食べるのは厳しいだろう。


「……一体、お前たちは何とやり合ったんだ」


 思わず、といった様子で老人が呟くと、「あぃうあああぁッ!!」と叫んだラトのまなじりが釣り上がった。


「あぃぅああぁぅああッ! あぃぅ、おおぃぇあぅ、おおぃえああぅッッ!」


 顔の残った部分を真っ赤にし、だらだらと口腔から唾液を垂らしながら。


「おおぃぇあぅゥッッ! ええぁいいッおおぃぇぁっぅおあいぅゥッ!!!」


 叫びとも悲鳴ともつかぬ声を上げ、ラトが腰からさっと短剣を引き抜いた。びくり、と身体を硬直させた老人だったが、ラトはその短剣をバンッ! と乱暴に、机の上に叩きつけただけだった。


 鈍い、くすんだ銀色の刃。こびりついたどす黒い血。ハウンドウルフの血――。


「おぇぁ、あぃぅぉえんぁ」

「……すまん、何が言いたいのか分からん」


 困惑の表情で、及び腰の老人は首を横に振る。


「おぇぁ、あぃぅぉ……あぃぅぉ、あぃぅぉあぃぅおぉぉおおおぉッッ! おおおおぉオオオォぁぃぁぁっォォォッッッ!」


 バンバンバンと狂ったようにテーブルを叩きながら、ラトは首をめちゃくちゃに振り回し、駄々っ子のようにただ叫ぶ。


「おおぃぇあゥッ! おおぃぇあゥッ! おおぃぇ、おおぃぇあぅウッ! おおぃぇあぅウぅぅぅッッッ! おおぃぇあぅ、おおぃぇぁぅッ、おおぃぇあぅウッ! おおぃぇあぅウウウウウウウウぅぅッ!」


 しばらく叫び続けていたラトだったが、やがてその言葉は勢いを失くし、ただ昏い瞳で床を見つめ、何事かを呟くのみとなった。


 老人は、ただそれを、引き攣った顔で眺めていた。




 その後、小間使いの少年が連れてきた村の薬師――という名目の、専属の医者に二人を任せ、老人は浮かない顔で自室に引きこもる。


 机の前、安楽椅子を揺らしながら、額を押さえて「はぁ……」と大きな溜息をついた。


「……まったく。モリセット隊は壊滅、ラトランドは気狂い、何が起きたかを知るパヴエルは重体、か」


 近頃は暇だ、などと思っていたらこれだ。こんな厄介事は御免だ、ともう一度溜息をつきつつ、


「まあ、とりあえずの報告はせねばなるまいて……」


 机の引き出しから、小さな紙切れを一枚取り出した。羽ペンを手に、老人は目を細めながら、紙面に何事かを書きつけていく。


「……ふむ」


 そして羽ペンをインク差しに戻したとき、紙切れにはびっしりと幾何学的な模様が描かれていた。


 引き出しからもう一枚、今度は羊皮紙を取り出した老人は、紙切れの内容と羊皮紙の内容を見比べるようにして、念入りに目を通していく。


「よし」


 数度の確認を終えた老人は、ローブの胸ポケットからホイッスルを取り出し、窓の外に向けてそれを吹き鳴らした。


 ピィーッという甲高い音が、外の鬱蒼とした森に響き渡る。


 やがて、バサバサと羽音を立てて、大きな黒い鴉が森の中から現れた。窓枠にしっかりと止まり、まるで血のような赤い瞳でこちらを見つめる。その右脚には、革製の小さなポーチのようなものが、ベルトで括りつけてあった。


「さぁ、仕事の時間だぞ」


 チッチッチッ、と舌を鳴らしながら、老人は机の上に置いてあったサラミを一切れ手に取り、鴉に食べさせる。鴉が首を振ってそれを飲み込もうとする間に、右脚のポーチの中に紙切れを仕舞った。


「これでよし、と。……さて、」


 んんっ、と咳ばらいをした老人は、鴉の眼前に右手をかざし、


【――Al la kastelo.】


 ぎらり、と赤い瞳を輝かせた鴉は、ばさりとその翼を広げた。


 ガァーッ、ガァーッと耳障りな鳴き声を上げながら、空へ向かって羽ばたいていく。それを見守りながら、老人はゆっくりと安楽椅子に座り直した。



 気流を捉え、天高く昇った鴉は、二度、三度。



 上空を旋回し、その進路を真っ直ぐ南へと取った。



 老人の視界の中、高みを羽ばたく鴉は、まるで黒い砂粒のようで。





 そのまま見る見る間に、空の果てへと、飛び去っていった。

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