8. 死神


 ケイが案内されたのは、村の中で一番大きな家だった。


「申し訳ありませんな、こんな田舎の村では、大したおもてなしも出来ませんで」

「いやいや、とんでもない。こんな真夜中に突然、こちらとしても申し訳ない限りだ」


 ランプの明かりが照らす居間。ベネットにテーブルの席を勧められながら、ケイは何食わぬ風を装っていたが、実は内心かなり恐縮していた。


(お忍びの身分の高い人間、とでも解釈してくれているみたいだが……)


 明らかに、ただの旅人をもてなす態度ではない。それ自体は狙い通りだったのだが、相手も謝礼を期待しているとはいえ、夜中にここまでの歓待を受けるのはどうにも居心地が悪かった。


 ミカヅキとサスケは家の前の杭につないであり、相変わらず意識の戻らないアイリーンは、別宅に寝台の空きがあるということで、そこで厄介になっている。


 最初は、病人のように顔色の優れないアイリーンを心配して、ケイも傍にずっと付いていようとした。しかしクローネンが「自分が世話役をする」と強く主張したこともあって、思い切って彼を信用し村長らの歓待を受けることにしたのだ。


(敵意は感じられなかったしな)


 責任を持って世話をする、と言ったクローネンの生真面目な顔を思い出す。ゲーム内では殺気の感知に長けていたケイだが、生来より人の悪意にもかなり敏感な性質たちだ。クローネンは、ケイに対してはまだ警戒心を解いていなかったが、少なくとも体調の悪いアイリーンには同情的であった。悪いようにはすまい、というのがケイの判断だ。


 また、彼が独り身の男であれば別の心配もあっただろうが、既婚者で幼い娘もいるらしいので、その点もあまり心配はしていない。それでも万が一、『何か』があればケイは大暴れするつもりだが――それも態度で示しているので、向こうも心得ているだろう。


「ささ、どうぞどうぞ。我が村の豚を使った燻製肉になります」


 媚びるような笑みを顔に張り付けた長男坊、ダニーが、肉の塊を載せた皿や木製のゴブレット、干し果物やビスケットなどを、これでもかとテーブルに並べ始める。最初の尊大な態度とは随分な変わりように、ケイは思わず笑いそうになった。ベネットが「これはなかなかに美味ですぞ」といいながら、ナイフで手ずからに肉を切り分けていく。


「そしてこちらは、近隣の村の葡萄を使った酒になります。去年は十年に一度の当たり年でしてな。近年にない良い出来といえましょう。さあ、どうぞ」

「……ありがたい」


 その間に、ダニーが葡萄酒を注いだゴブレットを勧めてくる。


 流石はタヌキ親父とその息子、といったところか。押しつけがましくなく、それでいて妙な間を作らない、実に見事な連携だった。接待慣れしている、という印象。こんな夜分に突然やってきた者を相手に、ここまで手際良く対応できる辺り、年季というものを感じさせられる。


(……しかし、これは、飲んでも平気なものだろうか)


 流されるまま思わず手に取ったゴブレットの中、とぷんと揺れる赤色の液体を眺めて、ケイはひとり逡巡した。本物のアルコールを口にするのは、幼い頃に飲んだ甘酒以来だ。加えて現状だと、不用意に飲み食いすると一服盛られやしないか心配してしまう。


なら大丈夫だとは思うが……)


 アルコールは、問題ないはずだ。また、薬を盛られたとしても、『身体強化』の紋章を刻んだこの身なら、よほど強力な毒でない限り耐性がある。


 あるには、あるのだが。


 ケイが香りを楽しむふりをして時間を稼いでいると、何かを察した風のダニーが、自分のゴブレットにも葡萄酒を注ぎ、「それではお先に」と口をつけた。


(……大丈夫っぽいな)


 自分用のゴブレットにだけあらかじめ毒を――という可能性もあったが、ダニーから緊張や悪意を読み取れなかったので、ケイも踏ん切りをつけた。


 そっとゴブレットを傾ける。少しだけ、口に含む。酒精の香りと、滑らかな葡萄の風味が、ふわっと鼻から抜けるようにして広がった。


「…………」

「いかがですかな?」


 こちらを覗き込むように、ダニーとベネットが首を傾げる。体格こそ似ていない二人であるが、その笑顔を見ると、なるほど親子だと思わされた。


「……口当たりがとてもよく、飲みやすい葡萄酒だ」

「そうですか、それはよかった」


 ケイの返答に、ほっとしたように――おそらくこれも演技だろうが――顔を見合わせる村長親子。


(危ねえ、むせそうになった)


 この葡萄酒、度数はかなり低めだったが、やはり慣れない『酒』であることには変わらず、肺の空気が逆流しそうになった。口の中で転がすうちに何とか慣れてきたので、少しずつなら問題なく飲めるが、ジュースのようにとはいかない。


「肉と合わせると、また味わいが違いますぞ」


 と、肉を程よいサイズにカットしたベネットが、皿をずいと目の前に寄せてくる。


『こちら』に来てから、まだ水とポーションと葡萄酒しか口にしていない。空腹を自覚し始めていたケイは、嬉々として皿の肉をつまんだ。


「おお、これは……」


 凝縮された肉の旨みと、程よい脂が舌の上で踊る。燻製肉独特の濃い木々の香り、塩味そのものはかなりキツめだったが、そこに少しずつ、葡萄酒を流し込むと――ベネットの言葉に嘘偽りはなかった。


 口に残った脂を、濃い目の味を、アルコールで洗い流すことの心地よさ! VR技術では再現しきれない、本物の味覚。久しく味わうことの出来なかった食物に、ケイは感動しながら舌鼓を打った。


「……なあ、村長」


 そんなケイの隣、のんびりとした、低い男の声が響いた。


「一つ聞きたいんだが。……なんで、おれまで呼ばれてるんだ?」


 濃い顔立ちの男――マンデルは、眠そうに目を擦りながら、村長に尋ねる。


「――――」


 一瞬の空白。笑顔のベネットから、首筋をちりちりと焼くような、微弱な『殺気』がもれ出るのをケイは感知した。


「……なに、聞くところによれば、ケイ殿は盗賊に襲われたとのこと。それも、ここからそう離れておらん場所でじゃ。村で一番腕が立つお前に、わしらと一緒に話を聞いておいて欲しかったんじゃよ、念のためにの」

「……なるほど」


 その返答に納得したのか、マンデルはぼんやりと眠たげな表情のまま、ケイの前の肉をちらりと見やる。


「小腹が空いたな。おれもつまんでいいか? ……ケイ殿」

「ああ、もちろん。あと『ケイ』でいいぞ」

「……ありがたい」


 もぐもぐと二人で燻製肉を堪能する。一人だけで食べるのは気まずかったので、ケイとしては歓迎だ。マンデルも気にする風はない。


「うむ。……これは酒が欲しくなるな」


 そして肉を飲み込んでの第一声がこれだ。ちなみにマンデルには水しか供されていない。頭痛を堪えるように額を押さえるダニー、その横でベネットは相変わらず笑顔のままだったが、口の端が引きつっていた。


「その……そういうわけで、賊についてお話を伺えませんかの? ケイ殿」


 マンデルを華麗にスルーし、ベネット。


「もちろん。と言っても、俺もすぐに逃げ出したから、そんなに詳しくは話せないが」


 葡萄酒をちびちびとやりながらも、かいつまんで襲撃された際の状況を説明する。場所、賊の数、その装備や練度。


「……"狩猟狼ハウンドウルフ"ですと?」


 神妙な面持ちで話を聞いていた一同だったが、ケイが調教テイムされた狼に追われたくだりを話したところで、その顔色が変わった。


「……ああ。二頭は殺した。一頭は運良く鼻を潰せたから、この村まで追ってくることはないと思う」


 臭いを辿ってこられることを恐れているのだろう、と解釈したケイは、そう言ってベネットたちの懸念を払拭しようとするが、村長親子の顔色は冴えない。マンデルも肉を食べる手を止めて、難しい顔をしていた。


(何だこの地雷を踏んでしまった感)


 一瞬で重苦しいものに変わった、場の空気に困惑する。


「ハウンドウルフが、どうかしたのか」

「い、いえ……あの獣は調教が難しく、それを使役する盗賊団となりますと、その、限られてきますから……のう?」


 ベネットとダニーと顔を見合わせて、ぎこちない笑みを浮かべた。「わかるでしょ?」と言わんばかりの態度。


(そう言われてもな)


 分からん、知らん。


 この世界に来てから僅か数時間。こちらの盗賊事情など知るはずもない。


「……『イグナーツ盗賊団』」


 腕を組んだマンデルが、ぼそりと低い声で呟く。


「…………」

「まさか、ご存じないので?」


 知ったかぶりをするか、素直に尋ねるか、逡巡している間にベネットに見破られる。


「恥ずかしながら、聞いたことがない」

「なんと」

「それは」


 呆気に取られたように、互いに顔を見合わせる村長親子。


「イグナーツ盗賊団は、"リレイル"地方一帯を中心に活動する、大盗賊団さ。近頃は、昔に比べると大人しくなった、という話だが……それでも規模が大きすぎて、未だにどこの領主も、迂闊に手が出せないらしい。……ここらじゃ、知らない奴はいないよ」


 マンデルが真顔で、静かに解説する。言外に、「お前は何処から来たんだ」と聞かれている気がしないでもないが、その茫洋とした表情からは真意が読み取れない。ただ外野のベネットとダニーが、顔をひきつらせてマンデルに微弱ながらも殺気を放っているのが印象的だった。


 しかし村長親子の態度よりも、ケイには気になることがある。


「ここは、リレイル地方なのか?」


 ケイの問いかけに、マンデルは妙な顔をしつつも、ああ、と頷いて肯定した。



 リレイル地方。


 ゲーム内においては、マップの南西部のエリア一帯がまとめて、そう呼ばれていた。


 平原や草原、丘陵や森林などの緑豊かな地形がその大半を占めており、要塞村"ウルヴァーン"、港町"キテネ"など重要な活動拠点が存在する、ケイのホームとでもいうべき地方だ。



「……村長。妙なことを聞いて申し訳ないんだが」

「はぁ。なんでございましょう」


 まだ妙なことがあるのか? とその顔には書いてあった。


「この村の近くにある、大きな町の名前を教えてくれないか」

「町、ですか」


 ベネットがふぅむ、と息をつきながら腕を組む。


「まあ、一番近いのは東にある"サティナ"の町でしょう」


 指をぴんと立てて見せて、代わりに答えるダニー。


「サティナ、か……」


 やはり、聞いたことがない。ケイの顔が少しばかり曇る。


「それと、北に行けばウルヴァーンがありますな」

「ウルヴァーンッ!?」


 が、それに続いたベネットの言葉に、にわかにテンションが上がる。突然大声を出したケイに、他の三人がぎょっと身を引いた。


「いや、失礼、取り乱した。ウルヴァーンといえば、要塞――」


 村の、と言おうとして、違和感に言葉を止める。


(……。俺は『大きなを教えてくれ』、と言ったはずだが)


 ゲーム内でのウルヴァーンは、確かに大掛かりな工事を経て作られたプレイヤーメイドの村ではあったが、完成したそれそのものは規模としては小さなものだった。


「そうです」


 こくりと頷いたのは、ダニー。



「――ウルヴァーンですよ」



 咀嚼し、理解するのに、数秒を要した。


「……要塞?」

「ええ、要塞都市」

「……要塞でなく?」


 ベネットとダニーが、そろってブッと噴き出した。


「ハハハ……なんともはや。ウルヴァーンが『村』なら、我らがタアフはさしずめ、犬小屋か何かですかな」

「いや、本当に。規模も人口も、比べるのもおこがましいという奴ですよ」


 ないない、と手を振りながら小さく笑う村長親子。


 どうやらゲーム内とは違い、ウルヴァーンはその規模を変えて、『都市』として存在しているらしい。葡萄酒のゴブレットを揺らしながら、ケイは考える。ウルヴァーンが存在するということは、つまり――


「となると、西にずっと行けば港町キテネがあるわけかな」

「そうです。"港湾都市キテネ"――ケイ殿は、キテネはご存じで? 私は数度しか訪れたことがありませんが、あそこは良い街でした。特に歓楽街」


 ぐへへ、とダニーの顔がだらしなく崩れる。気色の悪い笑みを浮かべる小太りの男から、つっと目を逸らしてケイは、


「村長。差し支えなければ、この周辺の地図など見せてくれまいか」

「地図……ですか。少々お待ち下され」


 よっこいせ、と立ち上がったベネットが、テーブルの上の燭台を手に取って奥の部屋へと消えていく。


「……あいにくと、大まかなものしかございませんが」

「構わない。ありがとう」


 戻ってきたベネットから羊皮紙を受け取り、テーブルの上に広げる。


「……なるほど」


 たしかに、地図だった。


 随分と昔に描き出されたものなのだろう。古びた羊皮紙の上、タアフの村を中心に周辺の大雑把な地形、そして家や城などのマークがぽつりぽつりと描かれている。


「東のこれが、サティナの街か。北の城がウルヴァーン、西の港がキテネ……。この家のマークは、周辺の村か?」

「そうなりますな。ミリア村、マザフ村、ラネザ村……」

「……距離はどうなっている? ある程度、正しいのだろうか」

「正しさとしては概ね……といったところですかな。例えば、東の街サティナには、歩いても半日もかかりませんがの。倍の距離があるキテネまでは、1日はかかりましょう」

「ふむ……なるほど、ありがとう」


 改めて地図に視線を落とす。


 タアフ‐サティナ間が半日として、それぞれの街との距離を考えると、キテネまでは徒歩で1日、北に少し離れたウルヴァーンまでは3日といったところか。


 もちろん、その途中には森や山谷などの障害となる地形が広がっているため、実際に行こうとするともう少し時間がかかるだろうが。


 要塞都市ウルヴァーンと港湾都市キテネの、地図上での距離を測る。


「ウルヴァーン‐キテネ間は、歩くと大体3、4日か」

「地図に従えば、そうなりますな」

「行商人の護衛に話を聞いたことがありますが、ウルヴァーンからキテネまでは、馬で早駆けすれば半日ほどの距離だそうですよ」


 妄想の世界から帰ってきたダニーが、横から口を挟んだ。ウルヴァーン‐キテネ間の馬での所要時間は、ケイが一番知りたかった情報でもあった。


「なるほど、ありがとう」


 顎を撫でながら、考え込む。


(ゲームに比べて、色々とスケールが大きくなってるな……)


 要塞村が要塞都市に。港町が港湾都市に。そして、ゲームでは馬で30分ほどだった道程が、半日がかりに。


 30分の道のりが12時間の道のりに変わったからといって、単純にマップの広さが24倍になった、とはいえないのが馬という移動手段の面白いところだ。


 自動車とは違い、馬はトップスピードのまま走り続けることはできない。30分間だけ走るのと、半日を通して走るのとでは、その移動可能距離に大きな差が出てくる。


 ゲーム内では、バウザーホースの性能に物を言わせ、ミカヅキたちは通常の馬の駈足ギャロップに匹敵する速度で、30分間ノンストップで駆け続けることが出来た。標準的な馬の駈足は、時速30km。つまり、ゲームにおけるウルヴァーン‐キテネ間の実質的な距離は、おおよそ15km弱となる。


 しかし半日を通して走り続けるとなると、どんな馬でも、バウザーホースですらも、ずっと駈足を維持することはできない。途中で休憩を挟んだり、ペース配分のため速度を落としたりする必要が出てくる。そういったロスを加味すると、『この世界』でのウルヴァーン‐キテネ間の距離は、おおよそ150km強と考えられる。


 つまり、ゲーム内と『この世界』のスケール感の差は、比率にして10倍といったところではなかろうか。


(ゲームの【DEMONDAL】のマップ全体が10倍になったとして……『ここ』は最大で、ブリテン諸島くらいの面積になるわけか?)


 ブリテン諸島。要はイギリス。馬では縦断するのにも一苦労するレベルの広大さだが、それでも『世界』というくくりから見ると、その程度の面積では小さすぎる。


 ここが【DEMONDAL】に限りなく似ている異世界であるならば、おそらくゲーム内では行けなかった海や山脈の向こう側に、設定上のみ存在していたエリアや大陸が存在していると考えるべきだ。



「…………」


 思案顔で黙りこくるケイに声をかけるのも躊躇われ、沈黙がその場に降りる。


 アイリーンが回復したら、まず『村』から『都市』へとスケールアップしたウルヴァーンに見に行ってみるべきか……などと考えていたケイだが、


「――――」


 外から聴こえてきた微かな音に、ふっと顔を上げる。


「……誰か来てるな」


 マンデルもケイとほぼ同時に気づいたらしく、振り向いて扉の外へと意識を向けていた。



 ざっざっざっ、と何者かが、小走りで村長の家に接近する足音。



「――失礼しますっ!」


 バンッと家の扉が乱暴に押し開かれる。


 扉の外、顔面蒼白で息を荒げていたのは、そばかす顔の若い女だった。


「ティナ、どうしたんじゃ。そんなに慌てて」

「村長! 大変なんです!」


 ベネットの問いかけにヒステリックな叫びを返した女は、ばっとケイの方に向き直り、


「旅の御方! 大変なんですッ! すぐに来てください!! 早くッ」


 今にも泣きそうな顔で、ぐいぐいと袖を引っ張ってケイを外に連れ出そうとする。


「ま、待たんかティナ! 何があったんじゃ、説明せいッ!」


 ベネットが一喝すると、半狂乱だった女は一瞬黙り込み、



「お連れの方が、アイリーン様が、――」



 おずおずとケイの方を見やる。



「息を、――息を、されてないんです!」




          †††




 血相を変えて、走る。


「アイリーンッ!」


 どばんッ、と扉を蹴破らんばかりの勢いで、その狭い部屋に飛び込んだ。


 中には、二人。小さな寝台に横たえられたアイリーンと、その前でおろおろとうろたえるクローネン。


「どけェッ!!」


 狼狽して何かを言おうとするクローネンを乱暴に突き飛ばし、アイリーンに駆け寄る。


「アイリーン……ッ! おいっ、しっかりしろ、アイリーン!」


 ぺしぺし、と軽く頬をはたくが、全く反応がない。口の上に手をかざすも、――呼気は、感じられなかった。


 ランプの暖色の光に照らされてなお、アイリーンの顔は紙のように白い。まるで人形を目の前にしているような嫌な感覚。胸が早鐘を撞くように軋む。


 まさか、なぜ。顔色が悪いとは思っていたが、傷はもう完治しているはずなのに――


「――くそっ!」


 左胸に耳を押し当てた。


「…………」


 何も聴こえない……、いや。



 とくん、と小さな、今にも消えそうな、鼓動。



「まだ生きてる……!」


 腰のポシェットをまさぐり、ポーションの小瓶を取り出した。焦りに震える手をなだめすかし、コルクを抜いて、アイリーンの口に流し込む。


 数秒。


「……けふっ」


 顔を歪めたアイリーンが、僅かに身じろぎしてむせた。その頬に、僅かに赤みが戻る。


「なっ、息を吹き返した……!?」


 まるで神の奇跡でも目の当たりにしたかのように、驚愕の声を漏らすクローネン。そこへ、ぎょろりと振り返ったケイの鋭い視線が突き刺さる。


「……貴様、何をした」

「おっおれは何もしていない!!」


 地獄の底から響いてくるような底冷えのする声、そしてじりじりと空気が焼けつくような濃密な殺気に、震え上がったクローネンが無実を訴える。


 事実、クローネンは、


「おれはただっ、その娘が汗をかいてたからっ、ね、熱もあるようだったし、布を濡らして熱冷ましにしようと……」


 手の中の、濡れた手拭いをケイに見せる。


「ほっ、本当に少しの間だったんだ! 元々、体調は悪そうだったが、少し目を離して、戻ってきたら、どんどん弱っていって……ティナがあんたを呼びに行った頃には、呼吸も、もう、ほとんど……」


 しどろもどろになりながら、弁明するクローネン。


 その狼狽っぷりを見て、逆に少し冷静さを取り戻したケイは、クローネンが何かをしたわけではなさそうだ、と考えを改めた。アイリーンに追加でポーションを飲ませつつ、


「……すまない。少し、動転していた」

「いや、わかってくれたんなら、いいんだが」


 おっかない殺気をひっこめたケイに、クローネンがほっと胸を撫で下ろす。


(……それにしても、何でこんなことに)


 無意識に噛みしめた下唇が白くなる。顔色が戻ってきた代わりに、再び額に汗を浮かべ始めたアイリーンを前に、疑念が再び湧き上がってきた。


 傷は、完全に治っている。それは間違いない。


 腰の矢筒からアイリーンが射られた矢を抜いて観察するも、矢じりが体内に取り残されたまま、ということもありえなさそうだ。


(ポーションが足りてない? いや、一瓶飲ませれば生命力は完全に回復するはずだ、それに完全に回復していなかったとしても、瀕死の状態にまで追い込まれる理由が――)



 ――瀕死の状態にまで、追い込まれる。



 はっ、と顔を上げたケイは、右手に握った襲撃者の『矢』を凝視した。




「――全くもう、こんな夜中になんだってんだい」

「――すまんの、しかし事態が事態での」


 と、部屋の外がにわかに騒がしくなる。


 ぎぃっと扉が開き、杖をついてローブを羽織った老婆が、中に入ってきた。


「まったく旅人なんざ、とんだ迷惑――ひぇぇぇええぇっっ!!!」


 入ってきて早々、ぶつぶつ文句を言っていた老婆は、ケイと視線を合わせた瞬間に奇声を上げて腰を抜かしその場に尻もちをついた。


「アンカ婆さん、どうした!?」

「あっ、あんらまぁ、これは……」


 慌てて駆け寄るクローネンに構わず、へたり込んだ老婆は目を見開いて、そのしわくちゃな顔に驚愕の表情を浮かべている。


「婆様、どうしたんじゃ」


 遅れて、やや疲れ顔のベネットが部屋に入ってきた。


「こ、こちらが旅の御方かい? ベネット」

「そうじゃ、そうじゃ。……ケイ殿、この婆様はうちの村の薬師ですじゃ」

「ヒッ、ヒヒヒッ、薬師なんて大層なもんじゃない、ただの呪い師さね。アンカ、と申しますじゃ、お見知りおきを……旅の御方」


 クローネンの手を借りてよろよろと起き上がり、おぼつかない足取りで薬師の老婆は寝台に近づく。


「……この娘っ子は、いったい何がどうなっとるんかえ?」

「実は……」


 クローネンが、大雑把に状況を伝える。


「ふむ……旅の御方、何か心当たりは」

「……つい先ほど、賊に矢で射られた」


 アンカの婆様に、ケイは賊が放った矢を渡した。


「これは……。しかし、どこを射られたのか、傷跡が見当たらんが……」

「ここだ」


 矢を撫でながら不思議そうな顔をするアンカに、アイリーンの胸元を示して見せる。ポーションによって修復され、新しい皮膚が白く残った傷跡。


「これで治療した」

「それは……!?」


 ケイの手の中の、瓶に僅かに残された水色の液体。視線を釘付けにしたアンカが、はっと息を呑む。


「ご存じか。ハイポーションだ」

高等魔法薬ハイ・ポーションですと!!」


 オウム返しに、しわがれ声で叫んだアンカが、再びへなへなとその場にへたり込む。


「……あんまり驚かさんで下され、旅の御方。心の臓が止まるかと思いましたわい」

「あ、ああ、すまない……っと、失礼」


 そこまで驚くようなことか、と怪訝に思いつつ、また顔色が悪くなってきたアイリーンの口にすかさずポーションを垂らす。


「しかし、この矢で、この症状……」


 唸るように言ったアンカが、アイリーンの額に浮いた汗を指先で拭いとり、口に含む。


「……苦い」

「賊は、イグナーツ盗賊団である可能性が高いそうじゃ」

「……なるほどの」


 すっ、とケイを見据えたアンカは、「旅の御方、」と姿勢を正して切り出した。


「この娘の症状、これは……この矢に、『毒』が塗られていたのではないかと」

「…………」



 ケイの口から、重々しい吐息が漏れる。


 やはりそうなるか、と。


 そうなってしまうか、と。



 リアル路線を謳う【DEMONDAL】には、当然のように毒も存在した。


 即効性のものから遅行性のもの、即死させるものから体を麻痺させるものまで、何種類もの毒薬があり、それは対人戦闘や狩りなどで積極的に利用されていた。


 しかし、その毒の大半は、空気に触れるとあっという間に劣化してしまう性質のものが多く、有効活用するためには使用する直前まで密閉容器に保存しておかなければならない、という制約があった。


 強力ではあるが、その扱いには細心の注意が求められ、それでいて手間がかかる。

それが、【DEMONDAL】のゲーム内における、『毒』の立ち位置であった。


 ケイの場合は、素の弓の攻撃力が高すぎるのと、いちいち矢を放つ前に矢じりに毒を塗布する手間がわずらわしいのとで、ほとんど毒を利用してこなかった。


 そして――これが最重要だが――ゲーム内においては、毒を受けた後の発汗や発熱といった生理的反応が、存在しなかったのだ。


 そのため、今回のアイリーンの症状を、ケイは『毒』によるものだと即座に結び付けることができなかった。せいぜい、痛みによるショックでうなされている、と。


 その程度の認識だった。



 もしも――。



 もしも、クローネンが、アイリーンの傍に付いていなかったら。



 そう考えると、ケイは、背筋にゾッと薄ら寒いものが走るのを感じた。


 ケイも、最初はアイリーンの傍についておくつもりだったが、ひょっとすると疲れで自分自身すぐに寝付いてしまったかもしれない。そうすれば、朝に目を覚ますと、アイリーンが毒にやられて冷たくなっていた、などということも――。


「婆さん。……この症状が毒によるものだ、というのは、俺もそう思う。……だが、何の毒だと思う?」


 アンカの目をまっすぐ見つめながら、ケイは問いかける。


 毒による継続ダメージ。絶望的な状況だ。毒は自然治癒せず、またポーションでも治せない。


 しかし、仮にこの『毒』が、【DEMONDAL】のゲーム仕様に準拠したものであるならば、まだ、対策の立てようはある。ポシェットを探ったケイは、その中から小さな金属製のケースを取り出した。


「ここに解毒薬がある。それぞれ"隷属スレイヴリ"、"夢魔インクブス"、"単色モノクローム"系統の特効薬だ」


 "隷属スレイヴリ"

 "夢魔インクブス"

 "単色モノクローム"


 ゲーム内では『三大対人毒』とまで呼ばれた、対人戦闘において最もメジャーな系統の毒だ。上級プレイヤーにも通用する毒性を持ち、そしてある程度の使い勝手も兼ね揃えた毒は、多少成分が違えどもこの三系統の派生であることが多かった。


「この娘――アイリーンは、こう見えて毒にはかなりの耐性がある」


 アイリーンは、各種毒物に対する耐性や、肉体の強靭性が飛躍的に上昇する『身体強化』の紋章を、その身に刻んでいる。


「だから、生半可な毒は効かない。矢じりにちょっと塗りたくった程度の量で、こいつの生命力を削り切ることができる毒は、この三種類ぐらいしかないはずなんだ」


 そして、それぞれの毒は対応した特効薬を飲めば、すぐに中和され無害になる。


「……ならば、その薬を三つとも飲ませれば……」

「それはできない……」


 ケイは絞り出すように言う、


「飲み合わせが悪いんだ。間違えた特効薬を飲めば、激しい拒否反応が起きる」


 少なくともゲーム内では、誤った特効薬を服用するとショック症状が起き、むしろ容体の悪化を招いた。万全の状態であればまだしも、今のアイリーンは体が弱りすぎている。ロシアンルーレットを試して、万が一のとき、拒否反応に体が耐え切れるか分からない。


「だから、アイリーンがどの毒にやられているのか、見極めないといけないんだ」


 藁にもすがる思いで、ケイは問いかける。


「婆さん。アイリーンは、どの毒にやられてると思う……?」


 口を開きかけたアンカは――


「…………」


 つっ、と、目を逸らして俯いた。



 やはり分からないか、と。歯を食いしばる。



 ゲーム内。

 ゲーム内であれば。

 この三つの毒は、簡単に見分けがつく。それぞれ継続ダメージに加えて、特徴的な効果があるからだ。


 "隷属スレイヴリ"系統は、感覚が鈍り、体が異常に重く感じられる。


 "夢魔インクブス"系統は、毒を受けた時点で、『昏迷』状態となる。


 "単色モノクローム"系統は、視覚から色彩感覚が失われ、また視野狭窄も併発する。


 身体の動きを麻痺させるような毒もあるが――ゲーム内では、アバターの動きは制限されても、


 つまり、毒を受けた本人が、症状を自己申告できたわけだ。


 体が重くて動かないならば "隷属スレイヴリ"。視野狭窄が生じれば"単色モノクローム"。そして、自己申告できない、すなわち会話が不可能な状態に陥っていれば、"夢魔インクブス"といった風に――。


 それで充分だった。あとは周囲の者が、対応する特効薬を与えてやればよかった。



 しかし、今。


 アイリーンの意識は、混濁したまま戻らない。


 本人に、どのような毒の症状が表れているのか、確認することが、出来ない。



「……個人的には、意識を失ってるから、"夢魔"系統が怪しいんじゃないかと思う」


 ぽつぽつと、ケイは静かに言葉を続ける。


「しかし断言もできない。"隷属"系統も身体感覚を鈍らせる以上、それが重症化して意識が混濁しているという可能性もある」


 "単色"系統を除いたところで、確率は2分の1。


「……どうすればいいんだ」


 ケイの呟きに、しかし部屋の面々は沈黙したままだった。




 数分か、あるいは数十秒か――再び顔色が悪化しつつあったアイリーンに、手持ちのポーションを全て飲ませたケイは、すっと立ち上がった。


「ちょっと待っててくれ」

「お、おい……」


 クローネンの制止も聞かず、小走りでベネットの家に戻る。


 玄関口、杭につながれていたミカヅキが、「ぶるるっ」と鼻を鳴らしてケイを出迎えた。


「……大変なことになった。本当に間抜けだな……毒かもしれないなんて、少し考えれば分かったろうに……」


 はぁ、と重いため息をつくケイ。サスケが「だいじょうぶ?」と心配げに、顔を覗き込んでくる。


「……大丈夫。アイリーンは助けるさ」


 サスケの鼻づらを優しく撫でてやり、ケイはぎこちなく微笑んだ。鞍に取りつけてあった革袋を取り外して、再びアイリーンの元へと戻る。




「……お若い方よ。どうなさるおつもりか」


 ゆらゆらと揺れるランプの光。枕元でアイリーンの汗をぬぐっていたアンカが、悲痛な声で尋ねてきた。


「婆さん。少し頼みがある」

「……ワシにできることなら、何なりと」

をアイリーンに。顔色が悪くなるたびに、飲ませてやってくれ」


 革袋を、アンカの足元の床に、そっと置く。


 怪訝な顔で袋を開き、中を覗き見たアンカが――、はっと息を呑んだ。


 十数本にも及ぶ、ハイポーションの瓶。


「そして、これだ」


 ポシェットから取り出したのは、金属製の小さなケース。それからそれぞれ色の違う丸薬を数粒つまんで、そっとアンカに手渡した。



「……、どれか一つを、アイリーンに飲ませてやってくれ」



 ケイの言葉に、全員が目を剥いた。


「ケイ殿!?」

「お若いの、まさか!」


 ケイは小さく笑う。


「分からないんだったら……使った奴に聞くのが、一番早い」


 頼んだ、と言い残して。



 背後からの声には耳を貸さずに、ケイは足早に部屋を出た。




          †††




「お、おい、ケイ!!」


 ベネットの家の前、ミカヅキの手綱を引いていくケイを、クローネンが呼びとめる。


「無茶だ! いくら装備が良いからって!」


 ケイは答えず、ひらりとミカヅキに飛び乗った。


「……随分と騒がしいが」


 ぬっ、と建物の陰から、マンデルが姿を現す。


「ケイ。……相手は、十人近いんじゃなかったのか」

「そうだな、大体そのくらいだろう」

「だから無茶だ! 一人でそんな人数相手に、勝てるわけがない! しかも聞いたぞ、賊はあのイグナーツ盗賊団なんだろ!?」


 槍を振り上げて、クローネンが叫ぶ。


「じゃあ、何だ。ついてきてくれるか?」

「えっ。それは……」


 ケイのからかい混じりの返しに、短槍使いの男はぐっと声を詰まらせた。


「冗談さ。俺一人で十分だ。こちらは騎兵、向こうは数が多いとはいえ所詮は徒歩……弓のいい練習になるよ」


 楽観的に言ってのけるケイ、しかしクローネンとマンデルは顔を曇らせる。


「しかし、こんな新月の夜に……」


 眉をひそめたクローネンは、思わず空を振り仰いだ。夜の真の暗さの前には、星明かりすら闇に呑まれるかのようだ。こんなに暗闇の中、単騎で駆けるなど自殺行為以外の何物でもない。


 ――少なくとも、クローネンにとっては。


 しかしケイは笑って見せる。


「だから、心配しなくても大丈夫だ。ほら、」


 無造作に矢筒から矢を引き抜き、一切のも気迫も感じさせずに、すっと空へ向けて弓を引き絞った。



 快音。



 ギィッ、と鋭い鳴き声が頭上から聴こえてきたかと思うと、ぼとりと黒い塊が地面に落ちる。



 ――それは、矢に射抜かれた、一羽の蝙蝠だった。



「…………」


 胴体を貫かれ、ばたばたともがき苦しむ蝙蝠。クローネンとマンデルは顎が外れんばかりにぽかんと口をあけて、絶句した。


「言ったろう? 夜目は効く方なんだ」


 馬上から、蝙蝠の矢を引き抜き回収したケイは、にやりと口の端を釣り上げる。


「……それじゃあ、行ってくる」


 唖然としたままの二人をおいて、ケイはミカヅキの横腹を軽く蹴った。




 いななきの声ひとつ漏らさずに、滑るようにして褐色の馬は走り出す。


 その馬上で揺られながら、ケイは顔布で口元を覆い隠し、今一度その左手に朱塗の弓を握り直した。


「……急ぐぞ。頼んだ、ミカヅキ」



 主の声に、忠実なる駿馬は短く鼻を鳴らして応える。





 果たして、新月の宵闇に。





 ――死神は、放たれた。


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