2. 霧の中
見渡す限りの、乳白色の世界。
「濃いな……」
常歩でゆっくりと馬を進ませながら、ケイはいつでも矢を放てるように弓を構え、周囲に神経を張り巡らせる。
頭上から降り注ぐ陽光のおかげで明るくはあるものの、視界はぼんやりと霞み、見晴らしは非常に悪い。
五メートルほど先から急激に見えづらくなり、十メートル先に至っては殆ど何も見えなかった。乳白色のヴェールからぬっと姿を現す木々の影に、先ほどからケイはぎょっとさせられてばかりいる。
霧を構成する粒子の一粒一粒が、つぶさに見えるような錯覚。
ぼやけた視界のせいで、頭の中までぼんやりしていくような。
そんな、不快な感覚があった。
「アンドレイ、着いてきてるか」
「おう。たまに見失うけどな」
「……はぐれるなよ?」
「気をつけるさ。流石に面倒だ」
本当に大丈夫か、とケイはすぐ後ろに追随するアンドレイに目をやる。ぱっかぱっかと揺れる馬上、アンドレイはサーベルでぽんぽんと肩を叩きながら、興味深げに周囲を見回していた。
「すげえな、この霧。
「……お前の御国は、霧はよく出るのか?」
「あー、……いや。霧はあんまし、どっちかっつーと雪だな」
「ロシアだよな?」
「ああ、シベリアだ」
「シベリアか……寒そうだ」
「冬は軽く-30℃はいくぜ」
「そいつは勘弁だな、寒いのは苦手だ」
一旦、会話が途切れる。
「……やはり魔術か? 自然現象にしては、濃すぎる気がする」
「そうだなー。けど
「となると、脅威度がゼロ設定の、未発見の魔術か……? いや、俺たちの魔術耐性を考えると、この濃さで脅威度ゼロは無いだろう」
「"幻覚"じゃなくて、実際に霧を発生させてる、って可能性もあるぜ?」
「……だとしたら、かなり上位の精霊だな。契約できれば儲けモノだが……二人で戦うのは、ぞっとしないな」
「……
アンドレイがお手上げのポーズを取る。
が、突然、ぎょっとしたように顔を強張らせ、左手で腰の投げナイフを引き抜いた。
「……」
「どうした、アンドレイ」
一瞬、アンドレイが発した鋭い殺気を感知し、馬の歩みを止めたケイは弓を構えつつ尋ねる。
投げナイフを左手に、アンドレイは困惑したような顔で、ぽつりと答えた。
「……声が聴こえた」
「……声?」
思わず、ケイは眉をひそめる。
『視力強化』の呪印を刻んだ両の瞳ほどではないが、極限までステータスを高めたアバターとして、ケイの耳もかなりの高性能を誇っていた。
しかし、先ほどから、声など聴こえてはいない。
「……何だ……何だ、今の……」
「……落ち着け。なんだか嫌な感じがする」
壊れた機械のように、せわしなく視線を彷徨わせるアンドレイ。
その姿に、言い知れぬ不安を覚えたケイは、思わずそう口にして――自分の発言に戸惑った。
"嫌な感じがする――"
何を馬鹿な、と。一笑に付したい気分だった。
確かに【DEMONDAL】には"
断じて、根源的な不安を呼び起こすような――
ヒトの感情に、直接影響を及ぼすようなものでは、ない。
しかし、他でもない今。
ケイは得体の知れない何かが、足元からじりじりと這い上がってくるような――そんな、感覚に襲われていた。
「……アンドレイ、俺には何も聴こえない」
「そんな筈はない! ほら……まただ!」
微かに怯えの表情を浮かべたアンドレイが、鋭い声を上げる。
「ケイも聴こえるだろ!?」
「……いや、聴こえないぞ」
事実、何も聞こえない。だが、アンドレイはそうではないようだった。
「嘘だ! なんでだよッ!!」
「本当だ、落ち着けっ」
「なんで聴こえないんだ! ほら、また――」
その瞬間。
言葉を続けようとしたアンドレイは、かっと目を見開いて、硬直した。
「…………」
「……アンドレイ?」
「……誰だッ!!」
サーベルを振り上げたアンドレイが、周囲を見回し、叫ぶ。
「誰だッ!! 何処にいる?!」
「アンドレイッ」
「誰だ?! なんで、なんでッ――」
怯えきった顔で、アンドレイは絶叫した。
「――なんで
「……は?」
何を言っているんだコイツは。と、思わずケイの思考が一瞬停止する。
「……。アンドレイ、いい加減に落ち着い――」
ぐるんと、アンドレイがこちらに顔を向けた。
その瞬間、ケイの背筋に冷たいものが走る。
明らかに、目の焦点があってない。能面のように表情が抜け落ちた顔は、紙のように白かった。リアルな造形とはいえ、高々ゲームのアバター――にも関わらず、背筋が凍るようなおぞましい何かが、そこにあった。
「…………」
無言のまま、アンドレイが左手を振り上げる。きらりと光る投げナイフ。
ぶわりと、アンドレイの黒衣が膨れ上がるような錯覚が、
「いや、ちょっと待」
左腕がブレた。
鋭く刺すような殺気。ケイは慌てて身をかがめた。
ビッ、と空を切り裂いて、ケイの頭を銀色の刃がかすめる。
「おいっ、ふざけるなっアンドレイ!!」
思わず怒鳴るが、アンドレイは意に介さず、そのままきょどきょどと周囲に視線をやり、
「くそっ、何処だ。アイツ、何処に行きやが、あああああ、あ、あ、あ、消え、消え」
うわ言のように呟きながら、馬上で寒さに凍えているかのように、己の身を掻き抱く。その体は冬山の遭難者のように、カタカタと細かい震えを起こしていた。
流石に心配がピークに達したケイは、ひらりと鞍から飛び降り、アンドレイに近づこうとした。
が、その瞬間、ぴたりと震えを止めたアンドレイが、再び腰から投げナイフを引き抜く。
来るか、と咄嗟に身構えたが、アンドレイはケイとは明後日の方向を向いて、
「そこかッ!」
ナイフを投じた。
風切音。
しかし、何もないところへ投げられたナイフは、当然、何者をも捉えない。
乳白色のヴェールに、呑まれて、消える。
普通なら地面に刺さるなり、崖の岩肌に弾かれるなり、何らかの音がするはずだったが、霧の世界は不気味なほどに静かなままだった。
「また、また、消えた……」
泣きそうな表情で俯いて、アンドレイが小さく呟く。
その表情に憐憫を、そして理解不能な状況に怒りを覚えたケイは、たまらず、腹の底から声を振り絞って、叫んだ。
「おいッ、アンドレイッ! しっかりしろ!!」
その声に、はっとアンドレイが顔を上げる。
「……ケイッ!!」
叫び返すアンドレイはしかし、
――ケイがいる方向とは、真逆に。
「ケイ! 何処に行ってたんだ!」
心なしか安堵の色が滲む声で、アンドレイがほっと溜息をつく。
「全く、ビビらせやがって……」
「ああそうさ、さっきから変な声がしてたんだ」
「いや、幻聴じゃねえよ。ホントだって」
「それよりお前、何処に行ってたんだよ? けっこー怖かったんだぜ?」
「え? さっきからここにいた? 嘘つけ、絶対いなかっただろ」
からからと笑うアンドレイ。
――いや、冗談ではない。
「おい……おいっ!! アンドレイ!!!」
楽しげに会話するアンドレイに、ケイは全身が総毛立つのを感じた。
「お前、
ふっ、とアンドレイが、こちらを見た。
焦点のあっていない目。
「……なあ、今、また声が聴こえなかったか?」
彷徨う視線。
「なあ、ケイ。…………ケイ?」
再び、振り返ったアンドレイが、「あれ?」と戸惑いの声を上げる。
「おい、今度は何処行ったんだよケイ! 悪ふざけは止めてくれ!」
「ふざけてんのはお前だ! 俺はここにいる!」
「……! そっちか!」
明後日の方向を向いたアンドレイが、手綱を握り馬の横腹を蹴った。
ヒヒン、と鳴いたアンドレイの馬が、駆け足で走り始める。
「ケ――イッ! 待ってくれ――ッ!」
「違う!
必死で叫ぶ、
「アンドレイッッ!!!」
少年の後ろ姿が、霧に呑まれた。
蹄の音が遠のいていき――消える。
「…………」
一人残されたケイは、ただ、呆然と立ちすくんだ。
「……。!」
数秒、あるいは数十秒。はっと我に返る。
追わなければ、と思った。
正直、気味の悪い、この得体の知れない状況に、ログアウトするなりキャラチェンジするなりしたい気分だったが。
このまま放っておけるほど、アンドレイは付き合いの浅い相手ではなかった。
何かがヤバい、と。ケイは、直感していた。
「くそっ、アンドレイの馬鹿野郎」
手間かけさせやがって、と毒づきながら、手綱を引いて馬に飛び乗ろうとした。
「……?」
だが、引いた手綱が全く動かない。首を傾げたケイは、手綱をたどるようにして視線を動かし、馬に目をやる。
「……ミカヅキ? どうした」
名を呼びながら、異変を感じたケイは愛馬に向き直った。
手綱を握ったまま、乗騎――ミカヅキの顔を見るも、ミカヅキはまるで剥製にでもされてしまったかのように、微動だにしない。
「……おーい、ミカヅキ?」
ひらひらと、ミカヅキの顔の前で手を振る。普段なら、飼い主であるケイをトレースするように、首なり目なりを動かすはずだ。
が、ミカヅキは真っ直ぐ前を見たまま、全く動かなかった。
「……どうなってんだ」
バグか? とケイはため息をつく。
やっぱりログアウトしようか、とさえ思った。
なんだかもう、この場をすぐに去ってしまいたい、と。
「ぶるるっ」
そう思った矢先、まるでエラーを起こしたコンピュータが再起動を果たしたかのように、ミカヅキが鼻を鳴らして首を振った。
「おお、戻ったか、良かった」
「ぶるるっ、ぶるるっ」
ほっと一息つくケイをよそに、ミカヅキは鼻を鳴らす。
「ぶるるっ、ぶるるっ、ぶるるるるっ」
すぐに、何かがおかしい、と気付いた。
「ぶるるるるっ、ぶるるるるるるるっ」
頭をぶんぶんと振りながら、ミカヅキは鼻を鳴らし続ける。
「ぶるるるるるるるるるるるるるるるるる――」
終いには、まるで壊れた玩具のように、ブレて見えるほど激しく首を振り回し、そのいななきはまるでエンジン音のようで、
「……ミ、ミカヅキ?」
恐る恐る、ブレまくる顔に手を伸ばし――
ぴたり、と。
ケイの手が触れる寸前で、ミカヅキはその動きを止めた。
「……」
ミカヅキの目が、すっとケイを捉え、その口が開き、
「ミ" カ" ツ" キ" ィ」
ひび割れた低音の声が、
「うおっ!?」
ぎょっとしたケイは、思わず後ろに飛び退ろうとして、足をもつれさせその場に尻もちをつく。
「…………」
意味が分からない。唖然としたまま、阿呆のように口をぽかんと開けるばかりで、言葉は何も出なかった。
普通、ペットは喋らない。
当たり前だ。所詮は馬。
人間の声は出ないし、出せない。
出せない、筈だった。
「…………」
剥製のようなミカヅキの顔が、真正面から、こちらを見つめる。
ガラスのような目の玉が。
じっと、ケイを見つめたまま、動かない。
ぐわんぐわんと、視界が揺れるような。
口の中が、からからに乾いていくような。
そんな錯覚が、ケイを襲った。
「……ぶるるっ」
どれほどの時間が経ったか。
再び、鼻を鳴らしたミカヅキは、ケイからふっと目を逸らした。
そのまま踵を返し、主人であるケイを置いて、霧の中へと駆け去っていく。
だんだんと遠ざかる蹄の音は、やがて聴こえなくなった。
静寂。
「…………」
呆気に取られたケイだけが、ひとり残される。
かひゅーっ、と。
ケイの喉が、大きくかすれた音を立てる。
ようやく肺機能が復活したケイは、このとき初めて、己が呼吸を止めていたことに気が付いた。
しばし、尻もちをついたまま、浅い呼吸を繰り返す。
静謐な霧の世界に、ぜえぜえと喘ぐような声が、響いて、吸い込まれて、消えていった。
「……落ち着け。……落ち着け、落ち着け……」
己に言い聞かせるように、小さく呟きながら。
胡坐をかいて座り直したケイは、胸に手を当てて、ゆっくりと深呼吸をした。
ようやく心臓の動悸が治まったあたりで、ふう、と大きくため息をつき、頭痛をこらえるように眉間を抑える。
黙考すること、数秒。
「……。落ちよう」
ケイは、この状況から逃れ去ることを選択した。あまりにも、気味が、悪かった。
顔面蒼白のまま、ケイはログアウトするため、思考操作でメニュー画面を呼び出そうとした。
しかし、いつもなら特に意識せず実行していた操作が、上手くいかない。
何度メニューを呼び出しても、出てこなかった。
「……なんで出てこないんだよ」
ぼそりと、呟く。
まさかこのまま。
ログアウトできずに――。
ふと、そんな考えが脳裏をかすめる。背筋に、ぞっと冷たいものが走った。
誰もいない。
一人きりで、霧の中。
じわりと体の表面が熱くなり、体の芯は逆に冷えていくような、そんな感覚。
「……くそっ。なんで上手くいかないっ」
苛立たしげに呟きながら、頭を振って再び思考操作を試みる。失敗。試みる。失敗。試みる。
失敗。
「……っ!!」
焦りと苛立ちがピークに達そうとした、まさにその瞬間、ケイの眼前に音もなく、半透明のウィンドウが現れた。
無機質な白色の画面には、いつものように、現在時刻とGMコール、そしてログアウトの表示が三つ、浮かんでいた。
目線でのカーソルコントロールを試みると、これまでの無反応が嘘だったかのように、メニュー画面は快適な操作性を示す。
まるで、いつも通りだった。
「……よかった」
それを見たケイは、ほっと安堵のため息をつく。
正直なところ、状況が不気味すぎて、『心霊現象にでも巻き込まれてしまったのではないか』、と。
そんな他愛もない妄想が、心の中で膨れ上がって、どうしようもなくなっていたのだ。
「……ゲームの中なのにな」
強がるように鼻で笑いながら、ケイは『Logout』のボタンに手を伸ばし。
触れた。
「 ノ" カ" ワ" ケ" イ" イ" チ" 」
その瞬間、ケイの真後ろから。
ひび割れたような低音の声が、吐き気を催すような強烈な殺気が、
「!??」
何故に本名、不気味な声、凄まじい殺気、意味が分からずに、転がるようにしてケイは立ち上がり、地面を蹴って距離を取り、振り返りながら弓を構え、矢をつがえ、弦を引き絞り、
しかしそこで動きを止めた。
人がいた。
まるで死人のように、真っ白な肌。
なぜか全裸だった。いや、股間に生殖器が見当たらないあたり、全裸といっていいものか。まるで宇宙人のように。つるつるとした体。
頭部には、一切毛髪は見当たらなかった。というよりも、
顔はのっぺらぼうのように、まっさらで。
ただ、目のあるところに、黒い穴が二つ。
「――――」
一瞬の思考の空白、「何だコイツは」という、純粋な疑問が脳裏を駆け巡る。
と、
「 ヨ" ン" タ" 」
ぐわんと、視界が揺れた。
がくりと、その場に膝を
そこで、意識が途絶えた。
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