深海魚
かどの かゆた
深海魚
音大に落ちて、私は北へ逃げた。
合格発表は午後二時。それから電車に乗って、適当にバスに乗って、既に時刻は夕方になっていた。
聞いたこともない名前の、港町。制服のままコンクリートに体育座りして、私は海を眺めた。
西日が私を照らして、悲しみの輪郭を際立たせる。
お気に入りの赤いマフラーに、涙が染み込んだ。鼻水も出て、海に来たというのに潮の香りはしない。
時間を確認がてら携帯のメールアプリを見ると、百通もの受信が示されていた。親には「落ちた」とメッセージを送って、それきりだ。もしかしたら警察に通報されてるかもしれない。
でも、返信する気にはならなかった。
「……お腹へった」
どんなに死にたくても、お腹は減る。身体は勝手に生きようとする。幸い、財布にお金はあった。なにか食べるところは無いだろうか。
周りを見ると、幾つか古い食堂があった。夕方もやっているところってあるのかしら。
鼻を啜って、立ち上がる。取り敢えず、行ってみようか。
「あ……」
すると、一番近くにあった食堂から、人が出てきた。日焼けして浅黒い肌のおじさん。どうやらここはやっているみたいだ。
おじさんは私を不思議そうな顔で少し見てから、歩き出した。確かに、近くに高校も無さそうだから、制服姿の女子高生が歩いているのは変だろう。
「いらっしゃい」
食堂の引き戸は立て付けが悪いのか重く、両手でなければ開かなかった。開けると、優しそうなおばあさんの出迎え。ずっと外に居たから、屋内の温かさで肌がむず痒い。
「……大丈夫?」
私の顔を見て、おばあさんが心配そうな表情をする。
あ。そうか。さっきまで泣いてたから、目元が赤くなっているのかもしれない。
「大丈夫です。えっと……」
「どこでも好きにお座りください」
言葉がうまく出てこなかったけれど、おばあさんは私の言いたいことを察してくれた。
店には、私の他に客は誰も居ない。置いてあるテレビからは、誰かの笑い声が遠く聞こえる。古い型のストーブがしゅうしゅう音を立てるのを横目に、私は端にある席に座った。
「ご注文が決まりましたら、お呼びください」
促されてメニューを見る。色々な感情がごちゃごちゃしていて、いまいち情報が頭に入ってこなかった。
「あの」
私はメニューを閉じる。
「おすすめとか、ありますか?」
「日替わり定食がおすすめですよ」
おばあさんが目の奥で笑った。
「じゃあ、それで」
私がそう言うと「日替わり入りまーす」とおばあさんは大きな声を出した。すると厨房の方から「ほぉーい」と返事が聞こえる。
しばらくすると、定食が来た。白米、あら汁、何かの刺身に大根の漬物。温かいものが飲みたかったので、取り敢えずあら汁に手を付けてみる。
「……美味しい」
なんの魚かは分からないが、このあら汁は絶品だ。しっかりとした上品な白身が、口の中でほろほろと崩れる。そこに味噌の優しい風味が加わって、舌の上にじんわりと旨味が広がる良い味だった。
夢中で食べ進める私を見て、おばあさんがにこりと笑った。
「そのあら汁に入っているお魚、何だかわかるかしら?」
私が首を横に振ると、おばあさんはゆったりとした、落ち着く語り口で、魚の説明を始めた。
「その魚は『どんこ』って言ってねぇ。深海魚なのよ。見た目はちょっとグロテスクでも、味は最高でしょう?」
その話を聞きながら、私はあら汁を啜った。この魚は『どんこ』って言うんだ。
『どんこ』は深海魚らしい。姿はいまいち想像がつかない。そもそも今食べている美味しいものが、深海で生きていたという実感が、どうしても湧かなかった。
深海といえば、ダイオウイカとか、グソクムシとか、私にとってはテレビ番組の世界である。
何だか、不思議な気分だなぁ。と思いながら、定食を食べ終えた。
「ごちそうさまでした」
食堂を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。携帯で調べると、バスは明日の朝まで来ないようである。
「どうしようかな……」
来た時は、悲しみに酔って冷静さを失っていたから、もうここで死んでしまえくらいに思っていたけれど。お腹を満たして冷静になると、恐ろしくなった。
黒い海が、黒い空が、私を飲み込もうとする。星が私を責め立てるように輝いた。
まるで。
まるでここは深海みたいだ。
そう思った。
「もう、なんでも良いや」
私は、食堂に入る前に座っていた位置に戻った。コンクリートが冷えている。スカート越しにお尻が冷たい。
このまま夜を越えよう。ご飯も食べたし、コートを毛布のようにすれば、きっと寒さを凌げる。
視界は暗く、ぼーっとしてるのにも飽きた。なにか役立つものはないかとリュックサックを漁る。あったのは、受験票と関係書類。筆箱に、楽譜。
こんなもの、いつから入れっぱなしだったんだろう。私はボロボロになっている楽譜を開いた。高校の部活引退前、最後の曲。
音楽は、私の人生の光だった。親が教養として習わせたピアノに、私は心酔したのだ。でも、もう、それも終わり。光は失われた。
音大の受験は、音楽の道へ進むことを反対する両親が、私に与えた最後のチャンスだった。
「これで駄目ならきっぱり諦めなさい」
少し困ったような父の声が、頭の中に響いた。
「はい」
私の返事も、続けて響く。
音大に落ちたことで、私は普通の私立大に行くことになる。勉強はそこそこできるから、世間一般的にどうしようもない人生を送ることは、無さそうな気がする。
結婚したら、家族を作って、子育てしたりするんだろうか。結婚できなかったら、バリバリ働いたりするんだろうか。将来の職種すら決まってないのに、未来の自分がスーツ姿でパソコンをカタカタ操作していた。
果たして。
その人生は、楽しいだろうか。
ふと顔をあげると、私の目の前から先は、全て真っ暗闇だった。どこまでいっても、退屈な黒。
何も見えぬ闇の中、流れに任せて漂い、ただ生きて、死んでいく。
私は深海魚だ。
「んっしょっと……」
しばらくぼーっとしていると、重そうな引き戸が開く音がした。
思わず振り返ると、食堂のおばあさんと目があってしまう。どうやら店を閉める為に外に出てきたらしかった。
「あら?」
目を逸して海の方へ向き直る。背後でおばあさんがこちらへ向かう足音がした。
「貴方どうしたの? 帰れないの?」
すぐ後ろで声がする。
なんと答えたら良いか分からず、私はただただ俯いた。
「……もしかして、家出?」
おばあさんがこちらの顔を覗き込むので、私は頷いた。
「親御さんに連絡しなきゃ駄目よ」
おばあさんは至極当然なことを私に言って聞かせた。それでも、私は首を横に振る。
「……何があったの?」
おばあさんにそう聞かれて、私の口から出たのは、無関係な言葉だった。
「……深海魚」
「へ?」
「深海魚って、可哀想じゃないですか。真っ暗なところにずっといて」
自分は何を言ってるのだろうか。
言葉と一緒に、涙も溢れた。
「真っ暗なところで、どう生きていけば良いんですか?」
私は持っていた楽譜を、くしゃっと握りしめた。おばあさんは私の支離滅裂な言葉を、正面から受け止めてくれている。
「ええと」
おばあさんが、遂に口を開いた。
「私は素敵だと思うけどねぇ。深海魚」
「……へ?」
波が、大きな音を立てた。
私が「どうして」と聞く前に、おばあさんは話を続ける。
「先が見えないって、とても素敵なことじゃないの。暗闇の先にあるのは、敵かも
しれないし、待ち望んだ餌かもしれない。稀にしか会えない友達かもしれないし、
運命の相手かもしれない。それって、とってもロマンチックじゃない?」
そう言ってから、おばあさんは私と同じ方向を向いた。
黒い海。
同じ物を、同じ場所で、同じ方向で見ているのに、どうしてこんなにも、見ているものが違うのだろう。
おばあさんは、暗闇には、何かが隠れていると思っている。この先に、何かが待っていると。それと偶然出会えることは、ロマンチックだと。
じゃあ、何かあるのだろうか。私にも、ロマンチックな何かが待っているのだろうか。
「私の家に来なさい。親御さんに電話してあげるから」
おばあさんはそう言って、私に手を差し伸べる。申し訳ないし、断ろうと思ったけれど、断る正当な理由が見つからない。
何より、おばあさんの瞳があまりに真剣だった。
「ありがとうございます。でも、どうしてそこまで……」
私の言葉を遮るようにして、おばあさんは私の手を掴んだ。皺のある皮膚。骨ばった手。でも、どんな手より温かい気がした。
「だって、暗闇の中で、良い人と会えるって、証明したいじゃない」
おばあさんは冗談めかして笑う。でもそれは、決して冗談じゃなかった。
おばあさんに手を引かれながら、一瞬振り向く。やっぱりここは、真っ暗だ。
でも、この海の先には、何かある。その何か目掛けて、私はこれから泳いでいくのだ。
まるで、深海魚のように。
END
深海魚 かどの かゆた @kudamonogayu01
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