蟲毒のグルメ
黄黒真直
蟲毒のグルメ
あー、なんかすっかり貧相になっちゃったよなぁ、食事。こんな小さな玉が一日分の食料だなんてさぁ。俺が子供の頃はまだ食事って文化が残ってたんだが、三十年で価値観はすっかり変わってしまったなぁ。
「五十嵐さん、飲まないんスか?」
「え?」
おっと、ついついぼんやりしてしまっていた。このところ忙しかったせいで、疲れてるのかな。
ああしかし、こういう若い子にはわからんだろうな、この感慨は。俺たちのような人間が、どれほど食事に心血を注いでいたか。一時間以上かけて食事を作り、何十分もかけてそれを食べる。食べた後は食器を洗って片付ける。多いときは一日に三回もそれをする。いま考えると信じられないことだ。
「いや、飲むよ」
ぐいっと水で飲みこもう。会社支給の
俺も入社以来、会社で食事したことはない。休憩室に食丸があるからだ。一秒もかけずに飲んだあとは、五十九分五十九秒の昼休憩を好きに使って良い。
「滝川、昨日頼んだ仕事は終わってるか?」
「五十嵐さん、休憩時間まで仕事の話スか」
むむ、俺が見てないうちにゲームを始めている。
「何をやっているんだ?」
「『ファクトラブル』っス。工場を作るサンドボックスゲームなんスけど、ちょっと目を離すとすぐ色んなトラブルが起こるんスよ」
まんま仕事じゃぁないか。
「ゲームでも仕事しているのか?」
「仕事よりは楽っスよ。腕疲れないし」
どれどれ。この四角いキャラクター達が従業員か。薄暗い工場で、せっせとラインを伸ばしているようだ。
「なんで暗いんだ?」
「経費削減で節電してるんス」
「作業場は明るくないと危険だろう」
「でも見えるし」
『ビビッ』
「ん、何か音がしたぞ?」
「あ、やば。従業員が怪我したっス」
「ほら言わんこっちゃない」
労災が発生したようだ。作業は緊急停止し、滝川は対応に追われている。やれやれ。俺は怪我しないように、仮眠を取っておこう。
電気設備課には毎日色々なトラブルが舞い込んでくる。やれコンプレッサーがぶっ飛んだだの(長時間連続使用すると暴走することがある)、やれ豆球が切れただの(これも立派な電気設備だ)、大中小千差万別のトラブルが起きて暇になることがない。
「昨日の仕事、終わったっス」
「お、早いな。ご苦労。一応、見させてくれ」
「っス」
最近使っていなかった装置を一台、取説を見ながら再稼働させる簡単な仕事だ。昨日終わっててもよかったくらいだ。まぁ、まだ若いし、なるべく褒めた方がいいんだろう。
「よし、問題なさそうだ。ありがとう」
「っス」
しかし妙な口癖だ。でも、俺も昔はこんな口調だったかな。
「あ、五十嵐さん、こんなところにいたんですね」
うお、三号ラインの監督の田中だ。やな予感がするぞ。
「電話したのに出ないから探しましたよ」
本当だ、不在着信が入ってる。
「すみません、気付きませんでした」
「何かあったんスか?」
「内容量不足ですよ。食丸の瓶詰めに失敗してるみたいで」
三号ラインは古いからなぁ。半年後に全とっかえするまで、騙し騙し使うつもりなんだが。もし大修理が必要な故障だったら厄介だぞ。
「わかりました、行きましょう」
軽い故障だったらいいけどなぁ。
三号ラインは既に止めてあった。
「ほら、この通り。さっき抜き取りの人らが持ってきたんです」
「本当だ、少ないですね」
食丸は瓶の半分くらいしか入っていない。
「三号ラインへの食丸の流れは止めてあります。予備ラインを稼働中です」
「わかりました」
ラインが一本止まったくらいなら食丸の生産に影響はない。生産管理課がうまくやってくれるだろう。俺達の仕事は、この原因を早く突き止めて直すことだ。
「瓶の位置が悪いんスかね」
「どうかな。田中さん、これを発見したのって抜き取りの人ですか?」
「ええ、そうです。検査機には引っ掛かりませんでした」
「全数、こうなってるんですよね?」
「ええ」
すると厄介だな。
「どういうことっスか?」
「瓶に詰める個数は、センサーで二重にチェックしてるんだ。詰めるところで個数カウンターが見てて、詰めた後に重量センサーでも見てる。全数がその両方をすり抜けてるとなると……」
「両方のセンサーが同時に壊れたんスかね」
「ちょっと考えにくいが、それしかない。行ってみよう」
カウンターから見てみるか。重量センサーは蓋を開けないと見れないけど、カウンターは外に出てるからな。
「カウンターってどこにあるんスか?」
「鍋のすぐ下流にある。行くぞ」
カウンターの外観には異常なさそうだ。エラーメッセージも出ていない。
「田中さん、ラインを動かしてもらっても良いですか?」
「わかりました」
これで少し待とう。動き出したら異常が見つかるかもしれない。
「動き出したっスね。どうスか?」
「うーんと……ん、なんだこれは。はっはっは!」
いかんいかん、つい笑ってしまった。
「あ、管に食丸が詰まってるっス! あ、外れたっス。あ、また詰まったっス」
「カウンター前のこの管が、いつの間にか歪んでたんだな。それで食丸が詰まったり外れたりして、計測不良を起こしたんだ。この管は替えがあるから、すぐ直せるだろう」
カウンターの不良じゃなかったようだ。
「重量の方もっスかね?」
「わからん。見てみよう」
「どこにあるんスか?」
「あっちだ。……あ、田中さん」
「どうでした?」
「見ての通りです。管に食丸が詰まってましたよ。これが不良の原因ですね。重量センターはこれから見ます」
田中さんも一緒に重量センサーのある場所まで来た。ドライバーで蓋を開ける。
「滝川、これ持ってろ」
「うっス」
「滝川、ちょっとここ押さえててくれ」
「うっス」
「滝川、懐中電灯」
「うっス」
「滝川、見ろ、これが重量センサーだ」
「うっス。意外と小さいっスね」
「半導体が一個入ってるだけだからな」
センサーは緑色に光っている。本人は正常だと思っているのか。しかし瓶の中の食丸は明らかに少ない。やれやれ、人の目で見れば一発で不良品が見つかるのに、全自動化するとこういうとき不便だな。
「ネジが緩んでるわけでもなさそうだし、ケーブルが切れてるわけでもない。……寿命か? 滝川、部屋から分銅を持ってきてくれ。田中さんはラインを止めてください」
「うっス」
「わかりました」
二人が戻ってくるまでに、センサーのケーブルを外して携帯端末に繋げよう。さて、値は……うん、ずっと同じ値が出続けているな。
「持ってきたっス」
「ありがとう」
止まったラインの上に分銅を載せる。値はやはり変わらないか。
「原因はわからないが、センサーの故障だな。これも替えがあるから、取り替えれば済む話だ。簡単な仕事だな」
「安心したっス」
俺もだ。
「お先に失礼するっス」
「ほい、お疲れ様」
滝川は定時に帰った。俺も報告書をとっとと仕上げて帰るとしよう。
『原因:カウンター前の管が歪んだことによる食丸の詰まり。
応急処置:管をφ15からφ20のものに変更
恒久対策:六月のライン更新の際に、アクリル製の管に変更(未検討)
……』
今日のトラブルは難なく解決できるものでよかった。重量センサーの故障原因は謎だが、たぶんただの寿命だろう。メーカーに投げておいたから、あとは向こうの仕事だ。
……よし、これで書き上がったな。クラウドに上げて、今日の仕事は終わりだ。
すごいぞ、今日は。珍しくその日のうちにすべてが終わった。いつもは何日も引きずるのに、こんなことは滅多にない。
なんだかすっきりとしたいい気分だ。程よい疲労感が体に充満する。
この疲れは、腹に来るなぁ。
うん。なんだか、突然……。
腹が。
減った。
もちろんそんなことはあり得ない。食丸を飲んだのに腹が減るなんてことは。だが俺は今、確かに空腹を感じている。
よし決めたぞ。今日はメシを食おう。一か月ぶりのメシだ! そうと決めたら、とっとと着替えて帰ろう。
どこで何を食おう。いつもの定食屋か。いや今日は新しい店に挑戦してみよう。ちょっと都内まで足を延ばしてみるか。この間見つけた店がまだ残っているかもしれない。
食丸が普及した現在、食事は金のかかる趣味のひとつになってしまった。鳥取県から飲食店が消滅したニュースは記憶に新しい。都内ならまだそこそこ見つかるが、ふと気付くと潰れてファミリーやカップル向けのゲーム店になっている(テーブルでゲームができるのだ)。
食事は人間の三大欲求のひとつだと言われていたが、全然そんなことはなかった。みんなやらなきゃいけないからやっていただけで、やる必要がなければやらなかったのだ。もしかしたら睡眠もセックスもそうなのかもしれない。
お、あの店、残ってるじゃないか。雑居ビルの間に無理やりねじ込んだような細い店だ。名前は「ペンギンバー」。なるほど、外装が白と黒だけでデザインされている。アデリーペンギンのイメージだな。
入口でペンギンの人形が出迎えてくれた。首から「いらっしゃいませ」と書かれたプラカードを下げている。可愛い奴だ。名前はペン太かな。ペン子かもしれない。
店内には暖色系の明るい照明が点いている。壁には抽象画が数枚飾られ、BGMは陽気なジャズ……ジャズ?
『月が~出た出~た~』
た、炭坑節? なんで? でもジャズアレンジだ。なんでだ? 店長の趣味なのか?
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」
「一人なんですが……」
「はい、こちらのカウンター席へどうぞ」
ひげを生やしているが、細面で爽やかな顔の店員さんだな。三十歳くらいかな。
細長い店内だ。入口は狭いけど奥に長い。あ、でも、席はあまりない。カウンター席が七、テーブル席(四人)が一、テーブル席(二人)が二。
入口近くのテーブル席で、四人組の男女が牛肉の細切れをつまみにカクテルを飲んでいる。カウンター席にも会社の同僚らしき男女が一組。俺はどこに座ろうか。一人だし、カウンターの端に座ろう。四人組のテーブルの近くだ。
大学生かな、社会人かな。いずれにしても二十代前半だろうな。
「私こんなに食事したの初めて!」
「食事って楽しいね!」
「だろ? たまにはいいだろ?」
「昔の人は、毎日こうしてたんだって!」
ああ、大学生だな。今の若い子にとって、俺はもう「昔の人」か。毎日食事を取る人は、もはや昔話にしか登場しない。
さてと、メニューは……あ、この紙か。えっ、四枚しかない。しかも三枚はお酒だ。あちゃー、飲みメインの店だったか。食材は値上がりする一方だし、今後はこういう店が増えていくのかなぁ。
食事メニューは……ううん、一品物がページの半分を埋めてる。選択肢が少ないな。
だが俺は、絶滅危惧の
肉、魚、パスタと項目が分けてある。選択肢は少ないが、しっかりしているじゃないか。
う、だがよく見たら、メインはどれも「本日の肉料理」「本日の魚料理」と書いてあるだけか。詳しくは黒板? えーと、黒板なんてどこに……。
あ、あった。カウンターに小さい黒板が立ててある。肉は鳥の塩麹レモン焼き、魚は白身魚のフライ、野菜は玉ねぎと菜の花のペペロン炒め。ううん、俺の腹は今、何を欲しているだろう。
すっきりした気分だが、がっしりと食べたい。白身魚はパスかな。ペペロン炒めはちょっと辛そうだ。俺は辛いのが苦手なんだ。すると肉しかないな。よし決めた。肉だ。
米は付くのかな? メニューに「ご飯味噌汁セット」があるから、これを追加しないといけないんだろうか。注文するときに聞こう。
あとは酒だが、俺は酒には詳しくないんだよな。体に悪いと散々言われて育ってきたし……。
一ページ目はビールばっかりだな。ここもラガーとエールに分類してある。白黒はっきりさせたい店主なのかな。
二ページ目はカクテル……お、オススメ一覧があるじゃないか。初めての店だし、まずはここから選ぶのがベターだろう。
三ページ目は焼酎、日本酒か。どう見ても洋風な内装の店だけど、なんでも取り揃えないと客が来ないんだろうな。
さてどれにしようかな。ここはやはり、オススメから選ぶか。えーと……ん、「ペンギンモヒート」? 当店オリジナルメニューだって? 「ミントを大胆に使ったピリッとしたモヒートです。」ミントを大胆って、どう大胆なんだろう。気になる。これにしよう。
「あの、すみません」
「はい、お決まりですか?」
「えっと、鳥の塩麹レモン焼きを」
「塩麹レモンですね。ちょっとお時間いただきますけどいいですか?」
「あ、はい、大丈夫です。あ、これって米は付きますか?」
「あー、別になっちゃいますね」
「あ、じゃあこの、ご飯味噌汁セットを」
「はい、ご飯味噌汁セットで。お飲み物は?」
「ペンギンモヒートをください」
「ペンギンモヒートですね。以上で?」
「はい、以上で」
「ありがとうございます」
ふぅ、やれやれ。どんなのが出てくるか楽しみだ。きたる戦いに備えて、あごの準備運動をしておこう。
「こちら、お通しになります」
うおっと、お通しだと! 不意を衝かれた、戦いは既に始まっている!
「ごゆっくりどうぞ」
最初の一撃は玉コンニャク二個だ。食丸より何倍も大きな茶色いボールに、白いゴマが振りかけてある。この赤い欠片は唐辛子だな。辛そうだ。モヒートを待ってから食べた方が良いかもしれない。
「いらっしゃいませ。あ、久しぶりじゃないですか」
「久しぶり、店長。今日は二人なんだ」
「はい、お好きな席へどうぞ」
常連さんか。俺と同じぐらいの年齢の男だな。連れのアメリカ人は初来店みたいだ。二人ともスーツだし、会社の同僚かな。
「こっちにしよう」
テーブル席もまだ空いてるけど、カウンターにするのか。俺と一つ席を空けて座った。
「あー……ビアー、カクテル、ジャパニーズ・トラディショナル・サケ」
アメリカ人の方は日本語が読めないようだ。日本に来たばっかりなのかな。新人歓迎会って雰囲気ではないけど。あ、接待か。
「お待たせしました、レモンサワーと焼酎お湯割りです」
奥のカウンター席に座っている二人組の男女に、店員さんが酒を配った。
「店長、今日は一人なの?」
「そうなんですよー」
焼酎を受け取った男が聞いた。あの爽やかな店員さんは、店長さんだったのか。
「工藤くんはー?」
女の方が聞く。既にだいぶ酔ってるな。
「今月からシフトが変わって、火木になったんです。なんでもバイトを増やしたとかで」
「えー、残念ー」
お目当ての男性店員がいたのかな。男の方が困り顔で笑っている。
ところで俺のモヒートはまだかな。
店長さんが壁の棚からラム酒を取った。お、俺のモヒートだ。大きなグラスを出して……って、えー! なんだそのミントの量! 葉っぱをどかどかと、グラスの半分ぐらい入れている! そこに砂糖とライムを加え、スプーンで押しつぶした。偽りなく大胆だ!
やっぱりあれかな、今のご時世、動物由来の食べ物は高価だから、植物由来の食べ物で満足させようとしてるのかな。ミントは食わないけどな。
「お待たせしました、ペンギンモヒートです」
「ありがとうございます」
いやぁ、すごい。ミントの香りが鼻にぐいぐい入ってくる。ああ、一か月ぶりの食べ物の匂い! これだよ、これが俺の求めていたものだよ。早速、玉コンニャクと一緒に食べようじゃないか。
「……いただきます」
手を合わせ、俺は拝む。
いただきます。
まずはモヒートで喉を潤す。うおお、炭酸が口の中ではじける。ミントの爽やかな香りとライムのツンとした刺激が舌の上に広がる。「味」だ、「味」がある! 食丸にはない「味」が!
次は玉コンニャクだ。久しぶりに箸を使うけど、ちゃんと持てるかな。
「あ、フォークもありますよ」
うおぅ、また不意を衝かれた。店長さんがカウンター越しにニコニコしていた。俺がなかなか食べないんで、箸を使えないと思われたのか。
「いえ、大丈夫です」
「そうですか」
よし、今度こそ玉コンニャクに挑む。たしかに相手はつるつる滑るが、柔らかいし真ん丸でもない。意外とつかみやすいはずだ。
箸を掌に載せる。片方の棒を薬指と親指の付け根で支える。もう一方に中指と人差し指、親指を添える。中指と人差し指を軽く伸ばして、箸の間隔を広げる。その間隙に玉コンニャクを入れる。人差し指に力を入れ、棒の間隔を狭める。そして……つかむ!
ふっ、一月ぶりでも、雀百までだ。箸使いを忘れたら日本人ではない。
しかしでかい。食丸に慣れた口に、このサイズは圧巻だ。一口でいけるかな。ええい、ままよ。一口で食ってやる。えいっ。
うぉっ、でかい。あごを大きく開けて、かみしめる。柔らかいコンニャクは簡単に噛めた。日頃あごと歯を使わない現代人への優しい配慮だ。まずはこれであごの準備運動をしろという、店長さんの温かいメッセージが伝わってくる。こいつは奇襲ではなく、援護だったのか。
久々に歯に伝わる、この「噛む」という感触。ああ、俺は今、食事をしている。
散りばめられた白ゴマを噛む瞬間、玉コンニャクにはないピシッという振動が得られる。それは頭蓋骨を伝わり、脳へダイレクトアタックする。
タレの中にわずかに混じる唐辛子の欠片が舌を刺激し、味に変化を与える。う、だがやっぱりちょっと辛い。モヒートで中和しよう。
ふぅ、ふぅ。よし、玉コンニャクは食べきったぞ。準備運動は終わった。モヒートで休憩しながら、本番を待つぞ。
「店長、注文いい?」
「はい、いいですよ」
常連とアメリカ人が注文を告げる。
「このグレープフルーツカルピン二つ。あとポテトフライ二人前ね」
「ポテトフライはケチャップでいいですか?」
「うん」
「かしこまりました」
「店長、こっちも注文お願い!」
「はいはい」
うーん、忙しそうだ。俺の塩麹は……あ、コンロでフライパンに乗ってるやつがそうかな。もうしばらくかかりそうだ。
「はい、グレープフルーツカルビンです」
「お、ありがとう」
「Thank you」
瓶を受け取ったアメリカ人が自分のグラスに自分で注ぐ……のを、常連さんが止めた。
「マイク、ジャパニーズ・カルチャー、シャク。アイ・ポア・フォー・ユー、アンド・ユー・ポア・フォー・ミー」
「Oh, sorry」
酌って日本の文化なんだな。
あ、もうモヒートがなくなる。塩麹はまだかかりそうだ。どうしよう、飲み物なしで食べてもいいが、何か欲しいな。メニューメニュー……。
うーん、しかしどれが食事にあうか、よくわからんな。よし、ここは店長さんのオススメを聞くことにするか。
モヒートを飲み干して、よし、こっちは準備万端、臨戦態勢だぞ。いつでも来い!
「お待たせしました。鳥の塩麹レモンと、ご飯味噌汁セットです」
うおお、来た! 肉だ! あ、でも食う前に。
「すみません、これに合う飲み物ってありますか?」
「え? そうですね、ビールですかね」
まさかのビール! え、もっとこう、特殊なやつじゃなくて?
「ビールって、いわゆる普通のビールですか?」
「はい、そこの生ビールです。ビールは苦手ですか?」
少し苦手だが、問題はそこじゃない。だってメニューには、ビールだけで十種類以上ある。なのに一番オーソドックスなものを勧めて来るとは……。
でも店長さん直伝の組み合わせだ。きっとうまいに違いない。ここはつべこべ言わずに従おう。
「じゃあ、ビールお願いします」
「はい、お待ちください」
店長さんは棚からグラスを取って、ビールサーバーからビールを注いだ。
「はい、お待たせしました」
「あ、ありがとうございます」
ビールだが、オーソドックスなビールとは少し色が違う気がする。ちょっと濃い。まあいい。とにかくこれで食事が揃った。
鳥の胸肉を焼き、食べやすいように短冊切りにした鳥ステーキ。添えられた千切りキャベツと、付け合わせのマヨネーズとレモン。そして白い米と、ワカメの味噌汁。漬物はニンジンとカブだ。
では改めて……。
「いただきます」
まずは味噌汁だ。お椀を手に取り、すする!
ああ、「温かい」! 熱だ、熱があるぞ、この食べ物! すっかり忘れていたこの感覚、口いっぱいに広がる温かい感触! 食丸は水でしか飲まないから、食事というのは喉がきりっと冷やされるものだと錯覚してしまっていた。だが、違うのだ。火で作った食事には熱があり、体を温めるものなのだ。
モヒートで冷えた口の中が急激に熱せられ、味覚がびんびんになる。ワカメと小葱の青臭い味が、俺にもっと食えと訴えてくる。うおお、食うぞ、食ってやるぞ。
だが味噌汁は一旦おいて、米に手を伸ばす。ああ、これも茶碗から温もりが伝わってくる。箸を開いて閉じて、米を一口分掬い上げる。それを口に……入れる!
ああ、温かい、そして柔らかい。唾液と混ざり、糖の旨味が口全体に広がっていく。この米だけで、米十杯はいける。
まだ口の中に残っていた玉コンニャクの辛味が、米でリセットさせる。この優しく口の中を包み込むような感覚は、まるで羽毛布団のようだ。その羽毛を飲み込んだとき、俺の舌は目を覚ます。
さあ、いよいよメインディッシュの鳥だ。マヨネーズとレモンが付いているが、まずは何もつけずにそのまま頂こう。
すっかり感覚を取り戻した箸使いで、鶏肉のひと欠片を掴む。茶色く、香ばしい匂いを発する肉。少し焦げているが、これはたぶんわざとだ。焦げた端を、口に入れる。
ああ、肉だ。硬すぎず柔らかすぎない、旨味たっぷりの肉だ。焦げた皮のパリッとした食感と、引き締まった身の歯応えある弾力がたまらない。肉は火を通す量で硬さが変化するが、この硬さは絶妙だ。そして口の中で広がる肉汁。短冊切りにされているせいかやや量は少ないが、びんびんに覚醒した俺の舌は、流れ出た汁を的確にとらえる。マイルドな塩気と汁の旨味が、舌にボディブローを加える。あとでまた、羽毛布団で包んでやらねば。
ここで千切りキャベツを取り、口の中に投入。ほのかに温かい肉と冷たいキャベツが口の中で混ざり合う。くにゅっとした食感とシャキッとした食感のコントラストが美しい。
それが少なくなってきたところで、残滓をビールでぐいっと押し流す。
おお、確かに、合う。ここのビールは味が薄いのか。肉とキャベツの味を邪魔することなく、そっと横に寄り添い、二人を喉へとエスコートしていく。塩味と旨味だけだった料理の中に、苦味という新境地をさり気なくちらつかせ、足早に去っていく。雲隠れにし夜半の月かな。なんて粋なビールだろう。いや、それともこれは、王者の余裕か? 「こっちから主張しなくても、俺の味なんて知ってるだろう?」と言わんばかりなのか。
再び味噌汁で口の中を温める。柔らかいワカメとパリッとした小葱が、踊りながら喉へ流れていく。
そして、米。この羽毛布団で口の中をリセットだ。せっかくだから、漬物のニンジンも頂こう。
う、硬い。さすが野菜だ。俺がひ弱な現代人であることを、嫌でも思い出させてくる。すみません調子乗ってましたすみません今まで噛めてたのは全部柔らかい食材だったからです。
などと謝ると思ったか噛み切ってやるぞうおおおおお!
ガリッ
よし、噛めた。このまま何度も噛んでやるぞ。
ガリッボリッボリッ
うむ、噛めている。正直、噛むのに夢中で味を楽しめないが、噛めているから俺は満足だ。たぶん、ちょっと酸っぱい。
ニンジンをビールで流す。さあ、再び肉だ。今度はマヨネーズかレモンを付けよう。どちらにしようか……。よし、まずは刺激の強いレモンから行こう。
肉の切れ端にレモンを絞る。指をお手拭きで拭いてから、鶏肉を、食べる!
うおお、来たぞ。柔らかく広がる肉汁の旨味の中から、レモンの酸味がピリッと攻撃してくる。食われまいと抵抗しているかのようだ。
しかし、俺は食うぞ。この暴れる鳥を食い殺してやるぞ。
食丸が普及した昨今、「食事は野蛮」という価値観が広がりつつある。たしかにその通りだ。自分が生きるためだけに、他の生き物を殺す。それが食事という行為だ。自己と他者の命を天秤にかけ、自分の命の方が重いと決めつけなければ、それはできない。まるで蟲毒だ。
だが人類はいま、その壺から脱しつつある。もう無理に生物を殺し、食う必要はないのだ。
しかし、それでも俺は生物を食う。なぜなら、食いたいからだ。俺は今、一人の野蛮な原始人だ。うおおお、狩猟本能を思い出せ。
よし、鶏肉を咀嚼した。次はキャベツだ。キャベツの水分で、舌をケアする。シャリッシャリッという癒しの音楽が、俺の口の中で奏でられる。キャベツの弦と歯のピックが、爽やかなビートを鳴らすのだ。
味噌汁を一口飲んで、キャベツも肉汁も押し流す。さらにその上からビールのさざ波を起こす。ごくりとすべてを飲み込んだ。
また米。そして今度はカブだ。うん、こっちはまだ柔らかい。さくっさくっと噛めるぞ。今度はしっかりと味も楽しめる。口いっぱいに広がった白米で気の緩んだ舌を、漬物の酸味がぴしっと引き締めてくれる。
次はマヨネーズを攻略してみよう。
一切れの肉の上に、マヨネーズを一山載せる。茶色い大地からせり出す雪山のようだ。口を大きく開け、それを一口で登頂!
マヨネーズがさっと溶けて口の中をコーティングした。あれ、これだと肉の旨味がわからな……いや待て、同時に来たぞ。マヨネーズの海をじわじわと侵略した肉汁が、同時に舌全体に到着した。さっきのガツンと来る味と違って、今度はそっと包み込むような味だ。まるで全身で味わっているかのように錯覚してしまう。五臓六腑に染みわたる……!
ああ、そうか、マヨネーズは脂だから、肉汁とよく混ざるんだな。ところがレモン汁は水だから、肉汁とは反撥するのだ。だからマヨネーズは舌全体に味を広げ、レモン汁はぎゅっと一か所に囲い込む。水と油、光と闇。正反対の性質を持つ者たちだが、どちらが良い悪いと甲乙つけることはできない。マヨネーズにできることがレモン汁にはできない、レモン汁にできることがマヨネーズにはできない。そこには違いがあるだけで、優劣はないのだ。深い。
マヨネーズを堪能した。ビールを飲んで、これらを押し流そう。そろそろあごが疲れてきた。味噌汁で一息入れる。
ふぅ、ちょっと休憩。肉はあと二切れ、味噌汁はごくわずか。ビールはグラスに半分ほどで、キャベツは小山だけ。ご飯も茶碗半分以下だ。
ビールを飲みながら、店内を見渡す。大学生グループも社会人男女もアメリカ人接待も、みんな楽しそうだ。
「店長、注文良い?」
「はい、何にしますか?」
あの男女、よく頼むなぁ。
「あたしグレープフルーツサワーで」
「俺、サワー原液で」
サワー原液!? そういうのもあるのか。
「あ、あと店長、CD変えていい?」
「ええ、どうぞ」
「よっしゃ」
え、CD?
うお、よく見たら店の奥にCDコンボがある。うわぁ、オシャレだなぁ。ということは、ずっとかかっていた民謡や童謡のジャズアレンジは、やっぱり店長さんの趣味か。
俺、CDって直で触ったことないんだよなぁ。意外と大きい。意外と薄い。
今度は正統派のジャズが流れ始めたぞ。うん、バーにはジャズだ。
さて、食事を再開しよう。
味噌汁を飲み干し、気合いを入れ直す。ご飯を一口食べて、漬物のニンジンを食べつくす!
う、やっぱり硬い。
ガリッバリッバリッ
しかし一度攻略した相手、もう怖くない。休憩したあごには楽勝だ。
口の中がさっぱりした。さあ、肉を堪能しよう。次はレモンだな。ぴりっとした肉汁を、もう一度楽しむ。
この舌を痺れさすレモンの酸味と、安心感を与える肉の旨味。俺はこっちの方が好きだな。まろやかな旨味よりも、刺激的な旨味がいい。
ビールをまた飲んで、最後の一切れ……の前に、キャベツを食べきってしまおう。
キャベツ。鳥の塩麹焼きに限らず、トンカツにもカキフライにもついてくる影の主役。俺はキャベツが大好きだ。この細さに切るのが面倒なことも、俺は知っている。このお店では店長さんが切ってるのかな。それとも、切ってあるのを買ってきているんだろうか。調理の様子を見ていなかったのが悔やまれる。
食事をしなくなるということは、調理をしなくなるということだ。火を使う機会もなくなる。火を見たことがある人、キャベツを千切りにできる人、鶏肉を上手に焼ける人。そういう人は、いずれ貴重な人材になる。いや既になっているのかもしれない。
シャキシャキしたキャベツを食べきった。肉の最後の一切れに取り掛かろう。最後はレモンか、マヨネーズか。順番で行けばマヨネーズだが、ここは……ここは、敢えて何もつけずに食べよう。肉本来の味を、最後に楽しむのだ。
柔らかな肉の食感、皮の焦げ目、少し冷めて味の変わった身。何もつけず素の味を楽しむのも良いもんだ。
……素の味? とんでもない、これは素の味ではない。火を通してあるし、塩麹も使ってる。全然、素じゃぁない。
数万年前、人類は調理という技術を手に入れた。
肉は、火のそばに置いておくと、味が変わる。
それを最初に発見した人物に、俺は称賛を送りたい。彼(か彼女か)は、それを初めて食べたとき、何を思ったのだろう。きっと、誰かに食べさせたいと思ったに違いない。感動を、誰かと分かち合うために。
それから人類は、焼き加減を覚え、調味料を開発した。そのおかげで交流が生まれた文明もある。食は偉大だ。人類は数万年かけ、その技術を磨いてきた。俺達は今、その歴史に終止符を打とうとしている。
ふぅ。肉を食べきった。ビールをまた一口。
さあ、最後に残ったのは米だ。
食おう。
茶碗に残った米を箸で持ち上げる。一口、二口、三口。残っていた僅かな米を、全部口に入れた。
もぐ、もぐ、もぐ。
ああ……「美味い」。本当に、美味い米だ。
英語のcultureの語源は、ラテン語で「耕す」という意味のcolereだそうだ。ここから「心を耕す」という意味に発展し、「文化」という意味になった。
単なる偶然だろうが、俺は「耕す」が「文化」になったことに意味を見出さずにはいられない。
狩猟生活を行っていた人類は、あるとき農耕という発想を得た。土地を手入れし、米を育て、食べ始めた。人類の文化はそこから始まったのだ。
それから数万年。人類は米の品種改良を続けてきた。育てやすいように、丈夫になるように、そしてなにより、美味くなるように。その長い歴史の果てに生まれたのが、いま頬張っているこの米だ。
俺は今、人類史上最も美味い米を食っている!
数万年に渡る農耕と狩猟と調理の歴史は、間もなく終わるだろう。それは良いことだろうか、悪いことだろうか。
きっと、良いことなのだろう。
人類が文明を発達させられた理由の一つは、調理を発明したことらしい。基本的に、動物は食べた物の栄養すべてを消化し吸収することはできない。多くが体外へ排出されてしまう。糞に虫が集まるのは、そこに栄養が残っているからだ。だから動物は必要な栄養を得るために、一日中食べ物を探して食べ続けなくてはいけない。
だが人類は、食べ物を調理することにより、消化をいわば「外注」することに成功した。これにより、より少ない食べ物を効率的に消化吸収できるようになり、食事以外のことに時間を割けるようになった。
だから文明が発達した、というのだ。
食事の簡略化は、文明を手にした人類が辿るべき進歩の道だ。これは正しい道なのだ。たとえ、寂しいことだとしても。
米を飲み込んだ。ああ、美味かった。最後にビールも飲み干す。
ごくり。
ふぅ……。胃が膨張している。あごが疲れた。ああ、良いものを食った。
空になったグラスが二つと、皿が五つ。モヒートのグラス、ビールのグラス、玉コンニャクの小皿、漬物の小鉢、鶏肉の大皿、味噌汁の茶碗、米の茶碗。
食った。
手を合わせ、拝もう。殺された鳥と植物に、調理した方々に。数万年前から受け継がれた技術と、それを開発した全人類に。
「ごちそうさまでした」
ふぅ。
やれやれ。
ちょっと食休みしてから帰ろうかな。
「いらっしゃいませ」
おっと、また誰か来たようだ。二人組の若い男女だ。二十代前半のカップルかな。なんとなく初々しい。
「二人なんですけど……」
「どうぞこちらへ」
店長さんが二人をテーブル席へ案内した。しかし女の方が、なんだか戸惑っている。
「カウンターの方が良いかな……」
食べてるところを彼氏に見られるのが恥ずかしいのかな。だけどカウンター席は、二人続けて空いてる席がない。
「空いてる席がないから、こっちで良いだろ」
「でも……」
「あ、自分もう帰るんで、いいですよ」
俺はさっと手を挙げた。
「え、あ、すみません」
「あ、ありがとうございます」
いやいや、礼には及ばない。
「店長さん、お会計お願いします」
「はい。気を使わせてすみません」
「いえいえ」
とんでもない。彼女はまだ、食事に不慣れなようだ。でももしかしたら、未来の食事戦士(ショクジャー)かもしれない。ここのメシは美味い。輝かしい若者に席を譲れるなら、むしろ誇らしい気分だ。
「お会計、四八二〇円になります」
「はい」
シャリン。スマホで金を払う。さあ、帰ろう。
お、なんだ、このペンギン人形、首輪に名前が書いてあるじゃないか。ペン太でもペン子でもなく、ペンギン丸って名前なのか。カッコいい名前だな。
外はすっかり暗いな。う、だいぶ寒い。コートのボタンをしっかり締めなきゃ。
あー、明日も仕事か。明日はきっと、あごが筋肉痛だな。
了
蟲毒のグルメ 黄黒真直 @kiguro
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