水鞠 ーみづまりー

成柞草

 

 




 水鞠 −みづまり−





 ころころと肌をすべるみづまりのやうに、あなたはわたしのこころをたづねて来た。




 初めて見たときのことを覚えている。

 私は、ひくと息を呑んであなたの面差しを眺めていた。美しいとは思わなかった。綺麗だとも思わなかった。もっと、心の底の深いところで、私はあなたを納得していた。昼下がりの軒先で、ひとりでじっと腰を下ろして、半分より少し多めくらいの薄い麦茶で、たった二つばかりの氷を地味に溶かしながら、蝶が庭の花の蜜を吸うのを映していた。そうだったらいいなと思った。ーー私が勝手に考えたあなたの様子である。

 あなたの家は私の宅の向かいの邸の三つ隣の曲がり角だ。私が学校へ行く時分に、庭の前に座っていた。それ以上は何も知らない。きっと、私より年下で、腰の曲がった婆とふたり。きっとそうだ。確かめたことはないけれど。


 蝉が鳴くより前のこと、その日付けはさっぱり忘れてしまったが、雨は降っていなかった。私は自転車を転がしながら、鼻で歌を歌っていた。そこまではいつもと同じなのに、何かが違った。鼻歌をやめた。晴れていたのに、晴れていたはずなのに、きっと晴れていたのに。私が見かけたあなたは、ただの水鞠だった。あ、と目を広く開けたら、もう通り過ぎていた。振り返ろうかと思ったが、そんなことはしなかった。確かめたわけではないけれど、私があなたの前を横切った後の瞳の動きを知っている。自転車の輪が石ころを踏む音がすると、あなたはきっと瞳を下げる。そうして、向こうの石ころを踏む音がすると、瞳をすくと持ち上げる。はにかんだような顔の情を見た訳ではないけれど、あなたは可愛らしく、いじらしく、いたいけに目元を和ませるのだと、私はそうだと決めていた。それ以上は知らなかった。それ以上は知らなかった。あなたが静かであったのも、あなたがやけに白かったのも、あなたがひどく華奢だったのも、あなたが美しくもなく綺麗でもなく、少しもはにかまず、石ころの踏む音に合わせて瞳をきっと下げたり瞳をすくと持ち上げたりしていたのも。だから、晴れていたのにただの水鞠だと思って、振り返ろうかとは思ったが、そんなことはしなくてもいいやとやめたりしたのだ。



 そう、あなたは。

 あなたは、ころころと肌をすべるみづまりのやうに、わたしのこころをたづねて来た。


 私がはいと素っ気なく返す間も無く、あなたは見えなくなっていた。

 あなたは空に飛んでいった。あなたは空に消えていった。



 その日の、空は水鞠だった。




 水鞠模様の空だった。






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