第三十八話
「お嬢様……」
夕暮れの森の中へ消えていく馬車を見届けながら、湊は空っぽの心でそう呟いた。あんなに突然、あんなにあっさりと別れが来るだなんて思わなかったのだ。
「湊、今日はここで野営しよう。疲れただろう、この依頼は」
隣でテントを張りながら、ケイがそう声をかける。しかし、湊はそれに反応を返すことができなかった。心にぽっかりと穴が開いたようで、そしてそれ以上に心に強い衝撃をくらったような感覚だった。
湊には、ただ馬車が消えていった森を見つめることしか、できなかった。
「……湊、とりあえずテントの中に入れ。美味いものを食べて、俺と話をしよう」
「師匠……」
ケイに促されるまま、湊はテントの中に入る。そこには、ピースタウンで買ったのだろう豪華な食事が並べられていた。普段の生活からは想像もできないような豪華さに、湊の腹は正直に音を立てる。
「食べよう湊。今回はお前も頑張ったからな」
「は、はい……いただきます」
ケイと共に腰かけ、湊はもたもたした手つきで並べられているサンドイッチを口に運ぶ。二人で食べるには明らかに多いその量を見て、湊は視線をケイに移した。
「……今日が最後の日だと思ってたから奮発した。勿体ないし、お前が二人分食って消化してくれよ?」
「……師匠、俺ってガキですね」
うつむきながら、湊は悲しそうに、呟くようにケイにそう言った。ケイは湊の顔を覗き見ると、噴き出すように笑って答える。
「あぁ、ガキだな」
「なっ!? ちょっとは否定してくれてもいいじゃないですか!」
「じゃあ、何で自分の事をガキだって言ったんだ? お嬢様の事か?」
あぁ、師匠にはお見通しなんだな。
湊はどこか安心したように軽く息を吐くと、今までにないほど弱気な声で、泣き言を言うような声で心中を吐露していく。
「俺、お嬢様が結婚するのが嫌なら、連れ出してしまえばいいって。そう思ってたんです」
「今は違うのか?」
「お嬢様は言ったんです、この結婚は自分だけの問題じゃないって。そうですよね。街が苦しいから結婚するんです、そんなことも分からないで俺は……」
湊は、声を震わせそう言った。今まで自分が信じてきたものが、子供っぽい幻想であるという現実を突きつけられたのだ。
助けたいなら、助けに行けばいい。苦しいなら、助けを求めればいい。そんな綺麗なだけの理屈は、この苦しい世界では通用しない。いや、あの雨が降る以前の、平和な世界でも同じことだ。
湊が信じてきたキレイごとは、どこまで行ってもキレイごとでしかない。そんなものでは、助けたいと思った女の子一人、助けることなどできはしない。
人間は、一人で生きているのではないのだから。誰かが幸せになるためには、誰かが不幸になるしかないのだから。世界とは、そういうものなのだから。
「……湊。お前は今まで何度も何度も、助けたいからといって仕事をサボって、その度に俺に殴られて来たな」
湊の言葉を聞いて、ケイは懐かしむようにそう話した。湊がそこに視線を向ける。ケイの目は、どこかキラキラと輝いていた。
「ごめんなさい師匠。もう二度と……」
「しないのか? お前は、もう目の前で泣いてる人を助けないのか?」
湊の言葉を遮り、ケイはそう質問する。その問いに、湊は答えられなかった。分からなくなったのである。
確かに、世界とはそんなものだ。全員が幸せになることなどありえない。誰かが犠牲にならなければ、誰かが泣きを見ることになる。しかし、だからといって目の前で泣いている人を助けないのは、それは正しいことなのか?
「助けたいなら、助けに行けばいい……確かに、現実を分かってないガキの言葉かもしれない。いつか卒業しないといけない、ヒーローごっこなのかもしれない」
でもな。そうケイは言葉を置き、そして深く息を吸った。その表情は、とても明るいものだった。
「俺は、そんなヒーローに憧れた。そんなヒーローが、俺を助けてくれた。湊、お前は……俺のヒーローだった」
ケイの言葉を聞き、湊は思い出す。そうだ。今までずっとそうだったのだ。
湊が結月に教えたのだ、助けたければ助けに行けばいい。そして、結月が湊に教えたのだ。助けたければ、助けに行けばいい。そしてその結果、湊はケイを助けることができた。大切な人を、取り戻すことができた。
ケイが言ったように、確かにそれは現実を分かっていないガキの理屈だ。しかし、そのガキの理屈が大切な人の命を助けたのだ。今までそうやって生きてきた小さな
「湊……今、お前が助けたいのは誰だ? お前が今、一番泣いてほしくないのはどこの誰なんだ? 答えろ、湊」
そして、ケイがそう問いかける。確かな鋭さを持ったその視線が湊に刺さり、そして、湊は。
「師匠……俺は、俺は……!!」
湊の目に、炎が宿る。
それは、一人の少年が現実を見て大人になることをやめた瞬間だった。そしてそれは、一人の少年が、現実を見てもなお、その手に守るものを決めた瞬間だった。
それは、西城湊が一歩前に進んだ瞬間だった。
「湊さん……私は、きっと……」
月明かりが、馬車の中で包帯に巻かれた右手を抱きかかえている結月を照らす。その姿は祈っているようでもあり、そして誓っているようでもあった。
「……きっと、大丈夫です。だって、未来の私は笑っていますから」
自分の右手を強く抱きしめる。言い聞かせるようにそう呟く結月の目には、しかし一粒の涙が浮かんでいるのだった。
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