第三十七話

 「湊さん、湊さん」


 太陽がやや西に傾き始めた頃、揺れる船の上で眠っている湊に結月が声をかけた。湊が薄く目を開けると、結月がこちらを見つめている。その手には、最初の日に湊が貸した本を持っていた。


 「読んでもいいですか?」


 「そういえばあれから読んでませんでしたね。どうぞ」


 湊の返事を聞くと、結月は湊の隣に腰かけ本を読み始める。それを目で追うと、湊は心から退屈そうに声を上げるのだった。


 「それにしても、何時間かはずっと船の上ですよね。暇だなぁ」


 「もうじき着くはずだ。さて、そろそろ交代の時間だぞ湊」


 船尾の方からケイがそう言い、その言葉を聞いた湊は立ち上がりケイと代わる形で船尾に行き、一本しかないオールを漕いで船を前に進める。かれこれ数時間、これの繰り返しである。

 

 「それにしても、川まで来ましたね師匠」


 「……あぁ、川を渡ってそこで野営すれば、後は午前中に来る迎えの馬車に乗ってピースタウンに行って終わりだ」


 湊とケイはそう会話する。順当にいけば昨日の時点で着いていたはずのこの長い旅の終わりは、いよいよ明日にまで迫ってきているのだ。


 「……もう、そんなに進んだんですね」


 そして、結月が口を開く。しかし、その表情と声色は明るいものではなかった。不安を抱えているような、そして不満を抱えているような。最初の日とはずいぶんと違ったその様子に、湊は心配そうに声をかける。


 「お嬢様……着くの、嫌ですか?」


 「えっ……い、いえ! そんなこと、ないですよ?」


 結月は嘘が下手なのだろう。思い切り目をそらしながら、結月は答えたのだ。

 しかし、考えてみれば結月がこうなってしまうのも当然である。自分の意思というものをようやく獲得したその時には、写真でしか見たことのない男との結婚が目の前に迫ってきているのだから。それを、拒むことができないのだから。


 「……お嬢様。前にも言いましたよね? お嬢様が頼むのなら、俺があなたをあの街から連れ出します」


 だから湊は再びその言葉をかけた。

 お嬢様は、何度も俺を助けてくれた。俺の背中を押して、俺の師匠を助けてくれた。今度は、俺がこの人を助ける番だ。この人にその意思があるなら、俺はお嬢様をあの街から連れ出してやる。そう、考えたのだ。


 「湊さん……ありがとうございます。でも、私は大丈夫です。きっと、私は……」


 そこまで言うが、結月がその言葉の続きを口にすることはなかった。喉元まで出かかっているだろうその声は、しかし言葉として口から出ない。言おうにも、それ以上言うことができない。そういった様子だった。


 「お嬢様……」


 「ご、ごめんなさい。うまく言えなくて……」


 悲し気にその視線をそらし、結月は再び本を読み始める。それ以上話したくないのだろう、湊もそれ以上何も言えなかった。


 「……お嬢様、あれは」


 そんな結月に、今度は今まで黙っていたケイが声をかける。結月がケイの方を見やると、ケイは岸の方を指さしていた。その先へ結月が視線を移した瞬間、その目は大きく見開かれた。

 

 そこには数頭の馬と、それとは別に豪華な装飾が施された馬車が停まっていた。間違いなく、三星家による迎えのものだ。本来は朝にやってきて結月を連れピースタウンに行く手はずだったが、しかし間違いなく結月を今。迎えに来ている。


 「み、三星家の迎えです……きっと、このまま私を連れてピースタウンに行くつもりなんだと思います」


 「でも、迎えは朝に来るはずじゃ……」


 「いや湊、三星家の当主は気が短いことでも有名だ。期限は守っているはずだが、恐らく昨日来なかったことに腹を立てているんだろう」


 湊の疑問に、ケイがそう答える。

 馬車は装飾こそ豪華であるが小さく、恐らく二人乗るのが手いっぱいだろう。そして、馬車の隣に一人の少女が立っている。その手には、恐らく報酬が入ったアタッシュケースが握られていた。恐らく湊とケイをピースタウンに行かせるつもりは、向こう側にはない。


 つまり。


 つまり、湊とケイと結月の旅はここで終わり。そういうことなのだ。


 「……湊さん、八坂さん」


 本を閉じ船主の方に行って、結月は湊とケイの顔を見る。そして、一瞬切なげに笑うと直角に頭を下げたのだった。


 「今まで、ありがとうございました……!」


 「お嬢様……」


 どんな言葉をかけていいのか分からず、そう呟くことしかできない湊からは結月の表情が見えない。結月は、頭を下げたままの姿勢で言葉を続ける。


 「あなたたちと過ごしたこの五日間、本当に幸せでした。これから、私は三星家の妻として――」


 「心にもないことを言わないでくださいっ!!」


 突然、湊が怒りの声をあげた。あまりの声にびくりと肩を震わせ、結月は少しだけ顔を上げ視線を湊の顔に向ける。その顔は、とても悲しそうなものだった。


 「気づかないと、思ってるんですか……?」


 湊の視線は結月の足元に向いている。その視線を追い結月が自分の足元を見ると、そこには、雫が落ちたような染みがあった。そして、今もその染みは増えている。ポタポタと、雨でも降っているかのように。


 「えっ……」


 雨は、結月の目から降っていた。思わず顔をあげ頬に手を当てる結月。目から零れ落ちてくるその温かいものに手が触れ、そして次の瞬間、湊が飛びつくように結月に近づき声を上げる。


 「お嬢様! 本当に、行ってしまうんですか……!?」


 そう、今ならまだ引き返すこともできる。ピースタウンに戻って結月が元の暮らしに戻ることはできないだろうが、しかし三星家に嫁がない選択肢は、まだ取れるのだ。そして、今がその最後のチャンスなのだ。


 「湊さん……!」


 とめどなく涙を流しながら、結月は湊の手を取り、そしてこう言った。


 「……私の結婚は、私だけの問題じゃないんです」


 湊たちを乗せた船は、岸にたどり着いた。

 この時、彼らの長いようで短い旅は、静かに終わりを告げたのだ。

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