第二十八話

 轟音、咆哮、悲鳴。そして、断末魔。昨日まで卯月街と呼ばれていたこの街を、地獄のような音の数々が支配していた。

 何故こうなってしまったのか、誰にも分からない。人々はただ当たり前に日常を過ごし、予報もされていない降りだした雨に困っていただけなのだから。


 「はぁ……っ! はぁ……っ!!」


 息を切らし、少年はただ逃げることしかできなかった。血の水たまりを跳び越え、ただよい始めた死の匂いから鼻を塞ぎ、助けを求める声から耳を抑え、こちらに手を伸ばす消えかかった命から目をそらす。少年はただ、家に向かって走っていた。


 やがて、少年はその目に帰るべき家を捉える。窓ガラスは割れていたが、崩れていないだけでもマシだった。少年の瞳に、安堵の涙が浮かぶ。


 「た、ただいまっ! お母さん、お父さん!」


 家に駆け込み、心から安心しきった声でそう叫ぶ少年の目の前には、母親の死体と、そしてそれを踏み潰す父親の姿があった。


 「お、お父さん……!?」


 みるみるうちに、少年の顔が青く染まる。父親はこちらを振り向くが、その目は白目をむき、その口からはよだれが絶えず垂れていた。明らかに、正気ではない。

 逃げなければ。すぐに逃げなければ。少年の本能が危険信号を発し、そして少年は家を飛び出した。


 「グアァァァァァァァァァァッ!!」


 直後、少年は背後から獣のように追いかけてきた父親に追いつかれてしまう。腕を掴まれ街路樹に、そして次に地面に叩きつけられる。

 幼い少年には、その力を振りほどくことなど不可能だった。それに。


 「う、うぅぅぅぅ……!!」


 恐怖と絶望に涙を流す少年に、そもそも抵抗など不可能であった。

 父親は咆哮し、そして爪を少年の喉元に突き立てる。見ると、口からは牙が生え両手からは爪が生えていた。少年には、その姿は悪魔に見えた。


 そして、父親はその爪を大きく振りかぶる。恐らく、狙いは先ほど突き立てた喉元だろう。

 あぁ、僕はここで死ぬんだ。短い走馬灯が駆け抜け、少年は絶望に目を閉じた。その次の瞬間。


 すぐ近くから、爆音のような音が響いた。それと同時に、少年を殺そうとしていた父親だったものが、飛んできた青い炎に飲み込まれて黒く焼き焦がされたのだ。

 炎の飛んできた方向を見ると、一人の男がこちらに駆け寄ってきている。綺麗な、青い目をした男だった。


 「生存者が……大丈夫か、お前、名前は」


 「さ、西城……湊です」


 「そうか。ミナト、お母さんはどうした?」


 少年、改め湊は黒焦げにされた父親を指さし、そして涙を流しながら首を横に振った。それで察したのだろう、青い目の男は悲しそうに目を伏せ、そして次にこう問いを投げた。


 「……じゃあ、お父さんはどうした?」


 湊は、その問いには沈黙で返した。目の前の男に、罪悪感を植え付けてしまうと思ったのだ。黙って首を振り、声を殺して泣く。それで全てを察したのだろう、青い目の男は、唐突に湊を抱きしめるのだった。


 「……俺はケイ。ミナト、今日からは俺がお前を守る」


 本当にすまなかった。そう、ケイを名乗った男は続ける。その時、湊は先ほど見た走馬灯を再び見た気持ちになったのだ。今まで、ただ当たり前に過ごしてきた、短い家族の思い出。もう、幼い湊に泣き声は殺せなかった。


 大粒の涙を流しながら、湊は泣き叫んだ。そしてその間、ケイは何も言わずにただ湊を抱きしめてくれていた。


 「……さぁ、ミナト」


 涙が枯れ、雨が止む。ケイは立ち上がり、おもむろに手を差し伸べた。


 その時、空に虹がかかったのだ。

 雲の切れ目から光が差し込み、少年に手を差し伸べるその男をキラキラと照らしている。その姿は、まるで――




 まるで、みなとにはヒーローのように見えた。

 きっと、あの時師匠は何か大切なものを捨てた。そうしてまで、俺を守るって言ってくれた。かっこよかったんだ。いつか、俺もああなりたいって思った。

 

 そして、いつしかこう思うようになった。

 俺は、この人のヒーローになりたいって。


 「お嬢様。俺には、分かりません……!」


 湊は、震えていた。悲しさや悔しさに震えているのではない。胸の内から湧き上がるマグマのような熱さに震えているのだ。

 ケイを助けたい。だけど、自分では助けることができない。だけど、助けたい。どうしても、どうしても助けたい。熱さを止められず、湊はうつむいて震えている。


 「……湊さん。私を見てください」


 結月の言葉と同時に叩きつけるような雨がやみ、そして湊はゆっくりと、恐る恐る顔をあげる。そこに居た結月は、優しい顔でこちらに手を差し伸べていた。


 「そんな時、どうすればいいか……それも、あなたが教えてくれたことです」


 もう、迷う理由は消えうせた。そうだ、最初からずっとそうだ。湊は、最初から答えを知っていたのだ。

 湊は結月に、心からの笑顔を浮かべる。そして、ついにその声に力を灯しこう言ったのだ。


 「行きましょう、お嬢様!」


 「はいっ!!」


 空に虹がかかる。二人は、再びピースタウンへと走り出したのだった。

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