第五話
森の中を、一人の幼い少女が走っていた。年齢は八歳と言ったところだろうか、ところどころ擦り切れた、薄汚れた服を更に泥まみれにして。少女は必死な顔で走っていた。その形相は、さながら狩られている獲物のようだ。
なぜ、少女が走っているのか。事の始まりは、今から数時間前に遡る。
太陽が徐々に顔を出してきたころ、彼女はいつものように山に出かけ、そこで木の実やキノコを採集していた。
山で採った食糧を食べ飢えをしのぐのはメジャーな生き方であったが、幼い彼女は他の者に奪われる可能性を考え、この早朝から採集しているのである。
この日は豊作だった。いい場所を見つけたと嬉しくなった彼女は、たくさん生っている木の実に誘われて普段では行かないようにしているピースタウンの方へと向かってしまった。
そして、そこで少女は惨劇を目にする。
目の前、僅か十数メートルのところで、人が殺された。燃え上がる異形の右腕が、銃を持った男の腹を貫き、そしてその直後に原形もとどめず焼き尽くしたのだ。
少女の背筋が、凍る。恐怖を前に、足が震える。しかし、少女の生存本能は震える全身を何とか制御し、少女に来た道を全力で逆走させた。
「こちらイロンシード。ターゲットを確認しました」
死を前に鋭くなった聴覚が、数十メートル先の男の声を聞く。少女は振り返らず、血反吐を吐きそうなほど苦しく脈動する心臓を無視し走った。
「……目撃者がいますね。始末、お願いします」
少女と男の距離が数百メートルにまで達したころ、流石の少女にも、その声は聞こえなかった。
時は戻り、現在。少女は流石に体の限界を迎え、膝から崩れ落ちた。全身が痛み、苦しい息をする。
「逃げないと……!」
後ろを振り向く。追ってきてはいないようだが、油断してはいけない。能力者は神出鬼没の存在であり、休んでいてはすぐに追いつかれて殺されてしまうかも知れない。少女はよろよろと立ち上がり、何とか呼吸を整える。
そして流石に走る体力はないのか、うずくまるようにしてふらふらと歩き出した。
「どこへ行くんだい? お嬢ちゃん」
その声は、少女の正面から聞こえてきた。恐る恐る顔を上げると、そこには軍服のような装束に身を包んだ男が一人。先ほど見た燃える右腕の男とは違うようだが、しかし少女を追ってきたことは、疑いようもないことだった。
「ひっ……!!」
少女が絶望に顔を染め、そして踵を返し逃げようとする。しかし目の前の男がそれを許すはずもなく、腕を掴まれそのまま地面に投げ飛ばされてしまう。
少女が痛みと限界まで溜まっていた疲労のために立ち上がれずにいると、男はポケットからナイフを取り出した。普段少女が木の実を切るために使うナイフとは違う、人を殺すためのナイフ。
痛みと疲労に恐怖が加わり、少女の目から涙が溢れる。もう、少女に助かる道はない。ゆえに、絞りだしたその叫び声は断末魔に等しかった。
「だ、誰か……誰か助けてっ!!」
「い、今……」
結月は、すぐ近くから聞こえてくる叫び声を耳にした。同時に湊が荷台から顔を出し辺りを見回す。そして、そのまま馬車を飛び降りようと足をかけるのだった。
「待て湊。仕事中だ」
そんな湊を、ケイが制止する。いつになく真剣なその声に、しかし湊は怯まずに声を発する。
「だけど師匠! 今見捨てたら、誰があの声を助けてあげられるんですか!!」
「……誰も助けない」
非情な言葉を、ケイは冷たく言い放った。その目は吊り上がり、視線だけで誰かを殺せてしまいそうなほどの威圧感を放っていた。行ってあげてくださいと言いたかったのか、何かを言いかけた結月の口を止めてしまうほどに。
「くっ! 師匠……!!」
「あ、あの……」
このままケイを振り切り馬車から飛び降りようとした湊を、何かを言いたそうにしている結月の言葉が止める。見ると、結月は震えていた。感情が抑えきれないのか、目はうるんでいる。
「……湊。命のやり取りは、お嬢様には怖すぎる」
ケイが、諭すように言う。静かな言葉だったが、しかし湊を止めるには十分だった。今湊たちがやるべきことは、彼女を守ることなのだ。戦うために抜け出して、恐怖心を煽ってはいざという時によくない。
「ち、チクショウ……!!」
うつむき、拳を握りしめる。しかし、湊にも何を守るべきかは分かっているつもりだ。これ以上、二人に迷惑をかけるわけにはいかない。そう、思った時だった。
「ち、違うんです……わ、分からないんです……!」
結月が、必死に言葉を紡ぐ。何が何だか分からないと言った表情で、彼女はそれでも続けた。
「な、何か胸が熱くて……何かしてあげたくて……! だけど、私じゃ何もできないからこらえないといけなくて……でも、胸が熱くて……!!」
泣きそうになりながら、結月はそう言った。何かしてあげたいと。それが抑えきれない、彼女自身の意思なのだと。
だったら。湊は座り込む結月に視線を合わせるように膝を付き、そして笑顔を見せた。
「そんな時、どうしたらいいか。教えましょうか」
だったら、それだけでもう十分だ。自分の意思を見つけろなんて偉そうに言ったが、それも余計なお世話だったようだ。そして、それが誰かを助けたいという意思なら。その意思が、本物だと言うのなら。
「どうすれば、いいんですか……?」
「こうするんですよっ!!」
「きゃっ……!」
突然、湊が結月の手を取り、そして引っ張り抱きかかえる。お姫様抱っこの形で結月を抱えると、ケイに振り向き笑顔で言い切った。
「それじゃ師匠。行ってきます」
ケイの返事も聞かず、湊は馬車から飛び降りる。馬の体力を温存して走っていたとはいえ、それなりのスピードは出ている。結月が恐怖で声にならない叫びをあげようとしたその時だ。
「
湊の声と共に、背中に背負ったボディバッグから大量の砂が一斉に放出される。それは一瞬にしてケンタウロスとミノタウロスのあいの子のような形へと変化し、二人を受け止めたのだった。
「み、湊さん。これは……」
どうして湊が自分を連れて飛び降りたのか理解できなかったのだろう。結月はそれを不思議そうに質問する。
湊は抱えている結月を降ろし、そしてまた笑顔で言い切った。
「助けたいなら助けに行けばいい! ただそれだけのことですよ!!」
もしあなたにその力がないのなら、俺が守ります! 湊はそう言葉を続け、おもむろにポケットからペットボトルを取り出し、そして蓋を開けた。
男は少女にゆっくりと近づき、そしてうずくまる少女の背中を踏み潰す。痛みにせき込む少女に止めを刺そうと、その首にナイフを押し当て、そして。
「
その声と共に飛んできた水の弾丸によって、肩口を撃ち抜かれ吹き飛んだ。
「それじゃあお嬢様、あの子をお願いします」
「は、はいっ!」
結月が少女のもとに駆け寄り、そして湊がその二人を守るように男の前に立ちふさがる。痛みに肩口を抑えながら、血走った目で男がこちらを睨みつける。
「誰だよ……!!」
湊は右手の親指で胸をさし、そして。見えを切るように名乗りを上げる。
「西城湊。いつかヒーローになる男だ!」
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