あかいはな

加藤

あかいはな

小学生最後の夏休みのことだ。プールからの帰り道、友達と別れて、僕は坂道を登っていた。

夕焼けが空気の中に染み込んだような雰囲気はどこか幻想的で、古びた家の前に佇んでいたあの子は不思議な世界の住民のように見えた。

あの子に気がつくと、僕は一瞬迷って話しかけた。

「こんなところで、何してるの」

あの子は少し間をおいて、ぼんやりとした目を僕に向けた。唇は血色が悪く、異常なまでに汗ばんでいる。

「お母さんがね、ここにいなさいって」

呂律が回っていなくて、語尾が震えている。

「いつから?」

「えっと」

あの子は少し頭をクラクラとさせて、ポツリと言った。

「朝、起きたときから」

あの子はその場に静かにしゃがみ込んで、辛そうに息を吐いた。

「大丈夫?」

顔を覗き込むと、ひどく青い顔をしている。

「救急車を呼ぶ?」

僕は首からぶら下げた子供用携帯電話を掲げてみせて。

「いいの、やめて」

あの子はぎゅっと目を閉じた。

「でも」

とても辛そうだ。そう言おうとしたとき、家のドアが乱暴に開いた。

女の人、たぶん、あの子の母親が出てきて、僕を見るなり顔をしかめた。

ツカツカとこちらに歩いてきて、あの子の腕を無造作に掴む。

「何してんの。早く家の中入りな」

声そのものがヤニ臭い、そんな感じの嫌な声だった。あの子は無理やり立たされて、ふらふらと家の中へ入って行った。

ドアが大きな音を立てて閉まると、僕はその場に立ち尽くした。

あの子の名前はなんだっけ。そんな事を考えていた。隣のクラスのナントカちゃん。どうして僕はあの子の顔を覚えていたんだろう。

そうだ、確か、同じクラスの女子が騒いでいた。あの子の腕に沢山の痣があったって。あの子はさっき、クリーム色の長袖に紺色のジーンズを履いていたから、見る事は出来なかったけれど。


翌日、僕はまたあの子にあった。

あの子は小学校の近くの人気のない公園でベンチに腰掛けていた。

「また会ったね」

あの子は僕を見て、小さく頷いた。

今日は白くて、袖のあたりにボタンがついたブラウスに紺色のスカート。ボタンで閉じられた布の隙間から、隠しきれない赤いものがチラチラと覗いている。僕は知らずのうちに、それをジッと見つめていた。

あの子は僕の視線に気がつくと、腕をすっと持ち上げた。

「見たい?」

いやにはっきりした声でそう言った。

僕は何も言わずに、袖のボタンを一つ一つ外していく。

白魚のような手、と言うんだろう。スッと、抜けるような白さの腕。完璧なバランスの細くて長い指。

徐々に露わになっていく、その様子はどこか官能的な感じがした。けれど、そんなものよりも僕の目を引いたのは、無数の痣だった。変色したもの、まだ赤いもの、青いもの。白さと相まって、それはどこまでも鮮やかだった。

「私の手、とても汚いの」

あの子は俯いて言った。

僕はそんな事おかまいなしに、その腕をそっと撫でた。

「よく触れるね」

無機質な声。僕はそれを無視して、痣に見入る。

「なんだか、花束みたいだ」

あの子は弾かれたように顔を上げて、不思議そうに首を傾げた。

「花束?」

僕は頷く。

「痣が沢山の花みたいで、綺麗だ。こんなこと言ったら失礼かな」

あの子の腕は、白い紙に似ていて、僕の幻影がそこに静水で出来た薄いセロファンを纏わせていたから。痣はあの子の腕で華々しく咲いていた。

あの子は自分の腕に視線を落とすと、そっと胸に抱いた。

「少し、嬉しいかも」

僕の腕をとって、その長い指先で僕の指を絡めとった。僕の日焼けした腕と、真っ白な腕が交差した。

「本当に、本当にね、これが花だったら」

あの子は声を震わせて、大きな瞳に雫を溢れさせた。僕はあの子を手を、強く握った。

「お母さんの事、私は恨まなくて済むの」

あの子は僕にしがみついて、静かに肩を震わせる。

「お母さんはお花の世話をする優しい人になるの。毎日毎日、花が咲く事を喜ぶの」

僕は頷きながら、あの子の体を支えた。

「それでもこれは痣で、お母さんは私に痣ができるたびに、私を叩くたびに、ずっと泣いてるの」

あの子は叫ぶように言った。

「私にはそれが悲しい」

喉から無理やり声を絞り出すような感じだった。僕たちはその場に崩れ落ちて、ただただお互いの肩を抱き合って静かに項垂れていた。やりきれなさが、お互いの肩にのしかかる。それは、僕が感じた重さの中で一番だった。きっと、これからもそうだと思う。

あの子はひとしきり涙を流してしまうと、顔を上げて小さく微笑んだ。

「…なんだか、すっきりしちゃった」

その微笑みがあまりに儚かったから、僕の胸は締め付けられるように痛んだ。それでも僕は口角をあげてあの子の顔を真っ直ぐに見つめた。

「それでも、それでもね」

あの子はすっと息を吸う。

「私は、お母さんが、好き」

お腹をくすぐられたように、くっくっくと笑う。それと反比例して、僕の胸はどんどん痛くなる。

「ねえ、僕、痛いよ」

僕は胸のあたりに手を当てた。

「君といると、ここが痛いよ」

僕は情けなく、はらはらと涙を流した。

あの子は僕の頰をそっと撫でる。それでも泣き続ける僕にあの子は困ったように首を傾げて、小さな声で言った。

「痛いの痛いの…」

そこで、手の動きがピタリと止まった。

「誰にも飛んで欲しくないなぁ…」

僕はそれを聞いて、下唇を思い切り噛んだ。僕には、何も出来ないんだ。

「飛ばしちゃ駄目だ」

気づくとそう言っていた。

あらゆるものに対しての、目の前の残酷な出来事についての、小さな抵抗だった。

「この痛みは、僕のものだ」

いやいやをするように、僕は何度も首を振った。

「大事な痛みなんだ。大事な…大事な…君のための痛みだって、そう思わせてよ…」

あの子はしゃがみこんで、僕の顔をのぞいた。涙に濡れた目であの子の顔を見ると、ひどく大人びた顔をしていた。

「ごめんね。でも、違うの。その痛みは、半分私のための痛みで、もう半分は、あなたのための痛みだよ」

頭を拳銃で撃たれたような心地がした。そうか、そうか。この悔しさの正体は。

「そうだね…そうだね。ごめん、ごめんなさい。全部君のための痛みだったら…よかったのに…」

あの子は優しく首を振った。

「私は、誰かが、誰かのために痛いのは嫌いなの。お母さんのために私が痛いのは間違っているでしょう?」

僕は何度もうん、うんと頷く。

「でもね、あなたは私にくれたものがある。それはね、この赤い花。あなたのためで、私のためでもあるこの赤い花」

あの子は歌うように軽やかに言う。

「赤い花は私たちに優しい世界だけを見せてくれるね」

夕焼けが差して、橙色の光があの子の顔を照らす。

「そろそろ帰ろうか」

僕はふらふらとあの子に近づいて、細い腕をそっと 掴んだ。

「駄目だ…駄目だよ、帰ったら……」

うわ言のように呟く僕に微笑んで、あの子は歩き始める。僕を置いて。

「駄目だ!行ったら駄目だ!」

気が狂ったように、僕は喚く。それでもあの子は気まぐれな蝶のように行ってしまう。

僕は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらあの子の後を追う。

「お願いだから…行くなよ!」

何度も、何度も懇願して、それでも、あの家が見えてきてしまう。あの家の前で、あの母親がこちらを睨みつけている。

あの子は母親に駆け寄る。母親は後ろからあの子を蹴り飛ばして、玄関に押し込む。僕はそれを見て、大きな声で叫んだ。言葉にはならなかった。


家に帰って、僕は母さんに向かってわめき散らした。

「あの子が!止めたのに!…それでも!」

母さんは僕を落ち着かせて、静かに事情を聞いてくれた。

母さんは二、三度頷くと、僕の頭を撫でていった。

「明日家に連れて行ってね。様子を見て学校の先生に相談しましょうね」

今すぐがいい、そう言ったけれど、もう遅いからと言われてしまった。


翌日、母さんをあの子の家に連れて行った。

インターホンを押すと、あの子の母親が気怠げに出て来た。

「なんかよう?」

母さんは毅然とした態度で一歩前に進んだ。

「うちの子がおたくのお子さんとお友達でね。それで、私も会いたいと思ったんです…今、いるかしら?」

すると、あの子の母親は目をそらした。

「いない…けど…」

嘘だ、と思った。直感的に。

僕はあの子の母親を突き飛ばして、家の中に入った。

「ちょっと!」

家中に散乱するゴミ袋を蹴飛ばして、僕はあの子を探した。

「やめろよ!このクソガキ!」

あの子の母親は僕を捕まえようとしたけれど、僕は構わずにあの子を探した。

家中のどこにもいない。本当にいないのか。そこで、ふと思い当たった。庭だ。庭をまだ探してない。家の庭は奥にあって、外側からは一切除けなかった。

僕は庭に続くガラスの引き戸を開けて、飛び出した。そして、そこには特別目を惹く大きな黒いポリ袋。

「やめろ!やめろ!」

後ろからあの子の母親が近づいてくる。

僕は素早くポリ袋に近づいて、ありったけの力でそれを引き裂いた。

袋の中は真っ白だった。黒いビニールの上に雪が積もったような。

裸のあの子が、目を固く閉じて、横たわっていた。

呆然とする間もないまま、追いついて来たあの子の母親に首を掴まれる。

「ちょっと!息子に何するの!」

母さんがあの子の母親の腕を掴んで、力が緩む。僕は後ろを向いて、叫んだ。

「人殺し!人殺し、人殺し!」

騒ぎを聞きつけた近隣住民が警察を呼んで、視界にあの子の母親がいなくなるまで、僕は叫び続けた。

あの子の母親がいなくなって、僕はその場にふっと倒れてしまった。


目が覚めると、自室の天井が見えた。母さんが僕の顔を覗き込む。疲れた顔だった。目の端には涙の跡がある。

「ごめんなさい。もっと早く動けばよかった。ごめんなさい、ごめんなさい…」

母さんが僕の手を握る力が強かった。熱い涙が静かにこぼれ落ちてくる。

「母さん、あのね」

僕は呂律の回らない舌で言った。

「あの子はね、お母さんが、大好きだったんだよ。大きな花束を抱えて、笑っていたかったんだよ」

僕は声を上げて泣き始めた。あの子のための痛みと、僕のための痛みが、僕の心臓を締め付けていた。一生消えない閉め跡を僕は残したかった。

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あかいはな 加藤 @katou1024

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