07『微睡む世界に捧げる子守唄』
猪が、大気を
と、天窓に切り取られた景色が一変──闇色だった空は赤く、流れる雲は黒くなった。
途端、一本蹈鞴の足許から間欠泉の如く赤い苔が湧き出し始める。
その正体は
程なくして──煌く赤いコケが廃工場を覆い尽くした。
ただ一カ所──男の立つ足元を除いては。
──それでいい。
男はジャケットを脱ぐと無造作に放った。少女に対して、もう自分がしてやれることは唯の一つしかない。そのままギノーに心を明け渡してしまえ。現実と悪夢の境で微睡んでいてくれ。その方がきっと──お互いにとって楽には違いない。
一本蹈鞴が肩関節を軋ませながら、右腕を引いた。その先には鋭い駆動音を上げながら旋回する、削岩機めいたパーツが取り付けられている。
対して、男は両足を肩幅に広げた。
勢いよく腰をひねり、
回避と防御を度外視した迎撃の構え。
一本蹈鞴それを見て、僅かに怯んだ。この男には
── まさか"生身"で楯突くつもりか?
有り得ない。土地に焼き付いた
されど、男の眼は──。
──打って来い。
それ以外の選択肢を決して許さない。
一本蹈鞴が──廻転する凶器を突き下ろした。
男は大きく一歩踏み込むや、裂帛の気迫とともに、左拳を放つ。
殺意を持った嵐と拳が真っ向から衝突した結果──腕ごと粉々に砕け散ったのは前者だった。
否、砕け散ったなどと生易しいそれではない。男の拳に触れた刹那、一本蹈鞴の凶器と右腕は男の拳圧を感じるまでもなく、元のヒヒイロゴケに戻り霧散してしまったのだ。
まるで、ヒヒイロゴケの結合そのものが分解されてしまったかのような──。
何の小細工もない左ストレートで凶器はおろか片腕まで失い、たじろぐ一本蹈鞴。
その隙を見逃すことなく、男は跳躍。一本蹈鞴の胸部、人間でいえば心臓の部分目掛け片足蹴りを叩き込んだ。
大きく仰け反った末、尻を打つ一本蹈鞴。土煙ならぬ苔煙が、その巨体を覆い隠すほどに舞い上がる。
項垂れたその胸部には、男によって蹴り抜かれた鮮やかな大穴。間もなくして、そこを起点にガラクタで組成された小さな要塞の崩壊が始まる。
その背部より、赤い軌跡を描きながら少女が放り出された。少女の躰は為す術なく、苔の海と抱擁を交わした。
男は、仁王立ちのまま少女が起き上がるのを待っている。
少女が立ちあがった。怒りと屈辱に表情は歪み、唇の端からは黒い粘液のようなものが滴っている。
『
少女の口から忌々しげに絞り出される──今度こそは正真正銘ギノーの声。
鼓膜を震わせると同時に頭の中へ直接響いてくるそれを、男は煩わしく思う。
「
『ならば、魔道士か? 名家の血筋か?』
男は答えない。ただ、どこか自嘲気味に笑って、徐に上体を沈める。
短距離走のクラウチングスタートのような、相撲の立合いのような低い構え。先程のような待ちの構えではない。前へ突き進むための紛うことなき攻めの姿勢。それは一本蹈鞴に──猛禽類の臨戦態勢を彷彿とさせた。
『お前は、一体──』
やはり、男は答えない。ただ、針の先のような光りを点した双眸で敵を射抜く。
一本蹈鞴が、地面に手を着いた。ヒヒイロゴケを媒介として、男の脳に宿主としている少女の記憶をありったけ流し込んだ。
そうすることで、これから自分の消そうとしている相手がギノーに憑かれた哀れな犠牲者であることを再認識させる。
屈辱ではあるが、男の深層心理に干渉できない──恐怖を操作できない以上やむを得まい。
情に訴えることで男の手を止める──古典的手法だが今も昔も人間はこれに弱い。
男の眉が僅かに動いた。心なしか苦悶を思わせる表情。
ヒヒイロゴケによる物理攻撃が効果を成さなかった男にも、どうやらこれは通るらしい。
一本蹈鞴が嘲るように
──いかなる猛者であろうと所詮は。
「俺に──」
低く重い声が響くや否や、男の姿が消えた。
常人はおろかギノーにすら全く視認できない突進速度。
次の瞬間にはもう、棒立ちになっている一本蹈鞴の胸を、男の貫手が貫いていた。
一片の容赦なく、肘まで赤く染まる程に深々と。
「そんな
男の腕に貫かれたまま、少女が黒い粘液の塊を吐き出した。ぼちゃり、と地面に落ちたそれはうねうねと形を変え、やがて一つ目一本足の猪となる。
さっきまで男と対峙していたゴーレムの左脚を、そのまま縮小化させたようなものだ。
『処女』の『障碍持ちの左脚』に『鬼神』。その符号の羅列が意味するところを知らない男ではない。
「さっさと次の母体に移れ」
天沼之宴。自分から全てを奪い去った憎き呪法。ここでこいつを抹消してしまえば
"足跡"が辿れなくなる。一夜街に一人ずつ送りこまれてくる少女を各個撃破するよりは、単身本拠地に乗り込んで残りの少女を一掃した方がずっといい。その方が被害も最小限に抑えられる。
そんな建前で自分を騙そうとしていることに、内心苦笑する。
天沼之宴だからこそ、己が力のみで
猪は一目散に逃げ出した。片足だけで跳ねる間抜けな後ろ姿が一際大きく跳んだかと思うと、そのまま苔の中に沈んで姿を消した。
男が少女に向き直る。少女の瞳には幽かに光が戻っていた。しかし、それは所詮風前の灯に過ぎない。
その証拠に──少女の躰は爪先から先が苔と化し、崩壊を始めていた。
「目が醒めたか?」
「──ささめねーちん?」
男は、痛ましげに眉根を寄せた。
少女の眼には、もう何も映ってはいないのだろう。きっと、これは感覚の喪失による誤認などではない。ただ、この瞬間。少女にとって一番目の前にいてほしい人がその「ささめねーちん」だったのだろう。
「残念だが人違いだ。こんな野太い声と聞き間違えるなんて、そんなにおっかないのか? 『ささめねーちん』は」
「おーすっげー怖いぞー。私がケガとかしたらすっげー怒るぞ。でもそのあとですぐ泣くんだよなー。あはは、わけわかんねーだろ? シンパイショーって言うんだって。そういうの」
「──そうか」
苔化は、少女の膝まで進行している。
「でもなー怒るのはヤだけど泣くのはもっとヤなんだ。なんかこうな? 胸のとこがきゅ~ってなんの。晶ねーちんは『さでぃずむ』だって言ってたけど。とにかくケガはしちゃダメなんだ。はじめはささめねーちんが色々心配してくれるの嬉しかったけどさ。でも今は違うんだ。もう、ぜってーケガしてやらないんだ」
「そうか。とりあえず『晶ねーちん』ってのが
苔化は、少女の腹部まで進行している。
「あははそーやー晶ねーちんも怒るとヤバかったなぁー。あれれ? でもヘンだな。なんか真っ暗だし胸とかチョーいたい」
「──すまない。オジサンが怪我させちまった。もうじき痛くなくなるだろうから辛抱してくれ」
「そっかー。じゃあ大変だぞーオジサン」
少女が屈託なく──笑った。
「ウチって皆な。家族のダレかをケガさせたヤツ、すっげー怒るんだ」
そして、少女は完全に崩れた。
空が本来の──月も星も見えない暗い闇を取り戻していく。
燃えるように鮮やかだったヒヒイロゴケが、錆びた鉄のような色へくすんでゆく。
携帯端末を確認して、某三流探偵から着信があったことに気付く。然して興味はなかった。あの探偵から自分に舞い込む依頼は、何故か大抵探偵当人の私情が絡む。自分の尻くらいは自分で拭ける年だろうに。
ジャケットを拾い上げた。付着した劣化ヒヒイロゴケを払い落としてから、袖を通す。次いで、ジャケットの内ポケットから煙草とライターを取り出そうとして──。
手を止めた。ジャケットの胸元を確と握り締めた。
「──何故だ」
地べたでもなく空でもなく、ただ虚空を見つめて問う。ヒヒイロゴケを介して流し込まれた少女の記憶。男があのときぐらついたのは、何も躰を乗っ取られた少女のこれまでに情を寄せてしまったからではない。
記憶の奔流に"彼女"の姿を見た。否、正確には"彼女"の面差しのある少女の姿を。白い髪に白い肌。記憶の渦中、名前を聞き取ることこそ叶わなかったが、先程の少女と白い少女──二人は親族並みに近しい間柄にあるようだった。
──アカシャさま。
「──
かつて伴侶だった"彼女"の名を呼ぶ。生前籠女は
歯噛みした。彼女との絆を引き裂いた挙句、腐り切った
願わくば、もう二度と眼前に現れないでくれ。大切な貴女を前にして、ただただ無力だった自分に。あの頃の似姿で、逢いになど来ないでくれ。
アカシャは息を吐いた。怒気とも苛立ちともつかぬ感情を孕んだそれを残して、廃工場を後にする。
蹈鞴事変は"一夜最強"──アカシャの手によって、ここに一先ずの解決を見せた。
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