06『猪笹王』

 無残に割れた天窓から臨む空に月と星はなく、赤錆に塗れた鉄骨や配管が神経系のように入り組み合う廃工場。

 その中に少女が一人、地べたに膝を抱えて座っていた。顔は伏せている。それゆえ、その表情を窺い知ることはできない。

 不意に、重い靴音が響いた。

 少女が、ゆっくりと顔を上げる。

 開け放たれた出入口。夜の昏い闇を背に、一人の男が立っていた。

 年齢は恐らく三十代後半、一九〇センチを超える長身、黒のスーツと黒のワイシャツに押し込めた筋骨隆々の肉体、黒髪を頭の後ろで無造作にまとめたオールバック、口許に蓄えた髭、見据えた相手が十中八九顔を背けるだろう三白眼。

 まさに魁偉かいいと呼ぶに相応しい鬼のような形相だった。

 男は、少女の許へと歩を進める。黒いワントーンのタクティカルシューズ。互いの距離が五メートル程になった辺りで、足を止めた。


 ──少女を囲むように、十本の左脚が輪を作っていた。


 刃物で切断したというよりは力任せに引き千切ったかのような断面。肉襞にくひだのようなものや、血管、神経の類が歪なそこを彩っている。その所々には、赤い苔が付着していた。ギノーにられた証だった。

 死斑が散りばめられた皮膚の下、幽かに蠢くのはその苔より生まれ出る蛆虫。無論──このコケでその身を構成されている以上、単なる蛆虫ではない。

 名は『針口しんく』。八大地獄が一つ糞尿地獄、そこにある糞尿の池にて罪人を責めさいなむ鉄の蛆虫。

 その皮膚をメスですっと切開すれば、ひび割れた骨の髄までそれがびっしりと詰まっていることだろう。


 ──悪趣味な飯事ままごとだな。


 胸中でそう呟いて、そう呟きでもしなければやり切れなくて、男は懐に手を伸ばす。得物を取り出すにしては緩慢な動作。事実出てきたのは得物でも何でもない、煙草とライターだった。咥えた煙草に火を付け、ゆっくりと紫煙を吐く。容貌に似つかわしくない優雅な所作だった。

「どうしてこんな真似をしたんだ」

 少女は問いに答えない。ただ靄がかかったような瞳で男を見詰めている。

左脚それを十本集まれば"元の世界"に帰れるとでも吹き込まれたのか」

 ほんの幽かに、虚ろだった少女の眼に光が宿る。それを見逃さなかった男は、心の中で舌を鳴らした。

「か、帰──れれる──のうか」

 男は、静かに首を横に振る。早々に無理だと言葉で突きつけなかったのは、少女に対するせめてもの情けか、それとも──。

 こめかみの辺りを指で押さえる。言うまでもない。これは、今この場において不要な情念だ。こうなってしまった少女にそんな感情を抱いたところで、それはもう自己満足でしかない。

「──に、何でぇ」

「手遅れだからだ。左脚を見てみろ」

 男にそう促され、少女は左脚に目を向ける。

 黒くてブヨブヨとした気味の悪い影が、左脚に纏わりついていた。それからは、細長い触手めいたものが幾つも伸びていて、少女の足首や脚の付け根辺りを刺している。

 少女はこれを今までに何度も取り除こうと四苦八苦したが、結局左脚に掻き傷と蚯蚓みみず腫れをつくるに終わった。一見実体を持っているように映るこの影に、少女は触れることすら叶わなかったのだ。

「それはギノーと言う」

「──ぎぃのー?」

「ああ。それが躰に居座ってる限り、元いた世界に戻ることは──できないんだ」

 つい、語調がやわらかくなってしまう自身の躊躇いを男は肚立たしく思う。

「じゃ、じゃーあっ」

「ギノーさえ追い出せれば、か?」

 少女がこくこくと頷いた。

 その瞳はようやく見つけた一縷の望みに弾んでいるというのに、どうにも表情の変化が乏しい。全く呂律の回っていない喋り方といい、少女の左脚に寄生したギノーが、内側から躰の主導権を奪いつつあるのだろう。

「それは──残念だが有り得ない。躰にギノーを宿していることが、既来界と未来界──二つの世界を行き来できる条件なんだ。俺には──お嬢ちゃんからギノーを追い出す力が確かにある。でも、今それを既来界ここで実行したら、もう元の世界には帰れない。無事に追い出せる約束だってできない」

「で、でも──言った! い、言ったぞ! かかか、"カラス"がっ、わあたし、十本! 集めたら帰る、れるるぅって!」

「──それが嘘だったんだ。お嬢ちゃんはギノーの力を使って、十人の人間を殺した。ギノーは肉を食べたりしない分、人の恐怖をエサにして成長する。十人分の恐怖を喰らったギノーが次に狙っている獲物は──きっと、お嬢ちゃんだ」

「じゃ、じゃじ、じゃーあっ!!」

 少女は、なおも食い下がった。目頭にピンク色に濁った涙が盛り上がっている。その涙が、浴びた物質を溶かす強い酸のような性質を備えていることを、少女はすでに知っている。

 けれども──それによって崩れた自分の顔面が今どんなふうになっているのかを、少女は知らない。

「さっ! しゃめ! ねぇーいん。会える、ないのか!?」

「──」

「いっ、いぃーなに! 会える、にゃいのか!?」

「──」

「ぢょして! 何で! 会える、ないか!?」

「──」

 男は、どの問いにも答えない。少女の言いたいことは大凡理解できている。だが、男はただ黙って少女の泣き顔を見詰めるだけだ。


 瞼を固く閉じた少女の慟哭。


 男は、小さく息を呑んだ。言葉に──しなければならない。この哀れな少女を焚きつけるために。己の内でまだ幽かに燻っている情念を捨て去るために。

 眼前のこの少女を抹消すべき対象ギノーと認識するために。

 

「その"顔"で、今更誰に会うつもりなんだ」


 それは、まさしく──現実を突き付ける言葉。

 少女が大きく目を見開いた。唇がきつく引き締められる。怒りと殺意に燃え立つ瞳が、男に向けられた。


 ──殺してやる。


 それは少女の声だったか、それとも少女の左脚に巣食うギノーの声だったか。

「両方だろう」

 そうこともなげに呟いた直後、少女の左脚を包む闇から更なる触手が放たれた。銛のような先端が、ズブズブズブッと音を立てて、少女のあちこちに突き刺さってゆく。

「かっ! ──はっ!」

 少女が短い呻き声を漏らして、四つん這いになった。

 粘液と化した闇がうねうねと形を変えながらその躰を呑み込んでいく。

 男はぼうとした眼でそのプロセスを見ていた。灰になった煙草を、懐から出した携帯灰皿に仕舞う。眼前の光景に動揺した気配は微塵もなかった。


 やがて──闇の形がまとまりだした。


 いくつもの鉄骨や配管、歯車を寄せ集めて組成したような──苔生した奇怪なゴーレムの姿を象った。

 全長はおよそ三メートル。踏切警報機の点滅ランプを彷彿とさせる頭部。十本の左脚によって造形された禍々しい王冠。長髪に見立てた熊笹。苔と針金と溶接でガラクタ同士を繋ぎ合せて、人型にした躰。

 そして、毛むくじゃらの太い左脚。

 本来であれば膝の皿があるべき部分に、獰猛な一つ目猪のかんばせ

 男の脳裏を猪笹王いざさおうという魔物の名が過ぎる。

 ──それの亡霊が、一説には一本蹈鞴の正体だったか。

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