短編集 仁和歌者
『冷たい指輪』
初めて握ったあの
バスから降りると、冷たい秋風が吹きつけた。思わず首を竦める。秋の初めにしては少し寒過ぎる気がした。朝、今日は冷えるからとマフラーを巻いてくれたまこ姉さんに、心の中でありがとうを伝える。
「ユキンコ」
聞き覚えのある声に目を向けると、晶がバス停のベンチに座っていた。ハーフアップでまとめた髪、赤いピアス、ファー付きのミリタリーコート、デニムのショートパンツ。
寒くないのかな──と剥き出しになっている脚を見て思う。
晶は気だるそうな動作で右手を挙げ、ようと言った。
「気付かなかったのか? 視野狭いなぁお前」
「ごめん。──迎えに来てくれたの?」
「まあな」
「だったら自転車で来てくれたら良かったのに」
そしたら二人乗りできるし、と私が目を細めながら続けると、
「いやだよ。風切ったら寒ぃーじゃん」
晶は自分の肩を抱きながら唇を尖らせた。
──やっぱり寒かったんだ。
だったら何で来たの、とはさすがに言わないし言えない。迎えなんて必要ないことはわかっていても、こうして来てくれたこと自体は素直に嬉しかったから。
「さーて、さっさと帰るか。私まで風邪ひいたんじゃシャレにならん」
晶はそう言って立ち上がるも、腕を擦るばかりで中々歩き出そうとしない。どうしたのと私が尋ねるとと、ずいと手が差し出された。
──ああ、そういうこと。
私は、差していた日傘を晶に渡した。晶が気持ち赤い頬を緩めて、んっと小さく頷く。そうして私たち二人は互いに寄り添うようにして歩き出した。
帰り道はよく散歩のときに通る並木道を選んだ。近道どころかちょっとした遠回りだ。ただ、こっちの方が紅葉が綺麗なんだと私が言うと、じゃあそっちにしようと晶が即決してしまった。
──さっさと帰ろうなんて言ってたのにいいのかな。
「診療所のセンセーなんて言ってた?」
「大したことないよ。ただの風邪。薬三日分で様子を見ようって」
「ふぅーん」
まあ季節の変わり目だし気を付けないとなと言って、晶が鼻を啜る。珍しく──会話が途切れがちだ。私が、微熱でぼんやりしているせいではないと思う。寒さのせいか、晶の口数が少ないのだ。改めて日頃の〈会話〉が晶の人柄によって成り立っているのだと思い知る。
「ねぇ」
「うーん?」
「──手袋、付けないの?」
そのことが、ちょっとだけ悔しかったのかもしれない。自分にだって会話のきっかけくらい作れる──そんなふうに躍起になった結果、自分でも何が言いたいのかよくわからないことを訊いた。
「付けねぇよ。付けたらコレ見えなくなるじゃん」
晶はそう言って私に左手を見せた。六色の石を使ったカラフルなリングとオオカミみたいな動物をモチーフにしたリングが、人差し指と中指にそれぞれ嵌っていた。
一緒に遊びに行ったとき、晶が買っていた覚えがある。
──確か、インディアンジュエリーだったっけ。
「でも、手冷たいんでしょ」
「オシャレは寒さとの戦いナリってエライ奴が言ってた。それにポケットに突っ込んでるから割とヘーキ」
「──それ結局見えてないじゃん」
そういやぁそうだな、と晶が他人事みたいに笑った。何故だか嬉しそうだった。私は日傘の柄を握って白くなっている晶の指先をちらりと見てから、じゃあせめてさ、と右の手袋を外した。
「これ使ってよ。晶の手見てる方が寒いから」
私は押し付けるようにそれを渡すと、早々と右手をポケットに仕舞った。選択権は与えないという私なりの意思表示のつもりだった。それが伝わったのかどうかは定かじゃないけど、晶はおうまあアリガトと照れたように言って、その手袋を嵌めた。それだけのことで失いかけていた自信が取り戻せるのだから、つくづく自分は単純なんだと思う。
──本当は、余計なお世話だったんじゃないかな。
「隙アリっ」
私の胸がずきりと疼いてしまうよりも早く、晶は私の右手をポケットの中で握ってきた。思っていたよりもずっと柔らかくてあったかい手。その中に混じる硬質でひやりとした感触。
──記憶の中にある晶の手は、こんなにも温かかっただろうか。
「へへへ。若さと熱を貰おうかと思いまして」
「──冷たい」
「そりゃそうだろ。手袋つけてなかったんだから」
「そうじゃなくて──指輪」
少し間があって、晶がああ、と納得がいったとばかりに声を上げた。それから何を思ったのか、私のポケットから自分の左手を抜くと中指に嵌めていた指輪を外し、私に手渡してきた。
「──なに?」
「なにって──付けろよ。わかり易く言うと〈痛み分け〉ってやつ」
──全然わかり易くなんかない。
そうは思いつつも、何だか釈然としないまま指輪を受け取ってしまう。こういうのって──どこに嵌めたらいいんだろう。右手とはいえ、なんとなく薬指に付けるのは抵抗があったので、迷った末中指に嵌めることにした。それを見た晶が、一瞬ぎょっとしたような顔をした気がするけど気のせいかな。
そして、私たちはもう一度ポケットの中で手を繋いだ。
お互いの指を絡めるように握っているせいで、指輪同士がかちゃかちゃと擦れ合っている。
「やっぱり冷たい」
「おう。私も冷てぇ」
「──〈痛み分け〉ってこういうこと?」
そういうこと、と晶が悪戯っぽく笑う。どうして指輪を外そうという考えが出てこないんだろう。やっぱり変な
ああ、思い出した。あのときも晶は指輪を付けていたんだ。その指輪が硬くて冷たかったから、私はてっきり晶の手は冷たいものだと憶え間違いをしていたんだ。
澄み渡るような寒空の下でも、今ここにある〈本物〉はこんなにも温かい。指輪が冷たく感じるのは体温とのギャップのせいではないかとさえ思う。
私はきゅっ、と右手に力を込めた。
「──どした?」
「ううん。──若さと熱を貰おうかと思いまして」
熱はともかく若さは無理だろ、と晶が笑う。
かちゃかちゃと擦れ合う音が、ポケットという二人きりの空間の中で、密やかに響いていた。
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