04『一夜街の天人』

 襖を開けると、仄かにこうの匂いがした。良い匂いなのか悪い臭いなのか判断に困るが、少なくとも発情を促すような効能はなさそうだった。

 一巫女さんは革張りのソファーに寝そべって、大して面白くもなさそうに和綴わとじの本を読んでいた。

「嘘吐きめ」

 一巫女さんが横目で僕を睨みながら、彼女にしては可愛気のある毒を吐いた。

「何のことです?」

 訊きながら対面のソファーに腰掛ける。

 うん、部屋こそ廊下同様小汚い古物の数々に占拠されているが、そこは『名家』最高位に君臨する負討おとう家の末裔。ソファーは事務所ウチのなんかよりずっといいものを使っている。

「何が込み入った話を持ってきたわけじゃない、だ。アカシャに話がある時点でどう考えても込み入った話じゃないか」

「何だ聴いてたんですか。相変わらず地獄耳ですね」

「聴覚は人並だよ。あと聴いたんじゃなくて聞こえただけだ」

 言いながら、一巫女さんが髪に隠れた貝殻細工のような耳を指差す。

 この人の前では〈距離〉など何の意味も持たない。それが具体概念だろうと抽象概念だろうとだ。だから、もし一巫女さんの耳に本気で入れたくない話があるのなら、『橋姫』の外──いや、一夜街の外でやるのが賢明と言える。

「わかってますよ。それでアカシャは何をしに?」

「妓楼に男が足を運ぶ目的なんてそう多くはないと思うがね。今夜ミッションを控えているそうだから大方いつもの"熱冷まし"だろう」

 なるほど、ギノー退治を間近に控え猛る五体を女性の肌で静めようと。──佐々木小次郎みたいな奴だな。もうすぐ四十路も近いだろうに元気なもんだ。

「しかし今日は花魁おいらんのような恰好ですね。月並みで申し訳ないが御美しい限り」

「わかり切ったことを言うなよ」

 一巫女さんは本を閉じると、起き上がって片膝を立てて座った。

 真紅の長襦袢の裾が捲れあがって白い腿まで丸見えだが、当の本人は気にしている風もない。逆にここまで堂々とされるとそれはそれで萎えるのだから男ってのは本当に繊細ナイーヴな生き物だと思う。

 正直なところ世辞抜きで一巫女さんは美しかった。「透けるように白い肌」とか「烏の塗羽を思わせる長髪」とか「切れ長の瞳をあしらう長い睫毛」とか「赤く色づいた小さな唇」といった、ありきたりな美辞麗句では到底表現し尽くせないレベルの美貌だ。

 だが一巫女さんを抱きたいかと問われれば即答でノーだ。というか、異性以前にこの人を同じ人類として見ることが僕には到底できそうにない。

 酒と煙草を嗜みつつ、怠惰極まりない──それこそ天人のような生活を送っておきながら、陶器のように滑らかな肌膚きふを維持している時点で同じヒトとは思えない。

 そんな一巫女さんの魔性を強いて例えるなら、妖女とでも言うべきか?

 いや──この人のそれは、妖女だとか鬼女だとか淫魔だとか女神だとか、そういう形ある何かで例えるべきじゃあない。


 強いて言うなら深淵で渦巻く闇色の何か───やがては妖女も鬼女も淫魔も女神も、跡形もなく潰して融かして呑み込んでしまうような、そんな"何か"だ。


「おい」

 という一巫女さんの声が聞こえるや否や顔の横を何かが通り過ぎていった。

 後ろの襖にその何かがぶち当たる。──振り向いて確認すると、絨毯の上に落ちたそれはさっきまで一巫女さんが読んでいた和綴の本だった。

「僕に相談事があるといって来たのはお前じゃないか。呆けてるなよ」

「──だからって本を顔面目掛けてブン投げることはないでしょ?」

「当てる気は微塵もなかったよ。ま、命中していたらいたで本の神様もそれなりに喜んだだろうね」

 しばらく書見に励まないうちに、えらく乱暴ブルータルになったな本の神様。

「それで、目は醒めましたかな。探偵ジョシュア・ファイブセンス君」

「ええお蔭様で。では──さっさと本題に入るとしましょうか」

 僕は手を組んで、上体を前に傾けた。


「一巫女さんは天沼之宴あまのぬまのうたげってご存知ですか?」


 通りから届く色彩を問わぬ光も、人ごみの喧噪もここにはない。

『橋姫』は遊郭の外れにあるため、二人とも黙るとひどく静かだ。 

 一巫女さんが、徐に腕を組んだ。

「そうだな──蟲毒こどくという言葉は知っているな。ジョシュア」

 そう知ってて当たり前みたいな感じで重圧かけないで欲しいんだが。

「コドク? ああ、知ってますよ。壺の中にたくさんの毒を持った蟲を入れて戦わせて最後に残った奴が一番強い毒を持っているっていうアレだ」

「まぁ大方合ってるよ。正確には蟷螂とうろう百足むかでいなごなどの蟲に限らず犬、狐、蛇、蜥蜴とかげ蝦蟇がまなどの動物も用いる。それらの魂魄こんぱくを操作して、任意の対象に災厄を生じさせる呪術──それが蟲毒だ」

「それはわかりましたが、それと天沼之宴に何か関係が?」

「大いにあるよ。何せ天沼之宴は蟲毒をベースとした呪術の一種だからね。用いる動物によって蛇ならば蛇蟲じゃこ、犬なら犬蟲けんこ、狐なら狐蟲ここと呼ばれているのに倣うなら、天沼之宴は人蟲じんことでも呼ぶべきかな」

「ジンコ」という言葉の響きが、脳内で「人蟲」に変換されるまでは少し時間がかかった。

「──人に共食いをさせる呪法ってことですか?」

「というより殺し合いだな。無論充分共食いにも成り得るが。──にしても反応がいまひとつだね。人を使ってやる蟲毒だぞ? もっと驚くなり嫌悪するなりしてもいいだろう」

「一巫女さん。僕がこの街に来て何年になると思います?」

「──ふぅむ。それもそうだ。人蟲なんて真似実際やる馬鹿はそういないとはいえ発想自体はありふれている。昨今の創作作品の中で迂闊に用いようものなら捻りがない、発想が貧困、独創性がない、などと罵られても文句言えんレベルだしな。話を戻すぞ。天沼之宴は蟲毒とは仔細が違ってね。例えば蟲毒が何十匹もの動物を一度に閉じ込めるのに対し、天沼之宴は五人の人間を一定の時間間隔を置いて一人ずつ閉じ込めていく。最も五人の身体的特徴に関してはやたらと注文が多いくせに、この時間間隔についてはノータッチだから場合によってはかなり無茶な期間にすることもある。三日置きとかね」

 ──は?

「三日、ですか?それは、その間は──」

「無論飲まず食わずだね。少なくとも閉じ込められている奴は」

「──そんなのどう考えたって、後から入ってくる奴の方が有利じゃないですか」

「その通り。最初から生き残って欲しい奴が決まっているのさ。いわゆる八百長なんだなこれが」

「そんなことする意味があるんですか?」

 普通生き残って欲しい奴なら、そんな物騒な呪法に利用しないだろうに。一巫女さんが、何故か楽しそうに笑った。

「あるよ。呪術者側にとってはある意味死活問題さ。天沼之宴の終わりには人蟲特有の実にわかりやすい"お楽しみ"が用意されていてね。事前に予防策を張っておかないと後で苦い思いをする羽目になりかねない。ジョシュア。お前は共食いの末生き残った動物をどうするのか──その先を知っているか?」

「ああ、言われてみれば知りませんね」

「有名所で言えば生き残りを殺し、干して焼いた灰を呪うべき相手に飲ませるというものがある。他にも生き残りの糞を相手に食べさせるだとか、相手の家の敷地内に生き残りを生き埋めにするだとか色々だが、中でも思い切りがいいのは生き残ったそれを術者自ら食べてしまうというものだ。どうだい大胆だろう?」

「大胆っていうか──それ呪った方がヤバくないですか?」

 ヤバいヤバい、と一巫女さんが笑いながら膝をぴしゃりと打った。

「食えば階級ヒエラルキー上頂点に立てるわけだからより強力な呪術的パワーが使えると踏んだのだろうね。実際は毒と怨念の塊を口にしてるわけだからたまったもんじゃないだろうが。でだ。これをさっき話していた天沼之宴に当てはめてみたまえ。"お楽しみ"の正体とやらが見えてくるだろう?」

 生き残りを食らうことで蟲毒の力を得ることができる。──ならこれが人蟲だとしたら? "お楽しみ"の正体は?


「──まさかとは思いますが、食べるんですか? 


 知らず僕の声は神妙なものとなる。

 一巫女さんが──露骨に眉をしかめた。

「食うわけないだろ阿呆かお前は。人間が人間一人を食うなんて骨の折れる作業のどこに"お楽しみ"要素があるんだい。食べるは食べるでもこの場合は男女の営みの比喩だよ。天沼之宴に使われる五人は全員身体に障碍しょうがいを抱えた十代の処女おぼこだと決まっているのさ。そうなると、男としては当然生き残って欲しい奴とそうでない奴が出てくる。どうせヤるなら可憐な生娘がいいだろう?」

 ああ、それである意味死活問題ね。不細工と"致す"のは命を落とすに等しいと。

「しかし呪いに使うのが十代の女の子というのはなんとなーくわかりますが、何で全員障碍持ちなんです? 最初にやり出した呪術者が奇形フリークス嗜好だったんですか?」

「相変わらず安直な思考パターンだなぁお前は。まあいい。それについては後で説明してやる。おい庵」

 一巫女さんが小さく指を横に振ると、襖が音もなく独りでに開いた。ホント便利だな。

 庵くんが湯呑を二つ乗せた盆を持ったまま、少々居心地悪そうに微笑んだ。

「すみません。お話が盛り上がっていたようなので、出るに出られず」

「要らん気遣いをするなよ。逢瀬じゃあるまいし」

 文句を言う一巫女さんに苦笑で応えながら、庵君はローテーブルに茶を置いた。

「悪いね庵くん」

「全くだよ。この僕が馳走してやるんだ。ありがたく飲めよ」

「一巫女さんには言ってませんよ」

 一巫女さんはふんっと鼻を鳴らすと、ずずずっと音を立てて茶を啜った。

 僕も一口頂くことにする。はっきりいって僕は茶の違いなんてわからない男だが、庵くんの淹れるそれだけは何故だか美味いなあと思う。

 では、ごゆっくりと言い残して庵くんはそっと襖を閉めた。

 彼の気配が遠のいたところで一巫女さんが口を開いた。

「そういえば、何でまたこんなことを訊きたいだなんて言い出したんだい? 道中にある屏風絵にでも魅入られたか?」

「──屏風絵ってのが何のことだかはピンときませんが、いや実はですね。今一夜街で起こってる蹈鞴事変ってあるでしょ? あれと天沼之宴がどうやら関係あるみたいなんですよ」

「──どこで掴んだ情報なんだそれは」

「依頼主からですよ。ここに来る前野暮用でキリカの店に寄ったんですがそのときキリカ経由で。蹈鞴事変解決の鍵は天沼之宴にありってね」

 依頼主? と一巫女さんが首を傾げた。ああ、そうか。まずはそこから説明しなくちゃならないんだな。

 それから僕は、蹈鞴事変解決の依頼を受けたことを一巫女さんに話した。ついでに依頼主であるあいつの素性も。

 一巫女さんがたっぷりと数秒を費やして茶を啜ってから、何か言いたげな眼で僕を睨んだ。

「なあジョシュア」

「なんです」

「探偵ってのは依頼主との信頼関係が第一の職業だろう。そう気安く他人様に依頼内容やら何やら口外するなよ」

「大丈夫ですよ。学生時代の連れなんですから。僕の人間性は承知の上で訪ねて来たはずです」

 それに一巫女さんはもうウチの所員みたいなもんじゃないですか、とはさすがに口にしなかった。

「それよりさっきの話なんですが、ちょっと引っかかりません?」

「どこが」

「どこって──悪の芽どうこうの下りですよ。彼女は僕に管理機構の実働隊や並の抹消者イレイザーでは蹈鞴事変を解決できないと言った。後者はともかく管理機構の手にすら負えないギノーなんて今の時世そうそう湧いてくるとは思えない」

「お前の友人は名家出身者なんだろう。名家信者なんじゃないのか?」

「ああそれはないです。有り得ない。あいつ自分の家嫌いみたいなんで。──何で血統に恵まれた奴ほど家を嫌うんでしょうかねぇ。ねえ一巫女さん」

「知るかよ」

 一蹴された。流石に──調子に乗りすぎたか。

「とりあえず今の僕から言えることは二つ。一つは良いことでもう一つは悪いことだ。もちろんお前にとってな。で、どうする。どちらから聴きたい?」

「──この際どっちも聴かないっていうのは?」

「却下。良いことから話そう。蹈鞴事変ならほぼ間違いなく今夜中に解決する。良かったなジョシュア」

「ホントですか!?」

 嬉しさではなく驚きのあまり、僕は身を乗り出した。

「本当だよ。今夜アカシャがこなすミッションがそれだ。あいつに狙われて無事なギノーなんていないよ」

「あははそうですか。いやぁ~良かった良かった。これで晴れて依頼達成ってワケだ。──で、あんまり気乗りはしませんが悪い方というのは?」

 ああ、と一巫女さんは茶の波紋を目で追いながらこともなげに言った。


「多分蹈鞴事変の黒幕──いや黒幕の一人はお前の御友人だろうから早々に縁を切ることをお勧めするよ」


 ──ああ畜生。なんとなくはわかってたさ。

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