第二章 踏鞴事変

01『蹈鞴事変』

 カランカラン、とベルが鳴った。

 別に読むわけでもなく、なんとなくページを捲って遊んでいただけの雑誌を閉じる。

 タイトルは『月刊廃墟倶楽部──ボクたちの秘密基地──』。

 昨日やって来たドロシーが自身のバイブルだと豪語しておきながら、テーブルの上に忘れていったものだ。

 何事にもきっちりとした彼女にしては大変珍しいミスなのでこれは故意に置いていった──いわゆる布教用というヤツなのかもしれない。だとしたらコイツはその役割を果たせなかったことになるが。

「お久しぶりね」

 ドアの前に立つ女に、ああ、久しぶりだね──と返そうとして、絶句した。

 思わず壁時計で時刻を確認。彼女との約束の時間に間違いはない。と、なるとだ。

「化けたでしょ?」

 女が丈の長いスカートの端をちょいと摘んで小首を傾げて見せる。

 信じられないというより信じたくはないが、どうやら今目の前にいるこの女こそが昨日電話してきた彼女らしい。

 ──何てことだ。かつての彼女はまさに『孤独の天才人形師』を体現したかのような陰気を振り撒く年中喪服女だったというのに、今はまるで出勤前のお父さん方を悶々とさせる健康的なエロス弾けるお天気お姉さんじゃないか。

 彼女がきょろきょろと周囲に視線を巡らすので、僕もそれに倣ってみる。

 デスクとソファーとテーブルと壁掛け時計とグレーのロッカー、あと書棚にモンステラとかいうポピュラーな観葉植物。

 別段珍しいものもない普通の事務所風景だ。

 まさか今更になって、事務所の様子から僕の人間性を再確認しようとしているわけでもあるまい。

「せめて首を動かしてくれ。そう眼球の動きだけでじろじろ見られるとどうにも気持ちが悪い」

「──本当に探偵になったのね」

 彼女が呟くように言った。

 まあね、と僕は短く返した。

 デスクの上に組んで乗せていた足を下ろして、携帯を手に取る。

「とりあえずそこのソファーにでも座ってくれ。出前でも取ろう」

「出前?」

「飲み物だよ。珈琲豆も紅茶葉もストックはあるが淹れるのが面倒なんだ」

「気遣いは結構よ。どうせ用件が済んだら、すぐ御暇するわ」

 言いながら、彼女はソファーに腰掛ける。

「馬鹿を言うな。僕の喉が渇いたんだ。『グラウクス』でいいだろ?」

 彼女が眉をしかめた。

「──あの店はいつから雑貨屋から喫茶店に変わったのかしら」

「今も雑貨屋さ。ただキリカが最近妙に珈琲に凝りだしてね。店に行く度、高いだけで美味いのか不味いのかよく判らないような珈琲ばかり出してくる。そもそも僕は貧乏舌なんだ。もしキリカの淹れた珈琲と無糖缶コーヒーを湯煎ゆせんしたものとを並べられたって気付かない自信がある」

 彼女が口許に拳を当てて、お上品に吹き出した。

「──別にウケを狙ったわけじゃないぞ」

「違うわよ、そうじゃないの。ただ──相変わらずね。キリカは」

「そうだね。珈琲と同時進行でケーキ作りにも興味を持ちだしたというから、全く向上心衰える気配がない。もっともまだ二五歳だから、むしろこの年にして向上心が衰えつつある僕らのほうが些か問題アリな気もするが」

「勝手に一緒にしないでくれる? ──それとやっぱり出前は止めておきなさい。いくらキリカが珈琲に打ち込んでいるからって、結局あの店に出前機能はないんでしょう?なんなら私が淹れるわ」

 そう言って席を立ちかけた彼女を、僕は手をかざすことで制止した。

「あー待て待て。依頼主の手を煩わせてまで喉を潤したいわけじゃない。──仕方ないから我慢するよ」

「ええ、そうして頂戴。まったく、余程恵まれた家庭で育ったのね」

「恵まれていない家庭に育ったからこそ、少し余裕が出てきた今になって我慢が利かないんだよ」

 知ってるわ、なんて微笑みながら抜かす彼女を一睨みしてから、僕は対面のソファーに座った。背もたれに片肘を乗せて、右足を上に足を組む。

 頭の天辺てっぺんから爪先にかけて、彼女の視線を感じた。

 上は白のカッターシャツでノーネクタイ、下は穿き古したジーンズ。

「一応訊いておきたいのだけれど──」

「僕の名誉のために言っておくが、いつもこんな羽目を外した格好で仕事に当たっているわけじゃない。まあ、態度も含め友人なんだから大目に見てくれ」

 ならいいわ、と彼女は大人しく質問を取り下げた。

「さて、ではご依頼を伺うとしようじゃないか。──旦那の浮気調査なら大歓迎だよ」

 彼女の表情が僅かに強張った。

 レースの白手袋に包まれた彼女の指先が、そっと左の薬指に触れるのを僕は見逃さない。

 ──別にそれが判断材料になったわけじゃないぞ。

「なあに、急にイメージが変わったものだからカマをかけただけさ。『結婚すると女は変わる』ってよく言うだろ?」

「──それだけではないでしょう?」

「まあね。昨日電話越しに子どもの声が聞こえたから。あれは──多分三人はいたな」

「正確には六人よ。今は諸事情あって五人だけれど」

 さすがに耳を疑った。

 思わず彼女の下腹部を一瞥いちべつする。とてもそんな風には見えないぞ──というか待て待て諸事情あって五人って何だ?

「随分と──子沢山だな」

「全員お腹を痛めて産んだ子ではないわ」

 ──もう大したことでは驚かないぞ。

「あー、里親ってやつか?」

「さあ、そんなとこかしら。──ねえ、それよりそろそろ依頼を聴いてもらえない?」

 さあ、ってなんだよ。そこはあやふやじゃ駄目なトコだろ。まあ、色々気になるところは満載だが、彼女の言うことも一理ある。というか、紛れもない正論だ。

 彼女がここに朝早くから足を運んだのは、あくまで依頼主としてであって友人としてではない。

 彼女が、居住まいを正した。元から乱れてなんていなかったが、要はこれから本題ですよという意思表示だろう。

 対して僕は正さない。眉間を掻きながら、そういえばこいつキリカからプレゼントされた白い日傘はどうしたんだ、とかどうでもいいことを考えている。


蹈鞴事変たたらじへんって知ってるわよね」


 彼女の探るような上目遣い。

 タタラ──ああ、あれか。

 ピンとくるのに時間がかかったのは、話がそれなりにほのぼのとした雰囲気から急に物騒なそれへと飛躍したせいだ。

「勿論知ってるさ。三月に入ってから一夜街この辺りで起こっている殺人事変だろう。年頃の女の子の左足ばかりが切られている──人外ながら何ともフェティシズムを感じさせるね」

 そう。殺人"事変"であって、事件ではない。

 前者はギノーが起こした事件を、後者は人間が起こした事件を指す。

 事変という言葉は、未来界みらいかいでは軍隊が衝突するような大事以外に天災を意味することがあるらしい。天からの厄災すなわちギノーだなんて偶然にしたって巧い皮肉だ。

 確かに──あれは一般人なら避けようと思って避けられるもんじゃあない。

「そう。知っているのね。なら話は早いわ」

 彼女が少しばかり早口になった。まるで畳み込もうとしているかのようだが、おいおい、まさか。


「それを貴方──探偵ジョシュア・ファイブセンスに解決して欲しいのよ」


 ああ、この手の勘違いは初めてじゃない。

 落ち着けー。むしろよくある方だ。

 実際僕はこういった勘違いをされても仕方がないような経歴を持っている。

 誇張でもなんでもなく、僕の交友関係を知ればどんな傍若無人な輩でも顔を青くして途端にうやうやしく揉み手をし始める姿が目に浮かぶ。

 しかし類は友を呼ぶという諺を、鵜呑みにするのはお勧めしない。

 僕は彼らと友人関係にはあるが同類ではない。

 彼らのように魔道だの導力メディテーションだのを用いて──まあ、己の拳足けんそくのみに頼る例外はいるが──いとも容易くギノーを退治するなんて不可能だ。

 時に僕は虎の威を借る狐だが、基本は狼の群れに紛れ込んだ小羊みたいなものなのだ。

「待ってくれ。ええっとだな。探偵というのが一体どんな仕事をするのか、わかるかい?」

「ええ。浮気調査に失踪人捜しにペット捜し、信用調査にストーカー対策、縁結びから別れさせ屋まで網羅するやからな仕事でしょう?」

 あってる。何か気に食わないがあってる手前文句も言えない。

「ははは。我が友人は博識で助かるよ。さあ、僕が言外に込めた意図も恐らく理解してもらえたところで話を戻そうか。──で、依頼の件なんだが」

「ええ。探偵ジョシュア・ファイブセンスに蹈鞴事変を解決して欲しいの」


 ──この女、宇宙人なのか?


「別に貴方自身を頼りにしているわけじゃないわ。貴方にはそれはそれは質のいい御友人がいるじゃない」

 僕自身は、か。まあ──普通そうだろうな。つまりは僕に仲介役になれ、と。しかし御友人──ねぇ。

 楼主の一巫女ひみこさん。

 その側近のいおり君。

 抹消者イレイザーのアカシャ。

 他にも力を貸してくれそうな御友人がいるにはいる。でも、そのとき真っ先に思い浮かんだのは、その三人だった。

「君の言う通りその御友人たちの力を借りることも出来なくはない。ただ、放っておいたって管理機構の実働隊やそこらの抹消者が勝手に解決するだろ」

「無理ね」

「──どうして?」

「悪の芽は若いうちに摘む──というのが管理機構のやり方でしょう。だから無理だと言ったの。あの芽はある程度まで育てなければ根絶することができない仕組みでね。しかも育ったそれを摘み取るとなれば彼らだけでは荷が重い。三流、二流の抹消者でもそれは同じことよ」

 彼女は不敵に笑った。

「その点貴方の御友人は──悪の芽は可能性のあるものなら充分満足のいくまで育て上げてから根絶することを好む奇人揃いと聞くわ。適役じゃない」

 ──驚いた。彼女は一巫女さんたちのことを存外よくわかっている。

 一巫女さんなら、まあ、退屈凌ぎに面白がってやるかもしれない。

 庵君は絶対しないな。ただ、一巫女さんが「やれ」といえば迷わずやる。

 アカシャはする。うん、絶対する。賭けてもいい。命を。

 僕はこめかみを押さえ──溜息を混じりに言った。

「実は当事務所は現在別の依頼を抱えておりまして──」

「嘘ね」

「ああ、嘘だよ。──わかった。その依頼受けよう」

 彼女が疑念の眼差しを向けて来た。おいおい、望み通りの返事をしてやったというのに何だその反応は。

「そう下手に勘繰ってくれるなよ。これといって断る理由がないから受けたまでだ。友人のよしみというのも──あるにはあるが」

 それに一巫女さんたちに頼みごとをする以外で、僕が手を煩わせるようなことはなさそうだし。その程度の働きで、報酬が貰えるのなら決して悪い話でもない。

「そう。──ありがとうジョシュア」

「どう致しまして。ただ彼らの友人である僕から一つ忠告がある。君は言ったね。僕の御友人の質がいい、と。だがあいにくと彼らはそんなもんじゃない。強いて言うなら質が良過ぎるんだ。悪の芽は摘み取らない主義なんじゃなくて、大輪の花を咲かせてからでないと眼中に入らないんだ。象は足許を這うアリンコの存在に気付かないんだよ。彼らが悪の芽を摘み取ったあとの土壌は例外なく滅茶苦茶になる。二度とそこで新しい芽が育たないくらいにね。それでも──君は構わないんだな」

 それは意地悪で言っているわけでもないし、最後の悪あがきでもない。

 僕は心の底から、彼女に答えを問うていた。


 ──彼らが好き勝手やるってことはそういうことだ。


 彼女は一度目を瞑った。そして開けた。

 その瞳に何か覚悟を決めたかのような光が灯っているかと言われればそうでもない。むしろ──何だ? 何かを哀れんでいるかのような──。


「別に構わないわ。──お腹を痛めて産んだ子ではないもの」


 ──話が、どうにも繋がらない。

 こうしてどうもしっくり来ない気分のまま『ファイブセンス探偵事務所』は彼女の依頼を受けた。

 去り際の彼女の背中に、せっかくだから『グラウクス』に寄るといい。今ならタダ同然で苺のロールケーキが押し付けられるから、とからかい混じりに勧めると、

「料理に関しては移り気なキリカだから、ある意味〈春季限定〉ね」

 彼女は振り向き様──華やかに笑った。

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