07『衝立狸』

 午前三時前。

 目覚まし時計に頼ることなく起きられたのは、眠りが浅かったからだと思う。

 でも、眠気は全くといっていいほどなかった。適度どころかかなり緊張している証拠だ。

 気持ちだけ颯爽と布団から出た。動作まで颯爽ではヒナちゃんを起こしてしまうかもしれない。

 暗がりの中、しずしずと制服に着替える。本当はもっと動きやすい格好の方がいいんだけど、さすがに上下ジャージだとうっかり見つかったとき「ジョギングに鞍替えしたの?」とか訊かれかねない。

 つくしちゃんの一件以来、早朝一人で散歩に行くことは禁止されている。だから、見つかれば当然叱られるんだろうけど──。

「そのときは、そのときだよね」

 それに、これは散歩ではなく決闘なので。

 心の中で、そんなどうしようもない屁理屈を呟いてみたり。

 ベッドの傍に置いておいた日傘と靴を手に取った。両方とも昨夜のうちに、玄関からこっちに運んでおいたものだ。これでもう一階に下りる必要はない。

「じゃあ、行ってくるね」

 ベッドの中でいまだ寝息を立てているヒナちゃんに、そっと告げる。

 ヒナちゃんは幽かに唸って、寝返りを打つことでそれに応えた。

 うっすらと掻いた寝汗で、額にはり付いた前髪を丁寧に梳く。

 可愛い。

 と、ほっぺたに白い汚れを見付ける。

 何だろう? 起こさないようそっと、親指でそれを拭っていると気付いた。

 ああ、涙の跡か。

「────」

 そっとカーテンを開き、窓を開けた。

 ひんやりとした空気が入り込んでくる。

 外はまだ暗く、日の出の兆しもない。

 瞼の上から眼球を撫でた。

 眼球を百八十度回転、裏にあるもうひとつの瞳で、もうひとつの世界を視る──そんなイメージ。

 視界の隅から赤い靄のようなものが漂い始める。

 それが世界の移り変わる兆し。  

 私は靴を履くと、迷わず飛び降りる。

 ぼふんっという音と共に着地。

 脛の辺りまで苔に埋もれてしまった足を引き抜くと、顔を上げた。


 ──世界の移り変わりはとっくに完了していた。


 振り向くとカエル人間が二匹、いそいそと外から二階の窓を閉めていた。

 ご丁寧にカーテンを引くのも忘れていない。

 二匹に「ありがとう」と言ってから、日傘を差して歩き出す。

 大勢のカエル人間を引き連れたボスの姿を見つけた。足を止めた。

「付いてきて、くれるの」

『無論』

 ボスは中腰になって膝に手を付くと頭を垂れた。仁侠映画みたいだった。

 私はボスの体をひょい、と眼の高さまで持ち上げる。湿っていて生暖かいけど臭いはない。

「私、何か昼間と違うかな?」

『ええ、直向きな眼差しなど特に』

 う、胡散臭い。結局どうしたって付いてきたんじゃない。

 そういう期待は、まあ、してたけど。

 弔いだ。弔い合戦だ、と〈彼ら〉が言う。

 私は何も言わない。要らないことを口にして士気を下げたくないからだ。

 本音を言うと、弔い合戦のつもりは全くなかった。

 だってもしこれがそうなんだとしたら、私は亡くなったつくしちゃんのためにあいつを殺すことになる。

 それだけは──何か嫌だった。

 あんなにも血生臭いことを、つくしちゃんのせいになんかしたくはなかった。

 結局、弔い合戦なんていうのは死者を盾にして罪の意識から逃げる言い訳に過ぎないんだ。

 ざっと百以上はいるカエル人間の合唱めいた鳴き声が、潮騒のように押し寄せてくる。

 応援を通り越して、まるで勝利のファンファーレだ。

 私はくすりと笑った。

 これはもっと私的な争い。──憂さ晴らしって言うんだ。


 私は、杉林前に立った。そこが、約束の場所だった。日傘を畳むと、目を閉じた。

 ──イメージするのは刀一振。別に細部まで思い起こす必要はない。というより細部なんて知らない。

 ただ羽のように軽くて、まるで身体の一部かと思うくらい手に馴染むような、欠伸あくびの出るような速さの一閃でも空気を抉り食らうような、どれほど乱暴にしても決して折れたり曲がったり刃こぼれしたりしないような。そんな出鱈目な刀が生み出せればそれでいい。

 空から舞い落ちる苔が羽虫となって、地面に生い茂るヒヒイロゴケがミミズとなって日傘を覆い尽くしていく──そんな光景を、頭の中に思い描く。

 純白の傘生地も、広がる親骨も、それを隠す上品なレースも何もかもがそいつらに無茶苦茶に食い尽くされ、そして刀へと生まれ直す過程を想像する。

 しっかりと握りしめていた持ち手の感触が、変わった。

 ゆっくりと目を開ける。


 青白い刀身をした無骨な造りの刀が、手のうちにあった。


 それを、片手で真横に振ってみる。風鳴りというには無理がある、がぼんっという大きな音が響き渡る。うん、イイ感じの出来だ。

 と、眼の前にある茂みが揺れ出した。

〈狸〉だ。杉林の奥からのっそのっそとそいつが這い出してくる。

 完全に姿を晒すと、ゆっくりと立ち上がった。

 絵に描いたような太鼓腹だった。いや、もう「巨大な太鼓」と表現しても差し支えないような気さえする。巨大な太鼓におまけとばかりに頭と前足が添えてある──そんな感じだった。

 首──に見える箇所には、草書体のような文字で構成された青白い光のリング。それを付けたタイプは偶に見かける。首輪にも見えるけど、それにどんな意味があるのかはわからない。

 そして、私たちは対峙した。

 言葉はなかった。多分、カエル人間たちと同じで言葉は通じると思う。

 でも、無意味だった。つくしちゃんを殺した敵と、交わす言葉なんてあるはずがない。

 私は刀を両手で握った。まだ構えない。

〈狸〉は動かない。

 左目には赤錆塗れの釘が二本突き刺さっているので、残る右目だけでこちらを睨みつけてくる。

 昨日見たときにも思ったけど、一体誰にやられたのだろう。

 傷口からは、血にしては粘り気の薄いピンク色の水がとろとろと零れている。

 しゃらしゃらしゃらしゃらしゃら。

 それが、〈狸〉の金色の体毛が擦れ合ってる音なんだと判ったとき、私はわざと視線を〈狸〉から外した。

 直後〈狸〉がぐるるっと唸った。

 四つん這いになり、その巨体に似合わない速度で突進。その上体が大きく反って、前脚が振り上がる。

 誘いにのった! 私は刀の先で地面を突く。それが合図だった。

 ぴょん、と。

 私と狸の間、苔から現れた一匹のカエル人間が〈狸〉の目の高さまで跳び上がる。

 私は身を縮込ませながら、〈狸〉を見た。

〈狸〉の右目は点になっている。牙が生え揃った口は半開きになっている。振り上げた前足もそのままに、止まっている──ように見える。

 予習した通り。狸には驚いたとき動けなくなるという習性がある。

 私は急いで空にいるヘビドリに目配せした。

『くぅぅぅあぁぁぁみぃぃくぅぅあぁぜぇぇけぇぇんざあああぁぁんっっっっ!』

 ヘビドリが多分不要な奇声とともに急降下。

 赤く鋭い嘴が驚くほど精密に、〈狸〉の左目があった傷口を捉える。嘴で突くというよりは擦れ違いざま抉るような、左上方──死角からの一撃。

〈狸〉が吠え、その巨体が大きく傾いだ。

 その隙を、見逃すわけにはいかない。

 刀を上段に構えた。

 距離は向こうから詰めて来た。だから大きく一歩踏み込めば、そこはもう〈狸〉の懐。

 剣道もチャンバラもやったことないけれど、真剣を〈彼ら〉相手に振り下ろすことだけはもう何度もやってきた。だから迷いはない。刀を一気に振り下ろした。


 刀身の重さとか、刀を振る速度とか、ぶれている太刀筋とか。

 そんなものは一切関係ない。

 これは、欠伸の出るような速度であろうと振れば抉って食らう刀。

 ──そういう風に、出来てるんだから。


 くぐもった轟音。

 手ごたえのあるなしもわからないうちに、視界は紅に呑まれた。腕を交差させ、顔を庇う。

 降りかかるそれは〈狸〉の太鼓腹から噴き出したもの。でも、血肉でも臓物でもない。

 赤い苔。この世界を埋め尽くし形作っている金属の苔。

 薄眼を開ける。光があちこちで弾ける赤い海中に、見た。

 ──ぼんやりと金色に光る、たくさんの眼を。

 反射的に動いた。力一杯後方に跳び退いた。

 鼻先を尖った何かが掠めていく。

 再び足が着いた途端、苔がわらわらと蠢いて私をさらに後ろへと運んで行く。かなり速度の速い、平坦なエスカレーターに乗っているような気分。ちょっと離れ過ぎじゃない──と呟いた辺りで、それは唐突に止まった。

「あっ! ちょっと、きゃっ!」

 刀を支えにしようとしたけど、あえなく失敗。私はその場に尻餅をついてしまった。

「いったぁ」

 お尻を擦りながら立ち上がる。足許のヒヒイロゴケを見ると、風もないのにしゃらしゃらとそよいでいた。何だか嘲笑わらわれているみたいで、むっとした。

 結局、田んぼ一つ分離れてしまった。

〈狸〉の死体から出てきた無数の〈眼〉。苔に全身を包まれたそいつらは、ぶるぶると水に濡れた犬みたいに身体を震わせて苔を払い落す。そして現れたのは──。

「狸──」

 それも七匹。

 新たな(狸)たちは、私がよく知る狸と比較的スタイルが近かった。

 ずんぐりとした体つきに、短い足と太い尻尾。

 普通の狸と違うところと言えばまずは大きさ。余裕で大型犬くらいはある。

 あと体毛は一本々々が針みたいに鋭くてさっきの太鼓腹より艶のある金色をしている。

 でも、何より目を引く違いは七匹の〈狸〉が皆エキゾチックなお面を付けていることだ。

 お面の種類は、丁度〈狸〉の頭数だけあった。

 怒っている赤の顔。

 泣いている青の顔。

 笑っている橙の顔。

 安らいでいる緑の顔。

 驚いている白の顔。

 感情のない黒の顔。

 そして、転写法デカルコマニーによって作りだしたような七色の模様が、ランダムに流動する顔。


 ヒナちゃんが描いたつくしちゃんの絵を、どういうわけか思い出した。

 画用紙いっぱいに、つくしちゃんの色んな顔が描いてあった。笑っている顔も、怒っている顔も、拗ねている顔も、びっくりしている顔も、たくさんたくさん描いてあった。

 ああ、やっと分かった。鏡花さんがあれを、ささめ姉さんに対する〈仕返し〉と言った理由。


 じわりと──目頭が熱くなった。

 私は二回、刀の先で地面を突く。それも合図だった。

 ずもももっ、と目の前の苔が盛り上がっていく。

 膨れ上がった赤い丘は、いつか妖怪事典で見た海坊主を思い起こさせる。

 でもこれは海坊主ではないし、そもそも一つの生き物ですらない。

 丘の中からはこもった鳴き声がいくつも聞こえてくる。

 その大きさがさっきの〈狸〉を優に超えたところで、

「行って!」

 私は声を上げると同時に、切っ先を正面に向けた。目標は七匹の〈狸〉。

 どっ、と丘が崩れた。

 じゃらじゃらじゃらじゃらっと地の苔と摩擦し合いながら、さっきまで丘だったものは津波となって目標に迫る。

 辺りに飛び散るのは水飛沫ならぬ苔飛沫。赤く光るそれらは硬質な音も重なって火花に見える。

 その津波の中から姿を現したのはカエル人間。数は恐らく千以上。

 赤い津波は一瞬で、緑の群れへと様変わりする。

 七匹の〈狸〉が、威嚇するように吠える。

 カエル人間たちが、それに応えるように雄叫びめいた鳴き声を上げる。

〈狸〉たちの目の前、緑の群れが二手に分かれた。

〈狸〉たちがきょろきょろと辺りに視線を走らせる。でも、もう逃げ道はない。

 それぞれの群れの先頭が〈狸〉たちの後ろで合流すると、そのまま全方位から一気に覆いかぶさって呑み込んだ。

「──うわぁ」

 自分で頼んだ手前アレだけど、軽くひいた。

 夥しい数の蛙と七匹の狸が大乱闘。

 時々十匹ほどのカエル人間が、体当たりや尻尾、頭突きなどを受けてひらひらと宙を舞い、唯一まともな──というより桁外れな戦力のボスが、〈狸〉の体当たりを正面から受け止め、掴み、放り投げていた。

 うん、長くはもたないだろう。多勢に無勢とは言うけれど、あいにくカエル人間では〈狸〉に決定打を与えることはできない。時間を稼いでくれている間に手を打たないと。

 私は地面のヒヒイロゴケをぶちり、と千切り取った。何度やったって、こればっかりは慣れない。

 意を決し、それを耳へと突っ込んだ。耳の中を蜘蛛が這い進んでいくような不快感。


 それが脳にまで達したと思った直後──がくんっと地面が落下した。


 視界のあちこちで、パチパチと光が弾ける。

 私は、いつの間にか地面に膝を着いていた。

 刀を杖代わりに使ってなんとか立ち上がると、ぐわんぐわんする頭を押さえながら目を瞑った。

 足は肩幅より少し広めに、刀は利き手だけで握ってから、ゆっくりと呼吸を整える。

 イメージするなら狐がいい。狸の天敵と言えば狐だから。 

 さっき日傘でやったのと同じことを、私の身体を使ってやる。

 と、言っても全く同じというわけにはいかない。

 いくら脳をいじくって暗示をかけたって、私の身体が狐に化けたりはしないし、漫画みたいに狐の耳や尻尾が生えたりもしない。

 でも、大切なのは姿形が似ることじゃない。


 自分がただの狐じゃなくて、〈狸〉を狩ることに特化した〈狐〉なんだと信じ込むことだ──。


 私はかっと目を見開いた。

 さっきより視界がはっきりした。

 心臓が早鐘のように打つ。

 全身を巡る血の流れがよく聞こえる。

 変わっている。変わっている。

 さっきまでとは明らかに違っている。

 こっちに向かって〈狸〉が走って来る。

 緑の包囲網は、破られた!

「ありがとう。離れて」

 そう小声で告げる。

 到底声が届くような距離とは思えないのに、未だ〈狸〉の身体にしがみ付き奮闘していたカエル人間が次々と離れていく。

 上半身をかなり沈めたスタンディングスタートの姿勢。

 刀は片手で握ったまま構えない。いや、刀じゃなくてこれは〈狐〉の爪と牙だ。

 ──そう、今の私には〈狐〉が憑いてる。

 私は〈狸〉めがけて走った。

 百メートルを全力疾走。今の私なら息切れ一つしない!

 正面には黒のお面を被った〈狸〉。そいつがぐっと前脚に力を込めたところで刀を肩に担ぐ。

 黒いのが、跳んだ。オーバースローみたいな動作で刀を振り下ろしつつ、両膝を曲げ深く身を沈める。

 しゃがんだ私の頭上を〈狸〉が通り過ぎて行った。

 直後に背後でがぼんっという破裂音。

 見なくてもわかる。あの音なら一撃だ。

 だから振り向かない。今はただ前へ!

 地面に生える苔が足に絡みつく。

 私の動きを阻むためじゃない。私を前へと運ぶためだ。

 苔を利用し滑走! 青お面の〈狸〉をすれ違い様、斬り付ける。

 その一閃から放たれた空気の塊が、青お面に隠れるようにして接近してきた赤お面を叩いた。

 両者が粉々になったタイミングは、ほぼ同じ。

 これで三匹。もう止まるつもりはない。

 私に気付いたカエル人間たちが、一斉に茂み、杉林、水田、苔の中などに退却していく。

 緑の包囲網が完全に開けた!

 そして、四つの影が跳び出してくる。それは確かに四匹の〈狸〉。でも、そうじゃなかった。

 ──また、あれか。

 向かってくるのは、四人のつくしちゃん。

 驚いている顔。

 安らいでいる顔。

 笑っている顔。

 そして、他のいかにも貼り付けたような表情とは違い、底知れない笑みを浮かべている顔。

 群れの一番奥に控えるそいつが、きっとボス。

 子供のような大人のような、天使のような悪魔のような、そんな不可思議な微笑みでそいつは言う。

『斬れないだろう? 昨夜と同じだ』

「斬れない?」

 私は──小さく笑った。

 驚いた表情のつくしちゃんが私に殴りかかってくる。

 つくしちゃんは左脚が悪かった。まさかこんな形で、元気に走るつくしちゃんを見ることになるなんて思わなかった。

 でも、そんな風に思ったのは昨夜までの話だ。今は違う。だから私は、もう逃げない。

「まず髪の色」


 ──それは迷いを断ち切るためのおまじない。


 かちりと、頭の中で何かが繋がったような感覚。

 次の瞬間にはもう、自分でもびっくりするくらいあっさりと、誰かさんの首を刎ねていた。

〈狸〉たちの間に、明らかに動揺が走った。何故斬れたのだ、と。

 度を過ぎた驚きだったのか、〈狸〉たちの足が止まる。

 近くにいる奴から斬って下さい、といっているようなものだ。

「前歯が二つ揃ってる」

 走りながら、誰かさんの安らいでいる顔を割りつける。

「笑い方が違う」

 駆けながら、誰かさんの笑っている顔を貫く。

 残るは、一匹っ!

『何故だ。何故だ。何故だ。何故だ。何故だ。何故だ。何故斬れる。何故斬った!』

〈狸〉がうろたえる。さっきまでの、あの何もかも知ったような微笑はどこへいったのだろう。


「義妹が教えてくれたの。私たちの知ってるつくしちゃんと、貴方の化けるつくしちゃんは全然違うってこと。だからもう──そんな〈幻戯〉は通じない」


 ヒナちゃんが描いたつくしちゃんの絵。

 あれは、ささめ姉さんにつくしちゃんとの思い出が少ない、あの娘のこと何にも知らないって馬鹿にされたのが納得いかなくて、ヒナちゃんが描いたもの。

 ヒナちゃんはあの絵によって証明しようとしたのだ。

 私はつくしちゃんの表情、こんなにたくさん憶えてるんだよって。

 そして、それを鏡花さんはユーモアを込めて〈仕返し〉と表現したのだ。


 ──貴方自慢の変化へんげは、四歳児ヒナちゃんが心を込めて描いた絵に負けたんだ。


 かつて〈狸〉で今は誰かさんですらない何かが吠える。

 目、鼻、口がそれぞれゴキブリみたいに顔中を這い擦り回り、細い首が折れてしまうんじゃないかってくらいガクガク震える。

 いよいよ何だかよくわからないものになっていく。もう見ているのも哀れだった。

〈狸〉はいきなりバック宙をすると、四つん這いでなんと杉の表面に

 思い切りそこを蹴り付け、顔の真ん中に開いた穴から奇怪な喚きを撒きながら突っ込んできた。

 突きだされるのはぎらぎらと光る金色の爪。

 私は構えなかった。ただ少しだけ突進の軌道から身体をずらすと、刀で蠅を払うような気分でその前脚を刎ねた。

〈狸〉が私の斜め後ろに、残る三本の足で着地する。

 背中合わせの状態。

 振り返らず、すぐさま刀を逆手に持ち替えると、しゃがんだ〈狸〉のうなじがあるだろう場所へと突きを放った。


 ──〈狸〉には、多分自分の喉から切っ先が飛び出す瞬間が見えていたと思う。


『負けたのか?』

 応えない。僅かに振り向くと、刀を一気に引き抜いた。どばばっ! と壊れたシャワーみたく噴き上がるのは、やっぱり血煙じゃない。金属の削り粕みたいな、あの赤い苔だ。

〈狸〉の後頭部が古くなった土壁みたいに剥がれ落ちて、その身体がたくさんの苔を撒き散らしながら崩れ落ちていく。そうして、地面に元から生えていた苔と区別が付かなくなった。うん、それでいい。そこが貴方の帰るべき場所だ。だから、もう。

 ──二度と戻って来ないで。

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