06『貴女がしたいことを』

 お風呂に一人で入るのは久しぶりだった。

 ささめ姉さんの一件で何もしていないくせに、私はひどく神経を磨り減らしていた。それが顔に出ていたのかヒナちゃんには「ヒナ、今日はお母さんと入るね」と気を遣われてしまった。湯船で手足が伸ばせるし、偶には一人も悪くないなんてついさっきまで思っていたけど、一通り身体を洗い終わったあたりでなんだか妙に寂しくなった。

 天井をぼんやりと見詰めながら、私は思い出す。


 つくしちゃんは大野木家の五女で七歳。


 赤みがかった少し癖のある長髪に、笑ったときに覗く欠けた前歯。それと左脚が悪かったらしく、爪先をずるずる引きずって歩く姿が印象に残っている。

 私は正直つくしちゃんのことが苦手だった。行動が読めないというか、やんちゃというか──はっきり言って「手のかかる義妹」だった。

 今思えばあの年代の娘は、皆あれくらいが普通なのだろう。

 でも、私はヒナちゃんに慣れ過ぎていた。ヒナちゃんが不自然なくらい「手のかからない義妹」だということに気付いたのは、つい最近のことだ。

 人見知りするような娘ではなかったから、基本誰にでも声を掛けたり、タックル並みの威力で抱きついたりもしていたけれど、中でもささめ姉さんにはよく懐いていたと思う。 

 二人を見ながら仲いいよねと感想を言うと、「アンタと晶も似たようなもんじゃない」と、ささめ姉さんに苦笑された。

 そうかなと首を傾げながらつくしちゃんを見ると、「やっぱ金髪パツキンかっくいーな」と全く脈絡のないことを言われた。半開きになっている口が、なんだか間が抜けていて可愛いと思った。


 三月に入って間もないある日、つくしちゃんが姿を消した。


 私がそのことを知ったのは、早朝の散歩から家に帰ってきたとき。

 いつもより一時間も早く起きてしまい、本当は二度寝したかったのに何故だかそういうときに限って寝付けず、仕方ないから日課の散歩をこなすことにしたのだ。

 家に帰ると玄関で出迎えてくれたまこ姉さんが、「あら?つくしちゃんと一緒じゃなかったの?」と尋ねて来た。

 私はこんな季節に雪だなんてどうかしてるけど、その中を散歩する自分もどうかしてるな、とかそんなことを考えながら頷いた。

 頷いて──事の重大さに気付いた。

 その日の晩──。


 つくしちゃんが遺体で見つかった、と玲一兄さんから伝えられた。


 つくしちゃんが発見されたのは、小学校近くにある杉林の中だった。

 杉林は舗装された道こそないけれど、さほど鬱蒼とした場所でもない。

 元はそこに分校があったらしく、さすがに校舎こそ残ってないものの錆びてボロボロになった遊具が今でも残っていて、何人かの小学生がそこを〈秘密基地〉にしていることを私は知っている。

 それなのに発見が遅れたのは、雪のせいだった。

 季節はすでに春だというのに、その日珍しく降った雪がつくしちゃんを覆い隠していたのだ。

 第一発見者となったのは、放課後〈秘密基地〉で遊んでいた男子小学生だった。

 つくしちゃんの遺体はお腹を裂かれ、その〈中身〉が飛び散っていたという。

 解剖と実況見分──鏡花さん曰く、ビルや人家での捜査が「現場検証」で河原や山林、公道など公共の場所での捜査が「実況見分」──の結果、つくしちゃんの命を奪ったのは〈獣〉だとわかった。

 何の〈獣〉なのかはわからない。

 遺体の状態が凄惨だったことから熊の仕業だという見方が強かったそうだけど、遺体に残った噛み痕と熊の歯形がどうしても合致しない。

 強いて言うならそれは、狸の歯形に似ていたという。

「狸か──」

 私は口許まで湯に浸かると、泡をぶくぶくいわせた。

 ボスは〈狸〉のあれを「ゲンキ」と言った。幻という字に戯れと書く。確かにその通りだと思う。

 うん、理屈じゃわかってるんだ。つくしちゃんが私たちの知る狸とは違う、別の〈狸〉に殺されたことも。警察や地元の猟友会がどんなに頑張ったって成果を出せないことも。

 そして、あれはつくしちゃんなんかじゃないってことも。


 その日の晩は雨だった。

 都会に住む人たちは、「田舎は近所付き合いがいい」というイメージを抱きがちらしいけど、実際はそうでもない。何せ俗に言う「お隣さん」が遠過ぎるのだ。

 さらにこの村でも家はかなり辺鄙なところ──木立の中に佇む様はさながら別荘のようだ──に建っているから、夜になると葉擦れの音と季節の虫の鳴き声くらいしか聞こえない。

 今夜はその中に雨音が混じっている。他の音を掻き消してしまえるほどその雨脚は強くない。

 お風呂上り、一階に比べひんやりとした二階の廊下を、ぱたぱたとスリッパの音を響かせながら歩く。

 大野木家は一応三階建ての家。一応と言ったのは三階が一部屋分のスペースしか持っていないから。

 だから外からだと、ぱっと見ただけでは二階建てにしか見えない。

 二階にある部屋の内、三つが私たち六人にそれぞれ割り当てられている。

 六人が二人一組に分かれて使っていて、私はヒナちゃんと、晶は鏡花さんと、ささめ姉さんはつくしちゃんと組んでいる。

 私とささめ姉さんは年少組二人のお世話を任された感じだけど、晶と鏡花さんは──いわゆる余りもの同士だ。何だかんだで上手くやっているみたいだけれど。

 自室の前まで来ると、ドアと床の隙間から明かりが漏れていた。誰がいるのかは考えるまでもない。

 私はドアを開けた。

 そこにはベッドの上ですーすーと安らかな寝息を立てているヒナちゃんと、何故か腕立て伏せに励んでいる晶。そして、

「あれ? 鏡花さんがいる」

 この時間、この部屋にいるメンバーとしては珍しかった。直後に何やら自分が失礼なことを口走ったことに気付いた。

「あっ、今のは別に、鏡花さんがいたら悪いだとかそういうことじゃなくて──」

「悪意があって言ったのではないってことくらいわかるから安心しなさい」

 鏡花さんが溜息混じりに言った。気にしてないというより、どうでもよさそうだった。

「ヒナが私──と晶の部屋に遊びに来たまま眠ってしまってね。今こっちに運んできたところ」

「ヒナちゃんが?」

 ヒナちゃんが一人で鏡花さんのところに行くなんて意外だ──と思ったけれど案外そうでもないのかもしれない。

 実際今日は二人で草花遊びをしていたみたいだし。実は結構前から仲良しだったのかな。

「ええ、絵を描きに来ていたのよ」

「ああ、鏡花さん絵上手だしね」

「そこをヒナが考慮したのかはわからないけれど、まあ、とにかく来てたのよ」

 鏡花さんが、半ば押し付けるようにスケッチブックを差し出してきた。照れているのだろうか。

 私はそれを受け取って、見た。

 色鉛筆で描かれているのが人の顔だということは、すぐにわかった。多分描かれているのは皆女の子だろう。

 ただ、不思議なことに女の子たちは表情こそ違っても、特徴は皆同じだった。髪の毛は皆長いし、皆赤色だ。

 そのうちのひとりが歯をにぃー、とむき出して笑っていた。見覚えのある笑い方だった。

 几帳面にもわざわざ白鉛筆で塗ったらしいその前歯は──片方がちょっとだけ欠けていた。

「これって──つくしちゃん?」

「そうよ」

「でも、何でまた──」

「ヒナなりに、ささめの発言を気にしていたみたいね。心当たりはある?」

 私は言葉に詰まった。ささめ姉さんの発言といえば、当然あのリビングでの出来事だろう。

 起こったこと自体の衝撃が強過ぎて、ささめ姉さんの話していた大凡の内容ならまだしも、一字一句となるとどんなに頑張っても思い出せやしないだろう。


 ──ささめ姉さんがあんなにも感情を露わにして言っていたことを、もう私は忘れているんだ。


「ごめんなさい。私の意地悪で傷付けてしまったみたいね。でも、無理もないわ。あの状況でささめの発言を聞き取り記憶しているヒナの方が出来過ぎてるのよ。私だってヒナに言われるまでは何の事だかわからなかったわ。ヒナはね──ささめに『自分が一番つくしとの思い出が多い』とか『つくしが何をやったら笑うとか、怒るとか、拗ねるとかアンタたちは知らない』って言われたのが、どうにも腑に落ちなかったみたいでね。だからこういう形でささめに仕返しをすることにしたのよ」

 仕返し? つくしちゃんの絵を描くことが、何でささめ姉さんへの仕返しになるんだろう?

 理由を訊こうとして、やっぱり止めた。

 直感だけど、こればっかりは自分で答えを見つけなければならないような気がする。

「訊いて来ないのね」

 鏡花さんは人差指に髪の毛を巻き付けている。どこか残念そうなのは、私の気のせいかな。

「でも、なんか凄いね」

「どういう意味?」

「ヒナちゃんのこと。一番小さいのにささめ姉さんのためにできることを頑張ってる」

 それに引き替え私は──

「それに引き替え私は、とでも続ける気?」 

 私は言葉に詰まった。図星だったからだ。

 この娘は本当に、超能力的な意味での読心術か何か使えるんじゃないだろうか。

「ヒナが偉いのは、まあ、確かだけれど。それでココが落ち込んでどうなるのよ。落ち込む暇があるのなら、ヒナを見習ってささめのためにできること──いいえ、したいことを考えたら? 誰かのためにできることをなんて身構えたら、人はどうしたって身の丈に合わないことをしてしまいがち。誰かのために自分がしたいことを、と考えられるようになれば自ずと分相応になるものよ。だからココは無理せずしたいことをすればいいの。ヒナだってできるからこの絵を描いたんじゃなくて、したくてこれを描いたのだから」

 ささめ姉さんのために、できることではなくてしたいことを──。

 鏡花さんが額に手を当て溜息を吐いた。呆れているのではなくて後悔しているのだ。鏡花さんは不本意ながらつい「良いこと」を言ってしまったあと、大抵こういうアクションをする。要は照れ屋なのだ、この義妹は。

「さて、そろそろ私は部屋に戻るわ」

「え? もう帰っちゃうの」

 一刻も早くここから立ち去りたかったのだろう──鏡花さんが実に嫌そうな顔をした。別に悪意はないのに。

「ヒナを送り届けるという目的は果たしたからね。お休みなさいココ。あと晶もね」

 鏡花さんがドアを開けたところで、私は呼び止めた。

「あっ、待って鏡花さん!」

「何?」

 鏡花さんは動作こそ止めるけれど、振り返ってはくれない。

「ヒナちゃんのこと。送ってくれてありがとう」

「──どういたしまして」

 鏡花さんはそう言って、ドアを閉めた。

 最後までこちらを振り向くことはなかったけれど、不思議と私の気持ちは穏やかだった。

 鏡花さんの足音が遠ざかっていく。

 振り向くと、晶はいつの間にか腕立て伏せを止めて私のベッドに寝そべっていた。

 そのことを図々しいとは思わない。

 だって、いつものことだから。

 その目は天井を睨むように見ている。

 私はスケッチブックを自分の机に置くと、晶の横になっているベッドに腰掛けた。

 それもいつものことだった。

「シロツメクサ」

「え」

「持って来たのな」

 私の机の上にはヒナちゃんが作ったシロツメクサの冠がある。

「すぐ枯れちゃうよね」

「枯れたら枯れたで乙なもんだろ。それでヒナが凹むようなら、花は枯れても想い出は枯れないよ──とか、手垢まみれの台詞で笑いでも頂戴しとけ」

 私は笑った。笑えていた、ように思う。

 晶はどうだろう。わからない。

 それはそうだ。私たちは互いに顔を見てないのだから。

 それきり、晶は黙ってしまった。私も特に話すことがないので、黙ってヒナちゃんの寝顔を見た。

 ──いや、話すことがないなんて言うのは嘘だ。本当は話さなければならないことが、たくさんある。

 でも、頭の中にあることを言葉にするのが難しくて、さらに声にするのはもっと辛くて嫌になってしまう。

 と、ぼふんっという音とともに、後頭部に衝撃があった。

 跳ね上がるように振り返る。身体を起こした晶が枕を抱いてこっちを恨みがましい目つきで見ている。

 後ろから枕で殴られたのだとわかった。

「何か話せよ」

 ──こっちの台詞だ。私は後頭部を擦りながら、ヒナちゃんに視線を戻した。

「何で腕立てなんてしてたの」

「筋トレの理由なんて一つだろう。身体を鍛えるためだ」

「いつもはしてない」

「今日から始めた」

「ふぅん。私はてっきり準備運動かと思った」

「は? 何の」

「──ささめ姉さんに謝りに行くための」

 姿を見なくても、晶が動揺したのが気配でわかった。

「前例があるもの。晶が洗濯当番だったときさ。白い物も柄物も全部まとめて洗っちゃって、まこ姉さんのスカート駄目にしちゃったときあったでしょ。晶ってばすぐに謝ればよかったのに、『まあ、待て。私はこれから戦地に赴くも同義なワケだから色々と心身の準備がいるよな』とか言って私の部屋に籠って何故か腹筋し始めたんだよね。──結局二十分近く筋トレやらストレッチやらやってたのかな」

「──」

「で、最後にはやってきたささめ姉さんに、『早く行けよ』ってお尻蹴られてたね」

 その光景を思い出して、私は思わずふき出してしまう。

 ぼふんっと今度は背中に衝撃。

 でも、それが返って私の更なる笑いを誘ってしまう。駄目。眠っているヒナちゃんがいる手前、大きな声は出せない。

 ひとしきり笑ってから振り返ると、晶がこっちに背を向けて寝転んでいた。

 傍に手をついて這い寄り、顔を覗き込むと、枕に口許を押し付けるようにして隠している。

 見えている眼だけが、何とも刺々しい。──完全に拗ねていた。

「ごめんね」

「別に怒ってねーよ。そんなにちっぽけな人間じゃない。ただな」

「ただ?」

「ユキンコにならともかく、鏡花にまで見透かされてたのは正直腹立つ。アイツ、この部屋に入ったら開口一番『随分と準備に時間が掛かるのね』ときた。挙句『ああ、そうそう、ささめならもう大丈夫よ。意識を取り戻して、今は部屋で安静にしてるわ。まあ、知ってるでしょうけど』とかしれっと抜かしやがって」

「鏡花さんらしい気の遣い方だね」

「気ぃ遣う? アレでか?」

「アレで、だよ」

 晶がふんっ、と鼻を鳴らした。それから勢いをつけて身体を起こす。

「しゃあない。義妹二人に気を遣わせたんだ。そろそろ全力で謝りに行ってやるか」

 晶はベッドから下りると、うーんと伸びをした。

「あー、言っとくけど『言われて渋々行きます』みたいな振りをしてるだけで、胸の内じゃあかなーり本気で申し訳ないと思ってるからな?」

「わかってるよ。でも、今から行くの?」

「明日からじゃ絶対決心揺らぐって。今更だけど私心根弱ぇーもん」

 それにさ、と晶は続ける。

「もうそっとしておき過ぎたからな。ほら? ささめんって雰囲気なんか狼っぽいじゃん。孤独っつーよりは孤高みたいな。だから、つい凹んでる臭いけど、多分ほっといても大丈夫──どころかほっといたほうがいいんじゃね? とかいう総意になるんだよな。で、皆で見守りましょう、と。──でも、うっかりしてた。そんな時期はとっくの昔に過ぎ去ってたんだな」

 晶の手がドアノブにかかる。

「ほいじゃ、行ってくる。泣いて帰って来たら、そんときは慰めてくれよ?」

 晶がにっと白い歯を見せて笑った。そして、そっとドアが閉められようとしたところで、

「ま、待って晶!」

 晶がつんのめった。躓くようなものはないから、多分ずっこけたんだと思う。

「お前なぁっ。空気読めよ空気。人がサイッコーに格好よく部屋を後にしようってときに」

「格好よく?」

「そこで首を傾げるな。割とマジに傷付く。で、どした? 愛の告白か」

「鏡花さんにもさ。幽霊の話って訊いた?」

 わざわざ呼び止めてまでそんなことを訊いたのは、きっとささめ姉さんと何かしら関わりが欲しかったからだと思う。

「それがユキンコちゃんの〈したいこと〉に繋がるのか?」

「晶」

「あーごめん悪かったって。そう睨むなよ。皆がささめんささめん言うからちょっと嫉妬したんだ。

 いないってさ。幽霊なんてモンは人間様の驕りから生まれたゲンソーに過ぎないってよ。で、それをささめが言ってたって教えたら『ささめの真意を探る必要がありそうね』とか言ってた」

「真意?」

「ささめだって本当に幽霊の有無を知りたいわけじゃないだろってこと。要はあいつがどうしてそんなことを私に訊いてきたのか。真に大切なのはそこんとこで、それがささめの真意ってやつなんだろうな」

 ささめ姉さんの真意──。

 私は天井を見た。そこから連想するのは昼間起こったあの〈家鳴〉。

 見間違いでなければ、確かにあの瞬間ささめ姉さんはつくしちゃんの名前を呼んでいた。

 何故だかそれが、鏡花さんの言うささめ姉さんの真意と関係があるような気がした。

「ねぇ、晶」

「うん?」

「そういえば、晶はどうして幽霊なんていないって言ったの?」

 返ってきた晶の答えは、びっくりするくらい単純で素直だった。

「だって、幽霊とかいたら怖いじゃん」


 晶が出て行ったあと、さっきまで晶が寝転んでいたベッドに大の字になる。

 布団はまだあったかくて、石鹸みたいな匂いがした。多分晶の匂いだ。

 実のところ、ささめ姉さんが晶に向って言ったことだけは、ちゃんと記憶に残っていた。

 晶が私以外の義姉妹なんて、何とも思ってないって?

「そんなこと、ないよ」

 そりゃあ確かに私だけ贔屓されてるなぁ、ってときは多々あるけど。

 でも、晶はちゃんと皆のことをよく見てる。

 よく見てわかって大切にしてる。

 皆でお喋りしているときだって、一人ぼっちが出ないように気を付けている。

 だって「皆大好き晶お姉ちゃん」だもの。

 こういうのって、ちゃんと晶に伝えてあげるべきことだよね。さっき言えばよかったかな。 

 私は徐に起き上がると、学習机に向かった。椅子に腰を下ろすと、本棚から日記帳を取り出す。

 こういうのって隠そうとするから逆に盗み見られたりするんだよね。

 日記帳は赤い革製のシンプルなもの。

 別にキャラクターものだったり、華美な装飾が付いているものが嫌いというわけじゃない。

 ただ、もし自分が日記を書くとしたら、こういう大人っぽい手帳に書くのが密かな夢だったのだ。

 それを机の上に開き、思うままシャーペンを走らせる。

 私は基本、この日記帳にその日起こったいいことしか書かない。

 しかもまとめたりはせず箇条書きにするだけ。

 これだと読み返したとき、意味がわからないものも何個かある。

 でも、別に構わない。

 今やっているこれは記録じゃないから。

 ああ、今までこんな楽しいことがあったんだなぁ──と思い出に浸るためのものではないから。


 晶はやっぱりいいお姉ちゃんだと思う。

 ヒナちゃんからシロツメクサの花冠をプレゼントしてもらった。

 鏡花さんはいつも通り色んな意味で可愛かった。

 まこ姉さんにいいお姉ちゃんだと褒められた。

 玲一兄さんが明日京都から帰ってくる。

 苺のロールケーキが美味しかった。

 そして──形はどうあれ、ささめ姉さんの気持ちを知ることができた。


 だから、大丈夫。これからすごく辛く苦しいことが起きるけど、きっと大丈夫。

 今日起こった分のいいことが、欠けた部分を補ってくれるから。

 だから私は大丈夫。だから私は荒まずにいられる。赤い血の通った──人間でいられる。

 これは、私が私でいるための自己暗示おまじない

「よしっ、大丈夫」

 最後にそう自分に言い聞かせてから、私はそっと日記帳を閉じた。

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