05『家鳴』
ヒナちゃんと手を繋いだまこ姉さんを先頭に、大野木家へと帰る。稲荷神社から家までは、大体徒歩十分くらい。溜まり場とするには、ほど良い距離感だと思う。
ヒナちゃんは、まこ姉さんにさっきの出来事を報告しているようだった。あの様子だとこの花冠を被った私がお姫様みたいだった──とかそんなことも伝えているんだろうな。そう思うと何だか照れ臭くなってきたので、私は躰の前に持っていた花冠を後ろに持ち直してからは、わざと二人の話を聞かないよう努めていた。
──花冠のお返しどうしようか?
「ねぇ、晶」
「うーん?」
「花冠の作り方って知ってる、よね?」
「あー、できるとは思うけど。ってか何? ユキンコ作れねーの?」
私は、素直に頷いた。
「おいおい草花遊びつったら女の子の遊びの定番だぞ?お前一体どんなお子様時代を──っと」
晶が言葉に詰まった。悪い、と頬を掻きながら、申し訳なさそうに言う。
別にいいよ、と私は微笑んでみせた。
私は何故か、七歳より前の記憶がはっきりしない。
この村にきてこの家の義娘となる前は誰とどこでどんな生活をしていたのか、その詳細を憶えていない。憶えていることといえば、和風のお屋敷で年の近い女の子たちと暮らしていたということくらい。
偶に夢で見る過去の私は着物姿だったりする。でもそのときの私は〈黒髪〉のおかっぱだったりもするから、結局夢と記憶の境界はあやふやのままだ。
自分の記憶の一部があまりにも辛いものだったとき、自己防衛のためにその記憶の一部が抑圧されることがある──という説をテレビで見たことがある。もしそれが事実なのだとしたら、多分思い出せないに越したことはないのだろう。
「花冠の作り方、良かったら今度教えてよ。ヒナちゃんへのお返し、作りたいんだ」
「応。なら、任しとけ。そりゃもう見事ななわとびを錬成してやるよ」
「花冠でいいってば」
笑いながら、その笑顔の裏で考える。そう、思い出せないのがきっと最善。
でも、今日みたく──自分には六年の空白があるっていう事実を思い知らされる状況に直面したら、やっぱり嫌でも気になってしまう。
もしかしたら六歳の頃の大野木ココ(もっともその当時は大野木姓ではなかっただろうが)は花冠くらい作れたかもしれないなぁ──なんて無意味なことを考える。いっそまっさらなら良かっただろうに、薄ぼんやりと残っている分どうにも歯がゆい。
「ほんとうに? やったぁ!」
と、ヒナちゃんの嬉しそうな声が聞こえてきた。
「どした?」
「玲一さん。明日帰ってくるのよ」
晶の問いに、肩口に振りむいたまこ姉さんが答える。
「京都に取材旅行だったな。今回ばかりは土産をどうにかしてほしいもんだなぁ」
「晶のお土産、『よーじや』の油とり紙だったもんね」
「ああ──あれだけってのはちょっと凹んだな」
「でも、玲一兄さんなりに頑張って選んでくれたんだなぁ、ってことは伝わってきて、良かったと思うな。普通は──こんなに女の子がいたら、お菓子だけ買って無難に済ませちゃうよ」
「まあなー、そういえばユキンコは何もらったんだ?」
「──お手玉」
「悪ぃ。てっきり上に立つものの余裕から綺麗事言ったんだと思ってた」
「うん、まあ、飾っておくと、綺麗なんだよ? 色とりどりで」
ちなみに玩具として使ったことはないし、使う技術もない。本当に飾っているだけだ。
「鏡花は何もらったんだっけ?」
「さあ、何だったかしら」
「匂い袋だろ。兎の柄が入ったやつ」
鏡花さんが晶を見やった。睨んだとまではいかなくても、強い目つきだった。
「──憶えているんじゃない」
「おまえもな」
晶は怯む様子もなく、にやりと笑ってみせる。
「いやはや、やっぱり未来の第二夫人ともなると、土産物からして早くも差が出ますな~」
「あらあら、そういえば私にはライバルがいることすっかり忘れてたわ。第一夫人の座にいるからって油断してられないわねぇ」
止せばいいのに、大人げなくもまこ姉さんが便乗した。
不思議そうな顔で、ヒナちゃんが私を見つめてくる。私は視線だけでよくわからなくていいお話だよと伝えてから、彼女に優しく前を向くよう促した。
鏡花さんは幽かに頬を染めながら、意地悪く笑う母と姉を尻目に溜息をついた。
そう、鏡花さんは私たちのお父さん──玲一兄さんのことが好きなのだ。
その「好き」っていう感情がどの類でどの程度の「好き」なのかは、鏡花さん本人にしかわからない。
ただ私たちにわかるのは、伝説地を訪れて妖怪を紹介するライターをしている玲一兄さんのあとを追いかけるように、いくつも本を読み漁って妖怪について研究したり、基本髪型はいじらないのに玲一兄さんと出掛ける時にはツーテールにしたり、可愛いヘアピンを使ったり、明るめの色合いで女の子らしい服を着たりするくらいには、鏡花さんが玲一兄さんのことを好いているということだけ。
晶たちの気持ちもわからなくはないけど、やっぱり私は鏡花さんをからかうような気持にはなれない。
そこは鏡花さんの〈女の子の部分〉だから。
「えっと、ねぇ鏡花さん」
「何?」
「さっき神社で見たとき思ったんだけど、雲雀ってどうして枝に止まって鳴かないのかな?大抵の鳥は枝に止まって鳴くよね」
話題を逸らすというのが目的だったけれど、答えが気になっていたのも事実だった。晶はオスからメスへの求愛行動だって言ってたんだけど──とついでだから付け足しておく。晶のやや引きつった顔が見えたような気がしたけど、気のせいだろう、うん。
「どうして、と訊かれても──飛びながらさえずるのは雲雀の習性だから。ただ──」
「ただ?」
「晶の答え、ある意味では正解かもね」
──えっ?
晶が小さくガッツポーズをとっていた。ああ、どうか晶のぬか喜びで終わりますように。
「オスの雲雀が空を飛びながら鳴く理由には、縄張り行動だとする説があるの」
「──縄張り行動と求愛行動は一緒ってこと?」
「見ようによってはそう見えるんじゃない? って話。実際オスの雲雀が飛びながら囀るのは繁殖期だけね。縄張り行動は外敵を遠ざけ生活の安全を確保する一方で、メスの雲雀に『自分はこの程度の縄張りを所有していますよ』というアピールにもなっている──とも考えられる。だから晶の答えでもある意味正解なんじゃないの」
「ん? それがアピールになるってことはあれか。やっぱ縄張りはデカいほうが魅力的ってことか」
「晶やココだって、結婚してからの夢のマイホームは大きい方がいいでしょ?」
「──」
「──そもそも生物学は守備範囲外なの。文学的シンボルとしての『雲雀』になら、それなりに精通しているつもりなのだけれど」
そう言って、鏡花さんは前を向いてしまった。
私は、晶と顔を見合せて苦く笑う。何だか有耶無耶のまま終わってしまった。
噂をすれば影とは言うけど、空に雲雀の姿はない。鳴き声も聞こえない。ただ青空には、綿を解して広げたような雲が浮かんでいるだけ。
──やっぱり、落ち着かない。何でだろう。
「そういえば鏡花さん」
「何?」
「文学的な雲雀ってどういうこと?」
「文学的シンボルとしての、ね。雲雀は幸福のシンボルとして扱われているのよ。『春告げ鳥』にして『朝告げ鳥』だからね。同じ『春告げ鳥』でも『小夜鳴き鳥』として明暗のイメージを併せ持つナイチンゲールと違って、雲雀は『明るい』イメージ一色だから」
──幸福の、シンボルか。
さあ、もう充分でしょう、と再び鏡花さんは前を向く。鏡花さんは私だけならともかく、多勢の人の前で知識を披露することを嫌う。もし私に鏡花さん並みの知識が備わっていたとしたら、もっと他人に教えることに飢えそうな気がするけど。
過去に一度、そのことについて訊ねたことがある。返ってきたのは、私推理小説に出てくる探偵って嫌いなのよ、という鏡花さんにしてはどこか子どもっぽくて、よくわからない答えだった。
以前に私が嫌われてるだけなのかも。いや、そんなんじゃない、と思う。
そもそも嫌いな相手というか、身内以外には質問すらまともに受け付けないし。
部屋に行ったらちゃんと迎えてくれるし、そう、その帰りにお菓子だってくれるし。
──私、鏡花さんに愛玩動物か何かだと思われてるんだろうか?
そんなことを考えながら、鏡花さんの背中を見ていると。
ん?
鏡花さんの胸辺りに一瞬、真っ黒く凝固まっている影が見えた、と思う。
気のせいかな。
しんぞう、と〈彼ら〉の内の誰かが言った。
──意味不明だった。
※
家に帰ると「シロスジ」に出迎えられた。
外見はフェレットかイタチか──茶色い毛並みに木苺みたいな目、頭には名前の由来になった一筋の白。
ちなみにペットではない。そもそも大野木家ではペットを飼っていない。この子もまた私にしか認識できない〈彼ら〉の仲間だ。流石に家の中まで出てこられるのは気が引けるのだけれど、「シロスジ」は愛嬌のある見た目をしているせいか追い出す気になれないでいる。
慌てず騒がず悟られず、私は視界を切り換えた。
少しばかり遅めのティータイム。
私たちの前にはミルクティと、等分された苺のロールケーキ。ロールケーキのほうは春季限定という響きに釣られて思わず買ってしまったというから、なんともまこ姉さんらしい。
「ふう、ようやく一息つけたわ」
まこ姉さんはミルクティを一口飲むと、どこか艶っぽい溜息交じりに言った。
やわらかくカールしたロングヘアはオレンジがかった茶色。フリルの付いた薄桃色のブラウス。春らしく白いシフォンスカート。うん、やはり雰囲気的にも「母さん」より「姉さん」の方がしっくりくる。
私の左隣ではヒナちゃんが、黙々とフォークで切り分けた苺のロールケーキを口に運んでいる。何だかリスみたいだと思いつつ、私は紙ナフキンでヒナちゃんの膨らんだ頬に付いたクリームを拭った。
ヒナちゃんははにかんで「ありがとう」と言うと、再びロールケーキを減らす作業に専念する。
私はミルクティに少し口をつけてから、笑いかけた。
「ヒナちゃんのペースで食べればいいからね」
ヒナちゃんは手を止めて、私の方を見てから「うん」と頷いた。
ただ、ヒナちゃんの気持ちもわからないこともない。
苺のロールケーキは、私ならどれだけ時間をかけたって十分足らずでなくなってしまう。でも、ヒナちゃんはまだ四歳だ。当然、食べるのは私たちよりも遥かに遅い。その当たり前に、ヒナちゃんは周りを待たせているのではないか、という負い目を感じてしまっている。
この歳でそこまで周囲に気を遣えるのは、立派というよりちょっと胸が痛む。
ヒナちゃんのペースは気持ち落ちたように見える。ほっとしてヒナちゃんから視線を外すと、まこ姉さんがこちらを見て微笑んでいた。
「えっと、何?」
「愛娘の成長を噛み締めていたところ。ココちゃんもすっかりお姉ちゃんだな~ってね」
愛娘。
頭の中で復唱すると、熱がこみ上げてくるのがよくわかる。
褒められるのは嫌じゃない。嫌じゃないけど──苦手だ。
「──こんなお姉ちゃんで良かったら、これからも頑張るよ」
「こんなお姉ちゃんで充分よ。ねえ~、鏡花ちゃん」
「そこでどうして私に振ってくるのよ」
「どうしても何も鏡花ちゃんはココちゃんの義妹じゃない。ココちゃんがイイお姉ちゃんかどうか、意見を聞くには最も適した人物だと私は思うわ」
鏡花さんは渋い顔で小さく唸ると、ティーカップをソーサーの上に置いた。
「そうね。私もココはいいお姉さんだと思うわ」
「あら、それだけ? 感想は良いから、具体例が欲しいなぁ~」
「具体例も何も──私が他の義姉妹との付き合いに積極的でないことくらい、まこも知っているでしょ?私がココのことをいいお姉さんだと言ったのは、ヒナの立場から言ったまで。それなのに具体例を求められたって、私とココには特に何もないのだから話しようがないわ」
「え、でも最近は──」
「ココ」
鏡花さんのお願いだから今は黙ってて、と言わんばかりの視線に、私は慌てて口を噤んだ。
ふぅん、と意味深に笑うまこ姉さん。
「なるほどねぇ、じゃあこれから鏡花ちゃんのことについて何か訊きたいときは、ココちゃんに訊けばオッケーってことね」
「何よ、それ」
「だって鏡花ちゃんって色々難しいことは訊けば教えてくれるのに、自分のことは訊いても全然教えてくれないんだもの。まあ、そこが鏡花ちゃんの可愛いところではあるんだけど、やっぱり母親として自分の娘の好きな食べ物すら知らないっていうのは、ちょっと寂しいかな~ってね」
鏡花さんが眉根を寄せた。しばらくすると何かを諦めたかのような、深い溜息をついた。
「それくらい」
「うん?」
「好物くらいなら──そのうち教えるわ」
伏し目がちな鏡花さんに、
「ええ、そのうちにね」
と、どこか満足げなまこ姉さん。
鏡花さんが、主にまこ姉さんにこういう対象にされるのは、単純に鏡花さんが他人に対して自分のことを打ち明けないというのもある。でも本当のところは、単に真面目過ぎる鏡花さんの反応を楽しみたいだけではないのだろうか。というか、間違いなくそうだと思う。
とりあえず、今は鏡花さんの好物が甘いもの──それも甘さ控えめではなく、しばらくは舌に残るような甘ったるいヤツ──だってことは、黙っておいた方が良さそうだ。
「あー、ちなみにここにいる晶さんは、まこ御姉様の作るロール白菜が大好きです。あっ、コンソメもいいけど私はトマト派だから」
晶が挙手して言った。「ここにいる」の部分を強調したのは、多分疎外感を感じていたからだと思う。
私はそんな晶の口許──もう頬と言ってもいいだろう部分にクリームが残っているのを見つけた。なんというか、幼児みたいだ。
「晶ちゃんは自己開示しすぎー。つまんなーい」
「詰まんないって何だよ。わかりやすくていいだろ?」
「晶ちゃんくらいの年の女の子なら、もうちょっとミステリアスな側面があってもいいと思うんだけどねぇ。晶ちゃん裏表なさ過ぎて歯ごたえないっていうか」
「散々な言われようだな。私がぐれちゃったらどうすんのさ」
「都会ならまだしも、こんな田舎でぐれたって浮くだけよ?」
「──まあ、言えてるわな」
でも頬にクリームが付いているのなら、やることは一つ。少なくとも、人間は頬じゃケーキは食べられない、と思ったら紙ナフキンが手許にない。別にいっか。これくらい素手で充分。
「晶」
「ん?」
「じっとして」
私はそう晶の耳許で囁く──身長差からどうしてもこういう構図になるのだ──と、人差し指の腹で晶の頬に付いたクリームを拭う。
うん、クリームを頬に伸ばすことなく綺麗に取れた。
「子どもじゃないんだから」
「ああ、悪い」
私はその指を口に含んだ。甘い──のは、当たり前か。
改めて紅茶に手をつけようとしたところで、向かいに座るまこ姉さんと鏡花さんにじっと見つめられていることに気付いた。いや、これはむしろ、睨まれている?
「──こういうのを巷では『バカップル』って言うのかしら鏡花ちゃん?」
「さあ、人目を憚らず情を交わし合うことを馬鹿と言うのならそうなんでしょうね」
バカップル? いや、もちろん私だってそのちょっと懐かしい響きの言葉が持つ意味はわかってる。でも──。
「どういうこと?」
呼ばれた理由まではわからないので、晶に訊いてみた。え? 何でそんなに赤くなるの。
あ、でも晶ってどちらかというと日焼けしてる方だから、紅潮してもあんまり目立たないんだ。素直に羨ましい。
「素だったの?」
鏡花さんが何故か心底訝しげな眼つきで、私に訊いた。
もう一度晶の方を見るけど、何故か私と目を合わせないようにして頬をポリポリと掻くだけ。心当たりがありそうな顔はしているけれど、話してくれそうな気配はない。まあ、今晩にでも憶えてたら訊けばいいか。
まこ姉さんがわざとらしくこほんっ、と咳払いをする。
「とりあえず、まこお姉ちゃんは食卓で遊んだりえっちぃことするのは感心しませーん。晶ちゃんもココちゃんも、あとヒナちゃんもそこまでにしなさい」
──えっちぃ要素なんてあったっけ。
ん? 晶はともかく、ヒナちゃん? 見るとヒナちゃんの頬にはクリームで出来た小さな水玉模様。仕上がりから明らかに故意だとわかるそれを、ヒナちゃんは「えへへ」と恥ずかしそうに笑いながら紙ナプキンで拭っていた。
何でまた晶の真似を? でも、なんか癒されたからいっか。
「おー、怒られた怒られた。どーするヒナ? 行儀が悪いとお化けが出るぞ」
「おばけ? ほんとにでるの?」
「ヒナちゃーん、そこは目を輝かせるところじゃないわよー。ちなみに晶ちゃんの場合はお化けよりも分かりやすい罰が発生するので心に留めておくように」
「──なあ、今のオブラートに包んだDV宣言だよな?」
「よくわかんないけど、多分晶が悪いんじゃない?」
「鬼かお前」
ちなみにここで言っている〈お化け〉だけど、単なる子ども騙しと思わせながら実はちゃんと元ネタがあって、名を「おさき」という。何でもおさきは行儀の悪い人間のご飯をこっそり食べてしまうらしく、まこ姉さんが幼少の頃は食事のマナーが悪い子どもを脅かすための決まり文句だったらしい。
でも、少なくともヒナちゃんにとっては、おさきの存在は喜ばれているようだ。ヒナちゃんの悩みは食が細く遅いことだから。
本当はそんなこと、悩み事でも何でもないのに。
「──随分楽しそうね」
頭痛に堪えるかのように頭を押さえながら、ささめ姉さんが渋い面持ちでダイニングに入ってきた。
黒のフード付きカットソーに、紫のチェックショートパンツ。普段ふわふわとしている亜麻色の髪はほつれ気味でまだ眠り眼のところを見ると、ついさっきまで昼寝をしていたようだ。
「あら、ささめちゃん。おそよう。何か飲む?」
「はい、おそよう。いいよ、自分で珈琲淹れるから」
「おそよーささめん。何だよ、珈琲とはアダルティですなぁ」
「そうでもないわよ。さすがにブラックは飲めないし」
寝違えでもしたのか、首を捻りながらささめ姉さんが言った。
「悪ぃ。今のは突っかかってきてほしくて、わざと意地悪く言ったつもりなんスけど」
「そう? ごめん。反応できなかった」
まっ、次からは巧くやるわ、と軽く笑ってささめ姉さんはキッチンに姿を消した。
少し、驚いた。あの一件以来、ささめ姉さんがこの時間ここに来ることはほとんどなかったから。しかも、食卓につくとなると今日が初なんじゃないんだろうか。
しばらくするとささめ姉さんがマグカップ片手に戻ってきた。
食卓にあるポットから湯を注ぎ、ティースプーンでかき混ぜる。
紅茶派が多数を占める家では紅茶を淹れる際はわざわざティーポットを使ったりと本格的だけど、飲む人が二人しかいない珈琲は基本インスタントだ。
「ああ、ささめちゃん。ケーキなら冷蔵庫に入っているわよ」
「あー、いいや。今食欲ないし。誰か私の分いる?晶以外で」
言いながら、ささめ姉さんがいつもの席に座る。
「ちょっと待て。何で私がすでに除外なんだよ」
「他の三人の義妹を差し置いて、ケーキ食べるのが晶お姉ちゃんなワケ?」
──三人。さんにん。サンニン。
ささめ姉さんは、顔色一つ変えず、何の躊躇いもせず、その人数を口にした。
私は、私自身の息を呑む音を、聞いた。
急にリビングが、暗くなった。
「──嫌な空気。まるであの娘が腫れものみたい」
今のは普通に流すとこでしょ、とささめ姉さんが自嘲するように笑った。
「お、おい、ささめ」
「ねえ、何でこうなの?」
「え?」
「何でつくしと一番一緒にいた私がこうなのにっ、あんたらがずるずるずるずる引きずってんのかって訊いてんのよっ!」
ささめ姉さんが苛立たし気に声を荒げた。
「つくしのことは全部私に任せっきりで、あの子が何したら笑うとか、怒るとか、拗ねるとか、何一つ知らないくせにっ。アンタら揃いも揃って、──一体あの子の何を引きずってるの?」
ささめ姉さんの声は幽かに掠れ、震えている。
「一番つくしとの思い出が多い私が、あの子の死を受け止めて、今まで通り頑張って振る舞おうとしてるときに──何であの子とのロクな思い出のないアンタたちがこうなわけ? おかしいでしょ? 死んでからようやく家族の大切さに気付いたとでも言いたいの? いくらなんでも──」
「うぜぇ」
低い声だった。
私はびっくりして、晶を見た。
晶が怒気を湛えた眼でささめ姉さんを睨みつけていた。
その鋭い視線に、ささめ姉さんもいくらか気圧されていた。
「ささめが一番つくしとの思い出が多いってところは、まあ認める。けどな、私らにアイツとのロクな思い出がないっていうのはどういうことだよ。『ロク』って何だよ『ロク』って。何でお前に私らの思い出まで品定めされなくちゃなんねーんだよ。あれか? 思い出とやらが一番豊富なささめねーちゃんってのはそんなに偉いのか?」
晶は辛辣な調子で、さらに続ける。
「ま、何がうぜぇかって言えばよ。その自分ひとりの力でつくしをデカくしたみたいに思ってるところが、とてつもなくうぜぇ。今みたいに引き籠るにしたって、家がなきゃ籠れないんだぞ」
「引き籠ってなんかないわ。勝手に決め付けないで」
「似たようなモンじゃん。休みの日はずっとふて寝でやり過ごしてるんだろ?」
ささめ姉さんが唇をきっ、と結んだ。
それを見て晶は勝ち誇ったように笑う。
「巧くやれないってんなら、そっちの方が助かるけどな。今みたいに空気も悪くならなくて済む」
それは──いくらなんでも言い過ぎだ。
そう思ったときにはもう、晶の腕を掴んでいた。
晶が、驚いたような表情で私を見る。
私は、何も言えなかった。気の利いた言葉が思い浮かばなかったというのもあるし、舌の根が乾き切っていて上手く回らなかったというのもある。
だから、眼だけで気持ちを訴えるほかなかった。
──もう、それ以上は言わないで。
晶は不服そうな面持ちで私、まこ姉さん、ささめ姉さんの順に視線を移す。最後にもう一度私の方を見て、それから目を伏せると溜息を吐いた。そして、ぐしゃぐしゃと後頭部を掻いて、
「萎えた」
誰に言うわけでもなく、呟いた。
「──ねえ、ささめちゃん」
まこ姉さんが口を開いた。
「私はね、できたらささめちゃんに協力してほしいの。人の死を受け止め理解する時間には、どうしたって個人差があるものでしょう。その時間は、周りの協力によって短くもなったり長くもなったりする。『協力』なんて言うと、少し響きが固いかもしれないけど──」
「わかってるわよ、そんなこと」
ぽつりと、ささめ姉さんが落とすように言った。
それは呟きにもかかわらず、まこ姉さんの言葉をぴしゃりと遮った。
「わかった上で今、こうしてるのよ」
ささめ姉さんの薄い唇は、どこか笑っているように見える。
そこで私はようやく気付いた。
ささめ姉さんの腫れぼったい瞼に。
目の下に浮かぶ痛々しい隈に。
弧を描く唇の血色の悪さに。
まるで──幽霊に取り憑かれているみたいだ。
悪い予感。ささめ姉さんの毒々しい笑みに、それはますます大きくなる。
「羨ましいわね、晶」
「何がだよ」
「アンタにはまだ、ココがいるものね」
胃の辺りが、さっと火で焙られたように熱くなった。それって、つまり──。
「それはアレか? 私がココ以外の義姉妹なら死んでも心痛まない人間だって言いたいのか?」
晶が不快感を剥き出しにして言う。
「当たってるじゃない。アンタはつくしの死を悼むことよりも、可愛いユキンコちゃんに発情するので忙しいもんね」
「っ!」
「狼狽える辺り自覚はある、と。じゃあ、これは気付いてる?傍から見ててベタベタベタベタ気持ち悪いのよ、アンタたち」
えっ、と思ったときには手遅れだった。
晶の袖を掴んでいた私の手は、強引に払いのけられていた。
がしゃんっと甲高い音がした。
落ちたカップが無残に割れ、フローリングに珈琲がぶちまけられた。
晶がテーブルに身を乗り出して、ささめ姉さんの胸倉を掴んだ。
「──殺すぞ、お前」
「晶ちゃんっ!」
「晶!」
まこ姉さんと私の、悲鳴に近い声が重なる。
拳を握り締め今まさにささめ姉さんを殴らんとばかりに振り上げられた右腕が、しかしささめ姉さんの頬を打つことはなかった。
それは、私たちの声で止まったわけじゃなかった。
ささめ姉さんはこの状況下で、何故か晶ではなく天井を見ていた。いや、見ていたなんてものじゃない。まるで晶なんて目の前にいないかのように、天井を凝視していた。その肩は幽かに震えている。
釣られて私も天井に目をやる。
と、突然。
ごとごとごと! がたがたがたっ! と天井が鳴り出した。
よく聴けばそれは、誰かが二階の廊下を、どかどかと無遠慮に走って行くような音。
ああ、またこれか。最近深夜に鳴っては、私の睡眠を妨げている〈家鳴〉だ。
恐らく私にしか聞こえていない。
どうせこれも〈彼ら〉の仕業だろう。いや、今はそうじゃなくて。
ささめ姉さんが天井を
それは今まさに、〈家鳴〉が聞こえてくる天井。
まさか、聞こえてるの?
よく見ると、ささめ姉さんの唇が声にならない言葉を結んでいる。
──つ・く・し?
ささめ姉さんが音もなく崩れた。
頭だけは打たないようにとか、そういう自分への配慮が一切ない倒れ方。
晶はささめ姉さんの只ならぬ様子に、襟首から手を離していたのだ。
ささめ姉さんの元に駆けつけたまこ姉さんが、耳元で名前を叫ぶ。
私もそれに続こうとしたけれど、ヒナちゃんが私の袖を強く握っていたせいで動くに動けなかった。
ヒナちゃんに一声かけてからその手を放してもらおうとしたところで、ヒナちゃんの目頭に涙が盛り上がっていることに気付き、考え直して止めた。
いや、仮にこの手がなかったとして、ささめ姉さんのもとに行ってどうなるのだろう?私には多分、何もできない。
ヒナちゃんの頭を撫でながら、晶を見やる。晶はただ呆然と立ち尽くしていた。
続いてその視線を鏡花さんへと向けて、ぞくりとした。鏡花さんもまた天井を見ていたからだ。
ごとごとごと! がたがたがたっ! ごとごとごと! がたがたがたっ────
しばらく続いていた〈家鳴〉は、やがて治まった。
鏡花さんはそこでようやく天井から視線を外した。偶然にしては出来過ぎたタイミング。
そして、目の前の惨状などどこ吹く風とばかりに、優雅な所作で紅茶を嗜む。
天井を見詰めていた鏡花さんの眼は、ぼうとしていた。
──下らないバラエティ番組を見ているときの眼だった。
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