08『私がしたいことを』
カエル人間たちの歓声を他人事のように聞きながら、私は日傘を差した。
不意にずしり、と日傘が重くなった。
『ヒャッハー! ヤッたぜ! 流石はお嬢だ!』
「──重いんだけど」
『おっ? おーおー、ソーリー。いくらハイになっちまったからって、気安く女の上に乗るのはよくねぇよなぁ、おいら責任取るとか嫌でござる』
そう早口に言って、ヘビドリが目の前に下りた。
『でよ、ちょっと気になっちゃってる系のことがあるんだけど、訊いてオッケー?』
「別に、いいけど」
『ほら、お嬢言ってたじゃん? 私の知ってるツクシーと糞狸のツクシーじゃ月とスッポンだぜぇみたいなこと。あれ、マジなわけ? いやぁ、そりゃあおいらってばお嬢んとこの義妹さんなんて数えるほどしかお目にかかったことねぇ。でもよ、笑い方ならまだしも髪の色や歯の本数なんて間違えるかいフツー? いや、別に今更狸の野郎をヨイショするわけじゃねぇさ。けど、あのメタボの糞狸だって、
「ああ、あれはおまじないみたいなものだったから。自己暗示とも言うかも」
『はい? ホワイ? どゆこと?』
「ヘビドリの言う通り。多分合ってたんだと思うよ。髪の色も、歯の数も、あと笑い方もね」
『多分? 多分って何だいお嬢。まさか目ぇ閉じたまま戦ってたっていうのかよ?』
「違うよ。ええっと、人間って目じゃなくて脳で世界を見る生き物なんだって。人間が普段から当たり前のように見ている世界は、脳が作り上げたその人固有の世界であって本物の世界じゃないってその娘は言ってた。だから私、閃いたんだ。脳をちょっとだけいじってしまえば、うまくいくんじゃないかって」
『ま、まさかお嬢』
「うん。〈狐〉を憑依するついでにね、自分の脳に〈細工〉をしたの。おかげで私には、あれがつくしちゃん以外の誰か、ううん。それどころか粘土で作った人形みたいなものにしか、見えてなかった」
『はあぁああぁぁあっ? え? 何? じゃあ、あのチョー女前かつハートにずっきゅん響いた義妹が教えてくれたのうんたーらガンダーラとかいうあのセリフは何? 全部ノリなの? 気分良くて何かついカッコいいセリフ出ちゃったの? いやあぁぁぁっ! おいらあの時上空から、やっべぇぇぇ! お嬢まじかっけええぇぇ! 抱いてぇぇぇ! とか悶えてたのにそんなオチなん?』
「えっと、なんかゴメン」
『ぎゃああああぁぁ! はずかしい~~っ』
そう喚き散らしながら、ヘビドリが羽ばたいた。
『チクショーっ! 興醒めだぁー! さっさと神社に帰って風呂入って歯磨いてあったかくして泥が如く寝てやるううぅぅ! いつもバリバリ最強ナンバーワンなおいらだって嫌なことは寝て忘れるのさっ! あー涙とか汗とかその他諸々流した分損した気分だぜ! でもまあ、そんな狡猾なお嬢も好きですけど何か? わっはー! って、あ? おいコラ勝手に乗ってくるんじゃねぇ蛙ども! タクシーじゃねぇんだぞコラ! うわぁっヌメる! 湿ってるぅ! クソがぁ! おいらの邪眼で石にしてやらぁ! ──ぶふぉっ! やべぇ重っ! コレ重っ! 邪眼の御利用は計画的にっ! いやゃああぁぁあぁぁお嬢助けてえぇ~!』
あーあ。あ、墜ちた。
お嬢、といつの間にか隣で、腕組みをして立っているボスが言う。沈痛な声色からなんとなく言いたいことはわかっていたので、私はさっきから小刻みな震えが止まらない右手を無理やり押さえた。
「モザイクはあったのにね。やっぱりちょっと、厳しかったかな。しばらく夢に見るかも」
私は空笑いした。ボスの反応はない。
「ただね、ヒナちゃんの絵が勇気をくれたのは本当なんだよ」
『ええ、お嬢の義妹様には感謝しなければ。ところでお嬢。少し気になるものが──』
そう言ってボスがおい、と顎で促すと、二匹のカエル人間が靴を運んできた。片方だけだった。
──見覚えがあった。
帰り道、畦道を一人とぼとぼと歩く。
時刻は四時過ぎ。
〈彼ら〉の世界には朝昼夜とか春夏秋冬とかがないだけで、いる間もきちんと時間は経過している。
目的は達成したはずなのに気分が今一つ晴れない。
それは、結局家のことが何も片付いてないことを思い出したからなのか、それともこれから学校だからなのか。
「まあ、両方かな」
私は溜息を吐いた。
ネズミ色だった空は段々と白み始め、もうじき朝を迎えようとしている。
そういえば、雲雀はいないかなと思って田んぼの上空辺りを眺めていると、
「ココ?」
不意に声をかけられた。思わず身を固くする。
日傘を差している分視界が狭いから、誰かこっちに来てるだなんて気付かなかった。
恐る恐る声の聞こえた方を見た。
「ささめ──姉さん?」
どうしたの、と続けようとして、確認の意味で時計を見る。うん、やっぱり四時過ぎ。登校にしては早過ぎるし、よく見たらささめ姉さんは制服ですらなかった。
「え、えっと──」
お互いに話を切り出せない。何かきっかけを──ああ、そうだ。
「あ、あのさ、ささめ姉さん」
これ、と私は持っていたスニーカーを差し出した。
ささめ姉さんが──大きく目を見開いた。
それは泥だらけで革もボロボロだった。
でも、それを履いている姿が記憶にあったことと、スニーカーの爪先が妙に擦り切れていたことから、私にはこれの持ち主が誰なのかわかっていた。
「姉さんが持ってるのが、一番いいかなって思って」
それは、つくしちゃんの遺品。
私はそれをささめ姉さんに手渡した。
受け取ったささめ姉さんの表情は固まっている。無表情じゃなくて驚いた顔のまま固まっている。
そして──。
「ひっ」
唐突だった。本当に予想もしていなかった。
「ひっ、ひっ、ひっぐ──」
ささめ姉さんの眼から、大粒の涙が零れ出した。
私はぎょっとして、つい後退ってしまった。
ぺたん、とささめ姉さんの膝が地面に着く。
そしてスニーカーを胸に抱き締めたまま、甲高い悲鳴みたいな声で泣き出した。
あのささめ姉さんが、泣いている。
いつも皆に気配りしつつ、気丈に振る舞っていた。
義姉妹の中で誰よりも大人びていた。
つくしちゃんのお葬式の日ですら泣かなかった。
あのささめ姉さんが──私の前で泣いている。
ぎゅう、と。日傘の持ち手を握る力が、強くなる。
どうしよう。慰めないと。でも、どうやって。頭の中がめちゃくちゃに散らかっている。自分でも何でここまで動揺してるのかわからない。思い出す。似たような状況を思い出そう。確か私がこの家の義娘になって初めて泣いた日。私を抱きしめてくれたのは、晶だった。だったら私も──ささめ姉さんを抱きしめればいいのだろうか? そうすれば、少しは楽になってくれるだろうか? 私に、何ができるんだろう。
──ココは無理せずしたいことをすればいいの。
鏡花さんの、その言葉を思い出した途端、すとん、と気持ちが落ち着いた。
ああ、自惚れてた。
今のささめ姉さんに必要なのは、心の支えであって私じゃないんだ。
私にしかできないことなんて、ない。
そうだよ。もっと簡単で、単純でいいんだ。
私はささめ姉さんの、すぐ傍にしゃがんだ。
そして、日傘の下に──ささめ姉さんを招き入れるように、そっと引き寄せた。
いつも皆のまとめ役でしっかりしている姉さんだから、誰かに泣き顔を見られるのは、あまりいい気持がしないだろうと思ったのだ。
ささめ姉さんの指が、私の袖を摘んだ。ぎゅっ、と私の腕ごと握り締めたりしないあたり、泣きながらも遠慮しているのだろう。
それが、可愛いと思った。
ささめ姉さんが、子どものように泣いている。
──思えばこれが、ささめ姉さんと初めてした相合傘だった。
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