02『稲荷神社にて』

 稲荷神社の境内へ続く石段を半分まで上った辺りで、強い目眩めまいを覚えた。咄嗟に石段の真ん中を通る手摺を掴む。目の奥が熱い。たまらず目を瞑ると、瞼の裏で赤褐色の影が揺れていた。

 骨と皮だけしかないミイラのような身体。鬼を思わせる二本の角。そいつは、手足をばたつかせていた。枝切れみたいな爪で、何か引っ掻いているように見える。そこから出ようとしているのだろうか。でも。


 ──そこって、どこ?


 目を開けた。

 空は血を塗ったように赤く、目まぐるしく流れる雲は墨を染み込ませたように黒い。そんな不吉な色をした空からは、しんしんとただ音もなく、真っ赤な苔が雪みたいに降り続いている。それは、金属を思わせる光を放っていた。綺麗だけど、吸ったらとても身体に悪そう。それが、降って降って降り積もった結果なのか、それとも生えてきたのか、石段には苔の絨毯が敷かれていた。


 ──ヒヒイロゴケ。


 それに覆われているのはここだけじゃない。田んぼも家も山も全部赤に埋もれている。

 良く言えば幻想的で、悪く言えばリアルじゃない。

 どう言い換えたって、私にしては現実なのだけれど。

 いつだったか、ボスに訊いてみたことがある。積もりに積もった重みで、建物が崩れたりはないのかって。ボスが言うには、ヒヒイロゴケは接触し続けている対象に、やがては〈同化〉する。だから、世界がヒヒイロゴケに覆われることはあっても、世界がヒヒイロゴケだけになることはあり得ないのだという。あくまで今後ヒヒイロゴケの性質に変化がなければの話だそうだけれど。

 手の甲にくっついて、きらきらと光るヒヒイロゴケを見た。つまり、私の身体にも少なからず〈同化〉しているわけだ。くっついて、浸透して、見分けがつかなくなって、この牛乳を飲み過ぎたような肌色に浮かぶ血管の中を、血液となって躰中を──。

 控えめにかぶりを振った。いやな考えを追い払った。思い切り振ると、また目眩がしそうだった。

 所々高さの違った石段を登る。

 ヒヒイロゴケを踏み潰す、この霜柱のような感じは結構好き。 

 境内へ入った。社殿に社務所、出迎えてくれた狐の石像やくぐったばかりの鳥居にまで。ヒヒイロゴケは、はだのようにまとわりついている。


 見るからに、朝も昼も夜も──そういう時間の流れが無さそうな世界。


 だから〈彼ら〉はいつまでも、あんなにはしゃいでいられるのだろうか。

『おかえり』

 ──そんな、勝手にここを第二の我が家みたいにしないでほしい。

 境内のあちこちにカエル人間がいた。蛙なのに人間みたいな骨格を持ち二足足で歩く。だからカエル人間。一応親しみは込めて、私が名前をつけた。

 日傘を畳み、いつもの場所に座ると、カエル人間が数匹近寄ってきた。

 わかりやすい。私が偶に〈お礼〉として持ってくるお菓子が目当てなのだ。両掌を見せるジェスチャーで、今日は持ってないよって伝える。

 カエル人間たちの動きがピタリと止まった。それから、仲間同士何やら視線を交わして、あっさり解散した。その内の一匹が振り向く。つい身構えたけど、がっくり肩を落とされただけだった。何か──すごく悪いことをした気がする。

 手水舎では、二匹のカエルがボスの背中を流していた。溜まった水には赤い苔が浮いている。

 ボスは、他の奴よりも一回り大きくて、紅紫色の身体をしていた。

 目が、合った。

『安心致しました』

「安心?」

 ボスが手を上げると、背中を流していた二匹は手を止めて、ボスの両隣に立った。まるで王様に仕える右大臣と左大臣。まあ、大臣は王様の背中を流したりしないと思うけど。

『鬼神の如き力をお持ちのお嬢が、彼奴めの幻戯げんぎに心乱されたからです。お嬢にも未だ、人の心がおありのようだ』

 ずいぶん皮肉めいて聞こえるけれど──。

 決して悪気はないんだと思う。ボスとしては素直な感想を口にしたに過ぎないのだろう。実際、顔つきや声色から本当にほっとしているのが見て取れた。

「昨日のこと、知ってたんだね」

 あれから聞きました、とボスの指差す先を見る。

 ヘビドリが、社殿の屋根に止まっていた。翼はあるけど全身を覆っているのは羽毛じゃない。規則正しく重なり合う翡翠色をした鱗。顔は鶏でお腹は蛇腹。もしかしたら舌は──割れてるかもしれない。

『悪いねぇお嬢、あっ、詫びっちゃナンだけど鱗要らない? プレミア付くかもよん』

 ──おしゃべりめ。

『たかが幻戯とはいえ、あれを打ち破るのは易きことではありません。何かしら策はおありで?』


「──今夜いつもの時間に家に来て。そこで私があいつを倒すのに充分な何かを持っていると判断したら力を貸して。もしないと判断したなら、そのときはもう放っておいて」


 ボスの問いに私は答えない。ただ、俯き気味に要件だけを伝える。幼稚で、無礼だってことはわかっている。わかっているから、まともに目を合わせられない。

 僅かに目線だけを上げた。

 ボスは、笑っていた。出来の悪い子どもを見る父親のような眼差に、ひどくもやもやした。

 さて、やるべきことは済んだ。眼を閉じて、瞼の上から眼球をつい、と動かす。コンタクトレンズを付けたことはないけど、イメージとしては今付けているそれを眼球の裏へとズラす感じ。

 ばいばいと〈彼ら〉のうちの誰かが言った。

「──ばいばい」

 ゆっくりと目を開けた。


 人間私たちの世界で、木陰にいた。


 射し込む木漏れ日に目を細める。四月上旬、頬を撫でて通る風はもうすっかり春めいていて。あちこちから小鳥のさえずりが聞こえる以外、神社の境内はひっそりとしていた。

 ひとつ、あくびが漏れる。

 うとうとするには丁度いい天気と時間だけど、欠伸が出たのはそのせいだけじゃない。実際寝不足なのだ。恐らくは、私にしか聞こえていないあの家鳴やなりのせいで。もしあれの正体が〈彼ら〉と同類だったとしたら、そのときはどうしてやろう。

 ──憂鬱。私は、段々怖い人になっている。

 空を見上げる。大空を飛びながらさえずる一羽の鳥。名前は知らない。けど、綺麗な声だ。

 と、ぽきり、と小枝が折れる音。誰かが、落ちてたそれを踏んだのだろう。

「よお、ユキンコ」


 ユキンコ。


 ユキンコとは姉のあきらが私につけたあだ名だ。髪の毛が白い、肌の色も白い、着ている服も白い、だからユキンコだ、ということらしい。最初は、どうせ晶しか呼ばないんだし好きにしなよ、と口出ししなかったのだけれど、今となってはちょっと後悔している。学年違うのに、晶がやたら私の教室にやって来るから、一部のクラスメイトまで私をユキンコ呼ばわりし始めたのだ。中にはあだ名のせいで、私の本名を未だに「ユキ」と勘違いしている子までいる。

 それにしても、何で後ろから? 振り返る。

 木の幹に片肘ついて立っていたのは、案の定、晶だった。

 年は私よりひとつ上の十五歳で中学三年生。ドクロがプリントされたグレーのガーゼシャツに、チェックの赤いミニスカート。長い黒髪はハーフアップでまとめ、耳にはシンプルだけど赤いピアス。大野木おおのき六人姉妹──長女はささめ姉さん、次女は晶、三女が私で、四女は鏡花きょうかさん、五女はつくしちゃん、六女にヒナちゃん──の中で、私が一番お喋りする娘。


 そう、六人姉妹。姉妹といっても全員血の繋がりはないのだけれど。


「ヒバリだな」

「──何の話?」

「何って、アレだろ?」

 晶が指さした先には、さっきまで見ていた鳥たち。

「へぇ」

「へぇ──って、知らなかったのか?」

 頷いて、ヒバリって名前の鳥がいるくらいなら知ってたけどと付け足す。

「どうして枝に止まって鳴かないのかな」

「鳥が鳴くのって、オスがメスを誘ってんだろ? 枝に止まって鳴くよりか、飛びながら鳴いたほうがカッコいい──かどうかは私、メスのヒバリじゃねぇからわかんねえけど、やっぱデカいんじゃねえの? インパクト」

「──それ、本当?」

「マジだったら面白いよな」

 歯を見せて笑う晶に、私は目を細める。

「相変わらず、いい加減だね」

「うっせー、まともな答えなんか期待してなかったくせに。それと『相変わらず』ってなんだ。まるで私が年中なあなあで生きてるみたいだろーが」

「違ったの?」

 晶が眉根を寄せた。なあなあで生きるのってそんなに悪いことかな。

「ユキンコ、最近意地悪くなったな。だれの影響だ?」

「強いて言うなら、人にユキンコとかいう仇名つける人のせい。とりあえず、座る?」

 隣をポンポン叩くと、晶はおう悪ぃと言って、そこに胡坐を掻いた。いくら傍にいるのが身内で同性で、下にレギンス穿いてるからって、ミニスカートでこれはないと思う。

 いいかー、ユキンコ。私らは永遠にこのままじゃない。大人になったらどうしても年相応の服を着なくちゃならない。というか年相応の服しか似合わなくなる日が来るんだ。だったら今からアダルティな服を着るよりも、今しか着られない服を着た方が効率いいっていうか──。要は得した気分になんないかってこと?いや、さすがに私のセンスを強要するわけじゃねえし、年くってるくせに色気づいた格好してんじゃねーぞコラ、とまでは言わねぇけどよ。実際婆サンになっても今の私みたいなカッコしてたら、良くてケッタイな眼差しでチラ見される程度、悪くてそのスジの施設から抜け出したんじゃないかと勘ぐられた揚句、通報されるかもしれんが──。とにかく、今しか着こなせない、楽しめない格好はあるだろ。今しか見せられない自分ってヤツが。だから、私はミニスカートを穿く。そういうことさ。

 以上がミニスカート好きなのって何気なく訊いたときの晶の返事。

 まあ、そういうことらしい。

「とにかく、そういうトリビアは鏡花に訊けよ。あの有機コンピュータ女なら、大抵の事は一発だろ」

「そこは、まこ姉さんじゃないんだ」

「いや、まこ姉はなんか違うだろ? 鳥の美味い調理方法なら知ってんだろうけど」

「そう? 庭でベンチに腰掛けて小鳥眺めてるの、似合いそう」

「まあ、そりゃ同感。いわゆる『あらあらまぁまぁ』系のまこ姉なら間違いなく似合うだろうな。ベンチの他、さらにセットでお好きな紅茶と詩集を一冊とか言いたいくらいだ。以上の三種の神器が揃えば立派な深窓の令嬢の完成ってな。けどよ、今話題にしてるのは鳥の生態に詳しいかどうかだろ。まこ姉がヒバリ見たって『あらあら大きいスズメねぇ~』で終わりだって」

「ああ。言いそう言いそう」

 つい相槌を打ってしまう。あまりにも、その姿を思い浮かべるのが簡単だったから。

 まこ姉さんとは、私たち姉妹のお母さんのことだ。それなのに何故「姉さん」と呼ぶのかと言えば、最初まこ姉さんを「母さん」と呼ぶことに抵抗があってそう呼んでいたものが定着してしまい、今更呼び方を変えづらくなってしまったからだ。

 本当は「母さん」と呼んだ方が本人も嬉しいのかもしれないけれど、まこ姉さんもその点については気にしていないと言ってくれたので、結局そのままになっている。

「何か、すごく失礼な話をしてる気がするんだけど」

「あはは、心配すんな。まこ姉は年に関する話題以外じゃ、まず怒んないから」

 晶は締まりなく笑いながら、手をひらひらさせる。

 そう断言できるということは──つまりはそういうことなのだろう。

「でも、鏡花さんなら確かに知ってそう」

「鏡花、さんねぇ」

 拗ねたような雰囲気。「さん」の露骨な強調につい苦笑いをする。

「別にいいでしょ。『さん付け』くらい。晶って変なところに拘るって言うか──何だろ。執念深い?」

「そうそう、恩は水に流せ、恨みは石に刻めが晶さんのモットーってアホか。どんだけ外道だ私は。変なモンか。大野木家次女、皆大好き晶お姉ちゃんのプライドの問題だぞ?」

 つまり妹が「さん付け」なのに姉の自分が「さん付け」されないってどうよってことらしい。

「器が小さいよね。皆大好き晶お姉ちゃん」

「なあ、今日冗談抜きでちょっとキツ過ぎね? もしかしてアレか。生理か? ──って、痛!」

 こういうときはいつもなら脛を蹴飛ばすんだけど、お互い座っていてはできっこないので代わりに太腿を抓っておいた。

「さぁて、何の話してたっけ」

「あー、あれだ。鳥の美味い食い方」

「──もしかしてお腹減ってる?」

「ん、言われてみりゃ小腹が空いてるかもな」

 晶が、私の腕時計を覗き込んでくる。

「もうすぐ三時だね」

「だな。そろそろまこ姉も帰ってくるだろうし、オミヤでも期待しとくか」

 晶は、頭の後ろで手を組み、ぼんやり空を眺めながら、

「やっべー。急にマンゴープリン食いたくなってきた」

 多分誰に言うわけでもなく呟いた。

 おしゃべりも一段落したし、立ち上がる。お尻についた土を払って、木陰の外に出た。ここからじゃ、空がよく見えなかったから。

 晶が、ぎょっとして日傘片手に立ち上がろうとした。

 くすりと笑ってかぶりを振る。本当に姉馬鹿だなって思う。ちょっとくらいなら、日光を浴びるくらいなんてことない。吸血鬼じゃあるまいし。

 ──そう、吸血鬼なんかじゃなくて。


 まだ、れっきとした人間だ。


 空を仰いだ。もうヒバリの姿は見えない。

「なあ、ユキンコ」

「何?」

「今から変なこと訊くぞ」

 今更そんな前置きしなくたって、と茶化しかけて止めた。

 晶の声色が思いのほか真面目だったからだ。


「幽霊って信じるか?」


 ──幽霊?

 私は晶を見た。冗談を言っているような顔ではなかった。

「何で、そんなこと訊くの?」

「質問を質問で返すなよ。いや、まあ、ささめの奴がちょっとな」

 ささめ姉さんが?

 晶は頬を掻きながら、私から視線を外した。何だか、きまりが悪そうだった。

 ささめ姉さんと幽霊──その関連性を考えようとして、あまり気分のいいものではない発想に行き着く。胸が、詰まるような気持ちになった。

「ささめ姉さんが──そう訊いたの?」

「ンな深刻そうな顔すんなよ。あいつだって、ちょっとふざけて訊いてみただけだろ」

 そんなことは、ないと思う。

 晶だって本当はわかっているはずだ。

 少なくとも今のささめ姉さんが「幽霊」だなんて単語、軽々しく口にするはずがない。

 絶対に。

「晶は、何て言ったの?」

「あー、私か?」

 うん、と頷いた。

「いないって言った」

「──」

 いないって言ったんだと半ば投げ遣りに繰り返して、晶は目を閉じてしまった。その仕草は、この話題はこれでお仕舞いだっていう合図に思えた。というより実際そうなのだろう。

 私は何も言わない。この神社は今や避難所みたいなもので、ここでは当たり障りのない話しかしないのが暗黙のルールだ。

 いつもなら、晶と黙って座っていることは苦痛でも何でもない。他の姉妹や仲の良いクラスメイトだったらそのうち何か話した方がいいのかなってそわそわしだしてしまうけれど、晶は違う。多分いつまでだってこうしていられるし、純粋に心地いいと思える。


 でも、何だか──。


 空を見上げる。

 どこかに視線を落ち着けたかったけれど、何も見付からなかった。

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