03『波の回折(ホイヘンスの原理)』
同級生と食堂で昼食をとる予定だったある日のこと。
野菜のゴロゴロ入った「お母さんカレー」を欲していたものの、メニュー名を声に出すのが若干照れ臭く、さてどうしたものかと頭を悩ませていたところ、前に並んでいた人が偶々それを頼んでくれたので、じゃあ自分も同じのくださいと便乗することで難を逃れたがゆえ、ちょっと得した気分で席に着こうとしていた僕を、
「キヨ!」
聞き覚えのある声が、聞き覚えのあるあだ名で呼び止めた。
振り向くと、植木先輩が固い面持ちで手招きをしていた。同級生に多分生徒会の話し合いがあるからと断りを入れて、僕は植木先輩に促されるまま、彼の隣に着席した。
向かいには、一人の女生徒が頬杖をついて座っている。
一目見て、苦手なタイプだと思った。赤みの入ったチョコレートみたいな色の長髪に、ゆるく締めたネクタイ。座っているから見えはしないが、どうせスカートは短くて派手なラインソックスを履いてるに違いない。そして、某児童向け小説に登場する猫を彷彿させる意地悪そうな目つき。
──似ている。
小学一年生の頃、僕の胸ポケットへ執拗に虫の死骸を入れようとしてきたあの女子と同じ、アーモンド型の目だ。
彼女は僕を見ると、おーっと小さく声を上げて、指先だけを打ち合わせる控えめな拍手をした。
「これが噂のキヨモリ君かぁ」
僕は、植木先輩を見た。訂正。彼女のからかうような微笑に、居心地の悪さを感じて目を逸らした先に植木先輩がいた。先輩は、とってつけたような笑みを浮かべている。どうも生徒会の話をする雰囲気ではない。
一方、女生徒の方を見れば、彩り鮮やかでこじんまりとした弁当が鎮座ましましていた。ガパオライスにパクチーの入った春雨サラダ。
──エスニック料理というやつか。
そういえば、生徒会に所属して以降仲良くなった料理男子がクラスにいるのだが、最近見た彼の弁当もまたエスニック風だった。
流行りなのだろうか──エスニック。確かに、口に出して読みたい語感ではある。
「好きなんです? エスニック」
本気で気になったわけではない。ただ、僕を呼んだ植木先輩の意図が掴めない以上、雑談でも振るしかなかった。
「オシャレじゃん。ダメ?」
女生徒が、耳の後ろに髪をひっかける。露わになった白い耳たぶには、ピアスの穴が開いていた。ああ、先輩の関係者でなければ、絶対関わりたくないタイプだ。
「ダメとは言ってませんよ。僕もオシャレだとは思います。植木先輩はいつもと同じメニューですね」
「えっ、あっ、おう?」
──どうしたんです? 植木先輩。
「何ですその原始人みたいな返事」
口走って、はっとする。
しまった。つい本音と建前が入れ替わってしまった。
女生徒が、口許を両手で覆って吹き出した。存外鈴を転がすような笑い声だったので、ちょっと聴き入ってしまう。
「おいおい、毒舌だなぁ」
植木先輩は苦笑いを浮かべる一方、どういうわけかよくやったと言わんばかりの目力を僕へ寄越してくる。意図しない発言であったとはいえ、多少は場を和らげるのに貢献できた──のか。
話を続けるうちに、わかったことがいくつかある。
まず女生徒の名前は桐宇治静といって、僕と同学年であること。彼女はバスケ好きでもマネージャー志望でもないのに、男子バスケ部の練習をよく覗きに行くこと。そこで植木先輩と知り合い(ここの説明はかなりざっくりだった。つまり、どちらから声を掛けたのか問題は放置されたままだ)、今日はこうして昼食を共にしている。廊下で偶々会ってな──と先輩は付け足したが、その余計な補足のせいで嘘であることは丸わかりだった。
で、二人の空間へ何故か僕が呼ばれ、何だかじれったい会話のキャッチボールのアシストを任された。
僕は、二人の顔を交互に見た。植木先輩が桐宇治さんを、そして桐宇治さんが植木先輩を。互いを見つめる瞳を探った(つい気取ってしまったが、正直探る必要なんてなかった。それくらい二人はわかりやす過ぎた)。
導き出される答えは、難しいものではなかった。
「ところでさ、私とキヨモリ君って
桐宇治さんにそう訊かれ、同学年だとは思いもよらなかったと素直に答えることが、何とはなしに失礼だと感じられた僕は、
「三人で話してると桐宇治さんにはタメ口、先輩には敬語使うわけじゃないですか。そういう使い分けって難しいので」
と説明した。
あながち嘘ではなかった。
桐宇治さんは、また堪え切れないとばかりにコロコロと笑った。
ウケを狙ったつもりはなかったのだけれど。
それでも
そういうことにしておいた。
「今日は助かったよ、キヨ。ほんっとサンキューな」
桐宇治さんが抜けたあと、食堂近くの自販機前でミックスジュースを啜る僕に、植木先輩は力強く手を合わせた。ちなみにジュースは先輩のおごりだった。爽やかだったが、別段美味でもなかった。
「良かったですね。良い引き立て役が見つかって」
植木先輩が、幽かに顔を強張らせた。それから、壇上でスピーチをしたとき以来の真剣な面持ちで、
「悪かった」
と深く頭を下げた。動作こそあまりに全力で、それゆえコントっぽかったが、頭を下げている時間からこれはどうも本気だぞと思い、僕は慌てた。
「冗談ですって。真に受けないでください。それに、楽しかったちゃあ楽しかったですよ」
曇り気味だった先輩の瞳に、一瞬にして光が灯る。
「そうか! じゃあ引き続きよろしく頼む」
そう言って、僕の両手をがっちりとホールドしてくる植木先輩。もちろん、
この人は将来政治家向きだなと、腕を上下に揺さぶられながら思った。
※
「何だそいつ図々しい野郎だな」
それが、僕の口から植木先輩の人柄について語った際、従兄の放った感想だった。まあ、否定はしない。誰かにそうやって一蹴してほしかったからこそ、打ち明けた部分も少なからずあったわけで。
都会の大学に通う従兄は、深夜のバイト続きで生活リズムがガタガタであること、一人暮らしで多少なりとも自炊はすれど、栄養面もまたガタガタであることを殊更僕に主張した。
が、バイト禁止の高校で帰宅部──つまりは、極端に早起きする用事も遅くに帰る用事もなければ、基本は一日三食母の手料理である僕よりずっと健康的に見えた。
「×××(ここには僕の幼少期からの愛称が入るが、恥ずかしいので記しはしない。語り手の特権である)よく我慢できるな。俺だったら絶対無理だわ」
従兄は、怪獣のソフビ人形で遊び相手をしてくれていた頃と変わらぬ愛称で、僕を呼んだ。月日という溝をためらいなく埋めてしまうその潔さには、少し戸惑わされる。
それにしても──我慢?
「別にそんなんじゃないって。それに、見てるとちょっと勇気もらえるんだ。自分もこれくらい勝手気ままで良いのかなーって」
言いながら、頭の隅っこで思う。
我慢って、何に対して?
思うばかりで、訊けずにいる。
「世界中の人間が×××みたいな懐のデカさだったら、世界平和も間近なのにな」
懐の広さではなく、単に着眼点の違いだろう。ただ、久しぶりに
※
それ以来、偶に昼食を三人でとることがあった。
今日お昼どうする──なんて確認のメールをくれるのは大体桐宇治さんだった。何回か恐れ多くも直接彼女が教室まで呼びに来てくれたことがあったが、一部女生徒(誰と誰が今付き合っていて、誰と誰が最近別れたとか、そういう情報収集に日々躍起になっているタイプ)の視線に嫌気が差したのだろう。アドレスを交換して、以降はメールで報せるからという運びとなった。
何故か自分の過失であるような気がして、携帯をいじる桐宇治さんにすみませんと謝ると、
「言っとくけど、私はああいうの全然気にしないから。ただ──」
そこで、桐宇治さんは言葉を切った。手を止めると、眉根を不安げに寄せて、上目遣いに僕を見た。
「キヨモリ君は、気にするでしょ?」
僕は、まあ──とかいう曖昧な返事をしながら。
目を、逸らした。
桐宇治さんは、僕が図星をつかれたからこのような反応をしたと勘違いしただろうか。勘違いしてくれただろうか。
元々他人と目を合わせるのは得意じゃない。ただ、相手の眉間当たりに目をつけて、目を合わせているフリをするのは得意だ。そういうテクニックには自信があった。あった──はずなのだけれど。
きっと、苦手だからだ。かつて苦手だった女子に目元が似ているからだ。
それ以上の理由なんてあるはずがない。
そう、言い聞かせた。
三人で一緒に帰ることもあった。
僕には生徒会の仕事が、植木先輩はそれに加えて部活や進路相談、桐宇治さんは桐宇治さんで彼女なりの付き合いがあるので、三人揃うことは滅多になかったけれど。僕は、自転車を押して歩く先輩とその隣を歩く桐宇治さん、二人の斜め後ろを従者のようについて歩いた。
桐宇治さんは、いやペットじゃないんだしさぁ──とそこそこ切れ味のある言葉で、僕に隣を歩くよう促したが、横一列になって他の歩行者の妨げになりたくないからと僕は断固として拒んだ。
別に全くの嘘ではない。僕のモットーは、他人にできるだけ迷惑をかけないことなので。
ただ、口にしなかった部分をあえて言えば。
僕は、並ぶ二人の背中を見ているのが好きだった。
二人の斜め後ろから見える、景色が好きだった。
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