04『サウザンクロス』
ある日の放課後、隣の教室で机に伏せる桐宇治さんを見つけた。
彼女の席は、教壇から見て右手の一番後ろにあった。腕を顎置きに唇をきゅっと尖らせて何やら考えごとをしているふうだったので、そのまま通り過ぎようと思ったのだけれど。
ふと目が合って、さらにはひらひらと手なんて振られてしまったものだから、僕は他所のクラスの敷居を跨がざるを得なかった。教室には桐宇治さんの他に女子が三人前の方へ集まっていて、僕に
何してるんです──と僕が尋ねるより早く、桐宇治さんは
「これよこれ」
と言いながら、左右に振って見せた。
それは図書委員会の企画で配られたプリントで、自身の愛読書をレビューするという内容だった。つまり、そもそも愛読書なんてない人間は、まず読書を嗜むことからスタートしなければならないわけで。
まさに読書強化週間の名に
ちなみに僕はというと、実写映画化、アニメ化、漫画化と幅広くメディア展開している国内ミステリー小説を選んだ。とどのつまり無難中の無難へ逃げたわけだが、事実好きな作家の作品ではあったため、全くの嘘偽りでもない。
どれほど好きかというと、その作家が近日出身大学で予定しているサイン会の日時を把握しているほどだ。まあ、行きはしないのだけれど。県外だし。把握しているだけで、自分ファン頑張ってるじゃん──的な自己肯定感がいくらか育まれるので。
「それ、今日提出じゃあないでしょ」
「じゃあないけどさぁ。明日明後日やるかーってものでもなくない? だから今やっちゃおうかなって」
なるほど、殊勝な心がけだ。ただ、あいにくと桐宇治さんの手はペンを回すばかりで、プリントの空白は僅かばかりも埋まっていない。強いて言えば、本のタイトルを記入する欄だけが埋まっていた。
──『銀河鉄道の夜』。
思わず、桐宇治さんの横顔を見た。
好きなのか、宮沢賢治。
徐に目線を机へと戻して、合点がいった。プリントの隣には、現代文の教科書が広げられていた。桐宇治さんには日頃本を読む習慣がない。されど、この企画のためだけに活字に触れるのはどうにも面倒臭い。
だから、今授業でやっている『銀河鉄道の夜』なのか。
そこまでして新たな知と出会う手間を省きたいか。斬新過ぎる目の付けどころである。
座りなよと言って、桐宇治さんは隣の席の椅子を引いた。手ではなく、椅子の脚に自らの足首を引っかけて。履いているのは短い紺色のソックス。ああ、いつぞや派手なラインソックスを履いているに違いないなどと決めつけてごめんなさい。心の中でひっそり謝罪を述べておく。
特に急ぎの用もなかったので、大人しく着席した。さて、この流れだと私が頭を悩ませる様をただ黙って見ていろ──というわけでもないのだろう。僕は、プリントの内容が読める距離まで椅子を近付けた。
教科書には、ところどころ蛍光ピンクによるマーカーが引かれている。暗記科目ならともかく現代文の教科書をこれほどビビットに彩る必要性やこれ如何に。
「このマーカーって何で引いたんです?」
「何でって、綺麗な表現だったから」
だから書こうと思って──と桐宇治さんは、プリントの空欄をペン先でつつく。
ほう、と思わず声が漏れた。煽りでも何でもない、感嘆の声である。
『銀河鉄道の夜』は、現在授業で読み進めている最中だ。つまり桐宇治さんは物語の
だから、気に入った比喩表現に着目したのか。
──そういう手間は惜しまないのか。
桐宇治さんが、口元に手を添えて笑みを覗かせる。どうやらまた僕の挙動が、彼女のツボを刺激したらしい。
「ええっと、今のはどこが?」
「どこがって、だって『ほう』って。何? 次は『左様』とか言っちゃう?」
「じゃあ──左様」
「いやいや、別にリクエスト違うから」
キヨモリ面白いわーと言って、桐宇治さんは遠慮なく笑う。
僕は、小さく息を飲んだ。襟足の毛を人差し指と親指で挟んで、無意味にいじくる。そういえば、植木先輩と僕の共通点は、髪型がベリーショートであることくらいだ。何かがおかしい。落ち着け。どうしてこのタイミングで先輩と自分を比較した。
桐宇治さんは、間違いなく僕が距離を取るタイプの異性だというのに。
僕は、女子グループをちらと見やった。
止せ。考えるな。彼女たちの目に、僕と桐宇治さんはどう映っているのかなんて、絶対に考えるな。シロクマ効果恐るべし。止めろ、止めろ。
「桐宇治さんって真面目なんですね」
「でしょ。って言いたいけど、何? どしたのいきなり」
「いや、だってレビューですよ。
プロのライターでない以上、コピペチェックツールに晒されるわけでもあるまいし。
桐宇治さんのペン回しが止まった。大きく
「天才じゃんキヨモリ。学問の神じゃん」
「それはミチザネでしょ。っていうかもうタイラノですらないし」
ああ、気付いてしまった。表情にこそ出さないように努めたけれど。
──呼び捨てになっている。
所詮はあだ名だ。要らぬ勘繰りをするべきではない。そういうのが、親しくなってくると当たり前の
桐宇治さんは頬杖をつくと、ペン回しを再開する。よく見ると、シャーペンはビビットなピンク色だった。そういうピンクが好きなのだろうか。
「ねぇ、キヨモリ」
「はい?」
「真面目な
桐宇治さんは、窓の外に顔を向けたまま、僕にそう訊いた。
そう、僕に訊いたのだ──と思う。
白い耳たぶが、髪の隙間から覗いていた。
ピアス穴は、塞がりつつあるように見えた。
そりゃあ不真面目よりかはいいでしょ──と僕は言った。
自分でも少しだけ、声が擦れているのがわかった。
案外真っ当に取り組んだレビューを提出して、なんとなく二人で下校する流れになって。
「僕も──訊いてもいいですか」
誰もいない廊下。教室をちらと覗けば、いくらか居残りはいるようだけれど。
相も変わらず、桐宇治さんの斜め後ろを保ちながら、僕は彼女にそう尋ねた。
「僕も?」
桐宇治さんが眉根を寄せて、首を傾げる。
「訊いたじゃないですか。僕に──真面目な娘の方がってやつ」
「ああ、それ」
「はい。だから、僕からもいいです?」
そこまで言って、早くも後悔する。どうして、僕が答えたんだから桐宇治さんも答えてくださいみたいな構図にしたんだ。これじゃあ、今から振る話がやたら大袈裟みたいじゃあないか。
もっとフランクに、他愛ない話の合間にでもちょこっと挟めれば良かったのだろうが。あいにくと僕にそんな小気味よいトークスキルはなくて。
桐宇治さんが、いーよと言った。言葉だけならいつもの彼女だったが、表情は気持ち硬めに見えた。身構えさせてしまったことに胃を痛めながら、僕は小さく息を呑んで、尋ねた。
「先輩の──どこが良かったんです?」
言わずもがな、この間僕は目を伏せている。
桐宇治さんの方を見てはいない。直視することなどできない。
「おーっとぉ?」
零すような笑いの混じった桐宇治さんの声。何だか僕の方が追い詰められている気がしてくる。否、別に彼女を追い詰めたくてこんなことを訊いたわけではないのだけれど。
そうだなぁ──と桐宇治さんが言った。目線を徐に上げれば、彼女は窓の外を向いていた。多分、綺麗に晴れた空を見ていた。
正直──思っていたリアクションと違った。
もっと照れるとか、過剰に声を高くするとか。そんなんじゃないよって、その場凌ぎの否定をするとか。いつもみたくコロコロ笑って、何言ってんのキヨモリとうやむやにしてしまうとか。
そんな反応を予想していた。
決して──答えてくれないことを期待していたわけではない。
「生徒会の応援スピーチあったじゃん? キヨモリもやってたでしょ」
「まあ、そうですね」
「あのときかなー。何かイイなーって思った」
──何かイイなー。
細かいことを言えば、僕がやったのは応援スピーチではない。生徒会所属に向けた決意表明の方であって、応援スピーチはしていない。でも、桐宇治さんにとって、あれはそういう位置づけなのだろう。彼女の心に深く残ったのは、多分植木先輩の姿と声だけだったのだから。
せめて、バスケをしている姿であってほしかった。そう、思ってしまうのは何故だろう。スピーチだと自分にも可能性があるような錯覚に陥るから? せめて、縁のないスポーツという分野で気を引いてほしかった? そうしたら、綺麗さっぱり諦めがついた?
待ってくれ。諦めって何だ。
──何なんだ。
「あっ、でもさ。キヨモリもカッコよかったよ」
思い出したように、正真正銘のおまけみたいに、桐宇治さんはそう言った。何かイイなーと呟くときに見え隠れしていた、一握りの照れみたいな感情は、まるで見えなかった。
ありがとうございますとお礼を述べて、僕は足許を見る。
桐宇治さんの斜め後ろ。それが、彼女と行動を共にする上での適切な立ち位置。
僕の一番好きな景色が見える場所。
これ以外の視点なんて、望んではいない。望みはしない。
そう、自らに言い聞かせた。
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