最終話 林檎と苺

 大学祭が終わって、季節は一気に冬であった。寒い、という言葉が口癖になっていたが、彼は相変わらず外の机と椅子を愛用していたのである。

 僕も時には付き合い座っていたが、その日はかなりの冷え込みであった。しかし太陽が出ていて、僕と彼の頭上に、弱々しいがちょっとした暖かさを与えてくれていた。僕は控えめなぬくもりをできるだけ浴びるように意識していた。冬の風が文字通り、ぴゅーと、一つ吹き飛んで行った。彼の被る帽子が飛ばされそうになったが、彼はタイミング良く左手で押さえた。

「あのさ、前から気になってたんだけど、急に痩せたってあれ、どうしてか聞いてもいい? 答えたくなければいいけど。まさかダイエットしてたんじゃないだろう? あのさ、すし券、まだ使ってないんだ。一緒に行かないかと思って」

 そんな誘い方をしたのは初めてだった。

「本当は恥ずかしいから言いたくないんだ。でもまあ、教えてもいいかな」

 彼の躊躇する訳が良く分からず、僕は無邪気な子供のように、彼の話をきたがった。

「ダイエットなんかじゃないんだ。実は僕、ストレスがたまると太る体質で、すごく食べるようになるとかそういう事もないのにね、何故か太っちゃって。ストレスがなくなると痩せる、それを小学校四年生の頃から繰り返してて。分かりやすいんだよ。でもそれって、体に悪そうだろ? 一度だけ、中学を卒業する頃だったかな、今までになく急激に太ったんだ。その太りようは半端ではなくて、親が心配になったんだろうね、病院に連れて行かれて。最初は内科で血液検査とかしてもらったけど特に異常はなくて、最終的にはメンタル系に回されて、結局のところストレスが原因だって言われて、少し薬をもらったりしてた。痩せるとストレスが消えたって分かるんだ。太っていると、体中の全てが滞るような感覚で、体の動きもそりゃあ鈍いし、脳みそもうまく働かない。全部が後手後手で、成績も落ちる。だけど痩せるとね、一気に体が軽くなって、苦手な運動も多少は良くなる。頭もよく働くから成績もみるみる上がるんだ。高校時代はね、ストレスがなくって、ずっと痩せてた。だから成績もよかったし、毎日気持ち良く学校へ通えていたんだけどね、大学に入って、そう、君が心配してくれる少し前、僕、今よりも少し太っていただろう? やっぱり環境が変わるとだめなのかな。馴染むまではストレスが多くて太ってしまう。でも今は痩せてる。ずっと変わってない。そういうこと」

 僕は戸惑いもしたが、彼は確かにストレスなく生活していた。心配なのは、ミスターコン以来、彼の今にも沸騰しそうな人気であった。彼にストレスを与えることがないようにしなければならない。しかし、壊れるときは一瞬だ。気を付けなければならない。彼を守れるのは僕だけなのだ。


 大学は、あのお祭り騒ぎが嘘だったかのように落ち着きを取り戻していた。どこを歩いても、しん、としていた。冬の澄んだ空気がそれに拍車をかけ、寒さも準備万端待ち構えていた。大学を出ると、そろそろ年末のイベントに向けて街中が浮足立つ番であった。自然の変化で彩られる街路樹は人工物で覆われ、張り巡らされた電飾が罪の意識もなく浮かれ始めるのである。

 強制的にその時の流れを受け入れさせられるこの国の浅はかさが、僕は大嫌いであった。ハロウィンだから、クリスマスだから、正月だから、バレンタインだから。だからだからで、人の口から出る言葉はどれもコピーをしたように同じなのである。毎年繰り返すイベントに浮かれるふりをするのも、いい加減疲れてきていた。彼に救いを求めるのは、そんな気持ちをクリーンにしたいからかもしれない。

「あのさ、誰にも話した事ない話なんだけどさ」

 ただ聞いて欲しかった。それは、昼ごはんを一緒に食べたり、教室で隣合ったりするような相手にではなく、彼に伝えたいことであった。それほど重要な事でもない、別に言わなければ言わないで済む話ではあるのだが、彼と共有したくて仕方がなかった。完全な僕の自己満足であった。

「うん、何?」

「話してもいい?」

「もちろん」

「あのね、小学校の頃の話なんだけどさ」

 僕が話し始めると、彼は動かしていた指先を、珍しく即座に止めた。

「左足の小指をね、骨折したことがあるんだ。小学校の頃だったんだけど、足の小指ってさ、よく家具とかの角にぶつけるだろ? 僕もしょっちゅうぶつけてたんだけど、ある日の晩ね、風呂上りだったんだけど、パジャマを着て家の廊下を歩いていたらぶつけちゃったんだ。僕の家は鉄骨でできていて、無駄な部分に思わぬ柱の出っ張りがあってさ、そこに普段もよくぶつけていたんだけど、その日は結構強めにぶつけちゃって、かなりの痛みだった。でもまあ、しばらくすれば痛みは治まるだろうと思って我慢してた。その時、ちょうど母が僕の近くを通り過ぎようとして、スリッパを履いた足で僕の足を踏んだんだ。ぶつけて痛い部分をね。あれは本当に痛かった。僕が足を柱にぶつけていたなんて母は知らなかったから、軽く謝る程度でどこかへ行ってしまって。でも母に踏まれたからヒビが入ったくらいの怪我が骨折にまで昇格したんだ。確信がある」

「骨折、災難だね」

「あまりにも痛いからさ、次の日の夕方、整形外科に連れてってもらったんだ。次の日だよ。怪我したのは月曜の夜だったから、火曜日の夕方。僕、学校へ行ったんだよね。その日はね、一日中どうも左足全体が痛かったんだけど、歩くには支障がなかったんだ。足の小指って、大して力入れなくても歩けるのな。だから普通に歩けたんだけど、痛みは確かにあった。我慢してたんだ一日中。先生にも言えず。頑張って家まで帰ってから、母に、どうしても痛いから、って言って、そしたら病院へ連れてってくれた。問診でも診察でも左足の小指が痛いって言って、そしたらレントゲン室に回された。ところが、レントゲン室で何が起きたと思う? レントゲンの人、僕の右足をレントゲン台の上にセットしてレントゲンを撮ったんだ。まだ小学生だったけど、絶対に違うって分かってた。分ったんだけど、どうしても言えなかった。怒られそうな気がしたからさ」

「それで?」

「レントゲン技師はさ、カルテみたいな紙を見ながらやってるんだ。絶対に言えないよ。僕は痛くもない右足のレントゲンを撮られて、診察に回された。レントゲン室を出てから母に言ったんだ。母も困った様子だったけど、診察の時に言うわ、なんて言って。かなり待たされて診察室に入ったら、医者はパソコンのレントゲン写真を見て、診断を始めた。気付かないんだよ、反対の足だって。骨は傷ついていませんね、なんて言い出すからさ、さすがに母が、怪我したのは左足なんですけど、右足を撮られたようで、と言って、医師はやっと気が付いたんだよね。僕は再びレントゲン室さ。小学生だから舐めてたのか、って思うよ。とぼけた顔をしていたんだそのレントゲン技師。でも僕とその人とでは、確実にその人の方が上だった。僕は逆らえない、そんな構図が出来ていた。今だから笑うけど、その時はね、本当にドキドキして。僕の痛くない右足は無駄に放射線にさらされて、取り返しがつかないよ。微々たるものでもさ、必要がないものを与えられて、それを逃す事もできない。負ったものは一生なくならない」

「今日は随分と文学的な事を言うんだね」

 彼は僕の話の締めくくりを褒めた。彼自身も足の親指の爪が突然剥がれ落ちたり、爪の生え方がおかしいから爪切りが難儀だとか、足の話をいくつか持ち出し、僕を慰めるような話をした。しばらく二人で足の話を続けた。特に面白い話でもないのに、二人で話す時間はすぐに過ぎた。

 S学部のM君が話の中に突如現れた。M君が大学を辞めたらしい、と彼は人づてに聞いたらしく、どうしてだろう、と僕に疑問を投げかけた。僕は、さあ、と答えるしかなかった。S学部のM君の姿すら見た事もなかったから、本当にM君がこの大学に存在していたのかどうかも定かではなく、全くの空想世界だ。彼が敢えて僕にその話を投げかけた事に何か意味はあるのだろうか。それとも独り言程度の話だと受け取っていいのだろうかと僕は真剣に考えていた。


 すし券を口実に彼を食事に誘い出したのは、クリスマスイブだった。翌日から大学は冬季休暇でもあった。五限までを大学で過ごし、彼とはいつもの定位置で待ち合わせをした。外はすっかり暗くなっていて、冬の装いもすっかり体に馴染んできていた。体感温度はちょうどいい具合で、優しく僕たちの体を包んできた。

 大学を出るまでには長い下り坂がある。その道は大通りにぶつかるようにまっすぐ伸びていた。普通に歩いているつもりでも、何となく速足になるほどの傾斜であった。彼と大学の外に出るのは初めてだった。痩せて細い彼の脚は弱々しく、その歩みは下り坂に負け、まるで小走りをしているかのような歩き方だった。

 回転ずし店は、大学を出て数分の所にある店だが、ほぼ大学内と言ってもいいくらい街も店も同じ大学の学生で溢れている場所であった。街は綺麗にライトアップされ、彼のほっそりとしたシルエットがカラフルな背景に映えていた。


 混み合う店内の誰もかれもが、年末に向けてはしゃぎ出すのを我慢しているかのような雑音を作り出していた。

「すし大好きなんだ」

 彼は、週末に食事に連れて来られた小学生のような顔をして言った。

「そう、良かった。思いっきり食べれるよ」

 彼は僕が思っていた以上に、空き皿をテーブルの上に積んでいった。僕も負けずにその高さを追いかけた。大した会話はしなかった。ともに同じものを食べているという事実だけで満足もした。

「また来よう。まだ六千円も残ってる」

 僕はそう言って再び彼と会う口実を作っておいた。


 世間は狭いというのが彼らの口癖だ。僕の家には大きな仏壇があり、年に二度ほど親戚中が集まってくる。父の兄弟が多いせいで、その数総勢八人とプラス子供が五人程。僕はいつも強制的に同席を求められた。小さい頃は、ただそこに居ればお小遣いをもらえるので黙って座っていた。全く自我もない状態だったので楽だった。しかし、僕は今でもその場に座らされ、毎回同じ言葉を掛けられている。

「大きくなったなあ」

「今何年生?」

「部活は?」

「今年受験か」

「早いねえ」

「もう大学生?」

 経年の結果である。この家に住み続けている。自業自得である。繰り返し繰り返しなのである。そこに集まる人たちは、変わらないことこそ人生の美徳とでも思っているらしい。彼らにとっては、同じことを繰り返している者こそ、認められるべく人間なのである。誰一人、体の中に芯を持っていない。芯がないから、繰り返すことに不安や不満が発生しないのだ。僕もその中の一員になりかけている。このままでは確実にそうなることは目に見えている。僕の中ではそれを良しとしない。目の前の人らを蔑み、絶対にそんな風にはならない、と大声で宣言したい気持ちになる。

 同席している間、できるだけ彼らの目は見ず、話もせずに済ませようとしている。同じじゃない同じじゃない。呪文のように繰り返し、謎の笑顔だけを浮かべているのだ。そしてその人らの大好きな言葉が、世間は狭いわね、である。そりゃそうだろう。この狭い範囲内で繰り返しているんだ。狭いに決まっている。今度彼と会った時には、この話もしようと思った。


 クリスマス仕様のショートケーキが回転ずしのレーンを滑り、てっぺんに乗せられた見世物のような苺が、落ちそうになりながらもホイップに必死にしがみついていた。一つ間違えばケーキの体を失いそうなショートケーキはしぶとく踏みとどまり、しかし滑稽であるには間違いない状況で僕たちの横を通り過ぎていくのを、ほぼ同時に見つけ、彼が笑うから僕も笑った。

 彼の大きな瞳に小宇宙を見つけて以来、それを満足行くまでのぞき込む事はまだ出来ていない。彼に話そうと思うことが日に日に増えていく。夏が過ぎて以降、彼の姿を探すのはやめた。そういえばその頃からか、あのキジトラ猫も見掛けなくなった。金木犀の香りに背中を押され、季節の変わり目の気まぐれな空の下、僕は空きコマの時間を潰したりして、時の流れをゆっくりとたどっている。


                                    完

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林檎と苺 高田れとろ @retoroman

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