求めた黒薔薇

柚季

本編

 本当は出席などしたくなかった。

 退屈な貴族の世界―――私が身を置く世界は、半分が噂話で出来ていて残り半分が愛憎に満ちていると思っている。駆け引きは苦手だ。

 だから、私はこの世界が嫌い。でも、この世界でしか生きる術を知らない私はこの世界から離れることは出来ないのだ。



 今回の夜会もただお父様が寄付金を集めるために開いたものだと聞いている。

 孤児院への寄付金を募るための夜会というが、ただ自身の富を見せびらかしたいだけだろう。

 あまり興味もなかったが、主催者の娘が参加しないのもどうかと言われて仕方なく参加した。

 私は夜会が嫌いだ。醜い貴族社会をみているようで本当に吐き気がする。

 爵位に目がくらみ上辺だけで近づいてくる者が多く、今日もどうやって殿方からの誘いを断ろうか考えていれば、声がかかる。

 その声は恋焦がれているあの方の声―――


 

 

「今回は参加なされていたのですね」

 

「…レイアズ伯爵」

 

「夜会嫌いと有名なあなたに会えるなんて幸運なことこの上ない」

 

「そう言っていただけて、幸いです」


 

 

 形式的な挨拶交わしていれば演奏がはじまり、そのタイミングの良さに眉を顰めそうになったが、レイアズ伯爵の口角がわずかにあがる。

 その表情を見逃すはずもなく、眉を顰める。

 


 

「一曲踊っていただけますか?レディ」

 

「私でよろしければお願いします」

 

「では、失礼」

 


 すぐに、淑女の仮面を被る。

 ぴたりと腰に手を当てながらも、涼しげな瞳の奥には人を捕らえて離さすことのないギラギラとした欲望がみえる。

 その瞳に囚われてしまった私は逃げることが出来るわけもない。



 彼が独身であればどれだけよかっただろう。

 奥方とふたりの子を持つ彼―――アルベルト・レイアズは私の愛しい人。



 はしたないことだと理解はしていた。未婚の淑女が、奥方を持つ人と密会を重ねることは。

 これが、爵位の低い者の妻であったなら珍しいことでもなかっただろうに。

 歴代の国王の愛妾たちは全て貴婦人の肩書きを有していたのだから。

 それなのに、レイアズ伯爵は私を何処かの貴族に宛がうことを嫌っていた。立派な行き遅れになってしまうのではと、心配している自分もいるのと反して、誰かの物にならずに済むと安堵している自分もいる。

 お父様もこの歪な関係に気付いてはいるみたいだけれど、口を挟んでくることはしない。

 歴史あるレイアルズ伯爵家と正式とは言わなくも縁が欲しいのだろう。

 


 

「私と踊っているのに、考え事かい?」

 

「…アルベルト様とのことを考えていたのよ」

 

「それなら大歓迎だ」

 



 社交用の笑みで微笑まれるが嬉しいとは思えない。

 だが、アルベルト様が笑みを見せるだけで、この会場の令嬢やご婦人たちは黄色声をあげる。

 それが気に入らなく、あからさまに不機嫌になると困った顔で言われる。



 

「困ったレディだね。そう言えば、リザーナ。来週、開かれる仮面舞踏会への参加予定はあるかな?」

 

「まるで、私が蝶のようだと言われているようですが」

 

「そういう意味ではないよ。ここよりも、多くキミと密着していられると私は言いたいのだが」

 

「…考えておきます。あまり夜会は好きではありませんので、堂々とアルベルト様と会えるというのなら、それもいいかと」

 

「君ならそう言ってくれると思っていた。それにしても今日のドレスは、まるで僕の瞳の色を纏っているみたいで、嬉しいよ」

 

 


 その瞳をいまだけは私が独占している。

 この会場にいる誰かではなく、この私が。そのことに全身が歓喜している。夜会のドレスを新調したときに、真っ先にアルベルト様の青い瞳を思い出し、欲張りな私は、あの深い青に包まれたいと思ってしまった。

 髪飾りなどの装飾品は多く贈られてきたけれど、ドレスだけは1度もなかった。

 それは、私があまりにも夜会に出席しないためだと考えたこともあるが、それだけではないのだろう。

 私と彼の関係は秘密なのだから。自分でこの関係に納得しているのにいつしか欲張りになってしまう自分自身が嫌になる。頭では理解していても、私はアルベルト様に惹かれている。 薔薇には棘があるように、あの人にも棘がある。惹かれてはいけない人に惹かれてしまったのは私の罪だ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 それは突然だった。いつもは偽名で贈られてくる贈り物を本人が届けに来たことは。その日は、自室に籠りながら趣味の刺繍をハンカチに施していると下が騒がしい。

 それは、私には関係ないことだと思いながら侍女が淹れてくれた紅茶を一口含む。

 このハンカチの刺繍が終わればお渡しすることも出来るだろう。日常的に使うものなら、身体はそばにいることは叶わなくてもと考えてしまう。

 侍女に淹れてもらった紅茶の香りを楽しんでいたら、ノックが聞こえる。騒がしいことと関係があるのかと思いドアを開けるように指示すれば、廊下には執事見習いがおり「お嬢様にお客様です」とだけ伝えて消えていく。お客様という単語に引っ掛かる。友人や馴染みの商人であれば名前を伝えられるのに、それもないということは誰だろう。

 考えてみるが思い当たる人物もわからずに、とりあえず下に向かうことにした。



 その人物は客室にいるらしく、案内をしてくれている侍女からお父様が相手をしていると伝えられたので、貴族に籍を置いている人物だということだけがわかった。

 一瞬だけアルベルト様だと嬉しいなと考えてしまう自分がいた。

 客室へ通された私は目を疑った。ここに来るまでの短い距離で自分が想っていた人物が優雅に紅茶を飲んでいるのだから。

 驚き過ぎて一瞬なにを発すればいいのかさえ分からなくなっていた。

 ようやく思考がクリアになり絞り出した言葉は「…何故、あなたがここにいらっしゃるのですか?」と、言うあまりにも間抜けな言葉だった。

 


 

「たまたまだよ。キミの父上と商談の話があってね。本当、偶然だよ。キミの屋敷で商談の話をするのもね」

 

「…そうですか。ですが、私には関わりがない話だと思います」

 

「その話は終わったから、是非こちらのご令嬢と話がしたいと思って頼んでみたのだよ。そうしたら、アシュレー子爵が承諾してくださってね」

 

 


 涼しい顔をしながら、紅茶を含む姿は一枚の絵画のように美しい。その姿を脳裏に焼き付けるようにしながら、お父様に視線を移せば「ああ」と、短く頷く。

 何を考えているのか「私は先程頂いた資料を元に計画書を作成させていただきますので、失礼します」と部屋から退出していく。

 アルベルト様はきっと私を呼べばお父様がいなくなるということがわかっていたのだろう。「おいで」と、隣に座るように促してくる。愛しい者でもみるように細められた目に、ドキッと心臓が脈打つ。

 横に座りアルベルト様に視線を向けるが近い距離に恥ずかしくなる。

 

 


「先触れもなく、訪れたのですか?」

 

「いや、元々ここで商談の予定はあったよ。そうだね、3日掛けてするつもりだったから、キミに知らせなくてもいいかと思ってね」

 

「でしたら、何故教えてくださらなかったのです!アルベルト様に会えるのであればもう少し着飾りましたのに」

 

「着飾ってくれるのは嬉しいけど、そのままのリザーナが一番魅力的だ。それにしても、その紅の色はまるで真っ赤な林檎のようだね。食べてしまいたくなるよ。いや、食べて欲しいのか」

 

 

 そっと横髪を耳に掛けられたかと思えば、その指が唇をなぞる。

 その手つきがあまりにも官能的で魅入ってしまった。なぞるだけではなく、そのまま舐めさせるかのように指を入れられる。

 ぎこちなく稚拙に舌で少し舐めてみれば満足そうな笑みを浮かべる。

 これが正解なのだろう。きっと、この行為は意図的にされているのだろう。

 この行為に疑問なんてもてない。だってアルベルト様があまりにも綺麗な表情をなさるのだから。馴れてしまえばいいと、自身に言い聞かせる。そうすれば、彼の瞳に落とされている欲望に身を委ねることがきるのだから。

 


 

「リザーナはどこでそんなことを覚えたのだろうね?」

 

 


 段々と近づく顔を逸らすこともなく見つめ続ければ、そっと触れるだけの口付けが落とされる。それだけで、彼が満足するわけがない。きっと、これは始まりの合図でしかなかった。

 名残惜しそうに離された唇に再び重ねられた時には、貪るように強引に舌を絡ませ口内を犯してくる。

 貪られるその行為に戸惑いながら絡ませようと必死になるが、彼はそう感じないのだろう。

 


 

「考え事とは余裕だね。いつから、そんなに余裕を持つようになったのかな? 僕の知らないうちに、他の男とでも過ごした?」

 

 


 返事をしようとすれば、塞ぐように何度も角度を変えて与えられる。

 抵抗しようにも手首は抑えられ抵抗など出来ない。声をあげようにもこのような場面を誰かに見られるのはいくらなんでも恥ずかしい。

 それに、私はこの行為だけでは満たされないのだろう。それはアルベルト様も同じではないだろうかと考えた途端に満足したのかゆっくりと唇が離れた。

 離れた唇から引かれた糸を名残惜しく思いながらも、乱れた息を整える。整えている間、髪を撫でられたり額に頬にとキスを落としたりと遊ばれているが、チラリとみせる瞳は憂いを帯びていた。

 

 


「……酷いです。私に余裕があるように見えますか?」

 

「どうだろうね?キミはいつももっと恥ずかしがるのにね」

 

「いきなりで驚いただけです」

 

「そういうことにしてあげるよ」

 

 


 それにしても、アルベルト様のほうが余裕のあるようにみえる。だが、彼に余裕があるのは当たり前だ。だって、彼には奥方がいるのだから。

 彼は私がどれだけこの行為についていくのに必死なのかわかっていて、からかっている。大人の紳士としての嗜みのような優雅さが窺える。そして、嫉妬しているかと思えるような言動をとるのに対して、そのようなことなどないというような態度を示す。だけれど、瞳を見ればわかる。 彼も私も瞳には劣情を燃やしているのだから。

 


 

「ねぇ、リザーナ。この間、約束した仮面舞踏会のことだけれどね。私が用意した仮面とドレスを身に纏ってくれないかな」

 

「それは、……私が身に纏っても良い物なのですか?」

 

「キミのために用意したのに、キミ以外が身に纏う姿を私に想像しろとでも」

 

 


 嬉しいと感じてしまった。嫉妬してくれるアルベルト様がとても愛しい存在に思えて仕方がない。

 それに、普段贈られることのない贈り物に胸が高鳴った。自身で用意した物ではなく、アルベルト様が用意してくれた物。他人には価値がなくとも私には、高価な宝飾品と同じくらいの価値がある。 控えめにお礼を伝えれば、「そのドレスを纏って乱れる姿をはやくみてみたいな」と恥ずかしげもなく伝えられる。

 先程の行為に欲は満たされたと思っていたが、それは勘違いのようだった。実際に私自身が満たされることはなかった。淑女であれと教えられていたところ、自身の欲に忠実でいてははしたない。自身の抱いた感情に恥ずかしくなり、ぱっと側を離れようとすれば、腕を掴まれそのまま押し留められてしまった。

「逃げるなんて、いけない子だね」と、耳元で囁かれる。チラッと盗み見た瞳には獣のような熱が注がれていた。

 逃げ切ることは出来ないと本能的に察し、そのままアルベルト様に身を委ねてしまうことを私は選んだ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 3日間掛けてする商談は毎日3時間程度の話し合いだけだった。それなのにアルベルト様は空いた時間をすべて私に充ててくれた。

 商談というのは私に会うための口実だということを教えていただき、それが嬉しく思え薔薇が見頃の庭園へ招待した。勿論、ふたりだけのお茶会をするために。

 

 


「紅茶の香りがいつも思うけど、とてもいいよ」

 

「ありがとうございます。うちの領地の物を使っているのですよ。よろしければ、アルベルト様も奥様やお子様方とのお茶会でお使いください」

 

「…そうだね。でも、これはキミとだけ共有出来ればいいかな」

 



『共有』という言葉が私とアルベルト様ふたりだけの秘め事のようで、何か悪いことをしているような感覚に陥ってしまう。

 それでも、嬉しくて「はい」と自然と笑みを溢しながら返事をしてみれば満足そうな表情になる。私はその表情が好きで、その表情さえ見られればいいと感じてしまう。

 気恥しくなり軽食にと用意されたサンドイッチに手を伸ばして咀嚼していると、じーっと見つめられていることに気づく。

 どうしたのだろうかと思い、こてりと首を傾げてみる。

 

 

「どのサンドイッチが一番お好みだったのか見ていただけだよ」

 

「どうしてですか?」

 

「それは、このサンドイッチを用意したのが私だからだよ。そのベリーが挟んであるものがお好みみたいだね。さっきからそれにばかり手が伸びている。それにしても、リザーナは美味しそうに食べるね」

 


 

 かーっと顔に熱が集まる。淑女としてのマナーなど気にせずに、思うままに食べていたのだとわかると、恥ずかしくて仕方がない。

 可愛いや綺麗といわれるよりも、こちらのほうが羞恥心を煽るとは思いもよらなかった。いますぐにでも、この場から立ち去りたいと思いながらも、恥ずかしさからか涙が零れて落ちる。必死に耐えようとするがそれが無駄な努力だということは重々承知だ。それなのに、そっと引き寄せられる。初めは何が起きているのか理解することが出来なかった。暖かな腕に抱かれ、そっと涙を指で拭われるがそれでも塞き止めることは出来ない。優しく引き寄せられたはずが、少し強引にされたため膝の上に倒れ掛かれば顎を掴まれる。

 

 


「その泣き顔はお願いだから私以外の人には見せないで欲しいな」

 

「…なっ、何をおっしゃっているのですか!!」

 

「それを聞くなんて野暮ってことだよ」


 

 

 優しい雰囲気から、ガラッと変わる。ここで流されてはダメだと己を戒めるが私が抵抗することなど出来ないとわかっているのだろう。

 精一杯の抵抗を示したつもりだった。つもりだからか、彼に敵うことはなかった。

 

 


「人目がある場所ではあまり戯れないでください」

 

「人目がなければいいと言っているようだけれど。これから、リザーナの部屋にでも行くかい」

 

「何をおっしゃっているのですか!!あまり冗談が過ぎますと本当に困ります」

 

「困った顔も可愛いよ」

 

 

 横抱きにされたまま、部屋に連れて行かれればそこで戯れることなど決まっていた。可愛い触合いなどないのだ。ただお互いの欲に忠実な獣しかいない。

 

 

 

 

 ***

 

 

 


 仮面舞踏会当日、無紋章の馬車で迎えに来てくれた。 仮面舞踏会に参加する者の大半は何処の誰かとわからないようにするものだ。露見したとしても社交界から追放などとはならないが、未婚の女性なら醜聞のあまり婚約破棄になる場合もある。

 私の場合は元々、社交界にあまり参加していなかったこともあり、醜聞が広がろうと気にも留めないでいるが、今回はアルベルト様の誘いで参加しているため彼の醜聞になることは出来るだけ避けたい。

 手を差し出され向かいに座ろうとすれば、横に固定するように座らせた。嬉しそうな横顔を眺めていると、此方まで微笑ましくなってくる。

 

 


「キミを堂々とエスコート出来る日が来るなんてね、感慨深いよ」

 

「すぐにそうやって茶化して」

 

「今日はわかっているよね?」

 

「はい、アル」

 

「よくできました。リザーナ」

 

 


 突然、顔が近づき額にリップ音を立てながらキスを落としてくる。

 何度も何度も、額以外の箇所にもまるで雨が降るように与えてくる。それが擽ったくて身を捩ってしまう。

 今日のために、偽名をと考えたのだが、私の名前を聞いたところであまり社交の場に訪れないため身元がわれることはないと判断され、アルベルト様だけ愛称の「アル」で呼ぶことにした。用意された仮面は全体を隠すものではなく目だけを隠すもので、知り合いに会えばすぐにわかってしまうのではないかと思ったが、ここでのルールは知り合いでも他言無用なのだから、心配はいらないと言われてしまった。

 夜会に参加していないためか、無知すぎる自身に嫌気が差す。自己嫌悪に陥っていると「このような会は淑女でも参加する人は好き者だから気にしなくていい」と言われたので頷く。


 

 

「綺麗だよ。私だけのお姫様」

 

「だったら、アルベルト様は王子様ですね」

 

「それは、それは。騎士や従僕とは言わないのかな?」

 

「どちらも似合いません。アルベルト様は本当に私だけの王子様なのですから」

 

「そう。ならお手をどうぞ、姫」

 

 


 会場に着くと、ドアが開き先に降りると手を差し出される。躊躇うこともなくその手を掴めば、引っ張られるように腕の中に閉じ込められた。

 まるで、存在を確認するかのように抱きしめられたから唖然としてしまう。

 だって、ここはまだ会場入り口。幾台もの馬車が列をなしているのに何をしているのだろう。邪魔な物を見るような視線は感じない。

 だから、ここを選んだのか。ここなら、堂々とすることが出来る。

 臆病な私は外の評判をあまりにも気にしてしまうため、屋敷やたまに出席する夜会や茶会という限られた時間の中でのみ会うことが出来ない秘密の恋人にこんなにも気を遣わせていたのだと知った。

 それでも仮面から覗かれる情熱的な視線から目を離すことは出来ない。

 急に息苦しく感じた。気合いを入れすぎてコルセットをいつもよりきつく締めてもらったからだろうか。

 それとも、何も知ろうとしなかった自身の愚かさのせいだろうか。

 


 

「コルセットが少しキツかったようだね。少し休める場所にでも行こうか」

 


 

 勝手知る家のように移動するアルベルト様を横目に私はいままでの自分行動に反省していた。

「これが最後だから」自身に言い聞かせながら、そっと腰を抱きながら移動する横顔を盗み見る。仮面で隠れてしまった目元が見られないのが残念だ。



 まだ秘密にしていた。私と彼の関係は最近はじまったような関係ではないのだから、いつかは、身籠ることもわかっていた。それが少し早まっただけのこと。

 ただ、それだけのこと。



 それでも、今日の出来事は私の中では大切な宝物になる。

 こんなにも彼を独占することが出来る日が来るなんて想像も出来なかったから。

 そっと、しなだれれば、まるで大切なものを逃さないように腰を引き寄せられる。

 

 


「体調がよくなかったようなのに無理させてしまったようだね」

 

「アルベルト様のせいではありません。私の不注意です。少し気合いを入れ過ぎたみたいです。少しでも綺麗な姿をあなたに見せたくて」

 

「いつでも綺麗だよ。私だけの黒薔薇」

 


 

 旋毛にそっとキスが送られる。いつしか部屋に着いたみたいだが、いつもの逢瀬と何も変わらない。

 ただ、いつもより豪華で愛しい人に送られたドレスを身に纏った以外は何も変わらない。ダンスがはじまったのだろう。演奏の音がかすかに漏れて聞こえてくる。

 堂々と踊ることが出来ると言われたのに、自身の体調不良でこのような形になってしまったこと恨めしく思う。

 


 

「音が少し漏れているね。あの広間では独占できなかったからちょうどいい。ここで踊ろうか。誰も見ていないからステップを踏み外してもいい。何度踊っても誰にも咎められたりしない」

 


 

 その言葉が嬉しく、頬を赤く染め彼を見上げれば「可愛いよ。いつまでたっても少女のようだ」と言われる。

 少女などと言われて嬉しいはずもなく拗ねてしまおうかとも考えたけれど、体調が悪い私を気遣ってくれた優しさに拗ねるなんて選択肢はない。

 その優しさが彼のそばを離れられない理由だと知っているのだろう。


 

 

「きちんとリードしてください。私だけの王子様」

 

 


 そっと手を引かれ、甲に口付けを落とされる。

 これでは王子様ではなく騎士のようだ。それに彼はわかりながらやっているのだから質が悪い。


 


  「それでは、姫。失礼」

 

 


 腰にまわされた手が引き寄せられ、密着しすぎてダンスどころではない。

 密着というよりも、ただ抱きしめあう形になっている。お互いの鼓動が丸聞こえで恥ずかしい。

 誰かが入室してきたとしても、ワルツなら密着していても問題ない。

 ただ、この部屋にふたりだけということを忘れていた。

 どんなに密着していたとしても誰にも咎められない。

 それに、ここは仮面舞踏会の会場。誰に会おうが知らぬ振りをすることをルールとしていることが頭から抜けていた。



 重なり合うシルエットはどこからも見えるはずもない。

 部屋のカーテンから光が漏れることのないように、幾重にも重なっている。

 頭の良い彼はこれを狙っていたのだと考え着けば、自然と自らも摺り寄り、ルールを無視して曲が流れている間に何度も踊る。

 疲れれば座り、給仕に軽く食べられるものや飲み物を頼む。慣れた様子のため、私たち以外にもこのように利用する者がいるのだろう。

「この幸せな時間が私の最後の社交の場なのだ」と、言い聞かせる。

 この一夜は最高の想い出として私の心に刻まれるはずだから。

 

 

 


 ***


 

 

 

 社交シーズが終わりに近付くにつれ、領地に戻る貴族は多数いる。

 王都から離れた領地を持つ私の家も例外ではない。

 お父様は商才があることから、領地管理は執事に任せ王都から離れることはない。そのため、毎年私もここを離れなかったが、今年は違う。

 アルベルト様の子を身籠ってしまったのだから王都の屋敷で過ごすことは出来ない。

 きっと、私が身籠ったことを知れば彼は援助するというかもしれない。

 だけれど、彼の奥方が知れば嫌悪を露にするだろう。幸せな家庭を壊してしまいたいわけではない。既に、私は壊してしまっているのかもしれない。


 ひっそりと、生まれてくる我が子と領地で慎ましく生活したい。それが、私のいまの願いだ。両親は私が領地に下がることについて詮索はしなかった。わかっていたのだろう。茨の道を歩んでいる娘を持つ親なのだから。

 言葉にはしなかった。だけれど、泣きながら謝る私を彼らはどう思ったのだろうか。

 

 


 ───数年後

 

 

 

「お母様」と可愛らしい声が部屋に響く。季節の変わり目に体調を崩して以来、寝たきりの生活を強いられていた。

 瞳の色だけは彼の青を受け継いだ我が子 ―――オスカー

 外見までもが似ていたら私はどうしていただろう。我が子に彼を重ねただろうか?

 それでも、我が子は残念ながら瞳以外は母親似である。

 そのため、お父様たちからは遠縁の子として養子にすると言われた。

 そこまでして私たちを守ってくれる両親には感謝しかなかった。

 領地で与えられた屋敷は母子で過ごすには適していた。

 ここは、領主館とはまた別に建てられた館で、身の回りの世話をする者たちも多くはないが信頼出来る者たちばかりだ。



 今日は天気がいいため、外に出ることを促された。

 私が子の願いを叶えられない親でないことを知っているためか、庭でピクニック形式をとることを勧められた。

 バスケットの中身はサンドイッチというありふれたものだけれど、この子といる懐かしい日々を思い出す。

 あの日は、彼と食べたサンドイッチや薔薇園を散歩したなど、とりとめもないことだけれど、目の前の我が子には教えてあげることないが出来ない私と彼だけの日々。

 思い出せば出すほど、笑みが深まる。

 オスカーは私が楽しんでいるのだと思ったのだろう。

 嬉しそうに笑いながら、駆け寄って来るのでそれを見て私も自然と笑みが零れる。

 それを何度か繰り返していると、何かを思い出したかのように急に薔薇園の方へ走り出していく。

 きっと咲いた薔薇を見せてくれるのだろう。

 何色を持ってくるのだろうと、楽しみに待つこと数十分。

 心配になり様子をみてくるとように頼もうとしたら、男性に抱かれながら楽しそうに話しかける我が子がいた。

 誰だろう。逆光で見えないがあの洗練された動きを私は知っている。

 

 

 ────アルベルト様

 

 

 どうしてあなたがここにいるのですか?そう問いただしたい。

 でも、あの人の前から姿を消した私にはその資格さえないように感じた。

 


 

「連れてきてありがとう」

 

「うん。お母様の好きな薔薇もってくれたからいいよ」


 

 

 慈愛に満ちた眼差しを向けているのに対して天使の微笑みを向けているオスカーに思うことがないわけではない。

 やっと出会えた父親なのだから。

 私は子から父親を奪ってしまったのだ。

 微笑ましいはずの姿なのにも関わらず、罪悪感に支配されてしまう。

 

 


「泣いているの?悲しいことでもあったの?」

 


 

 指摘され初めて気づいた。泣く権利など私にはないはずなのに、涙が溢れてくる。

 気丈に振舞おうと涙をハンカチで抑えようとするが、零れることをやめない。

 何て愚かな女だろうと、彼はそう思い私に怒りに満ちた感情を向けてくるはずだ。

 

 

 

「キミのお母様とふたりだけで話したいのだけど、借りてもいいかな?その間、この本を私の従者にでも読んでもらいなさい」

 

 

 従者を従えていたようで、本を渡しながらオスカーを薔薇園の近くのベンチに向かわせるように仕向けたみたいだ。

 手を伸ばそうとすれば、腕を掴まれ立ち上げられ、そのまま抱き締められる。骨が軋みそうな勢いだけれど、それに抵抗する気はない。

 この腕に抱かれることを、ずっと焦がれていたのだから。

 

 


「リザーナは悪い子だね。私に黙って突然消えたと思えば、子どもまでいるなんて聞いていないよ。あの子は誰との子かな?」


 

 

 わかっているはずなのに、何故聞くのだろう。聡いあの人なら見抜けるはずなのに。

「アルベルト様との子です」そう叫ぶことが出来ればどれだけいいのだろう。

 苛立っているかのような態度をとっているのにも関わらず、何故そんなにも悲しそうな瞳をするの?

 あの日、私は間違えてしまったのだろうか?

 自問自答したところで答などみいだせないことはわかりきっている。

 それでも、私は告げなくてはいけない。いまでも恋い慕っているのが誰かを。

 


 

「私がアルベルト様以外に心や身体を許したことはありません」

 

「…知っていた」

 

「何故です。私はあなたの負担にならないようにと…消えたというのに」

 

「それが間違いだ。私はキミを負担だと感じたことはない。それにきちんとリザーナの口から聞きたかった。あの子は私たちの子で間違いないだろう?」

 

「…はい」

 



 頷いてしまえば戻れない。

 それでも、頷いてしまうのは私の心がこの人を求めているからだろう。

 止まったと思っていた涙が再び零れ落ちそうなのを、堪えようとしても無理なようだ。

 腕に抱かれてしまえば逃げられない。だが、上着を涙で汚してしまうことは許してもらえるだろう。

 きっと、彼はそんなこと気にしない。彼の上着に手を伸ばすし縋りつく。

 縋れば、縋るだけ私は自分自身の愚かさに 嫌気が射す。

 こんなにも彼は私を大切にしてくれていのだから。

 



「名前は?私も一緒に名付けたかったのに」


「オスカーです」




「オスカー。…いい名前だ」と、嬉しそうに呟く顔は父親というよりも欲しいものを与えられた少年のようだ。

 そんな姿をみせる彼にドキッとしないはずがない。

 姿を消してから数年が経つが、年を重ねるごとにその容貌に落ち着きを見せそれが色っぽくみえた。




「私だけの黒薔薇。逃げることは赦さないよ」

 

 


 黒薔薇と呼ばれる度に、私の心は揺れた。

 それまでも私のことを何度かそう呼んでいた。

 憎いのかと以前、聞いたことがあればそうではないと言われて花言葉を調べたことがあった。

 

 


「これからも永遠に、…私だけだ」

 


 

 耳元で囁かれた心地のよいテノールに酔いしれる。

 すがり付く私はきっとこの人だけにしか全て赦さないだろう。

 決

を私も捧げたい。

 だから、私はこの人の元に戻る。

 

 


「私もアルベルト様だけに黒薔薇を捧げます」

 


 

 胸元に顔を埋めていれば、顎を持ちあげられれば離れていた間を埋めるように角度を何度も変えながら執拗に唇が重なった。

 私だけが求めていたわけじゃなかった。ただこの時間が永遠に続けばいい。

 浅ましい私はそう考えてしまう。

 離された唇が妙に色っぽく感じられ、歳月を感じさせた。


 

 

「リザーナ、今度は逃さないから覚悟しておいてね」

 


 

 目を細めるアルベルト様に笑みに見惚れながら、この腕からは逃げられないと悟った。

 そして、私は二度と逃げなることはないだろう。

「はい」と応えれば満足そうに髪を撫でくれる。それが私は幸福で仕方がない。

 薔薇園にいるオスカーも交えて穏やかに過ごせる日々に思いを馳せる。





 その後、アルベルト様より奥方が奥方の愛人と痴情の縺れにより刺殺された話を聞かされ、レイアルズ伯爵家へ後妻として嫁いで欲しいと打診された。

 喜んでいいのかと戸惑う私の背を押したのは愛する我が子であるオスカーの「レイアルズ伯爵がお父様になってくれるなら嬉しい」ひとことであった。

 彼と奥方との間の子たちと、いい関係を築けるか心配していたが冷え切った家庭だったためか、無関心のようで少しだけ心が痛んだ。

 だけれど、オスカーがレイアルズ家の中心になることで、徐々にだが話すことも増えた。

 やっと、私はこの家に受け入れてもらったのだと思えることが出来て幸せだ。




「私の黒薔薇、あまり無理をしないでくれ」




 過保護な彼は私が身籠ったと知ると、オスカーの件があるから仕方がないのかもしれないが、かなり過保護になった。

 だけれど、嬉しくて私は微笑みながら「はい、旦那様」と返事をする。

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