7-x

 幹線道路の上を首都高の高架が覆う様は、大動脈と形容するに相応しい。住所が示すのはこのバイパス沿いの物件だ。やがて、廃ビルと怪しげなマッサージ店に挟まれた、風で吹き飛びそうな二階建ての木造が見えてくる。ワタルの目的地はここだった。


「立派な家だよ」

 息を一つ吐き、ワタルはチャイムを押した。

 扉が開く。思ったより低い位置から、ヨレヨレの作務衣を着た老婆が顔を覗かせた。

「もしかして……航彌か?」

「分かるのか?」

「息子の顔忘れる母親が、どこにいるってのさ」


 有根光代。ワタル、もとい有根航樹を産み落とした母は、今年で七十六歳になる。「入ってこい」と、言葉ではなく顎を使ってワタルを招いた。


 ちゃぶ台に、ワタルの分だけ湯呑みが運ばれる。お盆を脇に置き、光代はワタルの正面に座った。およそ三○年ぶりの対面だった。


「殺しにきたのかい? アタシを」

「今更殺してどうするんだよ」

 ワタルは、光代が淹れた緑茶に口をつける。

「俺はこんなだけど、それはあなたのせいじゃない」

「わざわざそれを言いに?」

「……」

「産んだ子供が普通に成長して、学校に行って、社会人になって、結婚する。そのうち孫ができる。それが普通なんだろうよ。でも、その後はどうなる? 結局最後は棺桶さ」


「結果はそうだ。でも過程は違うだろ」

「誰のせいかを決めたところで、結局時間は戻らない。何の意味があるっていうんだよ」

「……俺を妊娠してる時、蜘蛛に咬まれてたことを知ってたか?」

「懐かしいねぇ。蛇を逃がしたのがお偉い政治家の身内だったから、全く公にならなかった。忘れもしない、文部省の細江とかいう官吏さ。もうくたばってるだろうがね。口止めもされたよ。いや、あれは脅迫か」


「俺の身体が全然成長しないと分かった時、どう思ったんだ?」

「そりゃ、あの蜘蛛が関係してるとは思ったよ。ただ、どこの医者も『原因は分からない』って、白旗を揚げた。そう言われちゃ、アタシもアンタも、“普通”から逃げざるを得なかった」

「……」

「勘違いしてるようだけどね、アタシはそれなりに達者にやってきたんだよ。親戚と縁は絶ったが、そのぶん自由だった。でもアンタは違うだろ? 苦労も多かったはずだ」

「それは……」


 さすがに「そんなことないよ」とは、ワタルは言えなかった。

「謝らなきゃなんないのは、アタシの方よ」

 光代は俄かに後退り、土下座の体勢をとり始めた。ワタルが慌てて制止する。

「やめろよ。そんなことされたくて来たんじゃない」

「アンタには何もしてやれなかった。それが結果だよ。アタシは親としての務めを、何一つ果たせてない!」

「だから、それは母さんのせいじゃないんだよ!」


 ようやく、光代は元の体勢に直った。ワタルも、倒れるように座布団に戻る。

「子が親の顔を見に来るのは、普通だろ? 理由なんてそこには無い」

 ワタルの実直な意志に触れた光代は、その目に涙を浮かべながら、何度も首を縦に振った。


「アンタ、大きくなったねぇ」

 七十六年の重みが、その言葉にはあった。


「大きくなるのは、他の人間よりずっと難しかったはずだろ? なかなかできることじゃないよ。それだけは言える」

 ワタルは、微かに口元を緩ませた。

「どれだけ泥水を啜ることになろうが、俺はこれからも生き続けるよ。せっかく貰った命だ」


 ワタルは、再び湯呑みに口をつけた。緑茶はとっくに冷めていた。

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DELAYED 藤井些佑 @fj_sasuke

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