第十七話:今日
シノと変な空気になってしまったことを誤魔化すように、わたしは屋上から逃げ出した。…もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。最後の会話があれでよかったのだろうかと少し後悔する。…まあ、あのくらいいい加減な方が、わたしとシノらしくていいのかもしれない。
わたしはそれから、三年わたしに付き合ってくれたすかすかの鞄を担ぎなおして、下駄箱に向かった。…縫は、いつもの場所で、いつもの通りに、ただそこでわたしのことを待っていた。目が合って、わたしもいつも通りに、「待たなくてよかったのに」と戯けて口にした。
*
これが、最後の通学路だ。…最後、とつけると、何だか妙に感慨深くなるのは何故なんだろう。
「こびん。明日、怖い?」
縫の言葉に、わたしは地面から目を離して、縫の方に顔を向けた。…怖いか、怖くないかで言ったら、怖かった。明後日にはわたしの存在はこの世界のどこにも無くなっていて、でもこの世界はいつもと変わらず活動し続けている。____そんな景色が、目蓋の裏に何度も思い浮かんで、わたしはそれが、どうしようもなく、怖くなる。
「…怖くない」
でも、そんな恐怖よりも、わたしがもっと怖かったのは、価値のない人間と価値のある人間を当たり前のように選別し続けているこの世界だった。そして、それを当たり前に受け入れていたわたしと、この世のすべての人間が怖かった。
……わたしの小さな抵抗は、もしかしたら何の意味もなさないで、簡単に終わるものなのかもしれない。
それでも、わたしが書いたものは、きっとわたしの「跡」として残り続けるのだ。それなら、わたしは怖くない。明日も、明後日も、受け入れられる。
…これは多分強がりだったけど、わたしだって18歳の女子高生なのだ。これくらいの格好は、つけさせてほしい。
「そっか。…僕も、もう怖くないよ。
もし明日こびんが死ぬことに決まったら、僕がこびん以外の全人類を皆殺しにするから」
「こわ…」
いつから縫はこんな猟奇的になってしまったんだろうか。頼むから悪の支配者が言いそうな言葉を、自撮りで盛れる角度で言わないで欲しい。
「…まあ、それは冗談だけどさ。…僕はきっと、こびんなら大丈夫だって思うんだ」
「どうして」
「…こびんはさ、不器用でめんどくさがり屋で表情筋が死んでて人の餃子の皮を奪い取ってきて特技もなくて趣味もなくて長所もないよ」
急にわたしの悪口大会が開催された。これはあれだろうか。いつかのアンケートに、縫の悪口を書きまくったことが原因なのだろうか。ごめん、縫。でも反省はしてない。全部本当のことだもん。
…縫は、それから、道の途中だというのに立ち止まって、わたしのことを見た。太陽の光に透ける薄い色彩の赤は、今日も綺麗だ。ぼんやりとわたしは、そんなことを考える。…明日も、明後日も、その先も、こうして隣で見続けていたい。それが出来たら、どんなに幸せだろう。
「こびん。君がゴミ箱に捨てたアンケート、覚えてる?」
「え、…うん」
「あそこの48のところに、僕はさっき言ったこびんの悪いところを全部書いたんだ」
最後に何を言い出すのかと思ったら、ただの過ぎ去った日の悪口の話だった。わたしはちょっと泣きそうになる。最後にするの、その話…?
縫はそんなわたしの顔を見て、慌てて「冗談だよ!」と言った後に、少し真面目な顔をした。…お互い、もしかしたらこれが最後の会話になるのかもしれないということを、意識していたのかもしれない。
「48は、長所と短所を答えるところだったけど、こびんは長所って言葉嫌いだろ?
だから僕はいつも、そこの欄に「この世界で一番信頼できるひと」って書いてたんだ。…僕は、君をいつだってずっと、信じてたから。
だから、明日もきっと大丈夫だって、僕はそう思ってるんだ。僕は君を信じてるよ。一年のあの教室で、初めて話したあの時から、ずっと。この世界で一番、君のことを信じてる。
だから、こびんなら、大丈夫だ」
縫は何度か言葉をつっかえながら、そう言った。わたしは、…わたしは、何だか大声で泣き出してしまいたい気持ちだったけれど、縫が泣いていなかったから、必死でそれを我慢した。だって、泣くのは全部が終わってからだ。わたしたちはまだ終わらないもの。エンドロールも、後書きも、まだいらない。
「…わたしも、信じる。…わたしがこの世の誰よりも信頼してる縫が、信じているわたしを。
…だから大丈夫。
明日も明後日も、また一緒にいよう」
今日は、死んでしまうかもしれない明日の前の日なんかじゃなくて、これからも続いていく今日だ。
わたしは、縫がそう信じてるなら、それを信じる。
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